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ノスタルジア ― 諏訪内晶子の弾く武満徹 [音楽]

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Akiko Suwanai

このまえの日曜の夜 (4月22日)、NHK2の《クラシック音楽館》をたまたま見た。
N響定期の録画であり、武満徹の《ノスタルジア》(1987) と《遠い呼び声の彼方へ!》(1980)、そしてワーグナーの指輪の管弦楽曲集。武満の2曲はどちらもソロ・ヴァイオリンを主体とした曲であるが《遠い呼び声の彼方へ!》がオーケストラであるのに対し、《ノスタルジア》はもう少し編成が小さい。ヴァイオリンは諏訪内晶子である。指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。2018年2月21日のサントリーホールでの収録とある。

私としては諏訪内晶子を久しぶりに見た (というか聴いた) ような気がするのだが、何となく以前とは雰囲気が変わっているような印象があって、それは年齢を重ねたから安定してきたとか巨匠風になってきたとかいうようなことではなくて、何と言ったらいいのだろうのか、つまり安心して聴ける演奏であったように思う。
だが、それよりも私が聴いていて感じてしまったのはもう少し異なる一種の違和感であって、これはごく個人的な感想に過ぎないのだが、音楽に対しての没入感があまり得られなかったことにあったのだ。諏訪内のテクニックとか表現に問題があるのではない。では何かというと、むしろ曲そのものに対する私の感覚が変わってきたのではないかということに思い当たった。

武満徹は20世紀を代表する日本の現代音楽作曲家であり、世界的にも一定の評価を得ている。作品の形式は多岐にわたるが今まで私はそれらを万遍なく武満として、いわば一枚岩のようにして捉えていたと認めなければならない。だが実際には、ストラヴィンスキーほど極端ではなくても、作風は時とともに変化するものである。
具体的にいえば、《遠い呼び声の彼方へ!》は武満のネオ・ロマン派的作品の嚆矢のようにも言われる。それまでの、調性的な音楽への反逆というべき敵対的な視点から、むしろ調性への歩み寄り的な柔軟な路線へと次第に傾斜していったこと、そして最初の頃は西欧伝統音楽のメソッドのなかに、わざと東洋 (日本) の、機能的にも違和感のある楽器を投入することによって音楽的ダイナミクスを得ようとしていた意欲から遠ざかり、ごく通常の西欧的楽器を用いて、西欧的作曲技法のなかで自分なりのオリジナリティを出していこうとする方向性に変化していったことがあげられる。
その区切りが《遠い呼び声の彼方へ!》だというのだが、その徴候は《カトレーン》(1975) あたりからあったのではないかと私は思う。音は豪奢でリッチだったがそのなかにかすかな空虚さがあった。

立花隆の武満徹論を読むと、その後半になるにつれて、なんとなく文章構成自体の求心性が失われてゆくような印象を受ける。それは立花が取材をしながら書いている途中で武満が亡くなってしまったため、不完全なかたちになってしまったのをなんとか補足して形成させたというようなニュアンスで説明されているが、私の感じたままをいえば、後期の作品になるにつれて、立花の武満作品に対する評価が次第に留保付きのような感じになってしまっていったのではないだろうか。
もちろんこれは私自身の感覚でしかないが、たしかに後期になればなるほど、その作品の音楽様式的完成度は上がって、より美学的感興を得られるようになっていったのにもかかわらず、原初的なパッションは反比例して減少していったのではないか、と思うのだ。つまり予定調和的でどことなくデジャヴであり、音楽としての発見が稀薄だ。

立花の武満論を読んでいて感じられるのは、若い頃から伝統的音楽作法に逆らって、木に竹を接ぐようにして和楽器を西欧楽器群のなかに入れてソロ楽器として扱ったという方法論の究極の作品が《ノヴェンバー・ステップス》であり、逆にいえばそこがひとつの到達点であって、そこで 「やりきってしまった感」 があったのではないかというふうに解釈できる。
そこまでの苦難の登り坂を描写する立花の筆致は冴えているが、一定の成功に達した後の描き方は少しくすんで曖昧なカラーリングを施されているようにも見える。そしてそうした立花の解釈から感じられる感想は、私がもともと直感的に感じていた感想でもあるのだ。

《ノヴェンバー・ステップス》はがむしゃらに書いただけ怖いもの知らずでいきいきとしているが、逆にいえばその闇雲感がカッコ悪いという美学も成り立つ。それは卑俗な喩えでいうのならば、有名になった女優やタレントが肌の露出のある服装をしなくなったり、お笑いから出発した芸人が俳優として成功するとお笑いを辞めてしまったり、ハイソサエティなふうに自らを装おうとするのと通底した感覚であるともいえる。

YouTubeを探していたら諏訪内晶子の弾いているヴァイオリンとピアののための《悲歌》(1966) という作品があって、音としてはアヴァンギャルドで今の感性からするともうダサい部分があるのかもしれないが、でも私には《ノスタルジア》よりも《悲歌》のほうが前向きで逞しくてヴィヴィッドであり、シンパシィを感じるのである。

とはいってもタケミツ・トーンといわれる精緻な音作りは終生変わらなかったし、そのクォリティは驚くべきものがあったのだと思う。ただ、批判的な目ということなのではないが、なんでも同じように聴いてしまうというのでなく、ひとりの作曲家のなかに生じている微妙な差異に対して自分の好みが明確になってきたのは、リスナーとしての微細な進歩なのではないかと自画自賛的に思うのである。
というよりももっと素朴に考えて、ロックバンドや新進の小説家の処女作にこそ、その全てが詰め込まれていてもっともテンションが高いというのに似て、売れない頃の成り上がるためのパワーこそが私の興味を引き付けているのに過ぎないのかもしれない。

武満の《ノスタルジア》には 「アンドレイ・タルコフスキーの追憶に」 というサブタイトルが付いているが、それはタルコフスキーの同名タイトルの映画でもあり、タルコフスキーの作品から醸し出される懐かしいもの、あるいはよそよそしいものへのオマージュでもある。

武満の音は日本的な美学になぞらえて墨絵のようなとか水彩画のようなとか、流動的な比喩でよく語られるが、それは同時に構成力の弱さを物語ってもいる。それはある時の一瞬を切り取ったような一回性の断片であり、バッハのような壮大な伽藍建築の迷路のような、整然としていて、かつ威圧的な構築性はない。
だが初期の作品、たとえば《弦楽のためのレクイエム》のような曲には、スタイリッシュになってしまった後期の作品にはない何かが潜んでいる。


諏訪内晶子/シベリウス&ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲
(ユニバーサル ミュージック)
シベリウス/ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲




諏訪内晶子/武満徹:悲歌
https://www.youtube.com/watch?v=gm0oOib5UXQ

Michael Dauth/Toru Takemitsu: Nostalghia ― In Memory of Andrei Tarkovskij
https://www.youtube.com/watch?v=CoKHj1-fFF8
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