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サントリーホールのチョン・キョンファ [音楽]

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昨日は台風のため、交通機関はほとんど止まってしまったが、今朝は点検後すぐに復帰するという話だった。しかし現実にはJRは正午頃まで動かなかった。そんな中、サントリーホールのチョン・キョンファに行く。台風のため、開演時間が1時間遅れに変更されていた。

コンサートの演奏曲はブラームスのソナタ第1番《雨の歌》、第2番、第3番である。つまり全曲演奏なのであるが、あれもこれもの名曲アルバムでなくブラームスのソナタ3曲という潔さに惹かれた。でも逆に、チャレンジャーだなぁという心配もよぎる。
着いてみるとサントリーホールの周辺の飲食店も今日は閉店しているところが多く、なんとなく閑散としている。そんな日なのに、通り道のテーブルでお弁当を食べていた家族連れ (しかも複数) はなぜこんなところにいるのだろうかという疑問がよぎる。
ホールに入ってみると、客席も半分とはいわないが6分くらいの入りで、それが台風の翌日の混乱で来られない人がいたためなのか、それともそんなに切符がはけなかったのかは不明である。やはりブラームスばかり3曲だとちょっと地味なのでは、という危惧なのだ (しつこい)。

定刻、といっても1時間遅れだが照明が暗くなりチョン・キョンファがステージに登場。パープルのドレスに銀のシューズ。ピアニストはケヴィン・ケナーである。ケナーの楽譜はタブレットで、でも譜めくりの女性 (めくらないが) がいるということは手動なのだろうか。膝に操作ボックスのようなものを置いている。チョンも譜面台を立てているが、こちらはもちろん伝統的な紙製の譜面を自分でめくるシステムである。
チョンは髪をかなりショートにしていて、髪の長かった若い頃の雰囲気とはかなり違うが、その存在感はただものではない。むしろ典型的な 「ただものではない」 感がして、おおお、と思ってしまう。

ここでブラームスへの興味について書いておきたい。ブラームスはロマン派の作曲家でベートーヴェンの後継で、というような歴史認識が一般的であり、その作品は伝統的な古典的手法を多少ロマン派的に変えていったというような中庸を目指した人のような解釈があるが、そういうものを打ち砕いたのが野本由紀夫のブラームスの交響曲に対する解説であり、そのことはすでに以前のブログに書いた。
野本の解釈は、ブラームスの曲は一聴、耳当たりがよく、心を和ましてくれて、伝統的な音楽の継承というような穏やかな作品というふうに見えながら、実は結構アヴァンギャルドで、でもそれが表面に出て来ないのでわからない、ないしはわかりにくいということなのである (というふうに私は読んだ)。それまで私は、ブラームスの音楽は何かこみ入っているようなウワーンとしたところがあって (私はそれを勝手に 「喧噪点」 と呼んでいる)、それが今ひとつわからないという印象だったのだが、野本の指摘にしたがってそれを聴くといちいち納得できるし、胸のつかえがとれたのである。
そういう視点でこのヴァイオリン・ソナタを聴くと、あちこちにあるちょっと変なところが、それについて解析するのは私には無理だけれど納得できるのである。そう考えると、変だと思っていた音が変で無くなるのだ。ただ、それを変なところと認識するか、それともそのように感じないで通り過ぎてしまうのかは人それぞれであり、全然変だと思わない人だっているだろうから、これはあくまで私の個人的な認識である。

さて、ヴァイオリン・ソナタは第1番 (op.78) が1879年、第2番 (op.100) が1886年、第3番 (op.108) が1886~1888年に作曲されたことになっていて、作品番号からもわかるように第1番のみがやや離れている。第2番と第3番は晩年というほどでもないが、かなり後期の作品である。第1番以前にa-mollのソナタを書いたといわれているが破棄されて現存していない。
ブラームス3曲を続けて弾くのがチャレンジャーだといったのは、常識的にブラームスの曲と認識して聴くと、そんなに面白い曲ではないのではないかという印象があるからだ。派手な技巧的な部分があるわけでもなく、官能的でもないし俗悪でもない。でもそれをあえて番号順に並べたのはチョンの意志があったからに他ならない。それはこれらの曲の並びが、一種のミクロコスモス的な人生のアナロジーのように感じられるからだと私は思うのである。

第1番は《雨の歌》というタイトルが付いているが、これはブラームス自身の歌曲からの引用があるからであり、全体が柔らかな雰囲気に包まれているが、そんなに名曲というほどではなく佳曲という印象である。だが第3楽章に〈雨の歌〉の引用があり、調性も短調になって、この楽章のみ少し毛色が違うように思う。
ただ、これは単に私の感じたことであって勘違いに過ぎないのかもしれないが、弾き出しの頃、チョンの楽器が鳴っていないような気がした。演奏そのものでなく、あくまで楽器に対する印象である。こういうと大げさだが、「これってヴィオラ?」 と思ってしまったくらいである。ところが第3楽章あたりから鋭い音と、客席にまで伝わってくる明瞭さに音質が変わってきたような、あるいは楽器が目覚めたような気がした。
第2番は曲想も明るく、チョンの弾く音もいかにも彼女の音のように聞こえてきて、といっても往年のチョン・キョンファ節というほどではないのだが、でもその音が独特だということが実感できる。あえていえば彼女が、やはり若い頃より丸くなってしまっている印象は否めない。それは悪いことではなくて、若い頃には若いなりの、年齢を重ねてからは重ねたなりの表現が存在するのである。

休憩20分をはさんで後半は第3番。結論から言ってしまえば、私が注目したいのはこの第3番であって、それはチョンの思いも同じなのだというふうに考える。第3番は4楽章あり、やや長い曲であるが、第2楽章を弾き終わったところで、ちょっとしたギミックがあった。チョンが客席に向かって、手を下から上に何度も上げたので、客席からは笑い声が起きた。つまり 「ちょっと辛気くさい曲だからといって寝ないでね」 というような意味だったのだろうか。私にはそのように感じられた。そしてピアニストの椅子 (やや横に長くなっている椅子) の端っこに、ちょこんと腰掛けたのである。これで客席の緊張感と 「ちょっと眠いよね」 感がとれたのではないかと思う。
その後の第3楽章と、連続して弾かれた第4楽章はこの日の頂点であった。つまりなぜブラームスか、ということについてである。彼女は身体を自在に動かし、時にピアニストのほうに身体を向けてその演奏を鼓舞し、すべてを支配していた。
私にとってこの第3番はスリリングであった。この曲には野本由紀夫が指摘していたようなブラームスの 「仕掛け」 が多く存在していて、「えっ? そこでそう行く?」 というような意外性があるのである。そしてそれは決して恣意的な書法ではなく、周到に考え抜かれたブラームスの得意技なのである。ブラームスに関してあえて難点をあげれば、それはこの隠された周到さに対する 「いやらしさ」 と言ってしまってもいいかもしれない。それほどにブラームスの書法は天才的なのだ。そしてそのブラームスの特質をわかったうえで弾いているチョンがすぐれているのは当然なのである (下にリンクした1980年のチョンは、かつてのチョン・キョンファ節全開で、でもブラームスに対する理解はすごいと感じさせる)。

アンコールはシューベルトのソナチネ D384の第2楽章と第3楽章。あえて易しい曲を選んで、お口直しをとしたのがチョンの老練なところなのかもしれない。あ、老練などといってはいけない。まだ十分にお若いです。
クラシックコンサート恒例のサイン会は、「CDを購入した人だけ」 などと言っているので帰って来た。やたらにサインを欲しがるのは演奏者にとって負担なのでは、ということもあるし、そもそもそこで販売されていたCDは全部持っているので買うものが無かったのです、HMVさん!

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Brahms/Violin Sonata No.3 第4楽章冒頭


チョン・キョンファ/Bach: Sonatas & Partitas
(ワーナーミュージック・ジャパン)
バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(全6曲)




Kyung-Wha Chung/Brahms: Violin Sonata No.3
live 1980 with Pascal Roge.
https://www.youtube.com/watch?v=_ZjMCUHkXuQ
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