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寺山修司と野田秀樹 [シアター]

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文藝別冊の『寺山修司』増補新版を読む。増補なのだからその前の版があるはずなのだが、それは2003年3月初版とあり、もちろん私は読んだことがないのでこれが初めてだ。
野田秀樹の短いエッセイに、若き野田と寺山修司との出会いが書かれている。

野田が初めて寺山の演劇を観たのは渋谷公会堂における《邪宗門》だったという。だがそれはあまりにもアングラ過ぎて、野田は 「俺はこれダメかもしれない」 と思ったのだという。ファースト・インプレッションがそうしたマイナスなイメージだったのにもかかわらず、その後、寺山の書く文章に、特にその短歌に魅せられ、そしてもしそれだけだったら寺山修司を神格化するままになっていったのかもしれないのだともいう。

ところがある日、野田がまだ東大生であった頃、東大駒場で彼の劇団の稽古をしていたとき、その出入口を行ったり来たりして、中でやっている稽古を見ているような見ていないような人が、もしかして寺山修司なんじゃない? と気がついた劇団員がいて、野田に伝えた。野田は 「そんなわけねえよ」 と否定したのだが、しかしそれは寺山修司本人だったのだという。寺山は野田の演劇を噂を聞いてこっそり覗きに来たのだ。

 どうやら後で知人から聞いたところでは、寺山さんは、その頃、東大の
 劇団で 「全共闘」 みたいな芝居をやっているところがある、と聞き及ん
 で、こっそり稽古場を覗きに来たらしいのだ。ほんとうに 「覗き」 に来
 るところが 「寺山修司」 の 「寺山修司」 たる所以である。

と野田は書く。
全共闘みたいな芝居というのがよくわからないが、つまりよくわからなくて過激に見えるものは皆、全共闘だと形容してしまったのかもしれない。ともあれ、それがきっかけで野田の《少年狩り》という演劇を寺山は観て、その劇評を東大新聞に書いてくれた。それが野田にとって初めての劇評だったのだという。
そして野田は、最初の劇評を寺山修司に書いてもらったということの至福より、寺山が稽古を覗きに来てくれたということを誇りに思うともいう。

その後、野田は寺山のパルコ劇場や晴海の倉庫街での演劇を観て、それらは渋谷公会堂の《邪宗門》とは異なり、唯美的、審美的、耽美的だったと言葉を重ねる。それは互いの作品をそれぞれ評価する戯作者・演出者として対等の姿勢のように思える (但し、その時代だと、パルコ劇場の名称はまだ西武劇場のはず)。

だが二人が言葉を交わしたことはほとんどなく、寺山の演劇《レミング》を観た後、暗幕をめくり上げたところで顔を見合わせたときがあって、「あ」 「おー」 とだけ声を交わしたのだとのことである。このエッセイの野田のそもそもの長い前フリの思わせぶりからすると、この話も眉唾だとも思えるのだが、それはそのまま承っておくことにする。そしてその後、寺山は亡くなってしまう。

それから時を経て2015年の事を野田は書く。

 二〇一五年、私のその芝居 「エッグ」 が、パリのシャイヨー国立劇場に
 招かれる形で上演された。その時、その劇場の芸術監督から思わぬ話を
 聞いた。「この『エッグ』の前に、日本の現代劇が、このシャイヨー劇
 場に来たのは、遡ること三十三年前、寺山修司の『奴婢訓』だったんだ
 よ」 それは思いもかけない奇縁であった。

「エッグ」 とは、

 「冒頭、寺山修司の未発表の戯曲が見つかり、それを上演していくとい
 う形で話が進んでいく。もちろん、そんな寺山修司の作品など存在しな
 い。

という作品なのである。それは偶然であり奇跡なのだろうか。そうかもしれないが、何かの必然性もきっとあるのだろう。それは異なった時代を繋ぐ宿命の糸である。
寺山の戯曲と野田の戯曲は根本的な違いがあると私は思う。野田の戯曲は唐十郎に似て、戯曲そのもので完成されているが、寺山の戯曲はあくまでそのイヴェントとしての演劇の設計図に過ぎない。それを読んでも寺山の演劇そのものは立ち上がらない。だが果たしてそのように割り切って区分けしてもよいのだろうか、と最近私は考えるようになった。
野田の初期の戯曲は、ともするとまるでルイス・キャロルのように語呂合わせと地口と駄洒落と、そうしたものが混然一体となっていてそれを翻訳することは困難かもしれなかった。だが寺山の戯曲は最初からヴォキャブラリーの厳密性や緻密さとは無縁である。トータルなイメージが先行していて、それは当初から存在するポリシーである。だがそうしたポリシーは、実は言葉ひとつひとつを繊細に動かして捏造する歌人としての寺山から湧出していたもののはずなのである。寺山の演劇はアクションでありフィクションであり、というよりむしろエフェクトである。その表面的イヴェントを指して陳腐だと否定した人もいた。が、それは深層を見ようとしないダイヴァーのようである。真相は戯曲の言葉の上にはなく、演じられた演劇そのものの時間の中にだけ存在していた。


文藝別冊 総特集 寺山修司 増補新版 (河出書房新社)
総特集 寺山修司 増補新版 (文藝別冊)




寺山修司・黒柳徹子
https://www.youtube.com/watch?v=AzuTY0Fl728&t=6s
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