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桜の森はいつでも夜 ― NODA・MAP《贋作 桜の森の満開の下》 [シアター]

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NODA・MAPで《贋作 桜の森の満開の下》を上演するとのニュースを読んだ。ニュースといってももうそんな新しいニュースではなくて、つまりもうすぐチケットを売り出しますよというプロモーションということだ。
贅沢なキャスティングで、でもきっと高いんだろうなぁと、すぐに思ってしまうのが悲しい性格である。性格というより悲しいのは財布なのだが。

演劇というのは最も風化しやすい芸術である。そのときに観なければ、もう観ることができない。それは人々の記憶に残るだけで記録として残すことはできない。ビデオなどの映像として残されたものは2次元の、しかも限られた枠組の中だけでの記録だからそれは正確な記録ではない。備忘録としての贋の記録に過ぎない。演劇とは、それが演じられる空間の中での、役者と、ごく限られた人数の観客とによって共有された秘儀である。それゆえに風化しやすいと私は定義するのである。

演劇関係の資料をぱらぱらと見ていたら、昔の新聞の切り抜きがあった。1987年9月12日の朝日新聞で、当時の野田の主宰する劇団夢の遊眠社の《野獣降臨 (のけものきたりて)》のイギリス・エジンバラ公演の報告である。エジンバラ国際芸術祭に招待されたときの初の海外公演であり、リポートを書いているのは萩尾望都である。

演劇自体は日本語で上演されたのだが、野田戯曲は日本語で上演されてもわかりにくい演劇であるので、ところどころで小林克也の英語による解説が演劇の一部のようにして上演されたとある。
上演回数はマチネーを入れて3日で4回、萩尾のリポートによれば、ロンドン・タイムズには 「日本の演劇はたいくつだと思っていたが、遊眠社を見てそれがまちがいだとわかった」 と伝えられていたとのこと。日本の演劇としてイギリス人が連想していたのはたぶん日本の伝統演劇のことだと類推できるが、萩尾自身も 「私も、数年前初めて遊眠社を見たときは、写実絵画を見慣れた目にいきなりキュビズム絵画がとびこんできたぐらいのショックがあった」 と書いている。
萩尾のマンガ『半神』を戯曲化して遊眠社により上演されたのが1986年、つまりこのエジンバラ公演の前年であるが、wikiを見ても初演時の配役さえ記載されていない。演劇が風化しやすいという私の主張はこのへんからもうかがい知ることができる (ちなみに初演は当時のチラシによれば竹下明子、円城寺あやなど。劇場は本多劇場であるが、残念ながら私はこの初演は見ていない)。

《贋作 桜の森の満開の下》の初演は1989年2月。野田秀樹、毬谷友子、上杉祥三、段田安則など (若松武が出たのは再演時である)。場所は日本青年館であったが、毬谷友子の夜長姫が美しかったことを記憶している。遊眠社の最高傑作は《ゼンダ城の虜》または《小指の思い出》であると私は思っているが、この《贋作 桜の森の満開の下》も記憶に残る優れた作品である。
その日、日本青年館のロビーで私は萩尾望都とすれ違ったが、誰も彼女が誰か分かっている人はいなさそうだった。そんな時代だったのかもしれない。


贋作 桜の森の満開の下 (1992年2月/再演)
https://www.youtube.com/watch?v=OuCtJMnRjHk
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