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サルヴァドールの夏、impermanenceについて — ピリスのスーパーピアノレッスン [音楽]

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Pires and Argerich (dwutygodnik.com: Chopin i jego Europa 2012記事より)

スーパーピアノレッスンはNHK教育TVで2005年から2010年頃まで放送されたピアノレッスンの番組である。スーパーという名前の通り、有名ピアニストが講師となり、比較的レヴェルの高い生徒に教える様子を映像化していたのだが、単純にピアノを学ぶ番組というよりは、有名ピアニストのテクニックの実際を知るということに比重が置かれていたのかもしれない。この番組を見て、ふんふんなるほど、と即座に参考にできる視聴者 (ピアニスト志望者) はそんなにいなかったのではないかと思う。

最も評判になったのはジャン=マルク・ルイサダのショパンのレッスンであり、この番組によってルイサダの日本での知名度が著しく上がったのは確かである。
2005年から2006年にかけて、講師のピアニストはアントルモン、ルイサダ、トラーゼ、ベロフ、ダルベルトと変わって続いたが、再放送するようになったので、一度終わったように思えた。だがその後復活して、2008年に放送されたのがマリア・ジョアン・ピリスによるレッスンであった。

ピリスのレッスンはそれまでの方式――スタジオにピアノを2台並べて、生徒に弾かせそれに対して講師が指導するというかたちではなく、ややルーズで、毛色の変わったレッスンであった。
その放送があったときからすでに10年、当時のテキストをあらためて読み直してみると、いろいろと面白いことが書いてある。つまり当時は、そんなにまじめに読んでいなかったということに他ならない。

レッスンが収録されたのはブラジルのサルヴァドールにあるピリス所有の施設である。サルヴァドールは海に面した都市であり、収録をしたのは12月の1週間だということだが、ブラジルの12月は夏であり、海に近いため湿度も高く、また外気とは隔絶した環境のスタジオとも異なるため、かなり悪条件であったという。放送の記憶として、なんとなく気怠いような雰囲気が漂っていたのを覚えているが、それはブラジルの暑熱がこちらにも伝わって来たからにほかならない。
だがそうした環境でレッスン、というよりピリスの言葉にしたがえばワークショップをすることに意味があるのだと彼女自身考えていたのである。そしてそういう環境での収録だったらやりましょう、というピリスの申し出に対して、それをすべて了解して実行してしまった当時のNHKはちょっとすごい。
それはある意味、ピリスのわがままであり、だがそれは真摯な音楽探究のための主張としてのわがままなのだ。

解説文で伊能よし子は、若い演奏家に対するピリスの視点を書き取っている。

 「最近の若い演奏家はコンクールで優勝して名が出ると、周囲がちやほや
 するから自分は特別なんだという気持ちになってしまう。演奏は単なる
 ビジネスになって商業主義に振り回され、早い時期に自信を失って音楽
 から離れてしまう」 (テキストp.8)

そしてピリス自身も若い頃、そのようにちやほやされスター扱いされたのだが、

 そうされればそうされるほど、彼女の心は重くなっていった。自分を特
 別だと考える、そのおごりが演奏に表れてしまうからだ。(p.8)

というのである。
ピリスの考え方は求道的であり禁欲的なのかもしれない。ある時期から彼女は、あまりメイクもせず、ドレッシーな服でなく天然素材のごく地味な服をステージ衣装とし、気張らない精神で音楽に対峙しようと思うようになったのである。

ピリスのこのテキストの楽譜には他の講師のような書き込み (色文字で印刷された注意書き) がない。ピリスは楽譜には書き込みを一切しないというのだ。それは作曲者に対するリスペクトという面もあるのだろうが、なにより 「自分が練習したことにさえ縛られないために」 (p.11) 楽譜には書き込みをするべきではないというのである。
楽譜に何かの書き込みをするということは、その書き込みに縛られることにもなり、それに従っていつも同じように弾くことはルーティンワークとなることに通じる。そのように演奏が固定化してしまうことはよくないとピリスはいうのだ。
たとえば、同じような繰り返しがあるときに、それぞれを少しずつ変化させて弾くのはよいが、でも、「いつも1回目をレガートで2回目をスタッカートで」 というように固定化して決めつけてはいけないというのである。それは本番のときに、演奏しながら決めるべきことであって、前もって決めておくのはつまり自由でなくなるから、というのだ。「演奏はあくまで一回限りのものであり」、状況に応じてそのときそのときで変化するべきものなのだとピリスは考えているのであろう。
そして作曲家が書いた楽譜をそのまま忠実に再現するのだけでなく、「楽譜に書かれた作曲家の意図を汲み取りながら、それを演奏家の中で消化し聞き手に伝える」 ことが音楽を演奏することなのだという。

同様にしてピリスはこのスーパーピアノレッスンで模範演奏を弾かなかった。ピリスは、教師と生徒は上下関係ではないと主張する。教師が模範演奏をするのは、生徒に 「このように弾け」 と強要しているのに他ならないからだ。「生徒は生徒の感じるように弾くべきだ。その道を、教える者があらかじめ限定させてしまってはならない」 とピリスは考える。
だから放送でピリスは、同じ曲でなく、同じ作曲家の同ジャンルの違う曲を参考として演奏したのである。たとえばスカルラッティのKk.455とKk.466を教材として用いたが、ピリスが模範演奏したのはKk.208のソナタであった。

ピリスの音楽観を最も端的にあらわしているのが impermanence (非永続性) に関する生徒との対話である。
ピリスは、音楽家は永続性、安定感を得ようとするが、安定感とは音楽を破壊するものである、という。人の生涯で確かなものは 「死」 ただ一つであって、その他はすべて非永続的で不安定である。だから非永続的であるということを受け入れることによって人間は自由になれるのだという。
安定感という表現は、楽譜に書き込むことによって生じてしまうルーティンワークを戒める考え方と同じだ。

なぜステージで演奏するのか、ということとその恐怖に対するピリスの述懐はこうである。

 ステージで演奏するときも 「恐れ」 を感じます。ベストを尽くせないこ
 とに対する 「恐れ」 です。私たちはみな、「聴き手にまったく受け入れら
 れないのではないか」 という恐怖をステージで味わうことを認めなけれ
 ばなりません。それにもかかわらず、批判されようと受け入れられまい
 と、演奏家にはステージで弾きたいという要求があります。自分の家で、
 自分ひとりのために弾いていたりしたくはないのです。そのためには、
 その恐怖を克服しなければなりません。(p.41)

音楽は人間が生きていくために必ずしも必要なものではない。音楽を聴かなくても人間の命がおびやかされることはない。ではなぜ音楽なのか。なぜ音楽を奏で、あるいは音楽を聴こうとするのか。ピリスはテキストの冒頭のマニフェストで、「芸術的感性が世界を変え得る力を持っていると信じることは、希望的観測なのかもしれません。しかし、この信念こそ、すべての根幹となる考え方なのです」 という。
NIFCでリリースされたピリスの2010年/2014年の録音を聴きながら、今これを書いているが、ピリスはそのワルシャワでのライヴで、ショパンのノクターン集の最後にcis-mollの遺作を弾いている。速度を抑え、暗い表情に満ちていながら、それは感情に押し流されない、むしろ端正なノクターンである。その演奏に、ピリスの到達した場所が明確に示されているように感じる。


Maria João Pires/Chopin: Piano Concerto, Nocturnes (NIFC)
http://tower.jp/item/4015227/
pires_nifc040_180523.jpg

Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.23
Blomstedt, Berliner Philharmoniker
https://www.youtube.com/watch?v=HOyJHrVMFtg

Maria João Pires/Schubert: Impromptu D.935 n.1
https://www.youtube.com/watch?v=v7In59W-9bc

Maria João Pires/Chopin: Nocturne No.20
in C sharp minor, Op. posth.
https://www.youtube.com/watch?v=NGtF5OcSy7w
(上記CDとは別の音源です)
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