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綻びと喪われた色 ― アッバス・キアロスタミ《ライク・サムワン・イン・ラブ》 [映画]

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高梨臨

《24 Frames》の短い予告編がYouTubeにあって、その映像はあまりにも美しく唯美主義に偏向しているようで、この作家の到達点を見た思いがした。だがそれは大監督だけに許された余興であり、唯美主義だけでは映画は成立しないはずだ。

キアロスタミの《ライク・サムワン・イン・ラブ》は、すべて日本人俳優により日本で撮影された彼の2012年の作品である。
最初のシーンは 「デートクラブ」 の室内。男女の声が交錯する酒席の喧噪の情景だが、カメラは固定されていて全く動かない。画面に電話で話している女の声が重なる。相手の声は聞こえず、話していることは不毛な堂々巡りで、しかもその声の主はなかなかあらわれない。
1’24”から始まった映画が2’16”になって、やっと声と映像が一致する。電話で相手と話しているのは明子 (高梨臨)、電話の向こう側の相手はのりあき (加瀬亮)。のりあきは猜疑心が強く、明子を問い詰めるが、それは明子がウソをついているからで、のりあきは明子が何をして働いているのかをはっきりと知らない。
明子の前に座っているひろし (でんでん) は、しきりに明子を誘っている。どこかに明子を行かせたがっているのだが、明子はおばあちゃんと会わなければならないと言って、それを承諾しない。この明子のしゃべっているシーンだけで、明子の現在の状況だけでなく、その性格までもがくっきりと浮かび上がる。カメラが動かないのにテンションが持続し、クリアで、これからのストーリー展開に引き込まれる。

明子はしぶしぶ、ひろしの紹介する客の家にタクシーで行くことになる。デートクラブというが、つまりデリヘルだ。暗いタクシー。暗い表情の運転手。窓外に映る夜の街の光彩が、滲みぼやけて美しい背景となり流れ過ぎる。
留守電にはおばあちゃんからのメッセージが幾つも入っている。おばあちゃんは田舎から急に出てきて、明子に会いたがっている。しかし明子が今、何をしているのか、少し疑念を持っている。明子はタクシーを待ち合わせ場所の駅前に寄り道させておばあちゃんがいることを確認する。だが降りない。タクシーに乗ったまま、ロータリーを二度回ってから、涙を拭いて客の家へと向かう。

客は元・大学教授で84歳になるたかし (奥野匡) だった。インティメイトな空間。本がたくさんある隠れ家のような部屋。たかしは明子に亡妻の面影を見出し、ワインを飲み食事をしようとやさしく誘う。だが明子は疲れていて眠ってしまう。
翌日、たかしは明子を通学する大学まで送って行く。待ち伏せしているのりあき。明子が授業に行った後、のりあきはたかしの車に乗り込んで来る。たかしは明子の祖父のふりをする。たかしは、真面目に明子との結婚を考えているのだが彼女が真剣に応じてくれないと訴える。そして祖父の歓心を引こうとしたのか、車の不調を見つけ、自分が経営する自動車整備工場で修理する。

しかしそれから少し時が経ち、ある日、そのウソがバレて明子からたかしに電話がある。たかしは車で彼女をピックアップしに行く。殴られたらしくケガをしている明子を自分の家に連れて行き、キズ薬を買ってきてつけようとする。
だが偏執的なのりあきが逆上して、たかしの家にやってくる。

ともかく美しい映像の映画だ。そして喋る言葉がとても自然で、日本語のわからない監督が、いかにしてそのようにセリフを言うように指示できたのかが謎である。
最初のシーンにおける、ずっと声だけがあってなかなか顔を見せないという手法が、クリシェのように繰り返し出現する。おばあちゃんの留守電に入れられた声が延々と続き、やっとのことでおばあちゃんの姿をカメラが捉えるシーンとか、たかしの部屋でベッドに行ってしまった明子がずっとしゃべっているのだが、そのベッドをカメラはなかなか映さないのとか、最後の隣人の女のシーンなど、同様である。

キアロスタミはトータルな台本を渡してしまうことをせず、毎日、このようなセリフでこういう演技をしてくれと指示するのだという。つまり俳優は自分が最後にどうなるのか、誰も結末がわからないのだ。

タクシーに乗っている明子のシーンがとても美しい。暗い車内と外に流れる街の光。それは歓楽街の輝きであるが、実は空虚な街である。飲食店と風俗店の建ち並ぶ通りは、客を引き付けようとする派手な看板や装飾の色彩に溢れていて、その色があまりに派手な色ばかりであるゆえに、かえって無彩色であるかのような錯覚に陥る。色の飽和が色彩を喪う。

明子のようなふしだらさ、優柔不断さを持った女と、それに対する暴力的な男というのはよくある構図で、そうした男女はくっついたり離れたり、微妙な立ち位置で棲息しているが、そのバランスが崩れると事件となってしまう。でもそれは最近よく報じられる各種の暴力的な事件の一端に過ぎない。ともすると暴力ばかりが目立ってしまうが、性的な節操のなさも暴力の変形に過ぎない。ウソは綻ぶ。それを繕おうとすると別の部分が綻ぶ。

元・大学教授の居心地のよさそうな部屋から私が連想するのは、大学教授という肩書きでいうのならばヴィスコンティの《家族の肖像》(1974) である。静かな生活をしている教授の家にやってくる闖入者。へどもどしながらその闖入者に対応しようとするイメージも同じだ。ヘルムート・バーガーが演じたコンラッドの性格のなかに明子とのりあきの両方の性格が共存している。
闖入してくる者の不条理に関しては安部公房の《友達》(1967) があるが、《家族の肖像》と同じように、価値観の違いとか、家族という言葉が持つ意味とはなにかという根本的な疑問が浮かび上がる。
だがヴィスコンティや安部公房の場合は、闖入されてしまった悲劇なのに対し、キアロスタミの教授は自らが招いた災厄なのである。とはいっても結果は同じなのであるが。

映画の最後に近いシーンで、今まで声だけで、車を駐める位置を変えてくれとか言っていたたかしの隣家の女が初めてその姿を見せる。窓から顔を見せて延々としゃべるだけなのだが、このシーンに違和感があってとても気持ちが悪い。なぜこのシーンがあるのだろうか。しかもその長台詞は突然断ち切られる。
私が連想したのはベケットの《勝負の終わり》(1957) で、それと共通した気持ち悪さが、もうストーリーが終わることを予感させる。つまりベケットにおける世界の終わりは、たかしにとってのゲームの終わりなのだ。しかもそのチェスは差し手の応酬ではなく、盤をひっくり返すという暴力的な方法によって終焉する。

〈Like someone in love〉という曲の邦題は〈恋の気持ちで〉だが、これはあまりよい邦題とは思えない。そして最初の歌が終わってから入るギターのメロディがちょっと奇矯だ。これも気持ち悪さの流れのなかにある。それより23’51”頃に出てくるタクシーの中で流れる〈硝子坂〉が印象的だ。明子はその曲が流れているとき、これからたかしの家に行くために、口紅を塗り直す。

 いじわるなあなたは
 いつでも坂の上から
 手招きだけをくりかえす
 私の前には硝子坂
 きらきら光る硝子坂

この歌詞、考えようによってはかなり気持ちが悪い。


アッバス・キアロスタミ/ライク・サムワン・イン・ラブ
(トランスフォーマー)
ライク・サムワン・イン・ラブ [DVD]




アッバス・キアロスタミ/ライク・サムワン・イン・ラブ 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=tGqnDo1IpuM

アッバス・キアロスタミ/24 Frames 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=FNSlQ9mmJ4M
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