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トロント2001年ライヴのR.E.M. [音楽]

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Michael Stipe (2001/ Toronto, Canada)

以前にR.E.M.の《New Adventures in Hi-Fi》について書いたことがある。今、読み返してみると多分にセンチメンタル過ぎたかもしれない。その記事で私はパティ・スミスがゲストとして呼ばれる〈E-bow The Letter〉を取り上げてはみたが、主としたテーマは〈Losing My Religion〉におけるマイケル・スタイプの屈折した宗教性だ。
かつて自らが書いた文章を恥じらいもなく再録してみると、

 私の好きな動画は、オリジナルのPVではなくカナダの野外ライヴの映
 像だ。観客が一緒になって熱狂して歌っている表情と、でも歌っている
 その歌詞との乖離にオルタナティヴの不毛さを感じる。それは過去の記
 憶として残っている美しい不毛だ。フラット・マンドリンの音色に魔力
 を感じたのはこのPVが初めてだった。(→2015年09月09日ブログより)

この考えは時が経っても変わらない。さらにダイレクトに音楽における宗教について考えたのがピーター・ポール&マリーを聴きながらR.E.M.を想起した記事の次の部分である。

 フォークソングに限らず欧米の音楽を考える場合に重要なのは、曲に対
 するレリージョナルな動機であって、その善悪はともかくとしてそれを
 考えずに通り過ぎることはできない。私が繰り返しとりあげるR.E.M.の
 〈Losing My Religion〉にしても同様である。「神を信じていないのだ
 が、神を信じる」 的な矛盾を抱えているのが今の作詞・作曲家たち、も
 っと言ってしまえばオーディナリー・ピープルという気がする。
 (→2019年09月29日ブログより)

そして、例としてあげたカナダの野外ライヴの映像における〈Losing My Religion〉をYouTubeで繰り返し観ながらも、このライヴの全容を観ることができないのを残念に思っていた。ところが何気なく探してみたら R.E.M. Video Archive というチャンネルを見つけて、そこに4年も前からコンサート全体がアップされていたことを知った。

動画の解説によればこのライヴは
Corner Of Yonge & Dundas Streets, Toronto, Canada
[Free outdoor show]
とあり、日付は2001年05月17日と表示されている。

驚くべきなのはこのロケーションで、こんなコンサートが日本で可能なのかと問われたらおそらく無理としか言えないだろう。映像はそのあり得なさを誇示するようにコンサートを楽しむオーディエンスを捉えるショットが少し多過ぎるような気がするが、バンド自体の昂揚感と観客との一体感は、振り切ったVUメーターのようにマックスである。〈Losing My Religion〉を単体で聴くよりも、コンサートの流れのなかで聴くほうが曲としての存在感が増すことは言うまでもない。〈Losing My Religion〉を歌う前にマイケル・スタイプが上着を脱いでいるのも象徴的である。視聴数が10万回にも満たないのは謎である。

R.E.M.はオルタナでありパンク、あるいはポストパンクであるが、そうしたジャンル分けでは括れないなにかを持っていて、それは理知的なルーツを垣間見せる胡乱さとも、激情と破壊衝動で盛り上がる露悪さとも違うなにかである。

このトロント・ライヴのYouTube動画の解説部分にも表示されているが、セットリストは以下の通りである。コンサート動画全体の時間は50’56”であり〈Losing My Religion〉は28’17”あたりから演奏される。

Imitation of Life
The Great Beyond
Have You Ever Seen the Rain?
What’s the Frequency, Kenneth?
All the Way to Reno (You’re Gonna Be a Star)
The Lifting
The One I Love
Losing My Religion
Man On the Moon
encore:
So. Central Rain (I’m Sorry)
It’s the End of The World As We Know It (And I Feel Fine)


R.E.M.: Concert 2001
Corner Of Yonge & Dundas Streets, Toronto, Canada
2001-05-17 [Free outdoor show]
https://www.youtube.com/watch?v=Hw7IJMtrOwk
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末尾ルコ(アルベール)

R.E.Mはあまり聴いて来なかったんです。だからとても新鮮です。「Losing My Religion」に関しては、映画界近年の収穫のひとつ、「aftersun/アフターサン」の中で重要な歌として使われてました。
ライヴ、とりあえず「Losing My Religion」の部分、視聴させていただきました。とても自由な空気を感じました。ビルの上から観てる人たちもあますね。確かに日本では無理ですね。そしてフラット・マンドリンの音色。美しく、心の微細な部分に忍び込んでくる。
歌詞も読んでみましたが、わつしR.E.M初心者のようなものなので、今のところ何とも言えません。今後深めていければと思います。


野坂昭如「花ざかりの森」、聴きました。案外無骨な声が心地いいです。野坂昭如はテレビCMがインパクトありました。昭和の時代でも屈指かなあと。晩年の本多勝一との喧嘩は残念でしたが。
矢野顕子の「おもちゃのチャチャチャ」はもう反則ですね(笑)。これだけの演奏、歌唱を聴かされたらぐうの音も出ません。RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2024-08-19 10:52) 

sknys

R.E.M.はインディーズ時代(I.R.S.)の方が好きでした。
マイケル・スタイプは何か言われると、詩(歌詞)を見せなくなるので、兎に角メンバーは褒めまくるそうです^^

折々のねことば 151
白鳥、白鳥、蜂鳥(Swan, swan, hummingbird)
やった、みんな自由になったんだ(Hurrah, we are all free now)
私たちは何て騒がしいネコなんだろう(What noisy cats are we)
マイケル・スタイプ

米インディ・ロック・バンドR.E.M.はシリアス、ミステリアスで暗い、マイケル・スタイプ(Michael Stipe)は何を歌っているのか分からない、歌詞も聴き取れないと言われて来た。4thアルバム《Lifes Rich Pageant》(1986)に収録された3拍子のフォーク ・ソングも南北戦争の奴隷解放を讃える「凱歌」にしては暗鬱で、「Hurrah, we are all free now」 という勝利のフレーズも逆に虚しさだけが空ろに響く。南軍兵士ジョニー・レブ(Johnny Reb)の英雄譚も良く分からないが、「What noisy cats are we」 という歌詞が耳に痛い。〈Cuyahoga〉では新大陸を横断して河を汚染させた白人たちの光景と河で泳いだり踊ったりした先住民族の記憶が語られる。〈Swan Swan H〉から。

皆川博子先生はエドワード・ターナー三部作の完結編『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』(早川書房 2021)の最後に、「これを、戦争というのか。人間と人間の戦いとは思えない。野獣の殺し合いだって、これほどじゃない」 と、クラレンス・スプナーの手紙の中で本音を吐露しています。
by sknys (2024-08-20 21:43) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

《アフターサン》——シャーロット・ウェルズの映画ですか。
そのなかで歌われているというのはなかなか意味があります。
R.E.M.はジャンル分けすればオルタナティヴですが、
たとえばレディオヘッドとかコールドプレイと較べると
オルタナであるにもかかわらずその質が違います。
R.E.M.はパンキッシュであり、
インテリっぽさがストレートに出て来ないで屈折しています。
このトロントのコンサートは最近になってやっと
全編観ることができたのですが、
R.E.M.のライヴのなかで屈指のパフォーマンスだと思います。

野坂昭如が一時、歌手となっていた頃の
最も有名な歌は〈バージン・ブルース〉です。
《鬱と躁》というたぶん自主制作盤のLPを出しましたが、
レコード中央の穴に薄紙が貼ってあり、
レコードプレーヤーにかけると、
スピンドルが薄紙を破って頭を出す
という体裁になっていました。
つまり貼ってある薄紙が処女膜という意味です。

矢野顕子の〈おもちゃのチャチャチャ〉は
以前にも書いとことなのですが
「ドラムがウラからウラから入ってきて、一種の錯覚というか目眩まし」
になることで、もちろんこれはワザとです。
ドラマーは高橋幸宏です。
by lequiche (2024-08-23 01:53) 

lequiche

>> sknys 様

インディーズ時代というと
スタイプがスキンヘッドではないころでしょうか。
歌詞を褒めまくるというのはスタイプの性格を
熟知している証拠ですね。(^^)

スタイプの歌詞が難解であるとか、
歌っていてもそれがよく分からないとか、
さんざん言われていたようですね。
かなり哲学的に意味を考えて書かれているのか、
それとも行き当たりばったりであって、
もしかするとそんなに深い意味はないのか、
そのへんがよくわからないといえばわからないです。
ただ、レディオヘッドのように確定的・確信的な意味あいがなく
どこまでも不安感がつきまとうし、
はっきりした物言いではないということは言えると思います。

皆川博子のエドワード・ターナー三部作というのは
読んでいません。
ですが皆川博子はどれを読んでも面白いです。
by lequiche (2024-08-23 01:53)