SSブログ

川上未映子×穂村弘『たましいのふたりごと』を読む [本]

kawakami_homura_170902.jpg

少し前に出たとき、買いそびれていたのだけれど気になっていた本、川上未映子×穂村弘『たましいのふたりごと』(2015) を書店で見つけたので買ってきた。
単純に対談するのでなく、こだわりのある言葉を幾つか決めて、それについて語るという趣向である。言語に対する感性の高い二人なので、ファンとしてはとても安心して読めるし、それでいてところどころ 「おいおい」 の部分もあるし、で面白い。

たとえば〈上京〉というお題に関して、川上未映子はこう言っている。

 川上:中原 (昌也) さんとか蓮實 (重彦) さんはもともと東京のひとで、
    やっぱりシネフィルにとって東京で育ったかどうかは大きな問題
    なのかも。どれだけ小さなときから映画を観てきたかというとき
    に、大きな格差がつくって言ってました。(p.103)

「言ってました」 というのは川上の夫である阿部和重が言ったという意味なのだが、私はシネフィルではないので、ああそうなのか、と思ってしまう。たしかにマイナーな作品だとどうしても東京偏重はあるのかもしれないけれど。あ、ジャームッシュの特集のユリイカ買ってくるの忘れた。
対する穂村弘は、北海道から東京に出て来て原宿を歩いたときふわふわしたと言っているが、その気持ちはちょっとわかるかもしれない。修学旅行生が竹下通りをハイな感じで歩いていたりするのを見たことがあるからだ。でも原宿って、昔はもっと落ち着いた街だったのになぁ。

〈晩年〉では穂村が塚本邦雄をさらっと引用する。

 穂村:塚本邦雄の 「紅鶴 [フラミンゴ] ながむるわれや晩年にちかづくな
    らずすでに晩年」 という歌にあるように、自分では晩年って自然
    には意識できない。(p.104)

晩年とは 「それまで何かを成し遂げたひとが最後に辿りついた境地」 だと思うので、という穂村に川上は 「春夏秋冬の冬のイメージですね」 と応じるが、穂村は、ここまで 「だらーっときてるから (笑)、たぶん晩年にもならない」 という。
晩年ってある意味、死語なのかもしれなくて、塚本の、一首のなかに2回同じ単語を使うのはすごくカッコイイと思うし、『晩年』というタイトルの本からスタートした作家もいたけれど、現代にはそうしたニュアンスの晩年と形容されるようなたそがれ感はすでに存在していない。

〈大島弓子〉で盛り上がってしまうのはやはり世代なのだろうか。

 川上:穂村さんが大島弓子についてどこかで書いていた、「もっとも弱
    い者が最弱になったときに最強になる」 というのがすごく好きな
    んです。

と言うと、

 穂村:大島弓子は透明な革命を作品化していると思うんだけど、作中で
    主人公たちが社会的に強くなっていく過程はけっして描かなかっ
    た。少女や子猫たちの真実をこの上なく描いたけど、それが大人
    になったときにどのようにあるべきかというヴィジョンは描いて
    いない。
 川上:お母さんと子どもの関係もよく出てきますけど、本当のお母さん
    というようりも弱い立場の子どもがお母さん的な役割を演じる話
    がすごく多い。『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンみたいに、
    自分も子どもなのに、子どもたちをキャッチするということをす
    ごく描いていますよね。(p.108)

大島弓子は、成熟する強さは描かなかったけれど、成熟によって失われてしまう何かの哀しさを描いたのではなかったかと川上はいう。確かにサリンジャーのテーマは弱々しげなファンタシィでありセンチメンタリズムなのかもしれないが、それが 「最弱になったとき最強になる」 という意味とも呼応しているようにも思える。
穂村はさらに言う。

 穂村:大人の主人公がほぼいないということは言えるよね。大島弓子だ
    けじゃなくて、萩尾望都や佐藤史生といった二四年組周辺の人々
    は、マイノリティであることの自覚が作家性を支えていて、女性
    であることや同性愛者であることといった問題を先取りしていた
    と思うけど、あの時代に少女マンガというエンターテインメント
    の枠組のなかで、ああいう作品を描いていたのは本当に画期的だ
    ったと思うなあ。SFとも隣接していたのは、たぶん思考実験とい
    うところで通底しているからで、すごくラディカルだったよね。
    (p.109)

SFといっても創生期のSFはパルプ・フィクションと呼ばれ、通俗なエンターテインメント性だけでなく、SFという虚構の世界を借りたセクシィなイメージの作品さえ多かった。萩尾などの世代が最初に出会った頃のSFも冒険活劇的なストーリーが主流として存在していたはずで、しかしそうした肯定的世界観が陰影を帯びるようになったのは、たとえばフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968) とかJ・G・バラードの『結晶世界』(1966) などの出現からで、この2冊の翻訳が出たのはどちらも1969年、世界に対する美学を変化させた視点を持っているという点で、エンターテインメントでありながらそうでない部分が併存している。
それが直接的に影響しているとは言えないが、そうした時代だったからこそエンターテインメントの枷のなかでのマイノリティへの視点という方向性も可能だったのだといえる。この前、ポール・ウィリアムズの『フィリップ・K・ディックの世界』が再刊されて、いま読んでいるのだが、ディックはたとえばグレン・グールドと同じように特異点だったのか、それとも時代の変調するサイクルのなかで捉えても構わないのか、微妙なところだ。

〈憧れ〉は最も笑った項目で、せっかく憧れの歌人という話から始まっているのに、憧れはそれ自体で完結しているという川上に対して穂村が、

 穂村:なかなか憧れだけで完結できなくて、つい 「甲本ヒロト 革ジャ
    ン」 とか検索しちゃう (笑)。(p.114)

という部分、穂村は、憧れの人と同じ服とかギターとか欲しいと思わない? と食い下がるのだが、川上は 「そのひととおなじ物を持っても、なんにもならないよ」 と突き放す。それに対して穂村が、

 穂村:みんな 「川上未映子 ウィッグ」 とかで検索してると思うよ
    (笑)。(p.114)

と切り返すのに笑いました。物欲ダメみたいに言っておきながら、ハイブランドのことになると2人の立場が逆転したりする (p.206)。

〈コンビニ〉や〈ファミレス〉では川上がそういう店でバイトをしていた頃のいやな思い出という意外な展開になるのだが、川上未映子にとってはそれは過去のことだけれど、そういういやな状況のなかに今も閉じ込められている私には、よりダイレクトな印象となって響く。

〈午後四時〉は、「曇天の午後四時はおそろしい」 (p.202) という意味での午後四時なので、その曖昧な時間を誰もが意識して共有しているのか、それとも無視しているのか、気づいてさえいないのか、という問題であって、たぶんそれは 「たそがれは逢魔の時間」 という言葉に似ている。もちろん大島弓子でもあるのだけれど、そもそも 「たそ-かれ」 という語源そのものが不確実な 「生」 というものの感触をあらわしていることにほかならない。

ランダムに出されている項目が、それなりにストーリー性をもたされているような、それともストーリー性を持つようにもっていけることができるのが2人の作家性なのかどうかはわからないが、でも対話というものは方向性が見えていないようでも確実に進んでゆくものであり、こうした対話が文章となって固定化されているのは心が和む。

最近思うのだけれど、話すことによって見えてくる会話とそうでない会話とがあって、見えてこない会話は、心をひどく疲れさせる。少し話がずれるが、たとえばファストフード店などにおける 「~で、よろしかったでしょうか」 というような言い回しは、責任回避の思想がマニュアル作成者の根本にあり、対話を拒否しようとする姿勢が見える。モノさえ売れればそれでいいという思想なのだからそれはそれでも仕方がないのだが、しかし同様な会話も日常のなかに多く見られる。それはきっと相手の存在をとらえないで壁に向かって話しているのと等しい会話だからである。


川上未映子×穂村弘/たましいのふたりごと (筑摩書房)
たましいのふたりごと (単行本)




ザ・クロマニヨンズ/ペテン師ロック
https://www.youtube.com/watch?v=7KOxEnvvhGo
nice!(93)  コメント(4) 
共通テーマ:音楽