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万霊節の次の日 [雑記]

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George Harrison and Eric Clapton (1969)

友人の 「大人の音楽教室」 の発表会に行った。ちょうど台風の日、雨が強く降っていた。
大人向けの音楽教室が盛んになっているのは、つまりそれだけ需要があるということで、子どものときにやりたかったけどできなかった、というようなありふれた動機に限らず、好奇心さえあれば何でも可能というのが最近の傾向なのかもしれない。

会場は楽器店の小さなホールで、しかし立派なピアノがある。友人の演奏したのはピアノだが、ヴァイオリンやチェロの生徒さんもいてヴァラエティに富んでいる。演奏として興味深かったのは弦楽器類で、おしゃれなドレスにヴァイオリン、これは相当上手い演奏が聴けるはず、と期待していたら、見た目と実際の技術にはめちゃくちゃ落差があって、つまり指使いに気を取られるあまり、音程がどんどんズレていってしまう。伴奏のピアノに全然合っていない……。
でも使っている楽器でその人がどの程度の技倆かはわかるわけで、楽器を見たとき、え、ひょっとして? と思ったのですが、まさにそのひょっとしての、しずかちゃんのヴァイオリンでした。
つまりヴァイオリンって、やはり相当むずかしいんだなぁと思ったわけです。ギターなんかと違ってポジションがどこかわからないというのだけでも難易度が高いはず。

終演後、近くの古い感じの居酒屋で友人と話したのですが、それでもやらないよりはやったほうが全然良くて、今は音楽教室だけじゃなく絵画教室とか、いろんなカルチャースクールみたいなのがあるけれど、何でもトライしてみることに意義があると思うのです。

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話は最近発売されたグレン・グールドの1955年ゴルトベルク変奏曲のコンプリート・レコーディングのことに。グールドのデビューアルバムであるゴルトベルクの収録中の様子を全部出してしまおうという企画である。これはたとえば、最近出されているマイルス・デイヴィスのブートレグ・シリーズの考え方に近い。しかしジャズだったら、そのときそのときでインプロヴィゼーションに違いがあるから途中過程を全部収録するのもありだと思うが、クラシック音楽の場合は微妙な差異なので、それが果たしてCDセールスとして通用するのだろうか、と普通なら思う。でもグールドだったらそういうのでも売れる勝算があるのだろう。

グールドは稀有の才能を持ったピアニストだとは思うのだが、私は演奏家より作曲家第一主義なので、誰がどのように弾くかというのではなくて、その曲はそもそもどういう曲か、が重要ということになる。なぜなら有名でない曲は、録音されることも少なく、演奏家を選り好みできる状態にはないし、そして私が興味を持つのは常にそうした有名でない、録音のヴァリエーションのない曲だからである。

チャーリー・パーカーのダイヤル盤には〈Famous Alto Break〉というトラックがあって、これは〈チュニジアの夜〉の1stテイクであるが、曲自体は別のテイクが採用された。しかしこの最初のテイクのパーカーのブレイク部分があまりにすごかったために、わざわざ収録されたという由来の曲である。この場合のようにプレイヤーを中心として考えるのは、ジャズというジャンルにおける特殊な事情である。というよりポピュラー・ミュージックとは演奏家第一主義の音楽だからである。
パーカーのフォロアーであるソニー・スティットのルースト盤の有名なアルバム《Pen of Quincy》を最近聴いたのだが (このアルバムの正式なタイトルは Sonny Stitt Plays Arrangements from the Pen of Quincy Jones である)、CDには別テイクがオマケとして何曲か収録されていて、〈スターダスト〉の別テイクもある。
しかし採用されたテイクと捨てられたテイクの違いは明らかで、それはパーカーのブレイクと同じように、本テイクに存在する一瞬のブロウが別テイクより優れていたことに他ならない。この曲の場合は、その優れたブロウのあるテイクが本テイクとなった。

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11月3日に神田神保町に行ったら、古本まつりですごい人混みだった。すずらん通りに入るところではジャズ・バンドが演奏をしていて、道には露天の店ができていて、本や食べ物を売っている。古本まつりには興味があるのだけれど、その日は意欲がなく、そうした喧噪は落ち着いて本を選ぶ環境にはないので、早々に退散した。
祭りは死のにおいがする。本来、宗教的な行事で神仏をまつるから 「まつり」 という名称なのであったはずだが、その意味あいは崩れ、にぎやかで華やかであることが祭りの意味として護持されてきた。だが、喧噪とハレの舞台である祭りが、一種の呪縛を秘めていることも確かである。

銀座に行ったらそこも人の波で、そうだ、今日は秋の連休の一日だということにやっと気づいた。銀座は東京の最も有名な観光地のひとつであるし、最近はいつでも歳末のように人が多くてお祭りのようで、その賑わいがさらに人を呼び寄せる。外国人の集団が大量に買い物をしてショップ袋を両手に提げている。

そのメインストリートから外れると街の潮騒は遠ざかり、本来の銀座が甦る。いつも招待状をいただく友人の絵の展覧会に行く。honobono展はもう6回目。毎年きちんと開催するというパワーのすごさに打たれる。まさに継続は力なり、である。
少しずつ作風が変化していくのが面白い。どこまでも同じ人間の作品でありながら常に同じではない。作品を展示することも、音楽を演奏することも、自分の創作を他人の目に晒すということにおいては変わりない。こうして文章を書くこともその一環なのかもしれない。ものを創作するということがどういうことなのか、なぜ人は物を創ろうとするのか、なぜ人はそうしたことで感動したりするのか。そんなことをぼんやりと考える。あまり真剣に考えないのは、最近の私のアタマの処理能力が貧弱過ぎるからである。honobono展の皆さん、また来年も期待しています。

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その帰り、銀座のヤマハで、ヘンレのStudien Editionを買おうとしたら、全音のスコアが刷新されていることに気がついた。ブラームスの野本由紀夫の解説がとても面白いので1番と4番を買う。といっても私のようなシロートにはむずかしくてわからないことだらけだが、目からウロコの部分があって、思わず知ったかぶりして何かしゃべりそうになる。

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5日は高円寺のyummyでNO14Ruggermanさんと2人オフ会 (?) をしました。yummyは、ぼんぼちぼちぼちさんのオフ会で知った店なのだけれど、NO14Ruggermanさんが気にいってしまって、その後、常連のように利用しているのだそうです。
レコード棚があり、アキュフェーズのアンプでノーチラスが鳴っているけれど、音楽は自然で押しつけがましくない。その日はレコードではなくCDでした。

その前に、高円寺駅南口の商店街を南に、青梅街道まで歩いて行った。延々と昔っぽいような、でもいまどきでもあるような店が続いていて、脇道に入れば住宅街で、懐かしさを覚える。少し肌寒い。高円寺でロックバンドの練習か何かをして (よく覚えていない)、その後、沖縄料理店に行ったことを突然思い出す。そこでシークヮーサーという名称を初めて知った。
でもそれは記憶のなかで比較的新しいほうのことであり、そのもっと深層に過去のロックバンドの記憶が眠っていた。陽のささない狭いアパートの友人の部屋、テレキャスター、結局やらなかったWhile My Guitar Gently Weeps――誰もホワイトアルバムが買えるほど裕福ではなかった頃のこと。すべては須臾の夢なのかもしれず、思い出してもそれはすでに真実だったのかどうかもおぼろげな記憶に過ぎない。


Glenn Gould/The Goldberg Variations
The Complete Unreleased Recording Sessions June 1955
(Sony Classical)
The Goldberg Variations-the Complete 195 (8CD)




George Harrison and Eric Clapton/ While My Guitar Gently Weeps
https://www.youtube.com/watch?v=oDs2Bkq6UU4

Charlie Parker/The Famous Alto Break
https://www.youtube.com/watch?v=cJ831AvhVt4

Charlie Parker/Embraceable You
https://www.youtube.com/watch?v=Y8PHcgSGe-s
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