SSブログ

忘れていた《忘れられた夏》― 南佳孝を聴く [音楽]

MinamiYoshitaka_wasure_190203.jpg

記憶には思い出そうとしても思い出せない記憶もあり、思い出したくないので思い出せなくなってしまった記憶もある。だが思い出せないということにおいて、それらは等価であり、それがどちらの領域の記憶であったのかは次第に曖昧になる。ある日、何かの手がかりから掘り起こしてみると、それは思い出さないほうがよかった記憶だったりする。

渋谷は坂の街で、むこうに行っても坂、こちらに来ても坂、その最深部に渋谷駅がある。何かをするためには、どこかに行くためには、谷底である駅からのぼって行かなくてはならない。それはある種の暗喩でもある。だが、かつて輝いていた渋谷の街は、今は見知らぬ場所であり、かつて知っていた店のほとんどはきっと存在していなくて、それはまだ何も知らなかった幼い頃に戻ってしまったということに等しい。輝きとはどこから出てきた幻想だったのだろうか。街の灯は単なる電飾の連なりであるのに過ぎず、年末を彩るイルミネーションもリゲルのような蒼白な影に過ぎず、それは遙かに遠い世界のことだ。時は残酷にリニアに流れて行き、立ちどまったり振り返ったりすることはない。時に追いすがっても無駄なのはチャンスの髪と同じだ。世界は寒い。

そうした湖底に沈んでいた記憶、あるいは凍土の下に埋葬されていた記憶のひとつとして南佳孝の音楽がある。初めて聴いたのは《忘れられた夏》(1976) という2ndアルバムで、私はそれを繰り返し聴いていた時期があったのだが、その記憶はこんなときになって急に掘り起こされたものだったのだ。

ジャケット・デザインは井出情児が撮った青い水に浮かぶ南佳孝の写真がさらに水に浮いているというコラージュで、その明るさとは裏腹に、音楽は少しけだるく物憂くて、アンニュイな気配が感じられる。だからそれはまさに 「忘れられた夏」 で、しかしそれを聴いていた季節が夏だったのかどうかは忘れてしまった。たぶん夏ではなかったように思う。
もちろん南佳孝は私の記憶の探索の際の一種の触媒であって、呼び覚まされた記憶は南佳孝の音楽の記憶そのものではない。

南佳孝の曲は悲しみや淋しさが裸で露出することがない。言葉はソフィスティケイトされ、その核は周到に守られている。それゆえにときとして発せられる強い言葉はかえって痛切な意味合いを持つ。

1stアルバム《摩天樓のヒロイン》(1973) は松本隆のプロデュースでありサポート・メンバーの豪華さもあって評価が高い。楽曲は最初から完成されていて大人の雰囲気がある。だがその後の洋楽におけるAORと呼ばれるようなジャンルに属するのかというとそうでもないような気がするし、シティ・ポップという軽薄な表現があったらしいが、あまり口にしたくない言葉だ。
南佳孝の最も知られている作品は〈スローなブギにしてくれ〉や〈モンロー・ウォーク〉だろう。〈モンロー・ウォーク〉は〈セクシー・ユー〉として郷ひろみがカヴァーしたが歌詞がやや異なる。それは〈スタンダード・ナンバー〉を薬師丸ひろ子に提供した際に〈メイン・テーマ〉として歌詞を変えたのと同様である。

だが、2ndアルバムの《忘れられた夏》は佳盤であるのにもかかわらず、やや地味で内省的なため、人気がないのだろうか、現在廃盤で入手することが困難である。全曲が南佳孝作詞・作曲であり、トータルな求心力はあると思うのだが。
私が繰り返し聴いていたのは貰ったアナログ盤で、市販品と変わらないが、レコード・レーベルに見本盤というゴム印が押されているものだ。

YouTubeでは現在、〈ブルーズでも歌って〉〈月夜の晩には〉といった収録曲を聴くことが可能だが、タイトル曲の〈忘れられた夏〉は見つからなかった。ソニー原盤なので仕方がないともいえるが、再発に期待したい。

リンクした最初の曲は3rdアルバム《South of the Border》(1978) に収録されている〈日付変更線〉である。南佳孝の初期作品は松本隆の作詞が多数見られるが、この曲の作詞は松任谷由実である。

 置手紙に気付いたら
 君は多分溜息と
 数分だけ想い出をたぐり
 後は変らず生活に戻る

ちなみにこの時期の松任谷由実のアルバムは《紅雀》(1978) 《流線形’80》(1978) であり、南佳孝の《忘れられた夏》と同様に地味だがすぐれた楽曲が多い。

「恵比寿酒場」 はヱビスビールの提供による動画だと思われるが、南佳孝のギターをメインとした渋いチューンばかりであり、お酒を静かに飲むのに好適な選曲である。


南佳孝/摩天樓のヒロイン (SOLID)
摩天楼のヒロイン+5 45周年記念盤




恵比寿酒場 4
南佳孝/日付変更線、遙かなディスタンス
https://www.youtube.com/watch?v=4Nrs9ZtSRgI

恵比寿酒場 1
Scotch and Rain、スタンダード・ナンバー
https://www.youtube.com/watch?v=AugHi4Fx1sI

南佳孝/ブルーズでも歌って (live)
https://www.youtube.com/watch?v=isMWyofRCLc

南佳孝/月夜の晩には (live)
https://www.youtube.com/watch?v=lKUGU0cNu3Y
nice!(90)  コメント(4) 
共通テーマ:音楽