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エル=バシャの弾くバッハ《組曲集》 [音楽]

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アブデル=ラーマン・エル=バシャのJ・S・バッハ《組曲集》はオクタヴィア・レコードによる日本録音であり、2018年5月8日と9日、神奈川県の相模湖交流センターにて収録された。ピアノはいつもと同じベヒシュタインである。
収録されているのはフランス風序曲 BWV831、フランス組曲第5番 BWV816、イギリス組曲第3番 BWV808、パルティータ第3番 BWV827という4曲である。

解説によればフランス風序曲というのはパルティータであり、つまりパルティータは7曲あるということになる。バルティータはBWV825~830だからBWV831は番号としても続いているし、BWV831の楽譜を見てもPartitaと書かれている。よってこのアルバムは、2つのパルティータにフランス組曲とイギリス組曲がそれぞれ1曲、サンドウィッチされたかたちになっていると見てもよい。
BWV831は8つに別れていて、順に、Ouverture, Courante, Gavotte I & II, Passepied I & II, Sarabanda, Bourrée I & II, Echo である (wikiではこの曲の解説で楽章 movement という言い方をしているが、古典派以降で使われるような楽章とは意味が異なるように思うので、私はバッハのこうした組曲に楽章という言葉を使うことを躊躇する)。
6曲のパルティータはクラヴィーア練習曲集第1巻 (1731) であり、フランス風序曲とイタリア協奏曲 BWV971がクラヴィーア練習曲集第2巻 (1735) としてまとめられた。尚、第3巻はオルガン曲集、第4巻はゴルトベルクである。

まずBWV831の〈Ouverture〉から聴き始めてみたのだが、音が……重い。ピアノの弾き方ではなくて録音が違うような気がする。中域から低域にかけて、音が厚く奥行きがあるのだ。和音が弾かれたときその特色が顕著にあらわれる。一瞬、違和感があるが、そのうちに慣れてくるとこの音がこころよくなる。すべてこの音なのかと思っていたら、フランス組曲以降は普通のバランスなのだ。これは意図したものなのだろうか。それによってフランス風序曲を際立たせて聞かせようとしているのだとしたら見事である。単にセッティングの違いなのだとしたら、なぜ違いが出ているのか理由が知りたい。

というのはエル=バシャの仏Forlane盤のベートーヴェン・ソナタ全集を聴いたとき (→2013年10月12日ブログ参照) には今回のとは逆に音が薄いように感じたのだが、そのときははっきりと書かなかった (書けなかった)。それは録音のせいかもしれないし、ホールのせいかもしれない (Forlane盤ベートーヴェンはフランスのヴィルファヴァール農場というやや特殊な場所で行われた。とはいってももちろん音響的環境は改装されて整えられているはずだが)。何か音が少し簡素というか物寂しい印象を受けたのだ。
エル=バシャは外見的にいうと最近は若い頃より痩せているように見え、風貌がなんとなく修行僧のように感じられるようになってきた。そのような外見になってから、音もやや変わってしまっているように思えたのだが、それが明瞭にわかったのがこのベートーヴェンだったのである。雑駁な聴き方でしかないのだが、エル=バシャのベートーヴェンは1回目の録音のほうが私の好みにあっているような気がする。2回目の録音は少し淡泊過ぎるか、あるいは禁欲的過ぎるのかもしれない。ただピアニズムとしては2回目のほうが優れているようにも思う。
私はエル=バシャの生演奏は2回しか聴いたことがないが、その時期はまだそんなに痩せている印象はなかったように思う (→2012年10月17日ブログ参照)。

でもそうした見方が正しいのならば、バッハは禁欲的な方向性をもって弾くのには向いている。そしてエル=バシャ自身もインタヴューではバッハが演奏の基本であるというようなことを語っている。

ではフランス風序曲はなぜ7番目のパルティータとはならず、独立した曲名を与えられることになったのだろうか。それは他の組曲――フランス組曲、イギリス組曲がそれぞれ6曲で構成されているのでそれに倣ったということだけではないと思う。イタリア協奏曲と対にしてクラヴィーア練習曲集第2巻としたのは、6つのパルティータとは明らかに違うということの表明に他ならない。
CDの楽曲解説には第2巻に収められた2曲に対して次のような説明がされている。

 ともに2段鍵盤チェンバロのために書いてはいるが、そこにはフランス
 様式とイタリア様式を対比させる明確な意図が現れている。即ち 「イタ
 リア協奏曲」 が合奏協奏曲を念頭に置いているのに対し、「フランス風
 序曲」 は、「フランス様式による序曲」 であり、序曲から始まる大規模な
 管弦楽曲様式、具体的にはJ.S.バッハの4曲の 「管弦楽組曲」 の構成に沿
 ったものだとされている。

一方、ja.wikiの管弦楽組曲の項では組曲というタイトルに関して次のような説明がある。

 バッハはこの作品群を 「組曲」 (Suite) とは呼ばなかった。というのも、
 バッハにとって組曲とはもっとも狭義の組曲、すなわちアルマンド、ク
 ーラント、サラバンド、ジーグの4曲から成る組曲、ないしそれにいく
 らかの舞曲を加えたものでなければならなかったからである。従ってこ
 れら作品は前述の通り、「序曲に始まる作品」 というような意味で 「序曲」
 (Ouvertüre) と呼ばれていたようである。これに基づき、新しいバッハ
 全集では 「4つの序曲 (管弦楽組曲)」 としている。

アルマンド、クーラントといった舞曲名はバッハの時代でもすでに古典的名称であり、実際にその舞曲によってダンスをすることはなかった。あくまで曲の様式の区別化としてそのような名称を用いたのに過ぎない。そして舞曲を幾つか束ねて構成したものが組曲であるとするのならば、序曲という呼び方は少し様相を異にする。つまり序曲という名称はその後に続く曲に対する対比概念であり、舞曲のような並列性でない、階層的な構造が暗示されるからである。
6曲のパルティータはそのほとんどに舞曲名称がふられているが、それぞれの冒頭曲は舞曲伝来でない曲名がつけられていた。たとえば第4番の1曲目はOuvertureであり、つまり序曲である。だが、そういいながらもこの曲はゆったりとした前奏に続くフーガという形式、緩→急というパターンであり、それほど凝った形式ではない。第2番の1曲目、Sinfoniaの場合はGrave adagioで緩く始まり、そして8小節目からAndanteとなるが、その後、速度表示は無いけれど30小節から3/4となってフーガになる。これだと、やや構成された形式のように見える。

しかしフランス風序曲の1曲目、Ouvertureは緩くて、かつ凝った表情で物憂げに始まるが、20小節から6/8となり、いきなり精緻なフーガに突入する。この延々とうねるように続くラインは6つのパルティータとは様相が違っている。左右の手に交互に現れ、ところどころ3声になりながら、やがて崩れて変形してゆく優雅な蛇のような流れは143小節で突如止まり、ふたたびゆるやかなアルペジオとトリルの交差のなかに消えて行く。あきらかにこれはバッハの自信作で、それを冒頭に据えたのがエル=バシャの慧眼である。

3曲目のGavotteはまさに舞曲のはずなのだが、エル=バシャの弾き方は、ピアノを十分に深く鳴らし、16分音符の弾き方が軽快である。それでいて16~18小節にかけてa→c→dis→eと上がっていく個所は妙に切羽詰まっていてピアノというダイナミクスの出る楽器の特質をよく使っている。このへんのニュアンスはもっと現代の曲のようだ。バッハの原曲がチェンバロのための曲であるからといって訥々と音を切るようなピアニズムにする奏者もいるが、私はそれは採らない。その楽器と時代に合った奏法をするべきである。
6曲目のBourréeはその音構成にGavotteの影が垣間見える。そしてこの単純で単調とも思える音符にこれだけの表情を持たせることができるのはなぜなのだろうか。特にIIになってからの、16分音符の歯切れのよさが悲しみを誘う。
7曲目のGigueの32分音符で駆け上がる個所、そして終曲のEchoの和音で刻んで上がっていくフォルテとピアノの交互のダイナミクス。6~8曲目の連鎖はスリルがあって、そのなかにほの暗い悲しみが交錯し、とてもバロック期の作品とは思えない。でもそれでいて正統なバッハ像なのである。

フランス風序曲が終わってフランス組曲が始まるとちょっとホッとする。そのくらいフランス風序曲は緊張感があって異質な印象を持つ。それがバッハの像なのか、それともエル=バシャによってかたちづくられたバッハなのかはわからない。

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BWV831_1 Ouverture

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BWV831_8 Echoの最後

Abdel Rahman El Bacha/J.S.Bach suites (TRITON)
J.S.バッハ:組曲集




Abdel Rahman El Bacha/XX° Journées Ravel
https://www.youtube.com/watch?v=O0JVXWYxUZY

Abdel Rahman El Bacha plays albeniz
https://www.youtube.com/watch?v=OONWYbSQvi0
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