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佐々木敦『「教授」 と呼ばれた男』 [本]

Sakamoto&Sylvian1983_240519.jpg
David Sylvian, Ryuichi Sakamoto (Köthener Str berlin 1983)
(amass 2023.04.05 の追悼記事より)*

佐々木敦の『「教授」 と呼ばれた男』は、サブタイトルに 「坂本龍一とその時代」 とあることでもわかるように、時間軸に沿って語られる坂本龍一論となっている。だが伝記ではない。話題は彼の作品の成立過程と変遷、そして時代による特徴をとらえているがそれが全てであり、つまりほとんどは音楽に関することに限られている。したがって 「坂本龍一伝」 ではなく 「坂本龍一論」 なのである (週刊誌ネタのようなものを望むと期待外れになるはずだ)。
非常に詳しく冷静に坂本龍一の各作品を聴き込んでいて、また業界内でなければ知り得ない話題も多く、大変読みやすい。そして坂本龍一の膨大な数の作品の中からどれを聴いてみるのがよいかのガイドともなるように思う。

読者として興味を持った箇所をピックアップしてみたい。ただあくまで私が興味を持った箇所であるので、人によって興味のある箇所は変わると思う。

ソロの1stアルバムである《Thousand Knives》(千のナイフ) について。
この初めてのアルバムは400枚プレスして200枚しか売れなかった (p.102) というが、アルバム・タイトル曲に対して坂本は 「レゲエ、賛美歌、そしてハービー・ハンコックの 「スピーク・ライク・ア・チャイルド」 に影響されたと語っている」 (p.089/尚、スピーク・ライク・ア・チャイルドについてはすでに当ブログで記事にした→2023年05月28日ブログ)。

YMOのロンドン・ライヴで自分たちの曲に合わせて踊る観客を見たとき、坂本は 「この形でいいんだ」 と思ったことに対して、

 坂本龍一がこのとき感じた 「これ」 と、細野晴臣が編み出した 「イエロ
 ウ・マジック=YMO」 というコンセプトの、微妙な、だがおそらくは本
 質的で決定的な違いは、この時すでに胚胎していたのである。(p.097)

と佐々木は分析する。つまり簡単に言えば、直感的な坂本と、緻密で構築的な細野の違いである。

タンジェリン・ドリームのピーター・バウマン (Peter Baumann, 1953−) のアルバム《Romance ’76》のライナーノーツに坂本龍一が書いた文章の引用がある。

 テクノロジーは 「容易に全体主義的、管理的な発想と結びつく要素を持っ
 ている」 ので、「あくまでテクノロジーを駆使して溺れず、テクノロジー
 の 「ひとり歩き」 を常に監視しながら、柔軟でいられる、という強靱な
 感性が養われなければならない」 と述べている。(p.101)

テクノロジーが全体主義的で管理的な発想と結びつく要素を持ちやすいという坂本の見方は鋭い。たとえば昨今のマイナンバーカードの迷走が良い例である。

XTCのアンディ・パートリッジのソロ・アルバム《テイク・アウェイ》に関して。
坂本の2ndアルバム《B-2 UNIT》はこの《テイク・アウェイ》への対抗なのだとのこと。(p.168)

坂本と忌野清志郎の〈い・け・な・いルージュマジック〉は牧村憲一が仕掛けた資生堂のキャンペーン・ソングだが、二人から 「何をやればいいのか」 と聞かれて咄嗟に 「T・レックスやりましょう」 と答えたという。う〜ん、何がT・レックス?(p.197)

『『戦場のメリークリスマス』知られざる真実』という本からの引用。
映画《戦場のメリークリスマス》の編集段階の試写室で、誰だかわからない態度の悪い外国人がいて、ところが見終わるなり立ち上がって 「映画史上最高のキスシーンだ!」 と言い残して帰って行った。それがベルナルド・ベルトルッチだったこと。(p.216)

YMOのドキュメンタリー映画《プロパガンダ》についての佐々木敦の自著からの引用。

 そこへ女性のナレーション。「時として、言葉でものを伝達するには、現
 実があまりに複雑になってしまうことがある。伝説が、それを新しい形
 に作り直し、世界に送り届ける」。これはゴダールの『アルファヴィル』
 からの引用です。(p.229)

《プロパガンダ》はYMOの武道館ライヴの映像を元にした映画だが、監督・脚本は68/71の佐藤信である。

J-popに関する章のなかでの佐々木敦の分析。少し長いが引用する。

 だがその一方で日本社会は、九〇年代のちょうど真ん中に位置する一九
 九五年の阪神淡路大震災と、オウム真理教による地下鉄サリン事件以後、
 それまでの明るさを失っていった。いや、すでに光源がほとんど失われ
 ていたことにようやく気づいたと言うべきかもしれない。だから、九〇
 年代後半に日本の音楽産業がピークへと向かう曲線は、日本という国が
 本格的に凋落を始めた時期と完全に一致している。そしてこの頃から、
 日本文化は明らかにドメスティックな傾向を強めていった。「内向き」 に
 なっていくのである。
 これは音楽だけに限らないが、敢えてシンプルに纏めてしまうなら、戦
 後日本のカルチャーの成り立ちは、基本的にずっと 「輸入文化」 だった。
 だがそれは一九九〇年代の前半までであり、その後は日本の内部で閉じ
 た “生態系” がメインとなり、ガラパゴス化していく。(p.357)

日本の音楽しか聴かない、日本の小説しか読まない。これらはまさに 「内向き」 の例であって、いっそのこと徳川300年の鎖国状態に戻ってしまったほうがよくはないか、と思ったりする。

1999年のオペラ《LIFE》における坂本のマニフェスト。

 20世紀、なんという世紀だったのだろう。20世紀を総括せよ、と言わ
 れればぼくは即座に 「戦争と殺戮の世紀だった」 と言うだろう。あるい
 はぼくらが暮らしている惑星も視野に入れて言うなら、一言 「破壊の世
 紀だった」 と言うだろう。

そして、

 いったい我々は、我々自身が行ったこのような破壊を修復することがで
 きるだろうか?(p.370)

「エナジー・フロウ」 という偶然のようにして売れてしまったCM曲について。

 中谷美紀や坂本美雨との仕事、そして何よりも 「エナジー・フロウ」 の
 せいで、坂本龍一の音楽は 「癒し」 という言葉とともに語られることが
 多くなっていた。(p.395)

と佐々木は指摘する。これは《LIFE》のときの浅田彰と坂本との対談の際の印象がもととなっているようだ。

 このやり取りの少し後で浅田が 「「癒し」 なんて、音楽がやるべきこと
 じゃないし、それをやると称すると、たいてい安っぽいリラクゼーショ
 ン・ミュージックに終わってしまう」 と述べるところがあり、おそらく
 浅田は 「エナジー・フロウ」 の大ヒットも苦々しく感じていたのではな
 いかと推察されたりもする。(p.383)

確かにそうなのかもしれないが、そして 「エナジー・フロウ」 という曲はそう言われればヒットしたのかもしれないが、坂本龍一の音楽的歴史のなかで、そんなにインパクトがあったかというと、注目度は高かったかもしれないが限定的であり、重要というほどでもなかったような気がするのだが (つまり、それほど目の敵にすることはないのではないか、と思う)。

巻末に近く書かれていることだが、東北ユースオーケストラと坂本龍一による〈いま時間が傾いて〉のタイトルについて。
「いま時間が傾いて」 という曲名は、リルケの『時禱集』尾崎喜八訳から採られたものだとのこと。『時禱集』という、ずっと忘れていたけれど大切な書名に驚く。リルケは昔、私にとって別格の詩人であった。(p.490)

最後にこの本のタイトル『「教授」 と呼ばれた男』に関して。
当時、東京藝大の大学院生であった坂本龍一と出会った高橋幸宏が 「教授」 というあだ名を付けたことが第一章でも語られており、有名な話であるが、映画監督ジュゼッペ・トルナトーレの作品に《教授と呼ばれた男》(Il camorrista, 1986) という邦題の映画が存在する。
ベルナルド・ベルトルッチは《ラストエンペラー》の前3作《1900年》《ルナ》《ある愚か者の悲劇》でエンニオ・モリコーネに音楽を依頼していた。《ラストエンペラー》でも当初の坂本へのオファーは俳優であり (甘粕正彦役)、モリコーネからの売り込みもあったのだという。しかし、色々な行きがかりから《ラストエンペラー》の音楽は坂本に任せられることになり、その結果がアカデミー賞となったのである。
ジュゼッペ・トルナトーレには《ニュー・シネマ・パラダイス》《海の上のピアニスト》といった映画作品があるが、トルナトーレ作品の音楽を手がけているのは全てモリコーネである。ところが第1作の《教授と呼ばれた男》のみ、音楽はモリコーネではない (音楽:ニコラ・ピオヴァーニ)。そのタイトルをこの本の書名としてあてはめた佐々木敦のひらめきは (偶然もあったのかもしれないが) ちょっと洒落てる。
ただし、この書名についての著者の言及はこの本の中には全くないので、これはあくまでも私の推測に過ぎない。


* amassの記事に拠れば 「シルヴィアンが1984年にリリースした初のソロ・アルバム『Brilliant Trees』には坂本龍一も参加していました。このアルバムは前年の83年に、ドイツのベルリンのケーテナー通りにあるハンザ・スタジオでレコーディングされました。このスタジオは「ベルリンの壁」のそばにありました」 とのことです。
https://amass.jp/165741/


佐々木敦/「教授」 と呼ばれた男 —— 坂本龍一とその時代
(筑摩書房)
「教授」と呼ばれた男 ――坂本龍一とその時代 (単行本 --)




Ryuichi Sakamoto/Energy Flow
https://www.youtube.com/watch?v=btyhpyJTyXg

坂本龍一/NEO GEO Live in New York 1988
https://www.youtube.com/watch?v=AlqHoDNTLGg
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向日葵

ちょっと読んでみたくなりました。
・・・が!!最近目がとんと駄目になって、本を読むのが
かなりの苦痛を伴うようになってしまって。。
眼鏡は二刀流、更に裸眼も酷使していますが、酷使するので
すぐに目がチカチカ。頭も痛くなってしまって。。
「本が読めなくなる日が来る」なんて!!信じられなかったの
ですが、いざ自分がそうなってしまうと「認めざるを得ません」
ね。
「読みたい本リスト」はどんどんどんどn増えるばかりです
のに。。
by 向日葵 (2024-05-19 05:59) 

末尾ルコ(アルベール)

なにかのインタビューで坂本龍一が自分の作品のセールスがさほどでもないことについて、「ゴダールほどの人の新作でさえ、世界で観る人はさほど多くないのだから」と引き合いに名を挙げてました。「ゴダールになりたい」という話も含め、常に意識していたのだなと、そしてゴダール作品に彼が音楽をつけたらどうなっただろうなと、想像が膨らみます。
浅田彰は坂本龍一死去に際して素晴らしい追悼文を書いてましたが、「エナジー・フロウ」については坂本本人も(こういうのが売れるのか)と、やや苦々しい気持ちはあったかもしれません。特に日本では表現者が本当に大切にしている作品が無視される傾向がありますから。
日本なガラパゴス化に関してはもう心底不愉快です。これはもっともっと問題視されるべきですが、今やほとんどされませんものね。

ところでオーネットの音楽に苦悩の表出がないというのは彼の音楽は「音そのもの」を志向しているということでしょうか。ブログへも書きましたが、坂本龍一の最期の日々を追った「ラスト・デイズ」のインパクトはわたしにとって大きくて、それはわたし自身長期入院していたことも影響しておりますが、彼が闘病中体調が悪い時期は音楽さえ聴く気力がなかったと。それで雨の降る動画を見つけて眺めることで癒されたと。ここに「身体を持っている」ことの過酷さを感じますし、(音楽、そして芸術とは何なのか?)というあらためての問いかけが生まれました。おそらく坂本龍一はその最期の日々に、その時期の自分自身のための音楽を模索したのでしょうし、わたし自身いかなる芸術も健常者のみを対象とているようではいけないのだろうなと考えるようになったんです。
坂本龍一については今後も折に触れ書かせていただきます。
RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2024-05-19 10:39) 

lequiche

>> 向日葵様

コメントありがとうございます。
確かに目は年齢とともに疲労が溜まりやすいですし、
他の器官にも影響してきてしまいますね。
あまり御無理はされないで、
そういうときはゆっくり休息されたほうがよいと思います。
私も本は買いますが、読む速度が追い付かないので
未読本は増えるばかりです。
本なんて全部読まなくたっていいんですよ。
そういうときは音楽でも聴いてリラックスしてください。
手前味噌ですが、坂本龍一の曲をリンクしておきます。
映画《ラストエンペラー》の中の有名曲〈rain〉です。

坂本龍一/rain
https://www.youtube.com/watch?v=NrgJOQU8zxU
by lequiche (2024-05-20 02:27) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

ゴダールの映画音楽を坂本龍一が書いたら
きっとすごいものができたでしょう。
かなわぬ夢となりましたが。
坂本龍一のアルバム《async》は
すでに自分の寿命を自覚してからの曲のように思えます。
わざと環境音を加えたり、コラージュのように
複数の音を重ねるのが晩年の作風ですが、
冒頭曲の〈andata〉はあまりに悲痛です。
andataはイタリア語で、英語でいうならばgoneです。
逆にいえばこれが音楽の極北の表現ともいえます。

坂本龍一/andata
https://www.youtube.com/watch?v=Lto1YLBgjn8

オーネット・コールマンの音楽には色々な解釈がありますし、
一般的にはアヴァンギャルドなフリージャズととらえられていますが
私の感覚では彼の音は正統派のスウィングからの発展系であり、
ソロの音構造はメカニックであると思います。
つまりチャーリー・パーカーなどと同じですが、
パーカーとはコンセプトがまるで異なっています。
彼は黒人ですから、もちろん色々な差別にも遭遇したでしょうが、
そうしたネガティヴな音を決して使おうとしません。

オーネット・コールマンにはその初期のライヴ録音で
《Town Hall 1962》というアルバムがあります。
このなかに収録されている〈Doughnut〉という曲が
私は好きです。
Doughnutが何を意味しているのかは不明ですが、
リフレインして戻って来る音が円環的である、
ということなのでは、と勝手に解釈しています。
このアルバムの最後には〈The Ark〉という
長大な曲が入っていますが、延々と続くこのスタイルが
《チャパカ組曲》へとつながっていったのでは
と、これも同様に勝手に解釈しています。

Ornette Coleman/Doughnut
https://www.youtube.com/watch?v=cpOG7Trq4P0
by lequiche (2024-05-20 02:27) 

sknys

〈Forbidden Colours〉(1983)をダブ&カットアップしたマーク・スチュワート(The Pop Group)が教授の後を追うように亡くなった時もショックでしたが、スティーヴ・アルビニ(Shellac)の急死(5月7日)には絶句しました。
佐々木敦も 「スティーヴ・アルビニが死んでしまった」 とSNS(X)に投稿しています。
by sknys (2024-05-21 00:38) 

lequiche

>> sknys 様

コメントありがとうございます。
マーク・スチュワートもスティーヴ・アルビニも
よく知りません。
早速〈Forbidden Colours〉を聴いてみましたが、
こういうやり方もあるんですね。
アルビニはサウンドハウスのサイトに追悼記事があるので
なるほどと思いました。
坂本龍一の影響力にはあらためて驚きます。
by lequiche (2024-05-23 00:47)