SSブログ

もう来ない夏 ― 浜崎あゆみ《Fly high》 [音楽]

ayu_Flyhigh_180318.jpg

何かに心を惹かれること、興味を持つことには2種類あって、「これだ!」 と瞬間的に沸騰してしまう場合と、最初はぼんやりと何となく気になっているだけなのに、次第にそれがかたちを成して大きな位置を占めてしまう場合がある。
瞬間的に分かってしまうのは私の場合、服で、ショップに入ったとき、どれが自分の欲しい服かは瞬間的に分かる。ただ、いきなりそれに手を出すのは恥ずかしいので他のものを見てみたりするフェイントがあるのだが。たとえばファッションショーの何十枚の写真からこれ1枚を選ぶのだったら簡単に決められる。好みが明快だからだ。
だが音楽の場合は、「最初はぼんやり」 であることがほとんどで、心に引っかかっているのか、それともそうでないのかがよくわからない。形がないものだからなのだろうか。選びとるまでの過程がとても臆病である。

浜崎あゆみについて語ることはむずかしい。音楽以外の夾雑物が多すぎるし、その音楽自体がそうした夾雑物を含めて成立している実態もあるからである。
まず年代的な視点でいうと、浜崎はよく安室奈美恵と比較されることがあるが、安室がブレイクしたのは1995年1月の〈TRY ME〉あたりからであって、浜崎の1stシングル〈poker face〉は1998年4月、時代として少しズレている。
浜崎の最初のアルバム《A Song for ××》の発売は1999年1月1日だが、この1999年という年は特異な年であり、アルバムの発売日で見ると、椎名林檎《無罪モラトリアム》が同年2月24日、宇多田ヒカル《First Love》が同年3月10日である。つまり浜崎、椎名、宇多田の1stアルバムがこの年の1月から3月の間にリリースされているのだ。音楽に限らず、こうした 「出現」 は多くの場合、特異点であり、時間軸の中に偏在する。
安室はむしろ、Every Little Thing (1stシングル〈Feel My Heart〉が1996年8月7日発売) などと同時代であり、浜崎などよりひとつ前の世代であるというふうに捉えたほうがよいのだと思う。

もうひとつ、安室と浜崎が異なるのは、安室は単純に 「歌手」 だということである。一方、宇多田や椎名は作詩作曲をするシンガーソングライターであり、浜崎はその中間に位置する存在であって、原則的に作詩のみをするライターであることだ。
夾雑物ということで述べるのならば、その当時 (今でも?)、浜崎の作詩は本当は彼女が書いているのではない、という風聞もあった。彼女を目の敵のように攻撃していたマニアなHPがあって、その彼が強力に推しているアイドル・グループが存在していたのだが、それは泡沫アイドルでしかなく、今となっては影も形もないし、名前さえ忘れてしまっている。マニアックなプロモーションの一環だったのかもしれない。
大雑把に言ってしまえば、浜崎が作詞を実際にしているかいないかなど、どうでもいいのである。それを含めたそのプロジェクト総体におけるコンセプトが時代の心象風景を反映していたかどうかが問題なのだ。

何となく気になっていただけの浜崎あゆみが明確にかたちをとったのは、私にしては珍しくはっきりしていて、それは〈Fly high〉(2002.2.9リリース) のPVによってである。つまり時代のトレンドへのかかわりかたとしては、やや遅い。
PVと同時に彼女が自分の音楽について語る動画があって、その確信的な自信と、同時に感じた乖離のようなものが興味を引き起こした。年齢の割に妙に悟っている部分と、幼い感じとが混在していて、プロデュースされていることに沿っているものとそれに反撥しているものが同居しているように思えたからである。

〈Fly high〉のPVは、スタジオライヴのような設定であり、めまぐるしく動くカメラワークが、雑然としたライヴの雰囲気を作り出している。ダボッとしたひかりもののトップスにダメージのショートパンツ、ブロンドのショートヘアでクラシカルなフォルムのマイクを持って歌う浜崎あゆみは少年っぽい。それは歌詞にも表れる。

 僕は考え過ぎたのかもしれない

1stシングル〈poker face〉(1998.4.8) のPVは、樹に鈴なりとなったモニター画面で、それはナム・ジュン・パイクのインスタレーションを連想させる (ということはすでに書いた→2012年04月24日ブログ)。そしてこうした初期の浜崎のPVから受ける印象は、やや実年齢より上の、オネエサンな雰囲気を湛えているように思える。
〈poker face〉以後、シングルは昔の流行歌手のように2カ月毎にリリースされる。〈YOU〉(1998.6.10)、〈Trust〉(1998.8.5)、〈For My Dear...〉(1998.10.7)、〈Depend on you〉(1998.12.9)、そして1999年元旦の1stアルバム《A Song for ××》へとつながる。

だが《A Song for ××》のジャケット写真は、フードを被った正面からの顔で、オネエサンな雰囲気でなく、むしろロリータ的に幼い。白を基調としたモノクロームなイメージ、そして繊細に絡まるヘアラインのデザインからはある種のメッセージが感じ取れるが、それはそれまでの各シングルから発せられてきたメッセージとは微妙に異なるのだ。私はそれがプロデュース・チームに存在する相剋のように感じられる。どのようにして売るべきか、まだキャラクターが定まっていなかったように思える。

1999年もほぼ2カ月毎のシングル発売は続き、浜崎はまさに 「流行歌」 を連発し続けていた。だがタイトルが全て英語であることが一種の抽象性を持ち、連続性の陶酔なのか、それともどこを切っても同じ金太郎飴のようなステロタイプなのか (例えが古い!)、その均衡のなかにいたようでもあった。
1999年の終わりから翌年はじめの3曲、枚数限定のシングル〈appears〉(1999.11.10)、〈kanariya〉(1999.12.8)、〈Fly high〉(2000.2.95) はその連続性に変化を持たせるためのビジュアルを強調したセットのようでもある。
〈appears〉と同日に、2ndアルバム《LOVEppears》がリリースされ、ここがひとつの転換点であることを暗示していた。

2000年4月から次のセット、いわゆる 「絶望3部作」 と呼ばれる3曲が1カ月毎に出された。〈vogue〉(2000.4.26)、〈Far away〉(200.5.17)、〈SEASONS〉(2000.6.7) というセットである。その後のシングル〈SURREAL〉(2000.9.27) が出たとき、その頃親しかった浜崎好きな友人と私が共通の認識を持ってしまったことは確かである。「終わったね」 と。
この2つ目のセットは、わかりやすいたとえで言えば、ビートルズのサージェント・ペパーズのようなもので (この例えも古い!)、ここがピークだったのだと、振り返ってみると思える。

この時期、通常のシングル、アルバムだけでなく、リミックス盤、アナログ盤と、浜崎サイトは多彩なかたちで攻撃を仕掛けた。幾つものヴァージョンで稼ごうとするのはミレーヌ・ファルメールと同じで、夢にうかされると霊感商法のように何でも買わされてしまうのである。
リミックス盤とはそのほとんどが製作者サイドの自己満足であり駄盤であるが、浜崎の2枚目のリミックス・アルバム《SUPER EUROBEAT presents ayu-ro mix》は例外的な傑作であり、個人的にはこのリミックス・アルバムが浜崎の最高傑作であると思う。このアルバムはシングル〈Fly high〉の発売から1週間後の2000年2月16日にリリースされているが、このアルバムのトップに収録されているのが〈Fly high〉のリミックスなのである。

冒頭、〈Fly high〉はクジラの鳴き声のようなエフェクトから始まる。私が連想したのはジェラルド大下であるが、曲に入ればそれは軽快なユーロビートであり、車の中で聴いてはいけない。スピードが出過ぎるからである (でも、今聴いてももうスピードは出ないだろう。なぜならときが過ぎてしまったから)。

さて、ユーロミクスではない本来の〈Fly high〉のPVに戻ろう。この曲から私が感じるのは、浜崎あゆみの少年性である。彼女はときどき歌詞に 「僕」 という一人称を使う。

 僕は考え過ぎたのかもしれない 〈Fly high〉

 振り向けば君が
 笑っていました 〈vogue〉

 僕らは今生きていて
 そして何を見つけるだろう 〈SEASONS〉

〈vogue〉の歌詞は 「ですます」 調で、「僕」 は出てこないが 「君」 という第二人称によって、それを言っている第一人称が 「僕」 っぽいことがわかる。
浜崎自身は、なぜ 「僕」 という単語を使うかという問いに対して 「(わたしという言葉を使うのが) 恥ずかしいから」 という答えを出していたような記憶がある。また、女性が 「僕」 という第一人称を用いても別によいのではないかという意見もある。もちろん、単に男性歌手が女心を歌う演歌もあるのだから、その逆だという解釈も当然ある。だが、そんなに簡単なことではないと私は思う。

人は常に自分の心の中に自分の性とは反対の性を持つ。男性の中にも 「女性」 性は存在し、女性の中にも 「男性」 性は存在する。
浜崎の初期PVはきれいなオネエサンを志向しながらも、どこか美少年的な翳りをも同時に併せ持っている。ヘアスタイルもロングよりショートのほうが少年っぽいはずである。

〈Fly high〉のPVにはフードを被って立っている浜崎が出てくる。それはアルバム《A Song for ××》のジャケットを暗示している。フードを被った浜崎あゆみは内向的な過去のもうひとりの浜崎あゆみであり、もっといえば性的に未分化なキャラクターを指しているのかもしれない。つまり正確にいえばロリータ以前かもしれない。
〈Fly high〉から私が連想したのはトマス・M・ディッシュの『歌の翼に』でもある。主人公はどうしても飛べない。だが主人公の彼女は簡単に飛べてしまう。飛ぶことはピーターパンに似て、まだ未分化な性の象徴でもある。大人になったら飛べないのだ。まだ飛べていた〈Fly high〉から、飛べなくなった〈SEASONS〉への移行というふうにも考えられる (ディッシュについては→2014年02月01日ブログ参照)。
少年性を連想させるということでは〈SURREAL〉以後の曲だが〈NEVER EVER〉のPVやジャケット写真がそうである。服がワンピースであるにもかかわらず、迷彩柄であること、顔が泥で汚れていること、髪がやはりショートであることなどが倒錯した性を感じさせる。

〈SEASONS〉のPVにおける浜崎の衣裳は喪服である。少年と少女は白い服で浜崎は黒い服、それは少年期・少女期からの訣別としての喪服であるのかもしれない。未分化なときから、大人としてのときへの移行。未来ある白から絶望の黒へ。傾いた風景は廃墟となった未来を思わせる。
と書いてはきたが、もしかするとこれは 「考え過ぎかもしれない」。

浜崎あゆみと安室奈美恵は、その一時期、カリスマ性を持っていたことで同根のように語られたりもするが、最も異なるのは浜崎の歌詞の中に存在する泥くささである。たとえば〈A Song for ××〉のそれは時として直截すぎ、洗練されていなくて、なめらかでない。そして結論なく終わる。
十代の少女たちに浜崎が共感を得ていたのは、世間の不条理感に対する個別の抗いであって、連帯感とは無縁である。少女たちは共通した共感を持っているがそれは個々のことで、連帯することはなく、やがてそこから卒業してゆく。なぜなら大人になってゆくから。ウェンディのように。
ディッシュの『歌の翼に』の悲劇は、ウェンディが飛べて、ピーターパン自身が飛べないことにあるのだ。それは倒錯したマゾヒスティックな悲劇でもある。

〈SEASONS〉を過ぎてから、浜崎は普通の女性としての作品がほとんどになった。彼女の商業的成功は、すべてを手に入れたように思えるが、何も手に入れていないようにも見える。すべてがありながら、同時にすべてはないという矛盾した孤独感は、小室哲哉から感じ取られる孤独感に似る。
近年になって浜崎あゆみは太ったと言われるが、彼女は 「あの時代にはもう戻りたくない」 という。もっとも好きなことができるべき時期に、体型維持のため食べるものを制限され、いつもひもじかったという。

〈Far away〉で歌われるのはかたちのないものであり、それは音楽の別名でもある。

 新しく 私らしく あなたらしく 生まれ変わる...
 幸せは 口にすればほら 指のすき間
 こぼれ落ちてゆく 形ないもの

曲の最後のフレーズはこう歌われる。

 もうすぐで夏が来るよ あなたなしの...

〈vogue〉と〈SEASONS〉の間に位置するこの曲は普通の失恋の歌のように見えてなにか不穏だ。「忘れてた景色たち」 と、景色は複数形で呼ばれる。それは残酷な風景であり、「もうすぐに」 でなく 「もうすぐで」 というところに飛散する夏ではない夏を見るのである。


浜崎あゆみ/A Song for ×× (エイベックス・トラックス)
A Song for ××




Fly high
https://videa.hu/videok/zene/ayumi-hamasaki-fly-high-japan-jpop-mv-xmKC4OyfoqE72S2X

A Song for ××
https://www.youtube.com/watch?v=st8eRKaqchU

SEASONS
https://www.youtube.com/watch?v=BQEBJeZSaVs

Far away
https://www.youtube.com/watch?v=M80sHiboK3o
nice!(82)  コメント(9) 
共通テーマ:音楽