SSブログ

Marcia funebre ― アズディン・アライア [ファッション]

alaia_171120a.jpg
Alaia.fr/より

シューリヒトのEMI盤のベートーヴェン全集のことを以前に書いたが (→2017年07月29日ブログ)、結局ワーナーの廉価盤で聴いている。シューリヒトのベートーヴェンは、ときとして颯爽としたスピード感が、さっと通り過ぎるように思えていたときもあったのだが、それは違うのだ。この清新で品格のある音はぼんやりと聴いているとまるで水の流れのように何でもなく流れて行く。その水の流れがここちよい。ウィーン・フィルでなくパリ管という選択がこの透明な美しさの一因なのかもしれないと思ったりする。

第2番の端正さをあらためて見直してしまったり、木管の美しさにうっとりしたりするのだが、でも今日の気分は第3番なのかもしれないと思ったりする。フーガになるところはベートーヴェンとシューリヒトが二重写しになって迫ってきて、他に何もいらないような気がしてしまう。
音楽が、必ずしも歴史とともに進歩しているのかどうかはわからない。それは音楽にかかわらずそうで、人間の歴史が時の経過により進歩しているかどうかというのも怪しいものだ。科学技術の進歩というのは人類の歴史というフィールドのごく一部の領域にしか過ぎず、それだけで全てをおしはかることはできない。すでにピークを過ぎてしまった領域が厳然として存在する。

アズディン・アライア (Azzedine Alaïa) はチュニジアのチュニス生まれのファッション・デザイナーであるが、ことあるごとにボディコンの創始者という形容でしか日本のメディアでは扱われてこなかった。しかしバブル期の頃の日本で流行したというボディコンは無自覚な消耗品としての生産形態のひとつに過ぎず、端的にいうならばファッション以前であり、アライアの提唱したボディ・コンシャスとは別物である。

アライアはクリスチャン・ディオール、ギ・ラロッシュ、ティエリー・ミュグレーといったメゾンを通過し、1980年に自らのブランドを興すが、デザイナーとしての名声を確立してから後、比較的早い頃に引退というかたちをとった。プラダの後援をとりつけて服飾美術館のようなものを作りたいとかいうニュースを聞いたとき、過去のデザインへの共感はよいとしても才能をそういうことに使うのはもったいない、と思ったのだが、それは大量流通という業界に対する批判からそうした言葉を使って消耗するステージから隠棲したのでであり、よりこだわりを持った作り方に方針を変えただけであった。ファッションシーズン毎のコレクションという方法とは無縁なところで作品を発表してきたことからも、アライアのこだわりと頑なさは類推できる。それは伝統的な職人の感性に近い。

たとえば11月18日のBBCnewsのサイトでは、アライアの訃報に対するレディ・ガガやマライア・キャリーのツイートが紹介されている。
http://www.bbc.com/news/world-europe-42038082
アライアの作風から私が連想するのはゴルチエであるが、しかしアライアはゴルチエとは違う、もっとなにか不明な芯を持っている人であった。そこに俗にまみれない美学と精神性を見る。
アレキサンダー・マックイーンのときほど唐突ではなかったにせよ、ひとつの才能の終焉があったことを改めて私たちは報されたわけであり、このようにして時代はその次の階梯に切り換えられていくのである。

alaia_171120b.jpg
Azzedine Alaïa, 1976 (vogue.co.jpより)


Carl Schuricht/The Complete EMI Recordings (Warner Classics)
Icon: Complete EMI Recordings




Carl Schuricht/Beethoven: Symphony No.3, 2nd movement
https://www.youtube.com/watch?v=ffBq4VybAnI
nice!(85)  コメント(4) 
共通テーマ:音楽