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まだらの腕 ― 深緑野分『ベルリンは晴れているか』を読む [本]

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読みながら最初に思い出したのはフルトヴェングラーがハーケンクロイツの下でワーグナーを指揮している映像だった。芸術が歪んだ目的に利用された好例であり、一見整然とした演奏会のようでありながら、その時代の恐ろしさを垣間見せる映像。
『ベルリンは晴れているか』は戦後すぐのベルリンを舞台にした物語。その間に幕間として戦時中の主人公のクロニクルな過去が挟まれる。冒頭から全く弛緩の無い展開にどんどん引き込まれる。ほんの少しの時間でも読み進めたい小説というのは滅多にないが、その滅多にないような小説を久しぶりに読んだ気がする。
『ベルリンは晴れているか』というタイトルはルネ・クレマンの《パリは燃えているか》を連想させるが、内容はヘヴィであり、冷静にナチスの恐怖政治とその後の疲弊した混乱のベルリンを描いている。

以下に出版社のサイトにある簡単なあらすじを引用する。

 1945年7月。ナチス・ドイツが戦争に敗れ米ソ英仏の4ヵ国統治下にお
 かれたベルリン。ソ連と西側諸国が対立しつつある状況下で、ドイツ人
 少女アウグステの恩人にあたる男が、ソ連領域で米国製の歯磨き粉に含
 まれた毒により不審な死を遂げる。米国の兵員食堂で働くアウグステは
 疑いの目を向けられつつ、彼の甥に訃報を伝えるべく旅立つ。しかしな
 ぜか陽気な泥棒を道連れにする羽目になり――ふたりはそれぞれの思惑
 を胸に、荒廃した街を歩きはじめる。

ミステリ仕立てになっているが、基本的には歴史小説的であり、ミステリではないと私は思う。あえてミステリだとするならばその手法は、ある有名なミステリ作品のプロットに似ている (この本をすでに読んだ人はコメント欄等でそれをバラさないように)。そしてドイツの戦中戦後の歴史を非常によく調べているのがわかるし、あまりにもドキュメンタリー風に読めてしまう部分があって、読み進めるのを躊躇うほどである。日本人作家がここまでドイツの歴史を読み込んで書けるのか、ということに対しては逆に、ドイツ人でなかったからこそ書けた、書いてしまえたという論理が成立するのだと思う。

ストーリーの中で重要な役目を果たしているのは黄色い1冊の本で、それはエーリッヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』(Emil und die Detektive, 1929) の英訳本である。主人公の少女アウグステが英語を学ぶきっかけとなった本であり、アウグステの手から本は何度も失われるが奇跡的に戻ってくる。それだけでなくケストナーがナチスの時代には焚書の対象であったこと、そして焚書の対象から免れていた児童文学である『エーミールと探偵たち』がベルリンを舞台とした物語であることなど、幾つもの意味がその本に籠められている。
不良の少年たちと出会い、木炭車で移動したり、無理矢理カエルを食べさせられたりする場面は、まさに児童文学的なワクワク感に満ちているのだが、その輝きは一瞬のことで、すぐに暗い現実がのしかかる。

また固有名詞として、ジードルング (1920年代にドイツで建築された集合住宅)、フラクトゥーア (ナチス時代に好まれた飾り文字)、ユンクメーデルブント (少女団)、レーパーバーン (公認売春街) など、興味深い言葉に惹かれる。

ナチスが行ったこと、そしてドイツ人に対しての指摘と断罪は、NKVD (ソ連の秘密警察) のドブリギン大尉の言葉に端的に表れている。

 大尉はにやりと唇を歪ませ、紫煙を吐いた。
 「フロイライン、あなたも苦しんだのでしょう。しかし忘れないで頂き
 たいのは、これはあなた方ドイツ人がはじめた戦争だということです。
 “善きドイツ人”? ただの民間人? 関係ありません。まだ『まさかこ
 んな事態になるとは予想しなかった』と言いますか? 自分の国が悪に
 暴走するのを止められなかったのは、あなた方全員の責任です」 (p.239)

深緑野分とマライ・メントラインの対談の中で、メントラインは次のように語っている。

 日本人が戦争を考えるときにドイツに価値がある点は、日本がただでさ
 えグレーなものをよりグレーにして曖昧にしてきたのに対して、ドイツ
 の場合はアウシュヴィッツを見てもわかるように、言い訳のきかない極
 端なことを現実にやってしまったことにあると思います。
 (ちくま/2018年10月号。以下同)

曖昧にしてきたことというのは端的に言ってしまえば、A級戦犯に全ての罪を押しつけ、われわれ国民は被害者だったという日本人の言い訳に対しての否定である。それに関連してブルンヒルデ・ボムゼルの《ゲッベルズと私》の映画に対しても言及しているのだが (ボムゼルはゲッベルズの秘書だったが、そのインタヴューで 「ホロコーストに関しては知らなかった」 と述べたという)、メントラインは、

 どうも日本では映画で描かれたボムゼルさんはちょっと可哀想という捉
 えられ方だったらしいけど、私から見てそれはありえないですね。日本
 だと大学教授でも浪花節的な同情論に染まってしまうイメージがありま
 す。ドイツのインテリ層はそれがなくて 「なぜこの人は平気で矛盾した
 ことを言うんだろう」 と考える。

これに対して深緑は、やはり自分も日本人的な思考をしていて、「“理解ができるのでは” というところから入ってしまい、「この人は何が悪かったのか」 みたいな分析より理解を優先させ」 てしまうと応じているのだが、これに対してメントラインは 「分析から入るとSFになって、例えばP・K・ディックの『高い城の男』でナチス幹部を 「こいつらの本質はこうだ」 と並べて説明する感じになってしまいがちな気がする」 と言う。
ボムゼルの述懐のドキュメンタリーと、ハンナ・アーレントが最近再認識され、たとえば『イエルサレムのアイヒマン』が再版されているのには関連性が存在するように思う。そしてメントラインの、分析的な手法の限界という指摘は鋭い。
だが、偉そうなことを言っていたドブリギン大尉には彼なりの野心があって、結局彼は粛清されてしまうのだが、それはソヴィエト (=ロシア) という国のメタファーでもあり、ナチスとは異なった意味での恐怖政治が存在していることは自明である。

『ベルリンは晴れているか』では単にナチスの対ユダヤ人政策、つまり人種差別だけでなく、男性優位な思想、障碍者や同性愛者への差別なども描かれていて、そのどれもが過去のドイツの戦争で起こったことだと過去形で語るだけではその本質を理解したことにはならない。それは現代にも同様に通用している真正の鏡のようでもある。


深緑野分/ベルリンは晴れているか (筑摩書房)
ベルリンは晴れているか (単行本)

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