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褪せたジーンズのように ― 音楽で読む『限りなく透明に近いブルー』 [本]

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その古書店は照明が暗くて、どこまでが売り物の本であるのか、書棚に収まっている本とそこからはみ出して雑然と床に積み上げてしまっている本が混然としていて、しかも並んでいるのは古い本ばかりで時間を遡っているような錯覚に陥りそうになる。焼けた紙色の村上龍『限りなく透明に近いブルー』を見つけた。背文字も焼けているが1976年の初版だった。
確か文庫本で読んだことはあるが、それも随分過去のことでほとんど忘れているし、読んでいたときもよくわからなかったような記憶がある。でもせっかくだから再読してみた。

とてもクリアな文章。キャラクターが明快に書き分けられていて、誰が喋っているのかわからないというようなことがない。過去に読んだときよくわからなかったのは、私の読解力がまだ無かった頃だったからに違いない。若い頃は読書スピードだけはあったが、読み飛ばすだけで解釈能力が無かったのだ。
『限りなく透明に近いブルー』はドラッグとセックスの日々を描いているのだが、ドラッグの影響から広がる幻想の描き方が鮮明で、つまりそれがクリアという印象になったのだといえる。主人公はリュウという名前で作者本人のように思えてしまうが、作者は作者であり主人公とは異なる位置にいて、その冷静な描写力が尋常ではない。タイトルの 「限りなく透明に近いブルー」 という言葉が出現してくる個所もカッコいい。
この作品は村上龍の処女作であり、この作品で彼は芥川賞を受賞した。その当時、こうした背徳的な内容でありながら賞を与えざるをえなかったのは当然であるし、また、反対した選考委員がいたことも納得できる。

作品内に出てくる音楽に注目して読んでいった。
アルバム・タイトルがはっきりと出てくる音楽はそんなに無い。ドアーズの《The Soft Parade》(1969/p.22)、イッツ・ア・ビューティフル・デイの《It’s a Beautiful Day》(1969/p.33)、マル・ウォルドロンの《Left Alone》(1960/p.42)、ローリング・ストーンズの《Sticky Fingers》(1971/p.42)、オシビサの《Osibisa》(1971/p.64)、バーズの《Mr.Tambourine Man》(1965/p.148, 但し、ファーストアルバムと書かれているだけでアルバムタイトルは明記されていない) である。
曲名が出てくるのはストーンズの〈タイム・イズ・オン・マイ・サイド〉(Time Is on My Side, 1964/p.30)、〈いそしぎ〉(The Shadow of Your Smile, 1965/p.35)、〈黒いオルフェ〉(Manhã de Carnaval, 1959/p.60)、〈ミー・アンド・ボビーマギー〉(Me and Bobby McGee, 1969/p.121, 村上はボギーマギーと書いている。クリス・クリストファーソン、フレッド・フォスターが1969年に書いた曲だが、村上が想定しているのはおそらくジャニス・ジョプリンの歌だ。アルバム《Pearl》(1971) 所収)、〈水晶の舟〉(Crystal Ships, 1967/p.128, ドアーズの1st《The Doors》所収。村上は水晶の船と書いている)、〈ドミノ〉(Domino, 1970/p.183, ヴァン・モリソンの4th《His band and the Street Choir》所収) である。

クラシック音楽でタイトルが出てくる曲は全くない。曲そのものが聞こえることもなく、作曲者名が出てくるだけである。シューベルト (p.80)、ブラームス (p.97)、シューマン (p.128) しかない。主人公などがクラシックを学んでいたことが仄めかされるが具体的な言及はない。クラシックはこの小説には不要と考えたのだろう。

ロックでは他に、映画《ウッドストック》(1970) でのジミ・ヘンドリックスが凄かったということや、パーティーに踏み込まれて連れて行かれた警察で、若い警官がレッド・ツェッペリンのファンだったことなどが語られている。アルバムは1stの《Led Zeppelin I》(1969) から《Led Zeppelin III》(1970) までが発売されていた。
だがこの小説の登場人物たちが熱心に聴いているのは、ストーンズとドアーズである。ビートルズは全く出て来ないし、日本のグループサウンズを非難している個所もある (p.123)。つまりとてもわかりやすい。今ほど音楽は多様化されておらず、音楽に対する標準的な常識というかコンセンサスが存在していたように思えるからである。こうした若者たちは誰でもストーンズやドアーズがどういうものだか知っていたし、その反応も悪くいえばステロタイプであり、もっといえば素朴であった。この時代の若者の一面を映す風俗小説なのである。

この本が出版されたのが1976年。村上龍は当時24歳であり、主人公のリュウは19歳と設定されているから、5年前は1971年であり、ストーンズの《Sticky Fingers》(1971) が出たばかりという事実と合致する。それゆえに作者=主人公であり、この話は実話だと指摘する批評もあるが、そんなことはどうでもいい。

2018年の今、価値観は多様化し、音楽も小説も、すべてはバラバラで、共通認識を持てるものはほとんど存在しない。そして文化は、もしそれが文化として分類されるのだとしたならばなのだが、スマホであったりゲームであったりする。
音楽は、たとえばヒットチャート番組は曲全部を流さない。全部流していると飽きられてしまうのである。何事も短く、さらに短くすることが標準的であり、ツィッターやラインはその象徴である。
金原ひとみの『蛇にピアス』(2003) は、過去の福生と現代の渋谷、場所も時間も異なるにせよ、村上の時代に通底している。
だが、唐突だがたとえば最果タヒは、

 きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
 きみはきっと世界を嫌いでいい。
 そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。

と『夜空はいつでも最高密度の青色だ』の冒頭に書く。村上龍の時代と現代は、恋愛の様相が異なっているように見えながら実はそんなに変わってはいない。従属物に惑わされているだけで裸にすれば本質は同じだ。最果タヒが時として優しく暴力的であるところにも共通するなにかがある。
でも色に違いがある。「透明に近いブルー」 と 「最高密度の青色」。だが青は次第に色褪せる。色褪せるジーンズのように。

 Busted flat in Baton Rouge, Waiting for a train
 I was feeling near as faded as my jeans.
             ― Me and Bobby McGee


村上龍/限りなく透明に近いブルー (講談社)
新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)




Janis Joplin/Me and Bobby McGee
https://www.youtube.com/watch?v=N7hk-hI0JKw
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