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《近藤譲:ブルームフィールド氏の間化》 [音楽]

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古いレコードがある。円形に切りとられた幾何学的連続模様が黒いバックから浮き出ているように見える印象的なジャケット。ALM RECORDSの《近藤譲:ブルームフィールド氏の間化》。「間化」 という単語にやや違和感があるが、英語タイトルは 「Mr.Bloomfield, His Spacing」 と記されている。
近藤譲には《近藤譲:線の音楽》というアルバムもあって、彼の音楽理論の書かれた同名の書籍も存在する。初刊も再刊も持っているが、内容はわかったような気になるけれど結局全然わからない。

《ブルームフィールド氏……》はずっと廃盤だったが、ALM RECORDS=コジマ録音50周年とのことでCDとなって7月に再発された。

まだレコードをそんなに持っていない頃、日本の現代音楽で繰り返し聴いていたのが、この近藤譲のアルバムと、東芝音楽工業から出されていた高橋アキの《高橋アキの世界》3枚組、それに友人から譲って貰った黛敏郎の《涅槃交響曲》というさらに古いレコードだった。

コジマ録音の小島幸雄のレコード/CD観には首肯けるものがある。

 気持ちとしては、全部、アナログからつくりたいと思いますよ。おなじ
 音楽をべつに聴くと、レコードはもちろんぱちぱちしたりします。喧し
 いんですけど、なぜか、ほっとするんです。古いレコードをきくとほっ
 とする。いい音とは違うかもしれないけれど……。(intoxicate #171)

だがそう言いながらも現代曲においては 「間が多い」 ので、ノイズの入るアナログ盤よりもCDのほうがアドヴァンテージがあると語る。現代曲に限らずクラシカルな音楽はダイナミクスの差が大きいので、弱音時の再生にはCDのほうが有利だ。

インタヴューに応えて、小島幸雄はコジマ録音の初期の頃について回想する。

 ジャズをやるつもりだったんですよ。フリーの。阿部薫をね。阿部さん
 が亡くなって、しぼんじゃったんだ、こっちもね。70年代は、いまやっ
 ているクラシック、特にロマン派は射程にはいっていなかった。(同前)

さらに、

 そのころからフリージャズのシーンが解体していった。自由になりすぎ
 てね。社会に抵抗するようなかたちがなくなったようでね (同前)

小島はパンクに対してもシンパシーを感じていてPhewのアルバムも作ったとのことだが、時代が変質して行くにつれて、録音してリリースする際の方向性も次第に変わっていったのだと思わせる。
そして小島の言う阿部薫とはコジマ録音からリリースされた《なしくずしの死》というソロ・インプロヴィゼーションを収録した2枚組アルバムのことであろう。阿部の最盛期の録音である。「なしくずしの死」 というタイトルはルイ=フェルディナン・セリーヌの同名の小説 (Mort à crédit/1936) から採られたものであり、冒頭にセリーヌが自作を朗読する録音が使われている。これはプロデュースした間章 [あいだ・あきら] によってなされたアイデアである。

その頃に刊行された邦訳のセリーヌの全集は、不可解な、あるいは不幸な事情で中断されたりしたが、通俗的な表現を用いるならば呪われた作家という表現もあてはまるのかもしれない (もっとも私の読んだセリーヌは滝田文彦訳だったと思う)。
阿部薫の死後、生前に録音された幾つもの演奏がリリースされたが、このコジマ録音の《なしくずしの死》を凌駕するものはない。

そしてアルバム《ブルームフィールド氏……》の中で私が好んで聴いていたのは、近藤の厳粛な理論に基づいた作品ではなく、フィールドワークした自然音をコラージュしたような、いわゆるミュジーク・コンクレート的な〈夏の日々〉であった。デヴィッド・シルヴィアンの《NAOSHIMA》を聴いた時、よみがえったのはこのイメージであった。緊張と弛緩は交互に訪れるべきもので、弛緩には怠惰さとともに懐かしさが附随するのである。
(〈夏の日々〉と《NAOSHIMA》、そしてそれに関連したリュク・フェラーリのことは、ずっと以前にこのブログに書いた。その時点では《ブルームフィールド氏……》は廃盤状態だったので、今回の再発には深い感慨がある。→2012年02月03日ブログ)


近藤譲:ブルームフィールド氏の間化 (コジマ録音)
近藤譲 ブルームフィールド氏の間化




近藤譲:線の音楽 (コジマ録音)
近藤譲《線の音楽》




近藤譲:時の形 (コジマ録音)
時の形




佐藤紀雄、篠崎功子、高橋アキ、多戸幾久三、山口恭範/
近藤譲:視覚リズム法
https://www.youtube.com/watch?v=TPw2L89JGEQ

井上郷子/近藤譲:視覚リズム法 (ピアノ・ヴァージョン)
https://www.youtube.com/watch?v=DbQbcjA29XI

小泉浩、山口恭範、高橋アキ /近藤譲:STANDING
https://www.youtube.com/watch?v=w9g49XiNDEw

阿部薫/なしくずしの死 (Full Album)
https://www.youtube.com/watch?v=F5xJQL7xO64
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末尾ルコ(アルベール)

若松孝二監督の「エンドレス・ワルツ」はわりと最近観ました。町田康が主演というのにも大いに惹かれたこともあります。非常に興味深く鑑賞しましたし、若松監督の広さ深さにあらためて舌を巻きました。交通事故での死去は本当に残念でした。原作は読んでませんが、稲葉真弓の小説、おもしろそうなものが多いです。機会かあれば、読んでみたいです。
近藤譲についてはまったく知りませんでした。現代音楽そのものを、なかなかわけいっていけない状態が続いていました。なのでこの機会に、今回お話くださった近藤譲らを中心に現代音楽の世界も馴染みある存在にしていきたいと思います。
で、リンクしてくださっている近藤譲、概ね視聴させていただきました。心が、魂が落ち着く感覚になります。



******
サブリナ・カーペンターって知らなかったので、ちょっと聴いてみました。なかなかいい声ですね。彼女のこともお好きなんでしょうか。ともあれラジオをつけていると、思わぬ出会いがありますね。今までどれだけ出会いがあったか。ラジオでの出会いは、書店を散策するのと同質の豊かさを感じます。この前はカーラジオで久々に「春咲小紅」を聴けて、とても嬉しい気分になりました。

みなみらんぼうの写真、美しいです。面長の無駄ない風貌。戦前までの詩人や文学者の薫りが。「途上にて」もさらに聴き込んでいきます。RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2024-09-01 09:20) 

JUNKO

私は「間」という言葉が好きでよく使います。
by JUNKO (2024-09-01 20:53) 

coco030705

こんばんは。
近藤譲:視覚リズム法、聴いてみましたが、なかなか面白いですね。
今まで聴いていた流れるような音楽?とは違って、不協和音みたいに色々な音がでてくるのですが、聴いていて心地よい感じがします。
by coco030705 (2024-09-01 22:26) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

若松孝二の映画は観た記憶はあるのですが、
きちんと全部観ていないかもしれません。
阿部薫が亡くなってから
CDだけでなく各種の本や雑誌が出されましたが
何といったらいいのか……
週刊誌的話題性にすがって売ってやろうという魂胆が
私には見えて、若松孝二の映画もその一環として
とらえていたのかもしれません。
音楽の本質はそういうところとは別の部分に
宿るのだと思うのです。

近藤譲は楽譜を書いてそれをコンサートで演奏する
という手続きを踏まずに、
レコードで自分の作品を表現するという方法論で
コジマ録音から自作をリリースしたのです。
そうした方法論はグレン・グールドに似ています。
とはいえ、現代音楽はマイナーですしカルトですので
一般的な意味での理解はむずかしいと思います。
それをあえて書いてしまうのが私の戦略なのですが……。(^^)
私の場合はまず現代音楽があってフリージャズがあって、
そこから時代を遡っていて伝統的クラシック音楽や
スタンダードなスウィング・ジャズに辿り着いた
という経緯がありますので、やや特殊な学習方法です。

サブリナ・カーペンターはあまりよく知りません。
ただ、ビリー・アイリッシュなどより良いように感じます。
ビリー・アイリッシュってなぜあんなに評価が高いのかなぁ、
と思うのですが、あくまで個人の見解です。

みなみらんぼうのジャケット写真は荒木経惟ですから。
荒木経惟ってアラーキーとか自称していた時期もあって、
エロ写真家みたいな印象があるのかもしれませんが
あれは韜晦ですので。
by lequiche (2024-09-02 02:35) 

lequiche

>> JUNKO 様

そうですか。
時間的にも空間的にも 「間」 は大切です。
機関銃のように早口でまくしたてる人を
仕事先で見ていることがあるのですが、
う〜ん……何に怯えているんでしょうねぇ、と思います。
by lequiche (2024-09-02 02:46) 

lequiche

>> coco030705 様

お聴きいただきありがとうございます。
近藤譲の作品の書き方は、音楽とは滔々と流れるべきではない、
と言っているのに等しいです。
ひとつの音があって、さて、その次の音がどこにあるか、
というか、どこにあらねばならないか、
という一種の哲学的な方法論のように思います。

そして、音楽は必ずしも多くの音で構成されなければならない、
ということへのアンチテーゼでもあるはずです。
そうした極小の音の扱いかたにおいて有名なのが
モートン・フェルドマンという作曲家で、
もちろん近藤譲とは方法論的には違いますが
音楽の価値に対する認識 (音価に対する判断) には
似たようなものがあります。

以前に幾つかフェルドマンの記事を書きましたが、
専門的に過ぎるかもしれませんがこれです。
ご参考まで。

リズムについて — モートン・フェルドマン・1
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2013-03-19

尚、楽譜を載せてしまっていますが、
たぶんこれは著作権法違反です。(笑)
by lequiche (2024-09-02 02:46)