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100分de名著『赤毛のアン』を読む [本]

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Lucy Maud Montgomery, 1935 (wikipediaより)

NHK《100分de名著》という番組のテキストについて、以前、ハンナ・アーレントの回について書いたことがあるが、今回はモンゴメリの 「赤毛のアン」 である。2018年10月に放送された番組用のテキストで講師は茂木健一郎、その意外さに引かれて読んでみた。このテキストは入門用として便利なのだが、実は放送自体はまだ観たことがない。録画しておけばよいのだが、いつも忘れてしまう。

とりあげられているのはアン・シリーズの第1作『赤毛のアン』(Anne of Green Gables, 1909) である。原タイトル 「グリーンゲイブルズのアン」 がなぜ 「赤毛のアン」 になったのかはNHKの朝ドラでも説明されていたので繰り返さないが、タイトルが 「グリーンゲイブルズのアン」 だったらこんなに有名な作品にはならなかっただろう。もしも映画《アナと雪の女王》が《Frozen》のままだったら、という仮定と同じである。

茂木健一郎の『赤毛のアン』の読書遍歴が述べられているが、それを読むと彼がとても熱心にアンを読んでいたことがわかり、「意外な」 という先入観がどんどん消えて行くのが実感できる。彼が最初にアンを読んだのは小学校5年生のときだそうだが、

 ある日、図書館の書棚を眺めていて、『赤毛のアン』の背表紙だけがぱ
 っと輝いているように見えて、導かれるように手を伸ばしたのです。お
 もしろいかおもしろくないかまだ判断できないはずなのに、読む前から
 惹きつけられる本というのがたまにありますね。脳科学者としては、そ
 こで神秘的な解釈はしませんが、僕にとってはそういう数少ない貴重な
 本です。(p.6)

だが読んだあと、すぐに傑作だと思ったわけではない、とも書く。惹きこまれたのだけれどその理由がわからない、なぜなのかというのである。
私は茂木健一郎とは違って脳科学者ではないから、安易に神秘的な解釈をしてしまうほうなのだが、本がこちらを呼ぶことはよくある。書店で本を見ていても、視覚の隅になにか異常な微動のようなものがあって、その方向に視線を転じるとタイトルの羅列のなかにひとつだけ光っている本があるのである。しかもそいつは、かならず 「買ってくれ!」 と言うのだ。仕方がないので買うことにする。ぼんやりしているときのほうが、この呼び込みに引っかかりやすい。でも 「買ってくれ!」 という本は自分に自信のある本だろうから、そんなにハズレは無い。

茂木の解説のなかで一番面白かったのはクオリアという概念である。
それはピクニックに行ってアイスクリームを食べられるかどうか、という場面の説明なのだが、マリラの持っていた紫水晶のブローチが行方不明になり、マリラはアンを疑うのだが、アンは正直に白状すればピクニックに行けるかもしれないと思って、外に持ち出して湖に落としてしまったというウソをつく。ところがかえってマリラの怒りを買ってピクニックに行くことを禁止されてしまうのだが、実はマリラの勘違いでブローチは出てくる。そこであわててアンをピクニックに行かせるというエピソードである。
この湖で遊んでいたというアンのウソの話のなかで、また例によって 「コーデリア姫ごっこ」 という言葉が出てきて、アンはコーデリアにご執心なのだと読んでいてかなり笑ってしまうのだが (アンはマリラと初対面のとき、名前を聞かれて、コーデリアと呼んで欲しいというのだ)、そんなにしてウソをついてまでピクニックに行きたいと願うのは、そこで未知の食べ物であるアイスクリームが食べられるということにあるのだ。
ピクニックにどうしても行きたい、なぜならアイスクリームが食べられるから。そのことをアンはダイアナから聞くのだが、でもアイスクリームというものがどうしてもイメージできない (当時、アイスクリームは稀少な食べ物であった)。

 アンは、「どんなものかダイアナは説明しようとするんだけれど、アイ
 スクリームって、どうも想像以上のものらしいわ」 とも言います。(p.54)

この、「アイスクリームを食べるということは実際に体験しなければ理解することができない」 というようなことをクオリアというのだと茂木は解説する。「人が感覚的・主観的に感じたり経験したりすることで得られる独特な〈質感〉を表す概念」 と注釈で説明されている。そして、そうしたことをアンが、さりげなく語ってしまうことが 「生きることの真実」 なのだともいうのだ。

もうひとつ、アンの思考の特質として茂木が挙げるのが、マイナスをプラスに変えてしまう転換作業の解説である。

 人間の脳の働きから考えると、次のようなことが言えます。「エマージェ
 ンシー (emergency)」 (=危機) から 「エマージェンス (emergence)」
 (=創発) が生まれる。アンが孤児院へ逆戻りする運命だと知った時に
 「コーデリアと呼んでください」 と言い出したり、リンド夫人への謝罪に
 行く途中で突然うきうきし始める様子を見ると、まさにこれだと思いま
 す。脳において情動反応の処理を司っているのは扁桃体ですが、好悪・
 快不快といった感情は表裏一体のものなので、ちょっと見方を変えるこ
 とで、マイナスの感情をプラスに変えることができるのです。(p.44)

現実に嫌なことは数多くあるけれど、それを乗り越えるための力が 「想像力」 であるというのだ。scope for imagination という言葉がアンのパワーの元であり、想像力を働かせる余地があるのならば、それを自分にとってプラスの方向へと変えられる可能性があるからだという。だがそれは幼くして全てを失ってしまったアンだったからこそできたので、とも説く。
アンの方法論と志向性は極端だが、決してあきらめないこと、常にその時点で最善の方法を模索して自分を変化させていくことは、とても単純かもしれないが、シリアスな人生の指針である。

emergencyとemergenceという対比する概念と同様な例として、passionという言葉の二重性も挙げられている。

 「情熱」 と 「受難」 は、英語では同じ言葉、パッション (passion) です。
 アンのギルバートに対する情熱は、最初の出会いが不幸だったという受
 難によってこそ育まれたのかもしれません。(p.77)

そして茂木は、アンがマシュウとマリラに育てられることによって変わっていっただけでなく、アンが2人に対して影響を与えて、アンと同じように2人も変化していった、もっといえば成長していった、それがヒューマニズムのもとなのだという。アンはインフルエンサーであり、そしてこの小説自体は一種の教養小説 (Bildungsroman) であるとするが、この相互的影響力の指摘が最もこの小説の本質をつく部分である。

 マシュウとマリラは、自分たちの役に立つように、男の子を引き取ろう
 とした。ところが、マシュウの発想が転換して、自分たちがアンの役に
 立つことができるのではないか、と思うようになる。これは非常に深い
 ヒューマニズムだと思います。マシュウは、アンと出会うことによって、
 確かに人間として成長しているのです。(p.35)

こうした茂木の解説から私が受けた印象は、その物語自体が幾らでも深く読み込めるということだけでなく、言葉 (言語) というものが持つ本来の強さについて語っているということにまで敷衍して考えることができる。アンの言葉は単純なイマジネーションの増幅作業ではないということ、そこに何らかの芯がなければそれは単なる夢物語だが、強い芯があるからこそ、どんな想像力の翼があってもそれは強風に負けないだけのパワーがあるということの示唆である。

表紙の 「夢は終わり、人生がはじまる。」 というキャッチは重い。アンが大学に行くことをあきらめてマリラと暮らすことを選ぶことを示しているのだが、つまり夢と人生は対比する概念なのだということがここに現れている。

尚、茂木の解説のなかに、古い時代のエピソードとはいえ、児童文学を juvenile と表現している説明があった。juvenileは近年、使わない言葉のように聞いていたが、そんなことはないというふうに捉えてもよいのに違いないと、少し溜飲が下がった次第である。語彙の貧困と狭窄はどの言語にも共通する問題のように思える。


100分de名著・赤毛のアン (NHK出版)
モンゴメリ『赤毛のアン』 2018年10月 (100分 de 名著)

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