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リベラ・メ ― フォーレ《レクイエム》を聴く [音楽]

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Gabriel Fauré

アンドレ・クリュイタンスのフォーレの《レクイエム》は、Venias盤の The Collection の話題のときにすでに触れたが (→2015年10月14日ブログ、→2015年10月18日ブログ)、クリュイタンスのフォーレは、レコードを買い始めた頃、つまりごく若い頃に私が買い求めたLPのなかの1枚で、その時代を思い出すととても懐かしい。単純に音楽だけでなく、それを聴いていた身の回りの情景とか友達などのことまでもが思い浮かぶ。
その頃の私にとってLPはとても高価だったから、所有枚数も少なく繰り返し聴くしかなかったのだが、同じように繰り返し聴いたのがフランクのヴァイオリン・ソナタで、でもフォーレとフランクという選択は偶然だったのか、それとも好きだったから選んだのか、今となっては判然としないけれど、渋い子どもだ、とも思う。

クリュイタンスのレクイエムには2種類あるが、有名な1962年パリ音楽院管弦楽団との演奏が白眉であって、1950年のモノラル録音のほうは古風で鄙びた音がするが印象としては弱い。
ヘレヴェッヘにも2種類の同曲の録音があるが、期待して聴いてみたら、予想に反してキツい感じがして一度しか聴いていない。クリュイタンス盤の刷り込みがあまりに強過ぎるのかもしれないとは思うのだが。

CDになってからも何回もリリースされていてリマスターもされているし、エソテリック盤も持っているのだが、でも音ではなくて内容なのだと思う。もっと極端にいえばディートリヒ・フィッシャー=ディースカウによる〈リベラ・メ〉の歌唱がその頂点にある。

全音のオイレンブルク版のスコアには、この曲の成立までの経緯が解説されていて参考になる。
最初は全部で5曲しかなく、7楽章に増やし、また各部を書き足していって最終稿ができあがったという。フォーレは管弦楽曲を書くことがあまり得意ではなかったとのことだが、レクイエムは他人の助けを得ずに書いたため 「結果は風変わりなものとなっている」 とある。
それは 「フル・オーケストラで鳴る部分は1小節もない」 というところにもあらわれていて、この曲にはオルガンが加わっているが、フォーレはもともと、オルガン伴奏だけのレクイエムで良いと思っていたような節がある。弦楽の音はオルガンで弾かれている音を単に分散しているだけに過ぎないような個所が多いからだ。
そして基本的にヴァイオリンが無い。ヴァイオリン・パートが加わっても、おざなりである。管楽器の使い方も同様にごく控えめだ。それでいてヴィオラとチェロにはそれぞれディヴィジの部分がある。そのため弦楽の重心は低く、それによってしっとりとした質感が生まれているようにも見える。
ヴァイオリンが無いのはブラームスのドイツ・レクイエムの最初でも、バッハのカンタータ18番でも見られるが特殊な効果を生み出す。

また、普通のレクイエムの書式なら用いられるべき歌詞を使っていないということも書かれている。ディエス・イレもラクリモサもないのは、フォーレが 「歌詞の劇的な扱いが必要とされる場合、それを除外した」 のだという。つまり 「容赦ない審判の日」 を外したというのだ。

〈リベラ・メ〉はチェロとコントラバスによる単純なピチカートの繰り返しパターンから始まる。オルガンもピチカートと同じ音にプラスして和音を弾くが、それはところどころに加わるヴィオラと同じ音だ。ヴィオラはほとんどが全音符でしかないのに、その暗くて強い音の重なり。ヴァイオリンは無い。そのシンプルな構成の上に乗るバリトン、フィッシャー=ディースカウの声は凜として深い。
最初のソロが終わって35小節4拍目からピアニシモでヴィオラが4分音符で5つの上行する音を刻み、37小節からコーラスとなるが、ソプラノとヴィオラの音はユニゾンで、ディヴィジになっているもう一方のヴィオラは3度上という、シンプルというよりは簡単過ぎるようなオーケストレーション。
さらに53小節からのPiù mosso、コーラスはDies illaと歌う。4分の6となり、決然としたホルンの、ずっと同じパターンと同じ音を吹き続けるだけのリズムのところどころにトロンボーンが重なる。劇的なものを除外したといわれるこの曲のなかで、最も劇的な暗い意思があらわれる。
ここからヴァイオリンが加わるが旋律線はヴィオラと同じで、弦の重なりの増強に過ぎない。コーラスが一区切りする69小節の最後で、ホルンの4つの4分音符に続いて、70小節目から83小節まで、4分休符+4分音符×5のパターンの執拗な繰り返しがさらに暗い輝きを増す。コーラスは次第に棒読みのようになり、やや曖昧な感じに収束していくところが上手い。
84小節から2分の2拍子、最初のリズムに戻り、そして92小節からコーラスがLibera meをユニゾンで歌う。このユニゾンのシンプルさと訴求力の高さは一種のおそろしさのような、と同時に諦念のような感情を同時にあらわしているように聞こえる。
コーラスが静まると124小節からバリトン・ソロが前をなぞるようにLibera meを歌い、131小節からピアニシモでコーラスが加わり、全体は溶暗のなかに消えてゆく。そのソロの1小節前、123小節から終わりまでずっと、ディヴィジになった一方のヴィオラがd音を持続させているのだ。

単純そうに見えて、ひとつひとつが揺るがせにできない音の連なりであることが次第にわかってくる。でもそれは単に構造的にわかろうとしているだけで、曲の本質は聴いてみたときの直感による。
最初に、そんなに考えもしないでレコード棚からフォーレを選び取った若い頃の私と、遙かな時間を経た今の私とは、年齢だけ重ねているけれど思っているほど進歩はなく、きっと同じに違いない。なぜならフォーレに対する想いと心の奪われかたは変わらないからである。若い頃の私は今の私を知らないが、そのときフォーレを選び取ったことは、未来の私に告げる予言のようなものだと無意識のなかで感じていたのかもしれない。


André Cluytens/Fauré: Requiem (ワーナーミュージック・ジャパン)
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Fauré: Requiem (libera me)
André Cluytens/Dietrich Fischer-Dieskau
https://www.youtube.com/watch?v=JZN-THpFMfc

André Cluytens/Fauré: Requiem (全曲)
https://www.youtube.com/watch?v=tmrQHRnT4Mw

Laurence Equilbey/Fauré: Requiem (動きのあるYouTube・全曲)
https://www.youtube.com/watch?v=PnQl18sVyig
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