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井上陽水を聴く [音楽]

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井上陽水 (2017, Realsound.jpより)

金曜日の夜、NHKTVの井上陽水の特番を観た。〈陽水の50年 ~5人の表現者が語る井上陽水~〉というタイトルである。でも全部を観たわけではなくて、後半を観たに過ぎない。録画はしてあるのであらためて観るつもりなのだが、この重さは何なのだ、という感触でしばらく呆然としていた。それは最後の〈カナリア〉〈結詞〉という曲に拠るところが大きい。

番組内では歌をはさんで、松任谷由実、玉置浩二、奥田民生、宇多田ヒカル、リリー・フランキーといった人たちの井上陽水に関しての言葉があったが、それらはどちらかというと番組の中の彩りでしかなく、すべては歌、それに尽きる。

井上陽水はもちろん知っていたけれど、そして幾つものヒット曲も知っていたけれど、レコードやCDを買って聴いたことはない。タモリ倶楽部でタモリに 「人望が無い」 などと言われたりしてからかわれていることしか、いままで印象がなかった。単に無知だといわれればその通りなのだが、世の中には知らないことがまだまだ多過ぎる。
YouTubeでとりあえずいくつかの曲を聴いてみる。知っている曲もあるのだが、何かが違う。いままではこれらの曲に、特にその詞に、私は反応してこなかったのだ。反応すべき拠り所がなかったのかもしれない。単なる日本のフォークソングのシンガーソングライターというような認識きりなかったのかもしれない。それが突然崩壊する。ガラスの小鬼が砕けるように、だ。もしくは、何個も複雑に絡み合っていた知恵の輪が一気に外れたような感じだ。でもそれは仕方がないことなのかもしれない。音楽のほとんどはすれ違いなので、どこかで接点がない限り、音楽はただ無為に流れて空中に消えてゆくだけなのだ。それが音楽というものの不思議さなのだと思う。

番組の最後の曲〈結詞〉では歌詞のテロップが縦書きで表示された。そう。日本語とは縦書きの言語であって、こうして横書きでタイピングしているのと、手で縦書きに書くのとでは、その感覚が違う。

 浅き夢 淡き恋
 遠き道 青き空

YouTubeにはもちろん一昨日の動画は存在しないので、別のライヴでの映像を一応リンクしておくが、一昨日の井上陽水の歌唱はこれまでのライヴとは全く印象の異なる歌唱であって、その歌いかたはあまりに深く色彩がなくて、むしろ危険なかおりがした。歌詞は情景とその情景の中に佇む人の描写だけで、具体的な感情の描写など存在しない。それなのにその言葉の後ろ側にある重さ、あるいは諦念のようなもの。歌はかならずしも楽しかったり悲しかったりするだけでなくて、もっと深い感情にコミットしてくることがあるということを思い知ったとしか今書くことができない。


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YOSUI BOX Remastered(初回生産限定)(DVD付)




井上陽水 GOLDEN BEST
(フォーライフミュージックエンタテイメント}
GOLDEN BEST




結詞/井上陽水 (〜積み荷のない船)
https://www.youtube.com/watch?v=onqSBetOFvg

井上陽水/飾りじゃないのよ涙は
https://www.youtube.com/watch?v=ROHyKC63Jko
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Little Red Corvette ― Prince《1999》 [音楽]

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プリンスのアルバムをリアルタイムで聴いたのはいつだろう、と考えてみる。記憶としてはっきりしているのは《Batman》で、CDサイズの丸い黒の缶に入っていた。でもそれはティム・バートンの映画《Batman》の主題歌としてプリンスが起用されたもののサントラであり、映画音楽自体はダニー・エルフマンが担当している。プリンスの楽曲というよりも、ティム・バートンの暗い映画という印象が強くて、それに惹かれたということのほうが大きい。バットマンは何度も映画化されているが、私はティム・バートンのとクリストファー・ノーランのしか知らない。つまりジャック・ニコルソンかヒース・レジャーか、というふうに考えてもよい (もっとも私はルーシャス・フォックス役のモーガン・フリーマンが好きなのだけれど)。とはいっても映画とはその全体の雰囲気だと私は考えるほうであり、私の中で夢想するゴッサム・シティのイメージは最近の腐乱した東京に似ている。

だから初期のプリンスのアルバムはすでに出尽くした後で、後追いで聴いていったのに過ぎないし、そんなに熱心なリスナーではなかった。自己弁護するようだが、この 「そんなに熱心なリスナーではなかった」 というのはそのミュージシャンを長く聴き続けるためのキーワードのような気がする。すごく熱心に聴き過ぎると、かえってすぐに飽きて色褪せてしまうのかもしれない、とこの頃は思うのだ。

プリンスの《1999》(1982) は大ヒットとなった《Purple Rain》(1984) の前に作られたアルバムであるが、つい先日、リマスターされたアルバムが出されたばかりである。多くの未発表作品が収録されているというのは、ビートルズの最近のデラックス盤や、ロックの大きなグループの再発盤のリリースを踏襲しているようにも思えてしまうが、日本ではプリンスのファンというのは、私の感覚では一般的ではなくて多分に偏りがあり、そうした中でこういう体裁のものが出されてしまうということだけで喜ぶべき事態である。コアだけれど一定のファン層があるのだろうと推察できる。そしてその関連の記事なども多く目にする。

21世紀になってからのプリンスのインターネットを排斥するような発言と行動は、結果としてコアでない私のようなファンには彼がミュージックシーンから消えてしまったようにも感じられてしまったのだが、そして今から振り返るとプリンスがそうしてアンダーグラウンドで活動していた時期を含めて、私は彼の音楽を正確に理解してはいなかったと思う。すごいということはわかるのだが、それはごく漠然としたものでどういうふうにすごいのかというのがわかりにくい。単純に音楽に対する知識と経験値がなかったのだといわればその通りだが、それは彼の表層を、つまり顕示されるものに惑わされていて、その本質までに辿り着けなかったということに他ならない。

今回の《1999》リリースに関して、当時のギタリストであったデズ・ディッカーソンへのインタヴューがある。TOWER RECORDSの宣伝誌『bounce』433号と、billboard JAPAN 11月29日のSpecial記事を読み較べると、大体同じような内容なのだが、ややニュアンスの違う部分もあって興味深い。
その頃のプリンスのバンドは、比較的身内のメンバーでかためられていて、その中にオーディションで選ばれ加わったディッカーソンは、いわば 「外様」 な状態だった。しかしプリンスからの処遇は決して悪くなく、彼のプレイを常に尊重してくれたという。だがプリンスが急速に人気を得るにつれて、ビジネスとしてのストレスも大きくなり疲弊していっただろうということが、そうした直接的言葉はないけれど暗黙裡に感じ取ることができる。ディッカーソンは1999ツアーの後、バンドを脱退するがそれはプリンスと袂を分かったようなかたちではなく、あくまで友好的なものだったという。そしてその動機として『bounce』の記事では 「信仰上の理由」 と語られている。しかしbillboard JAPANでは次のような発言が記録されている。

 信仰上の理由も確かにあったけど、ほかにも理由はあった。なんていう
 か、だんだん居心地が悪くなっていったんだよね。よく覚えているのは
 ワシントンDCでのショーなんだけど、8歳くらいの女の子が観に来て
 て、そのとき僕はプレイしながら、自分の娘にはこの曲を聴かせたくな
 いと思ってしまったんだ。どの曲かは言わないけど、そういう気持ちに
 させる内容だった。

確かにプリンスの歌詞は、特に初期の歌詞はそうしたセクシャルなイメージがあるし、アタマの悪そうな言葉、とんでもない言葉が使われていたこともある。ただそれは多分に、メディアに取り上げてもらおうとするためのポーズととれないこともない。プリンスの歌詞は意外に 「かわいい」 ときがあるのだけれど、それでいて決して単純さにとどまらない。そういう歌詞を歌っている表層のプリンスという歌手を外から冷静に見つめているプリンスという、幻影ともいえる二重性の存在を感じる。それこそが自分自身をもカリカチュアとして、手駒として利用しているプリンスの本質なのだ。
ディッカーソンは気に入っていた曲として、自らのソロがフューチャーされている〈リトル・レッド・コルヴェット*〉をあげている。そしてそうした曲の成立過程を語るのだが、その様子から常によりよいものを目指すプリンスの姿勢がうかがえる。プリンスは常に、ハードルは高くしておけ、と言ったのだという。逆にそうしたヘヴィーな向上心にプレッシャーを感じたメンバーもいたのではないかと思われる。『bounce』の記事の最後には、

 そんな完璧主義が珠玉の作品を生み出し、同時に周囲との軋轢を招いて
 きたのは雄象に難くない。

と書かれている。ディッカーソンは地元ミネアポリスにおけるまだ人気の出る前のプリンスが 「リトル・スティーヴィー・ワンダーと呼ばれていた」 と回想するのだが、プリンスがバンドメンバーをいかにうまくコントロールして良い部分を出させるかというアプローチは、むしろマイルス・デイヴィスの手法を思い出させる。
(*コルヴェットとはそれが暗に何を意味しているのかは別として、直接的にはシボレー・コルヴェットのことである。松任谷由実の《流線型'80》に収録されている〈Corvett 1954〉のコルヴェットと同じであるが、松任谷由実のタイトルには最後のeが欠けていて、それがなぜなのかは不明である)


Prince/1999 (ワーナーミュージック・ジャパン)
1999:スーパー・デラックス・エディション




Amazonでは輸入盤のみだが国内盤がよい。
1999 -Deluxe-




Prince/Little Red Corvette
(ハチマキをしているギタリストがデズ・ディッカーソン)
https://www.youtube.com/watch?v=v0KpfrJE4zw

Prince/1999
https://www.youtube.com/watch?v=rblt2EtFfC4

Prince/1999
Live at The Summit, Houston, TX, 1982.12.29
https://www.youtube.com/watch?v=udkRI514KSI
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BWV826を記述する試み [音楽]

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Martha Argerich

昼のTVのバラエティ番組 「ヒルナンデス!」 でクラヴィコードが紹介されていた。番組はバラエティなのだが、東洋文庫の天井まで届く本棚とか北斎のあまり知られていない絵とか、内容はなかなか教養番組風で、クラヴィコードは国立音楽大学の収蔵品とのこと。ピアノとクラヴィコードの音の出し方の違いについての説明などがあった。黒白が反対の鍵盤。小さくまとまった慎ましやかな外観など、同じ鍵盤楽器でありながらグランド・ピアノのような威圧的表情とは無縁の姿に心惹かれる。
『レコード芸術』12月号のレヴューに《Early stereo recordings 3》という、EMI初期のステレオ録音を集めたオムニバス盤の記事をちょうど読んだばかりだったので、クラヴィーア系への興味が湧き起こっていたのである。CDに収録されている演奏は1954~56年なので、主にモダン・チェンバロが使用されているのだが、その内容とレヴューの熱心さに共感してしまう。演奏者リストの中にカークパトリックの名前があったのもその要因のひとつである。

以前の記事にも書いたことがあるが、ラルフ・カークパトリック (Ralph Kirkpatrick, 1911-1984) は私にとって特別な演奏者のひとりである。なぜなら初めて買ったバッハの鍵盤曲のレコードがアルヒーフ盤のカークパトリックのパルティータだったからで、まだレコードを何枚も持っていなかった頃だったから、何度も繰り返し聴いたことでそれが刷り込みとなり、私の中での基準になってしまったのである。だが彼の演奏はその頃評判が悪く、生硬で面白くないというのが大半の意見だったと思う (いまでもそうなのかもしれないが)。
カークパトリックは演奏者であると同時に研究者でもあり、ドメニコ・スカルラッティの権威であった。それは何種類かあるスカルラッティの作品番号のひとつであるKまたはKkがカークパトリックの意味であることからもわかると思う (Kだとケッヒェルと紛らわしいので私はKkを使うようにしている)。そうした学究的印象が生真面目で遊びがないというような先入観につながっていったのではないだろうか。だがバッハはムード・ミュージックではないのである。
先にあげたEMI盤の評の中では、

 カークパトリックのソロもゴーブルのモダン楽器だが、先進的なアーテ
 ィキュレーションで極めて 「新しい」 印象を受ける。この時代でこれほ
 ど様式的なフローベルガーが聴けるとは。しかもテンションが高く、カ
 ークパトリック再評価すべき! と強く思った。

と書かれていて溜飲の下がる思いである。そもそもレコード (あるいはCD) 評なんて、そのときどきの流行に多分に左右されていて、必ずしも参考になるとは限らないのだ。そのカークパトリックが弾いたアルヒーフ原盤の平均律の使用楽器はクラヴィコードであり、曲の性格から考えればクラヴィコードが適しているようにも思えるのである。そしてヘンレ版パルティータの中扉裏には初版の表紙と思われる図版があるが、その下に英語とフランス語訳が併記させれていて、フランス語だとEXERCICES POUR LE CLAVIERと曖昧だが英語表記ではCLAVICHORD PRACTICEと明快である。

バッハの鍵盤曲の中でパルティータは、イギリス組曲、フランス組曲と並ぶ3大クラヴィーア曲集的な認識がされているが、パルティータはバッハが 「クラヴィーア練習曲集第1巻」 として出版した作品であり、バッハにとって最も重要な鍵盤曲集である。イギリス組曲やフランス組曲と異なり、曲名から想起する具体的なイメージがなく抽象的であるが、やはり組曲であり、それは舞曲の集成という一定の形式に従っている。だがそれは平均律ほどには構成的でもメカニックでもなく、ゆるやかな形式性に則っているのに過ぎない。BWV番号では825~830に位置している。
フレスコヴァルティの頃にはパルティータとは変奏曲の意味だったというが、その後、組曲の意味に変化してゆき、バッハは組曲の意味として使用している。バッハには無伴奏ヴァイオリンのソナタとパルティータや無伴奏フルートのためのパルティータという作品もあるが、そこで示されているパルティータと概念としては同一である。

カークパトリックの演奏楽器はもちろんチェンバロであったが、現代のピアノで演奏するのにも好適な曲である。パルティータはどのピアニストも弾く有名曲であるが、マルタ・アルゲリッチのパルティータはある意味せわしげで強烈であるが、彼女の音楽への対峙のしかたそのものを現しているように思う。それは峻厳であり深層を走る水流である。バッハは未来においてこうした演奏がされることをおそらくは想定していなかっただろうが、それゆえに現代のバッハ演奏として強い印象を残す。一方でもはや伝説となりつつあるグレン・グールドの若き日の演奏もあるが、グールドの弾き方はその音価が短い傾向にあり、フーガのなかに浸り込もうとする私を躊躇わせる。
2008年のヴェルビエ音楽祭におけるアルゲリッチのパルティータ第2番のロンドとカプリッチョの演奏がYouTubeにあって、バロックとしてもっともスリリングな瞬間を見せてくれる。単純にチェンバロとモダーン・ピアノの違いだけでなく、曲に対する解釈が異なるのだ。そしてカークパトリックもアルゲリッチも、どちらもバッハなのである。翌年のヴェルビエ音楽祭でアルゲリッチはスカルラッティのKk.141のソナタを弾いているが、このスピードはチェンバロでは不可能なスピードである。

市田儀一郎は全音の楽譜《フランス組曲》の解説の中で次のように書いている。

 《フランス組曲》をはじめとして《イギリス組曲》《パルティータ》と
 いった一連の舞踏組曲にわれわれの耳や心が求めるものは、端的にいえ
 ばリズムや動きの多様性と情趣 (独 Stimmung) の世界であり、変化と
 趣味性であろう。流動の多様さとリズムに対する知的および感覚的な悦
 びである。

さらに、

 バッハはこれらの組曲を単に家庭における音楽的な団らんや教育用のた
 めだけではなく、真に 「心の愉しみ」 として供されるよう望んでいたに
 違いない。

つまり《フランス組曲》だけでなくこれらの舞踏組曲は単純に練習曲としても使えるのだが、バッハの真意はそこに留まってはいないというようにとらえることができる。

BWV826からは離れるがパルティータ第6番・BWV830の最後の曲であるジーグは死の曲であると私は以前に書いた。だがそれは演奏者の解釈によっても異なるのである。やはりYouTubeで行き当たった武久源造の弾き方も妙な不安感を私に与える。バロックは抽象的であるがゆえにその不安はすがるべき基盤がなく漂ったままである。


Ralph kirkpatrick/the complete 1950s Bach recordings on archiv (Archiv)
Complete 1950's Bach Recordings on Archiv




The Art of Ralph Kirkpatrick (Ars Nova)
https://tower.jp/item/4778391/

Martha Argerich/Bach: Toccata BWV911, Partita BWV826,
Englische Suite BWV807 (ユニバーサルミュージック)
バッハ:パルティータ第2番、イギリス組曲第2番、トッカータ




Ralph Kirkpatrick/Bach: Partita BWV 826, 1. Sinfonia
https://www.youtube.com/watch?v=bIPxF5prRO4

Martha Argerich/Bach: BWV.826, 5. Rondeaux~6. Capriccio
Verbier 2008
https://www.youtube.com/watch?v=JXH-sj9miO8

Martha Argerich/Scarlatti: Sonate K.141
Verbier 2009
https://www.youtube.com/watch?v=Gh9WX7TKfkI

Genzo Takehisa/Bach: Partita BWV 830, Gigue
https://www.youtube.com/watch?v=e1PS2_NHqG0
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マイク、声、歌 ― 大塚愛、machìna、大貫妙子 [音楽]

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ほとんど毎日のように通る道がある。道の途中に小さなカラオケ・スナックがあって、夜、前を通ると店内から歌声がきこえる。時には歌に合わせたタンバリンの音もきこえる。だが、前を通る数秒から数十秒の間に、上手いなと思うような歌を聞いたことは一度もない。もう何年もその店の前を通っているが、きこえるのはいつも下手な歌声である。場末の、しかも今時、スナックとしか形容できないような昔ながらの飲食店なのだからしかたがないのだろうと思う。そして他人がきいたら、私がカラオケで歌う歌もその程度なのだろうと思う。

でもプロの歌手の歌は上手い。ともするとプロとアマチュアの差はそんなに違わないように錯覚してしまうが、その間にはかなりの隔たりがある。それは他のジャンル、たとえばスポーツでもそうだ。ゴルフでもテニスでも野球でもサッカーでも、プロと名乗っている人は、客観的に見てけっこうすごい。
ただ、スポーツはある程度の鍛錬が必要なので、その 「かなりの隔たり」 が理解しやすいが、歌を歌うという行為は誰にでも簡単にできることなので、特にカラオケというシステムができてからは、歌うことに対する敷居が低くなったようで、カンチガイなアマチュアが出現しやすい。だが隔たりは見えにくくなっただけで、近くなったわけではないのである。

もうひとつ、プロの歌手はすごいと思うことがある。
自分の声を録音し、それを再生して聴くとき、その差に愕然としたことがないだろうか。まだ幼い頃、録音された自分の声を初めて聴いたとき、私は 「これ誰?」 と思った。自分で聴いている自分の声と、録音された自分の声は同じではない。自分の声は自分の体内で響いているのを聴いているので良い声に聞こえるが、録音された音はその響きの成分が抜け落ちているから、痩せた薄っぺらな声にきこえる。だがそれこそが本来の自分の声なのだ。その甚だしい差に愕然として、私は歌手への道を断念したのである (……冗談ですので)。
人間は自分の顔を直接見ることができない。鏡に映った顔は反転した虚像であるから、他人が見ている自分の顔と同じものではない。同様にして、人間は自分の声を直接聞くことができない。自分で聞いている自分の声は体内で響いている美化された音に過ぎず、録音された自分の声はコピーであり、自分の声そのものではない。
プロの歌手だって、録音された自分の声を初めて聴いたとき、きっと 「ええっ?」 と感じただろうと思う。だが彼らは自分の声がどういう声なのかを冷静に見極め、その声をいかに美しく改善するべきかと努力するのだ。

『Sound & Recording Magazine』2020年1月号は、「プライベート・スタジオ2020」 という特集で、超お金持ちスタジオから、そうでもないスタジオまで並列して見ることができて面白い。超弩級なシステムは、買えもしないフェラーリのスペックを知るのと同様で、あまり意味がない。私はメカマニアではないので、最終的に生成された音楽がどうなのかが重要なのだ。

まぁそんなことはどうでもいいとして、プライベート・スタジオ特集のトップは大塚愛の自宅スタジオである。MacにProTools、そしてメインのキーボードはRD-700GXとのことだが、アコースティク・ピアノに近いタッチなので選んだという。同じ700GXがリヴィングにも置いてあって、作曲はリヴィングですることが多いのだそう。子育てをしながらだと、そのほうが便利に違いない。スタジオの内装が明るい色なのは、暗いと眠くなってしまうからとのこと。ギターも黒のムスタングなのはフレンチ・モダンという路線に合っている。
彼女のこだわりはマイクである。デビューから紆余曲折があり、ノイマン67なども経て辿り着いたのが5thアルバム《Love Letter》で使用したテレフンケン Ela M251Eという真空管のマイクだったそうである。とても気に入ったので、自分で持とうと考え、ヴィンテージを入手した。それをヴォーカル・ブースにセッティングした写真が掲載されている。気に入った理由は、

 「自分の歌声が細いのをコンプレックスに思っているので、そこをマイ
 クで補完したいという気持ちがあるんです」

と語る。私は《Love Letter》あたりまでは比較的聴いていたのだが、最近の作品はほとんど知らないでいた。以前よりオトナっぽい雰囲気だが (あたりまえ)、黒地に白のウサギがインターシャになったニットがポップでシックに見える (ポップでシックって形容矛盾?)。プロフィールの最後に、「苦手な食べものはさくらんぼ」 というのがあって、ちょっと笑う。

もうひとり、私にとって興味を惹いたのがmachìnaで、そのエクイップメントのユニークさが光る。DAWはMacBook ProにAbleton live、そしてその手前にNovation 49SLMKIII、Ableton rushが並ぶ。記事のキャッチには 「機材を直接触ることで生まれる偶発的サウンドを追求」 となっているが、特にAbleton rushはそうした意図に最適なインターフェイスだという。Clavia DMIのNord Rackやmoog Sub37もあるのだが、Teenage Engineeringのガジェットっぽい小さなシンセたちがゴチャゴチャと並べられていて存在感を示す。
そして何かよくわからないモジュールを詰め込んだモジュラー・シンセは、古いSF映画に出てくる怪しい博士か、あるいは昔のブライアン・イーノが使っていたSynthiをパラフレーズしたようなイメージで、どんなふうに使っているのかだが、YouTubeにあるライヴを観るとそのヴィジュアルがアナログでアナクロでカッコいい。
彼女もマイクにこだわっているようで、使用しているのはノイマンU87である。最新作《Willow》の〈floating still〉というのをちょっと聴いてみた。声に魅力がある。しかもそれはヴァリアブルで、以前の作品、アンジェラ・アキとの〈Waltz-steps〉などとは雰囲気が違う。《Willow》の前作にあたる《archipelago》の〈Reboot〉の動画をYouTubeで観ることができる。

大貫妙子もマイクにこだわっていたことを思い出す。彼女のマイクはノイマンU47、それとマンレイだったろうか。大貫は真空管マイクにこだわるだけでなく、アナログ/デジタルの推移にもこだわる。
アナログで録音されたアルバムがCDにかわったときも、その初期は 「さみしい音」 だったので、リマスタリングするときは立ち会うのだという。

 このリマスタリングにはかならず私も立ち会う。しかしどうしたって、
 アナログの、つまりLPとして発売されたときの音は再現できない。ア
 ナログによる録音は、実際には聴覚として耳で聴こえない中にもなお多
 くの音が存在する世界だが、デジタルは言うなればパルスみたいなもの
 だから、物理的には音は繋がっていない。聴感としての音が繋がってい
 るように聞こえているだけ、のものだ。
 (大貫妙子『私の暮らしかた』新潮文庫、p.54)

そしてまた、

 レコーディングされた音源の容量が圧縮されてCDになり、たとえばミ
 ニコンポで再生される際にさらに圧縮され、配信やiPodなどでもっと圧
 縮されて聴かれていることを思うと、LPの時代と比べれば、音楽もず
 いぶん骨抜きにされたなぁと正直、思う。(同書、p.55)

ともいう。結局、今、音楽はBGM的であり、そんなに真剣に聴かれなくなったし、誰もが知っている歌なんてないし、もしかすると人間の聴覚も衰えているのではないかと思う。デジタルにして音を圧縮して間引きしても、どうせわからないだろうという生産者側の驕奢がほの見える。同じ値段なのにだんだん小さくなってゆくパンと同じだ。
とりあえず今、ソニーから再発されている大貫妙子のLPは全部買っているが、アナログはアナログで、というのが私の感じた彼女からの示唆である。


Sound & Recording Magazine 2020年1月号 (リットーミュージック)
Sound & Recording Magazine (サウンド アンド レコーディング マガジン) 2020年 1月号 (特集 : プライベート・スタジオ2020)




大塚愛/私
https://www.youtube.com/watch?v=2TfvT0lzgFA

https://www.machina.link

machìna/Waltz-steps
https://www.youtube.com/watch?v=Ug6Vam0ADRY

machìna/The Liquid Sky Berlin Session
https://www.youtube.com/watch?v=H5SVR3w9wHI

machìna/Reboot (live at Ozora One Day In Tokyo 2018)
https://www.youtube.com/watch?v=1V-9dgFfAcU

大貫妙子&坂本龍一/3びきのくま
https://www.youtube.com/watch?v=IfaEf1YmTl4
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