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裏返しのオメラス — アーシュラ・K・ル=グィン [本]

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Ursula K. Le Guin (朝日新聞DIGITALより)

『空飛び猫』(Catwings, 1988) というタイトルがあることからもわかるように、アーシュラ・K・ル=グィンはきっと猫が好きだったんだろうなあと思う。私のこれまでのブログ記事のなかのル=グィンの写真も、猫と一緒なのがあることからもそれはわかるだろうと思う。
この猫好きの作家について、朝日新聞2月18日付読書欄で小谷真理の記事を読んで、あらためてこの作家の指し示すものの深さを知るのである。

ル=グィンはそのエッセイのなかで自分のことを 「わたしは男です」 と自己紹介し、「この世は結局男を評価する基準しかないから、みんな男として評価されるし、女はその基準では二流の男なのよ、どんなすごい女でもね」 と書いているという。
それはアリス・ブラッドリーがジェイムズ・ティプトリー・Jr.という男性名のペンネームを用いたのと同じ意味あいであり、古くはジョージ・エリオットもジョルジュ・サンドも同じである。ジョージ・エリオットの頃などはそもそもフェミニズム以前であり、女が小説を書くことなどとんでもないという世間状況だったのに違いない (ティプトリーについては→2012年10月13日ブログを参照)。
ル=グィンが『闇の左手』(The Left Hand of Darkness, 1969) で両性具有の人類という設定をしたのも、性的な差別・偏見に対するアンチテーゼであり、そして闇と光という対比は『影との戦い』(A Wizard of Earthsea, 1968) から始まるゲド戦記シリーズのテーマに通底しているが、それは男と女という対比とは考えを異にしていると私は思う。

さて、小谷の紹介するル=グィンのいくつかの作品のなかで重要なのが 「オメラスから歩み去る人々」 (The Ones Who Walk Away from Omelas, 1973) である。ごく短く短編というより掌編であるが、その描くイメージは明確である。
オメラスという理想郷があり、そこでは全ての人々が平和に楽しく暮らしている。しかしその都市にある地下室にひとりの子どもが幽閉されている。子どもは裸で、貧しい食事しか与えられておらず、部屋は糞尿だらけで何の希望もない。子どもは外に出ることができない。なぜならその子どもがそうして幽閉されていることが、オメラスという都市を支えているからなのだ。子どもを地下室から出して自由な環境に解き放そうとしたら、オメラスは崩壊する。
どうしてオメラスがそういうシステムになっているのかをル=グィンは書かない。だがオメラスに住む人々は大人になる頃にその事実を知らされる。多くの人々は、ああそういうものなのかと考え、でもオメラスという理想郷に戻ってゆく。だがごくまれに、そうしたオメラスから歩み去る人々がいる。オメラスの外は厳しい自然があるかもしれないし、いままでのような生活を望むことは無理なのかもしれない。

この作品はマイケル・サンデルによって引用された。サンデルの提起もまた明快であり、「一人を殺せば五人が助かる状況があったとしたら、あなたはその一人を殺すべきか?」 というものである。これは提起である。サンデルの提起はもっと拡大解釈すれば、たとえばバリー・コリンズの『審判』などにも通じる思考である。そしてル=グィンの示しているものは寓話である (当初、ル=グィンの表現は思想的乃至は政治的過ぎるという批判もあったようだ)。

オメラスという単語は、en.wikiによれば車のミラーに映った 「Salem, Oregon」 という文字だったという。鏡像となった 「Salem, O」 を後ろから読めば Omelas となるからだ。今、それを読んで、う~んそうなのか、とちょっと納得できないでいた。
私は Omelas は Salome のアナグラムだと思っていたのである。サロメはもちろん、あのヨハネの首を求めたサロメであり、ティツィアーノ、クラナッハ (父) などを経てオスカー・ワイルド/オーブリー・ビアズリーに至るサロメのことである。以下、マルコ福音書 (ja.wiki) から引用すると、

 斯てイエスの名顯れたれば、ヘロデ王ききて言ふ『バプテスマのヨハネ、
 死人の中より甦へりたり。この故に此等の能力その中に働くなり』或人
 は『エリヤなり』といひ、或人は『預言者、いにしへの預言者のごとき
 者なり』といふ。ヘロデ聞きて言ふ『わが首斬りしヨハネ、かれ甦へり
 たるなり』ヘロデ先にその娶りたる己が兄弟ピリポの妻ヘロデヤの爲に、
 みづから人を遣し、ヨハネを捕へて獄に繋げり。ヨハネ、ヘロデに『そ
 の兄弟の妻を納るるは宣しからず』と言へるに因る。ヘロデヤ、ヨハネ
 を怨みて殺さんと思へど能はず。それはヘロデ、ヨハネの義にして聖な
 る人たるを知りて、之を畏れ、之を護り、且つその教をききて、大に惱
 みつつも、なほ喜びて聽きたる故なり。然るに機よき日來れり。ヘロデ
 己が誕生日に、大臣・將校・ガリラヤの貴人たちを招きて饗宴せしに、
 かのヘロデヤの娘いり來りて、舞をまひ、ヘロデと其の席に列れる者と
 を喜ばしむ。王、少女に言ふ『何にても欲しく思ふものを求めよ、我あ
 たへん』また誓ひて言ふ『なんぢ求めば、我が國の半までも與へん』娘
 いでて母にいふ『何を求むべきか』母にいふ『バプテスマのヨハネの首
 を』娘ただちに急ぎて王の許に入りきたり、求めて言ふ『ねがはくは、
 バプテスマのヨハネの首を盆に載せて速かに賜はれ』王いたく憂ひたれ
 ど、その誓と席に在る者とに對して拒むことを好まず、直ちに衞兵を遣
 し、之にヨハネの首を持ち來ることを命ず。衞兵ゆきて獄にて、ヨハネ
 を首斬り、その首を盆にのせ、持ち來りて少女に與ふ、少女これを母に
 與ふ。ヨハネの弟子たち聞きて來り、その屍體を取りて墓に納めたり。
 (マルコ傳福音書6:14-29)

口語訳も併記すると、

 ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校
 やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このヘ
 ロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜
 ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あ
 なたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあ
 げよう」と誓って言った。そこで少女は座をはずして、母に「何をお願
 いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答
 えた。するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐ
 に、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうござい
 ます」。王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たち
 の手前、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで、王はすぐに
 衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行
 き、獄中でヨハネの首を切り、盆にのせて持ってきて少女に与え、少女
 はそれを母にわたした。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体
 を引き取りにきて、墓に納めた。

サロメの場合は、簡単に言ってしまえばたったひとりの少女のわがままで、でも王は、何でもかなえると言った手前、しかたがないから首をはねてしまったという結果なのであるが、これをうがった考え方で見れば、ではひとりのわがままなら 「とんでもないこと」 と言ってしまえるが、オメラスをそれになぞらえば、大多数の意向が死を望むのなのならひとりの死くらいは許されるという論理ともとれる。これは詭弁なのだろうか。それはアリストテレスにでも聞いてみなければわからない。

尚、同じように 「首を欲しがる女」 ということで見れば、クラナッハにはユディトを描いた作品があるが、バルトークが《青髯公の城》において、青髯のことをまだ何も知らない妻に同じ名前のユディト (Judith) を設定したのは、そのバラージュの台本のもとがメーテルリンクだとはいえ、不思議な感じというか、意図したようにも思えるのである。

(聖書文語訳はwikisource.orgを使用したが、旧漢字はそのままに、句読点は岩波文庫版訳に揃えた)


アーシュラ・K・ル・グィン/風の十二方位 (早川書房)
風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

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