カニグズバーグ『クローディアの秘密』を読む [本]
E. L. Konigsburg
E・L・カニグズバーグ (E. L. Konigsburg, 1930-2013) の『クローディアの秘密』は岩波少年文庫に収録されている有名な児童書だが、家出をしてメトロポリタン美術館に泊まるという面白い発想なのに引き込まれてしまう。
だが ”From the MIxed-up Files of Mrs.Basil E. Frankweiler” が原書のタイトルで、このままのタイトルだったら翻訳書としてはちょっと無理。『クローディアの秘密』と変えたのは鋭い。大貫妙子の〈メトロポリタン美術館〉(1984) という曲は、この小説を元ネタにしていて、NHKの〈みんなのうた〉で繰り返し流されている。〈ピーターラビットとわたし〉と並ぶ大貫妙子のかわいい曲の双璧である。
物語の冒頭、フランクワイラーという人の手紙文で始まるので、これは何? と思うのだが、それは結末で全てが明らかになる。家出という、本来なら暗い題材のはずなのに全然暗くない。その家出の理由というのがつぎのように書かれている。
当のクローディアよりこのわたしにはっきりわかる原因もあったかもし
れません。毎週毎週が同じだということからおこる原因です。クローデ
ィアは、ただオール5のクローディア・キンケイドでいることがいやに
なったのです。(p.11/漢字にふられているルビは省略。以下同)
でも家出をしてみじめな状態になるのは避けたい。だから街の中に隠れてしまおう。クローディアはそう考える。「家出をする」 のではなく 「家出にいく」 というのだ。
クローディアは、町が大すきでした。町は優美で、重要で、その上にい
そがしいところだからです。かくれるには世界でいちばんいいところで
す。(p.13)
クローディアは入念に下調べして、3人いる弟の中で一番信頼できそうなジェイミーを仲間に引き入れて、ヴァイオリンのケースとトランペットのケースに下着を詰め込んで、2人で家出し、メトロポリタン美術館に寝泊まりする。ジェイミーを選んだのは、実はお小遣いを貯め込んでいて一番お金持ちそうだったからでもある。クローディアはもうすぐ12歳、ジェイミーは9歳。ふたりの会話はちょっと生意気だ。
メトロポリタン美術館はたいへんな入場者数で、その小説が書かれた頃は無料。いかにして警備員の目をかわして夜の間、美術館の中にい続けるかというクローディアの知恵が冴える。もっとも今だったら警備用の機器もあるし、こんなことはできるはずがない。そうした可能性が存在していた、のどかな時代だったのである。
家出のプランを主導したのはクローディアだが、お金を管理しているのはジェイミーで、クローディアがタクシーやバスに乗りたがっても、頑として拒否して歩くことを強要される。悪ガキなんだけれど、とても細かくて笑ってしまう。高いレストランには入らず、安そうな店に入って食事をし、昼は美術館に見学に来る小学生の団体にまぎれて、一緒に食事してしまう。
クローディアは家出をしても汚い格好になってしまうのが嫌で、2人は毎日着替え、でもヴァイオリンのケースやトランペットのケースがトランクがわりでは、服は幾らも持って来られなかったので洗濯する。貸洗たく機屋 (コインランドリーのこと) に行ってまとめて洗うと、白い下着がグレーになってしまう。あ~あ。でも、めげない。
噴水をお風呂がわりにして身体を洗っていると、ジェイミーが噴水に投げ入れられたコインを見つけて、しっかり頂戴してしまう。まぁつまり2人は、今だったら細かな犯罪になってしまう 「悪さ」 を重ねているわけだ。
あらゆる種類の上品さのつぎに、クローディアが愛しているのは、よい
清潔なにおいなのです。(p.65)
だが、最近美術館が安く買い入れて特別展示されているミケランジェロの作かもしれないという彫像にクローディアは興味を示し、それを調べるために図書館に行ったりして推理を巡らす。そしてその証拠を発見し匿名の手紙を美術館に出す。そこから話は急展開してフランクワイラーの話につながるのだが、フランクワイラー家を訪ねた2人は、家出をしていることを見破られ、そして2人の家出には終わりがくる。
フランクワイラーが2人を諭す言葉は、単に家に帰りなさいという意味だけでない重層的な意味を伴って聞こえる。82歳のフランクワイラーはクローディアにこう言う。
「冒険はおわったのよ。なんにでもおわりがあるし、なんでもこれでじゅ
うぶんってものはないのよ。あんたがもって歩けるもののほかはね。休
暇で旅行にいくのと同じことよ。休暇で出かけても、その間じゅう写真
ばかりとっていて、うちに帰ったら、友だちに楽しかった証拠を見せよ
うとする、そんな人たちもいるでしょう。立ちどまって、休暇をしみじ
みと心の中に感じて、それをおみやげにしようとしないのよ。」 (p.203)
フランクワイラーが言うのは彫像の真贋がどうなのかとか、それが金銭的にどのくらいの価値があるかなどということは 「もの」 の本質ではないということ。彼女の中でそれが真のものであるのならばそれでいいのだという、一種の諦念でもあるのだ。
さらに彼女はクローディアが、日々新しく勉強しなければならないという意欲に答えて言う。
「いいえ。」 わたしはこたえました。「それには同意できませんよ。あん
た方は勉強すべきよ、もちろん。日によってはうんと勉強しなくちゃい
けないわ。でも、日によってはもう内側にはいっているものをたっぷり
ふくらませて、何にでも触れさせるという日もなくちゃいけないわ。そ
してからだの中で感じるのよ。ときにはゆっくり時間をかけて、そうな
るのを待ってやらないと、いろんな知識がむやみに積み重なって、から
だの中でガタガタさわぎだすでしょうよ、そんな知識では、雑音をだす
ことはできても、それでほんとうにものを感ずることはできやしないの
よ。中身はからっぽなのよ。」 (p.225)
クローディアやジェイミーには、フランクワイラーのそうした忠告はきっとまだわからない。貪欲な知識欲は若いときほど旺盛であるし、好奇心も強く働く。だがそれを自分の中で消化し整理して理解しなければ何にもならないということは年齢を重ねる毎にわかってくるはずだ。それをしみじみと感じる。
いつまでも吸収するだけでなく吐き出さなければならないということ、でもそうして繭を吐き出さないうちに人は死んでしまうのかもしれない。無駄に蓄積して使われないままの知識は、堆積した無数の書物やもう開こうともしない何冊もの写真アルバムと同じように、甲斐の無い忘却の海に沈む。
The Met and Thomas P. F. Hoving
(メトロポリタン美術館の前に立つトーマス・ホビング。
彼はこの小説が書かれた当時のMetのディレクター)
著者自身によって描かれた『クローディアの秘密』の挿絵
E・L・カニグズバーグ/クローディアの秘密 (岩波書店)
大貫妙子/メトロポリタン美術館
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21967891
大貫妙子/ピーターラビットとわたし (live)
https://www.youtube.com/watch?v=eltLkyzwUkQ