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分かりやすさの罠 — ハンナ・アーレントについて [本]

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Hannah Arendt
(http://rozenbergquarterly.comより)

本の解説やあとがきを先に読んでしまうのは、問題集を解く前に解答を見てしまうのに似ていて、よくないことなのだとは思っているのだが、NHKのEテレに《100分de名著》という番組があって、このテキストがなかなかよく書かれているのに気づいた。放送はもう終わってしまっているのだが、ハンナ・アーレントの回のを買ってきた。解説をしているのは仲正昌樹である。
というのは、ついこの前、『全体主義の起原』が改訂再刊されたのだが、いきなり読むのより少しは参考になるだろうという魂胆である。解答を先にこっそり見てしまうような後ろめたさが全くないわけではない。

ハンナ・アーレント (Hannah Arendt, 1906−1975) はドイツ系ユダヤ人で、3つの大学で学び、22歳で博士号をとったが、ナチスが擡頭する頃から政治的意識に目ざめ、反体制活動をしたことで逮捕されたり、強制収容所に入れられたりする。アーレントはドイツから逃れフランスへ、そして最終的にアメリカへと亡命する。
第二次大戦後、ドイツのナチズムとソ連のスターリニズムを全体主義とし、そうした考え方がなぜ形成されたのかを冷静に分析したのがアーレントの『全体主義の起原』(1951) である。

なぜユダヤ人がナチスによって迫害されたのかを考えるとき、ユダヤ人とは何だったのかという解説のなかで、シェークスピアの 「ベニスの商人」 の例がわかりやすい。ユダヤ人が経済的才覚を持っているのは 「金貸し業」 を請け負っていたためであり、金貸し業というのは 「汚れ仕事」 であって、キリスト教徒が従事することはできなかったのだが、結果として彼らが金融を動かすことで裕福になってしまったことが妬ましいという論理なのである。

 『ベニスの商人』はユダヤ人を利用しながら、都合が悪くなると悪魔呼
 ばわりするヨーロッパ社会の身勝手さを表した作品だと指摘する人もい
 ます。(p.18)

次にナポレオン戦争 (1776−1815) あたりから、国家が絶対君主制から 「国民国家」 (nation state) へと移行してゆくに従って、人々の間に 「国民」 意識が広まっていった。nationは 「国民」 と訳されるが、日本語のニュアンスとしては 「民族」 に近く、つまり国家を同質的なものにしようとすると、血を同じくする同族意識で団結してかたまることになり、その血以外の異分子を排除するメカニズムを持つことになる。その異分子として認識されたのがユダヤ人だというのである。
アーレントからの引用はこうである。

 国民国家という政治体 [ボディ・ポリティック] が他のすべての政治体
 と異なるところはまさに、その国家の構成員になる資格として国民的出
 自が、また、その住民全体の在り方としての同質性が、決定的に重視さ
 れることにあったからである。(p.21)

古代ローマが異民族に対して寛容であったのに対して、近代の国民国家は、単一の同質的な 「国民」 をベースとする共同体でありさらにアフリカを植民地として統治することが、人種という選別意識を助長させ、差別を顕在化させる契機となった、とアーレントは考える。
その 「民族」 という概念が、血族という考えとなりナショナリズムの萌芽となった。自分たちは選ばれた民族であるという意識が、身内と他者という選民意識となり、ドイツの場合、その他者がユダヤ人であったのである。

またアーレントは、第一次大戦後に、国境が移動したことによる難民の発生を無国籍者の発生と規定し、難民には人権がない、それはいままで民主主義の根本にあった人権思想が幻想に過ぎなかったのだと指摘する。それが21世紀の昨今に、より顕在化していることは確かだ。

 法による支配を追求してきた国民国家の限界が、国家の 「外」 に現れた
 のが無国籍者の問題であり、それが国家の 「内」 側に現れて、統治形態
 を変質させていくのが全体主義化だということもできると思います。
 (p.58)

と仲正は書く。

全体主義がなぜ擡頭したのか、の理由として、ドイツでは第一次大戦の敗戦による領土の縮小、経済的逼迫、さらに世界恐慌などによって 「不安と極度の緊張に晒された大衆が求めたのは、厳しい現実を忘れさせ、安心してすがることのできる 「世界観」。それを与えてくれたのがナチスであり、ソ連ではボルシェヴィズムで」 あったという (p.67)」。
こうした社会情勢の雰囲気が全体主義に陥りやすいきっかけとなるのだ。

 しかし、平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に
 不穏な空気が広がると、にわかに政治を語るようになります。こうした
 状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とか
 してほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考え
 ることをしない大衆が求めるのは、安直な安心材料や、わかりやすいイ
 デオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながって
 いったとアーレントは考察しています。(p.65)

アーレント自身の表現は、もっと簡潔にしてストレートである。

 ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義の運動
 の台頭に特徴的なのは、これらの運動が政治には全く無関心と見えてい
 た大衆、他のすべての政党が、愚かあるいは無感動でどうしようもない
 と諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである (p.65)。

アルゼンチンに逃亡していたナチスSSであるアイヒマンの裁判を傍聴した記録『エルサレムのアイヒマン』(1963) で、アーレントは批判を浴び、多くの友人を失ったという。しかし彼女が自分の主張を変えることは、もちろんなかった。
諸悪の根源であり、大悪人であると見られていたアイヒマンを、アーレントは 「どこにでもいそうな市民」 であると形容し、極悪非道ぶりを暴いてくれると思っていた読者を空振りさせてしまったからである。アイヒマンが 「どこにでもいそうな市民」 なのだとしたら、翻れば誰もが条件さえ整えば 「アイヒマンのような人間になる可能性がある」 ということだ (p.98)。
それは現代の日本における犯罪報道やスキャンダルな報道が、犯人がいかに自分たちと違うかということに執心しているのと変わらない、と仲正は説く。

『全体主義の起原』に続くアーレントの著作『人間の条件』(1958) について、松岡正剛の〈千夜千冊〉を読んでみた (0341夜)。
そこでアーレントが指摘している世界危機は次のようであり、いずれも20世紀の特質だという。

 (1) 戦争と革命による危機。それにともなう独裁とファシズムの危機。
 (2) 大衆社会という危機。すなわち他人に倣った言動をしてしまうとい
   う危機。
 (3) 消費することだけが文化になっていく危機。何もかも捨てようとす
   る 「保存の意志を失った人間生活」 の危機。
 (4) 世界とは何かということを深く理解しようとしない危機。いいかえ
   れば、世界そのものから疎外されているという世界疎外の危機。
 (5) 人間として何かを作り出し、何かを考え出す基本がわからなくなっ
   ているという危機。

これは21世紀の今にも共通して、より痛切に成り立つ危機である。たとえば(3)は、安易で放蕩的な消費と、不健全な 「断捨離」 なるものを指していることに他ならない。
アーレントが提唱するのは、最も素朴に言えば、自ら物をつくり出し、仕事し、思考する、ということであると思う。
松岡は、こうしたアーレントの説明を古っぽいという。でありながらも 「アーレントを読むと何かのラディカルなリズムが胸を衝いてくるのを禁じえない」 と書く。それは松岡の数日前の1652夜、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』において展開されている昨今の情勢への辛辣な意見と通底しているように思える。

「ユルゲン・ハーバーマスは、「人民は複数でしか (in the plural) あらわれることができない」 と言い、そういう複数の人民を従えた政治家が単一人民の代表者であるかのような相貌をとるのは危険な徴候だと見なした」 とする部分における複数というワードは、アーレントの 「複数性」 という概念に通じるものがある。
そして本来、エリート主義との対比で用いられてきたポピュリズムが今では 「「大衆迎合主義」 「衆愚政治」 「人気取り政治」 の、ときには 「大衆操作マキャベリズム」 の代名詞にすらなってきた」 と松岡はいう。それは全世界的傾向なのだ。現在の日本の憂うべきポピュリズムへの指摘——ポピュリストは大騒ぎすることが好きとかレファレンダムが好きなどということは、直接〈千夜千冊〉をお読みいただきたい。
とりあえず私は、古っぽいかもしれないアーレントにまず立ち返ることが必要だと痛切に感じている。仲正はテキストの最後にこう書いている。

 アーレントのメッセージは、いかなる状況においても 「複数性」 に耐え、
 「分かりやすさ」 の罠にはまってはならない——ということであり、私た
 ちにできるのは、この 「分かりにくい」 メッセージを反芻しつづけるこ
 とだと思います。(p.109)


ハンナ・アーレント/全体主義の起原 1 (みすず書房)
全体主義の起原 1――反ユダヤ主義 【新版】




100分de名著 ハンナ・アーレント『全体主義の起原』2017年9月 (NHK出版)
ハンナ・アーレント『全体主義の起原』 2017年9月 (100分 de 名著)

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