J・D・サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』 [本]
書店でJ・D・サリンジャー『彼女の思い出/逆さまの森』という本を見つけた。これって何? と思ったのだが、その横に『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワーズ16、1924年』が並んでいる。同じ装幀で Shincho Modern Classics とあり、一種の叢書のような体裁になっている。訳者はどちらも金原瑞人。
後者の書名は識っていたが、まぁいいか、と今までスルーしていた。だが訳者あとがきをちょっと読んでみたらこれは大変とすぐに気づいて、2冊とも買ってきた。
以下、訳者あとがきをさらに簡単にまとめてみる。
J・D・サリンジャー (Jerome David Salinger, 1919−2010) が生前、本として出版したのは『キャッチャー・イン・ザ・ライ (ライ麦畑でつかまえて)』(1951) を含めて4冊だけで、今回の2冊『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワーズ16、1924年』と『彼女の思い出/逆さまの森』は雑誌掲載のみで、アメリカ本国では本になっていない。そして 「ハプワーズ16、1924年」 は1965年6月19日号の The New Yorker に掲載されたサリンジャー最後の作品である (この作品は不評だったという)。そのとき彼は46歳、それ以後、2010年に91歳で他界するまで彼が作品を発表することはなかった。
「ハプワーズ16、1924年」 は不評だったにもかかわらず、著者には出版する考えがあったようだが、結局実現しなかったとのことだ。『このサンドイッチ……』に収められている作品は 「ハプワーズ……」 を除いて、皆、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』以前の作品 (1940〜1946年) である。そして『彼女の思い出……』も同様に20代に書かれた作品群である。
なぜここでサリンジャーに執着したのかというと、実は『ナイン・ストーリーズ』(1953) を柴田元幸・訳で読んだからなのである。柴田訳はこの頃流行りの新訳——つまり、すでに翻訳されている有名作品を新たに翻訳すること——の一環であるが、今年上半期に読んだ本の中で最も衝撃を受けた小説に違いなくて、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で事足れりとしていた不明を恥じるしかない。
『ナイン・ストーリーズ』は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に続けて出版された短編集であり、タイトルで示されているように9つの作品が収録されている。その最初に収められている 「バナナフィッシュ日和」 (A Perfect Day for Bananafish) を読み出して最初に感じたのはうっすらとした違和感。それと会話のもどかしさから来るいらいら。そして巧妙な場面転換の末に来る結末。
吉田秋生のコミック作品『BANANA FISH』のタイトルはこのサリンジャーの短編から採られたものである。もっとも内容的にはほとんど関係がないが。
冒頭でいきなりこれはないよね、と思ってしまった。9つの短編を次々に読もうと思ったのだが、この、まるで突然殴られたような読後感が残っていて、なかなか読み進むことができない。もっと正確に形容するのなら、内容が重いから、というしんどさと、どんどん読んでしまったらすぐに終わってしまうから、という 「もったいなさ」 感とがないまぜになった状態だったとも言えるのだろう。
それとすぐに考えたのは野崎孝はどのように訳しているのか、ということと、そもそも原文はどうなっているのか、と気になったところが幾つかあって、5月の終わり頃から6月はじめにかけて読んだのになかなか感想を書くまでに行きつかなかった (時系列的にいうとハルノ宵子の『隆明だもの』より前に読んでいる)。だが次第に記憶は薄れてしまうので、とりあえずここに意味もなく書いてみた次第である。
どの作品も素晴らしいし、ほとんど完璧と言ってよいのかもしれない。
そのなかで特に面白いと思ったのは3つ目の 「エスキモーとの戦争前夜」 で、まさに演劇的な展開であり、このまま舞台に乗りそうなストーリーである。そして最後のセンテンスが秀逸で、
三番街とレキシントンのあいだで、財布を出そうとコートのポケットに
手を入れたら半分のサンドイッチに手が触れた。彼女はそれを取り出し、
道に捨てようと腕を下ろしかけたが、結局そうせずにポケットのなかに
戻した。何年か前、部屋のクズ籠に敷いたおがくずのなかでイースター
のひよこが死んでいるのを見つけたときも、ジニーはそれを始末するの
に三日かかったのだった。(p.95)
「コートのポケットにサンドイッチを入れるのかよ」 とか 「道路に食べ物を捨ててはいけません」 とかツッコミどころ満載なのだが、この終わり方はすごい。ずっと読んできてこれなのかと思うと、泣いてしまう。
8つ目の 「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」 は、インチキ通信制美術学校で作品の添削をするという話。その学校の経営者は日本人なのだが 「ヨショト」 という苗字で、これは何なの? とウケてしまう。主人公の青年はカンチガイな自信家でその自信過剰加減が絶妙。でも当時だったらこんなインチキ学校もあったのかもしれない、と思わせてしまうところがとんでもないのである。
と、あまりにもウケ狙いな箇所を引用したのは、サリンジャーの天才性への嫉妬である (ウソ!)。
それで今は『このサンドイッチ……』を読み始めたところだが、いきなりホールデン・コールフィールドが出てくるわけです。
その6つ目の短編に「他人」 というタイトルがあって、原タイトルは The Stranger である。それで思い出したのはアルベール・カミュの『異邦人』(L’Étranger, 1942) で、かつての私のフランス語の教師は 「カミュの『異邦人』というタイトルはおかしい。この作品にふさわしいタイトルは『他人』だ」 と言っていたのである (英語のstranger=フランス語のétranger)。もっとも 「異邦人」 のほうがキャッチがあってカッコイイんですけどね。あとは悲しみを持て余す異邦人〜♪
J・D・サリンジャー/ナイン・ストーリーズ
(柴田元幸・訳、河出文庫)
J・D・サリンジャー/
このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年
(金原瑞人・訳、新潮社)
J・D・サリンジャー/彼女の思い出/逆さまの森
(金原瑞人・訳、新潮社)
サリンジャーも 「バートルビーと仲間たち」(エンリーケ・ビラ=マタス)の1人ですね。
教授と同じく 「若白髪」 だったので、ホールデン君には親近感があります^^
『ナイン・ストーリーズ』は旧訳しか読んでいませんが。
『異邦人』や『ペスト』は高校時代に読みました。
『最初の人間』(新潮社 1996)にも感激しました(サッカー少年だったのね)。
カミュの悪筆を読める(判読出来る)人が1人だけいたというエピソードも凄いなぁ!
K**早紀の〈異邦人〉は〈悲しき天使〉のパクリじゃないの?
by sknys (2024-08-01 20:35)
『ナイン・ストーリーズ』はずうっと前に読みましたが、ほとんど覚えてないんです。間違いなく読んだ当時のわたしの理解力不足から来た現象だと思います。柴田元幸訳、読んでみたいです。
〉「もったいなさ」 感とがないまぜ
お気持ち、よくわかります。凄い作品と出会った時に陥る感覚ですよね。「最後のセンテンス」を読ませていただいても、その恐るべき研ぎ澄まされた感覚と、「小説」という形式の自由度を存分に生かす凄みを感じさせられます。またこのところつくづく感じるのは米文学におもしろい短編が多いということで、レイモンド・カーヴァーなどは言うまでもなく、最近フラナリー・オコナーの短編集をじっくり読みましたが、めちゃめちゃおもしろかった。予定調和とは真逆の世界にワクワクします。
BSテレ東に「あの本、読みました?」という番組がありまして、けっこうおもしろい。柴田元幸がゲストの回は、MCの鈴木保奈美が彼のファンで話弾んでました。また、わたし最近の作家として九段理恵のファンなのですが、なぜかこの番組へよく出るんです。彼女映画好きですし、宇多田ヒカルの影響を受けている話もおもしろかったです。RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2024-08-02 03:30)
>> sknys 様
ビラ=マタスを翻訳したのは木村榮一ですね。
私は翻訳者で読む傾向があるのですが
木村榮一・訳といえばコルタサルの『遊戯の終り』だと思います。
『ナイン・ストーリーズ』は野崎孝・訳を
ちょっとだけ参照してみましたが
柴田訳と野崎訳ではかなりニュアンスが違います。
カミュは悪筆だったんですか。
それは識りませんでした。
タイプライターで打っていたんじゃないんですね。
〈悲しき天使〉と〈異邦人〉は、う〜ん……
そんなに似ていないと思います。
元はロシアの曲らしいのでその鄙びたテイストに
共通性が感じられますが。
by lequiche (2024-08-03 02:06)
>> 末尾ルコ(アルベール)様
今回の『ナイン・ストーリーズ』は
えっ? 柴田訳? と思ったので読んでみたのです。
他の翻訳者だったら読まなかったでしょう。
柴田訳はちょっと 「うざったい」 ところがあって、
でもそれは柴田元幸が 「うざったい」 のではなく
サリンジャーの文章が 「うざったい」 のだと思います。
『ナイン・ストーリーズ』は最終的には最後の短編 「テディ」 に
収斂していくわけですが、この船上のイメージは鮮烈で
この 「こむずかしい」 しゃべりを積み上げていく柴田訳は
さすがです。
しかし、柴田先生も書いていますけど
サリンジャーの登場人物は皆、とてもタバコを喫いますね〜。
ホントにタバコくさい小説とも言えます。(笑)
それがつまりサリンジャーの生きたその時代をあらわしています。
ただ、冒頭の A Perfect Day for Bananafish のタイトルですが、
柴田訳は 「バナナフィッシュ日和」
野崎訳は 「バナナフィッシュにうってつけの日」、
私は野崎訳のほうが良いと思います。
「日和」 というのは、いかにもうまい日本語をあてはめた
という感じなのですが、「和」 テイストに傾き過ぎていると思うからです。
カーヴァー、オコナー、九段理恵ですか。
まだ読んだことがありません。
カーヴァーは村上春樹が訳していますね。
by lequiche (2024-08-03 02:06)
残暑お見舞い申し上げます。ロッキーにお悔やみのコメントいただきありがとうございました。このブログとともにロッキーが成長していったのでいつも暖かく見守っていただいていて本当に感謝です。
ブログもまだ続けようと重いっていますので今後ともよろしくお願いします。
by みぃにゃん (2024-08-04 17:06)
サリンジャーの昔の翻訳本、家にあると思います。
わかりにくかった、わかったとは言えない、ことは覚えてますが、どんな内容だったのやら??
この暑さで頭が真っ白になりがちなので、今読んでも全然だめだろうと思います。いつかトライしてみます。
「BANANA FISH」ももちろん持ってますけど^^ まあ内容は関係ないですね。
柴田元幸さん、何かは読んでるだろうと思うのですが、確認しておりません。新訳はよさそうですね。読みたくなってきました!
「バナナフィッシュにうってつけの日」面白いタイトルですよね。Perfectだったんですね。
村上春樹役のカーヴァーは読んだことあります。元々どこか似てるという印象ありました。すんなり頭に入りました^^
by sana (2024-08-04 20:59)
>> みぃにゃん様
ロッキー君は元気な頃はとても愛らしいキャラでしたし、
具合が悪くなってからもがんばり屋さんでしたね。
みぃにゃんさんの愛情に守られていたのですから
きっと最後まで幸せだったと思います。
みぃにゃんさんのお身体も心配ですので
お力落としのことと思いますが、
この夏の暑さに負けないようにお気をつけください。
by lequiche (2024-08-05 01:23)
>> sana 様
サリンジャーは昔から幾つも翻訳が出ているのですが、
どのように訳すかがむずかしい作家なのだと思います。
柴田元幸はポール・オースターの翻訳などで知られていますが
私はリチャード・パワーズやトマス・ピンチョンの訳で
その名前を知りました。
村上春樹と柴田元幸とは懇意のようですが、
柴田先生は『MONKEY』という翻訳関係主体の雑誌を出していて
これもなかなか面白いです。
柴田元幸と金原瑞人は今、私が最も信頼している翻訳者で、
この人の翻訳なら間違いないという印象があります。
金原瑞人は主に児童文学系に幾つもの翻訳がありますが、
その娘が作家の金原ひとみです。
バナナフィッシュというのはもちろんサリンジャーの創作ですが、
バナナという言葉にはややアブないニュアンスがあり、
それが吉田秋生のインスピレーションにもなっているはずです。
バナナという言葉から連想するのはカルメン・ミランダで
そもそも今あるバナナは人工的に作られたもので、
あやしい果物なわけです。
そのあたりのことは
以前、今福龍太のカルメン・ミランダ評について書きましたので
ご参照いただければ幸いです。
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2019-08-17
by lequiche (2024-08-05 01:23)