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Quiet Now — 嶋護『JAZZの秘境』 [本]

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嶋護『JAZZの秘境』は久しぶりに読んだスリリングな本である。その第1章 「絞殺された白鳥の歌」 はビル・エヴァンスの最後のレコーディングといわれるキーストン・コーナーでのライヴの話から始まる。
ビル・エヴァンスは1980年8月31日から9月7日 (あるいは8日)、サンフランシスコにあるジャズ・クラブ、キーストン・コーナーに出演した。その演奏を、プライヴェート録音であるが、一応ラインで録っていた記録が《Consecration》《the last waltz》といったタイトルでラスト・ライヴとして発売されたアルバムであるが現在は廃盤である。そのあたりの事情が非常に詳細に語られていて、まるで推理小説のようで面白い。そしてビル・エヴァンスは9月15日に亡くなる。それは緩慢な自殺と言われる死であり、彼自身も自分の死期が近いのを覚悟していて、しかしその直前までライヴを繰り返していたのだという。しかもびっしりと予定を入れていて、それはそうすることによって死神の到来を遅らせることができるのではないかという妄執にとりつかれていたのかもしれないと思われるほどの異常なライヴツアーであった。
彼はその後、東海岸に行き、ニューヨークのジャズクラブ、ファット・チューズデイズに出演したが、11日に体の具合が最悪となり演奏することは不可能になって、15日に医者嫌いのエヴァンスを無理やりに病院に連れて行ったのだがすでに手遅れだったのだという (en.wikiにも15日とあるが、ja.wikiでは14日に入院し翌日亡くなったと書かれている)。つまりキーストン・コーナーの録音は死の約1週間前の録音であり、最後の録音とされている。ファット・チューズデイズでの録音も存在するのでは、とも噂されているが、現在のところそれは確認されていないとのことである。

晩年のビル・エヴァンスの演奏については毀誉褒貶があった。音が緻密でなくて雑であり、全盛期に較べて内容的に落ちるという評をする人も多くいる。ジャズに詳しい私のかつての知人もそのような意見だったので、事情に疎いその頃の私はそれを信じ込んでいたような記憶がある。時を経て私が、自分の耳しか信じないと繰り返し書くようになったのは、そうした他人の意見に惑わされて後悔するのを避けなければならないこと、そして自分の耳と感性を信じるべきという信念でもある。音楽を良いと思うか悪いと思うかは人それぞれで相対的な感覚なのであり、それを他人の耳に委ねる筋合いはない。したがって逆にいえばこうして書いている私の戯言などに惑わされてはならないのである。そもそも他人の批評など、参考にする程度の価値しかないはずなのだ。

ビル・エヴァンスは若い頃の知的で繊細で神経質そうに見える外見とは裏腹に、ジャンキーで競馬狂で女性問題も複雑で、医者嫌いの頑固で破滅的な性格だったのである。最後まで麻薬との関係性を断ち切ることはできなかった。冷静に聴けばビル・エヴァンスの最盛期はスコット・ラファロとの頃と、そしてヴァーヴの諸作、特に《at the Montreux Jazz Festival》を頂点とする比較的初期の頃にあるように思う。だが私の最も好きなバド・パウエルはとっくに全盛期を過ぎた《Portrait of Thelonious》であることは以前に書いた。時にもつれてたどたどしい指が彼の人生の悲哀を滲ませていて心に響くのである。それと同様に、ビル・エヴァンスの遺した演奏は出来不出来を超えてそのすべてが聴く対象としての意味がある。それは例えばパーカーやマイルスと同様という意味である。
またエヴァンスは自分の演奏に対する賛辞としての言葉であるbeautifulとかmelodicといった形容を好まなかったのだという。そして次第に自分の音楽は単音によるフレーズではなく、ハーモニー、つまり和声が重要であると語っていたのだという。

嶋護のビル・エヴァンスのこの最晩年に対しての記述は、未知のことも多くて興味深い。いや、興味深いなどというステロタイプな表現で形容してしまえるようなレヴェルではなくて、当時の音楽フィールドにおける機微がくっきりと浮かび上がる。
そしてこのラスト・トリオは20ヵ月にわたって続いたが、その間、純粋なピアノ・トリオでのレコーディングは1枚も無いのだという。ほとんどはオフィシャルでないライヴ録音であり、キーストン・コーナーでの録音も最終的にはオフィシャルになったが、もともとは店のオーナーが趣味で録っていた音であり、プロフェッショナルな録音ではないのである。

こうした事情は著者が、レコーディングに関連したライターであることに発しているといえる。それゆえにこの 「絞殺された白鳥の歌」 の後半は、嶋護のレコーディングの変遷に対する卓見であり、まさに目からウロコであった。
それによればキーストン・コーナーでのライヴCDは初出の盤が最も音的にすぐれているというのである。その具体的な例として、いわゆるアウトボードであるコンプレッサーの使い方についての説明がある。コンプレッサーはその名の通り、録音された音を圧縮するためのデヴァイスであり、リミッターよりもよりヴァリアブルな融通性を持っているが、同時に音の色付けとして録音された音に対する影響力を持つ。
例としてルディ・ヴァン・ゲルダーとフェアチャイルドのコンプレッサーによる魅力的な音作りをあげている。コンプレッサーを通すことによって、ある種のテイスト——ジャズらしさが生まれる。だがコンプレッションすることは必ずしも良い面ばかりではないということが語られる。つまりCD時代になってからしばらくして音圧競争が始まり、コンプレッションを一杯にかけた、のっぺりとしたサウンドが流行、あるいは主流になったことをあげている。フィル・スペクターを嚆矢とするウォール・オブ・サウンドという形容は昔から言われていたが、音圧競争というのはそのパターンに包含される手法であり、聴いていて気持ちがいいのかもしれないが、そうした意図によってリマスターされた音は全体が圧縮されてしまうので、エヴァンスの本来のクリーンなピアノがそうではなくなってしまっていると指摘するのである (ヴァン・ゲルダーに対する批判というのも存在するがそれはまた別にすべき話題である)。
嶋護はこの差をラウドな音であるか、クワイエットな音であるかの差、というふうに表現している。ラウドな音というのが、まさにコンプレッションされた音という意味である。だがクワイエットであることはヘッドルームを多く必要とするので音圧が低くなるから、見かけ上、音が痩せてしまったように聞こえてしまう。それを防ぐためにはヴォリュームを上げなければならないが、それにはパワーが必要なのでプアなオーディオセットではそれが果たせない、というようなことであるというふうに読み取れる。

私はレコーディング・テクニックにはまるで無知なのでこの解釈が正しいのかどうかさえよくわからないのだが、ビル・エヴァンスの最も有名なライヴ、ヴィレッジ・ヴァンガードでも、最初に出ていたアルバム《Sunday at the Village Vanguard》、そして《Waltz for Debby》と、後年リリースされたコンプリート盤とでは明らかに音が違うように感じられる。そのことも以前、記事に書いたが、アルバムとして編集された音は、ある意味、化粧された音なのかもしれない。コンプリート盤は音が、良く言えばリアリティがあるが、色付けがなく無骨でもある。それは何もポピュラー音楽に限ったことではなく、経緯としては異なるが、古いフルトヴェングラーの録音などにもそうした相違のある現象が存在している。加工した音が必ずしもよいわけではなく、だからといって全くのすっぴんでは見せられない、というような二律背反した意識もあるのだろう。
たとえばマークレヴィンソンがその初期の頃、音に色付けをしないように、とシンプルなプリを出していたのにもかかわらず、チェロになった途端、オーディオパレット (一種のEQ) というまるで正反対の機器を出したことを思い起こさせる。
だが現実には、コンプレッション云々どころか、それを体感するためのキーストン・コーナーのCDそのものが廃盤のままであるということが悲しい。つまりビル・エヴァンスでさえその程度の需要しかない音楽であり、ジャズという音楽がもうメインストリームではないという証しなのだ。


嶋護/ジャズの秘境 (DU BOOKS)
ジャズの秘境 今まで誰も言わなかったジャズCDの聴き方がわかる本




Bill Evans/Quiet Now (at the Montreux Jazz Festival)
https://www.youtube.com/watch?v=b_20aWN3iLo

Bill Evans/Quiet Now
https://www.youtube.com/watch?v=FqmHDJ8sUBo
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ペストと疫病流行記 [本]

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Albert Camus

夜道を帰ってくると、車は通るのだが人はほとんど歩いていない。今夜も昨夜も、誰にもすれ違わなかった。食べ放題の飲食店は閉まっているし、開いている居酒屋もあるが活気はなくて、街全体がゴーストタウンのようだ。桜は咲いているが幽鬼の花のようでもある。

こうした今の状況下で、アルベール・カミュの『ペスト』(La Peste, 1947) が売れているのだという。タイトルからの連想があまりに即物的でそんなふうに反応するのかと思ったのだが、その即物的な観点から見た描写そのものが今を照射していることに気がついた。
たとえばこんなところ。

 市内それ自体のなかでも、特に被害のひどい若干の区域を隔離して、そ
 こからは必要欠くべからざる職務をもつ人間しか出ることを許さないよ
 うにすることが考えられた。これまで、そこに住んでいた人々は、この
 措置を、特に自分たちだけを目当てにした一つの弱い者いじめみたいに
 見なす気持ちを押ええなかったし、いずれにしても、彼らは対照的にほ
 かの地区の居住者たちのことを、まるで自由な人間のことでも考えるよ
 うに考えていたのである。ほかの地区の居住者は、それに引きかえ、彼
 らの最も困難な瞬間にも、他の人々は自分たちよりもまたさらに自由を
 奪われているのだと考えることに、一つの慰めを見出していた。「それ
 でもまだ俺以上に束縛されている者があるのだ」というのが、そのとき、
 可能な唯一の希望を端的に示す言葉であった。
      (カミュ全集第4巻「ペスト」宮崎嶺雄訳、新潮社、p.137)

小説のかたちとしては『異邦人』に続く不条理文学であるのだが、不条理を不条理な状況として描くためにはリアリティを積み重ねていくことによって、その不条理さを確立するという技法が必要なのだ。それはクリアなイマジネーションであり、幻想文学とは全く逆の方法論でもある。ペストは一種の寓意でありながら寓意ではない。そこにカミュの特質が存在する。シシュポスの無益なリフレインの寓意と同じで、結局人間は強大な悪意 (と言ってもいいだろう) には対抗できないし、それをコントロールすることは不可能なのだ。不可能なことなのにもかかわらず「原発のアンダーコントロールはできている」云々と口にした者がせせら笑われているのに等しい。つまり寓意として考えれば原発とペストはイコールなのである。
高畠正明の解題によれば、カミュはハーマン・メルヴィルの『白鯨』(Moby-Dick, 1851) に小説の手法としての関心を示したのだという。白鯨自体をひとつの象徴として見ることも可能だが、その象徴性をかたちづくるためにリアリティ、あるいはリアリティと思わせられる描写を積み重ねていく手法という点にカミュは惹かれたのだろう。

もうひとつ、同様な即物的観点から思い出してしまう作品に寺山修司の戯曲「疫病流行記」がある。

 魔痢子 その話はきいたわ。支那人地区 [チャイナタウン] で疫病患者
 が一人出たという噂でしょう。
 支配人 いいえ、一人ではありません。「週刊死亡報」によると、疫病
 で死んだ患者は五日前には十七人、三日前にはもう四十二人になったそ
 うです。
 魔痢子 それは新聞が大袈裟に書き立てているだけ。実際は疫病じゃな
 くて、ただの食中毒ですよ。それに、暗い話が流行る時、キャバレーを
 流行らせるのこそ、支配人の腕というものです。誰でも憂さ晴しを求め
 ますからね。
        (寺山修司の戯曲第5巻「疫病流行記」思潮社、p.57)

疫病が流行っているということを懸命に否定して、患者を少なく少なく見積もろうとしたり、他の話題に視点を逸らそうと画策している虚偽で塗り固められた者と真実を暴こうとする者との対立構造がここから読み取れる。
寺山はその作品ノートで、この作品を海外で上演した際には一切の台詞を用いず、釘打ちの音に集約したのだという。そしてそれは、

 言葉から意味の持つ修辞性を剥奪し、演劇を文学から独立させようとい
 う意図によるもので、単に「海外公演」の方便というわけではなかった。
                         (同書、p.329)

と書いている。
さらに寺山はこの釘を打つという行為について、雑誌『みずゑ』に掲載された松本俊夫の批評を引用する。

 何らかの目的のために、超自然的手段をもって状況を統御しようとする
 のが呪術だとすれば、ここで釘打ちの呪術が統御しようとしているのは
 疫病である。それはまず何よりも箱男のそれのように、疫病の遮断とし
 て表現されているとみてよいだろう。だが、デフォーの言いまわしでは
 ないが、釘づけにされた扉の内側では、これまた「新しい世界が始まっ
 ていた」ことを見落とすわけにはゆかない。それは呪術的幻想の伝染性
 と呪縛性としての「もう一つの」疫病である。
                        (同書、同ページ)

寺山の描いた疫病と「もう一つの」疫病について松本は「そのプロセスと構造はそれじたいで呪術的幻想の類感性を見事に浮かびあがらせているが、その下意識の共同性としてのこの悪夢には二つの強迫観念が横たわっている」というふうに指摘する。それは戯曲の中にあらわれる幾つかの具体的なエピソード、私が今書いている言葉で代替するのならば「象徴性をかたちづくるためのリアリティの積み重ね」によって現出されている2つのベクトルを指しているのだが、それを松本は不安と願望の互いに補完する関係性という。そして、

 しかもそれはレミングのねずみのように、疫病がパニックをひき起こし
 てゆくことの結果とも原因ともなっており、その意味において釘打ち行
 為が、自閉と監禁の両義性をとり込みつつ、一方で疫病を遮断しながら、
 他方ではむしろ積極的に、感染の触媒となってゆく関係に対応している
 ことは明らかである。
                         (同書、p.330)

というのである。
つまり、寺山の場合の疫病という言葉はカミュが描いたペストより、より寓意は顕著であり、単なる象徴に近いものであるのかもしれない。でありながら、疫病を否定してただの食中毒だと済ませようとする欺瞞のような具体性を強調し積み重ねることによって寓意が強まるのである。
だがそれよりも私が着目したのは寺山が戯曲を書く際に「演劇を文学から独立させよう」とする意図であり、それゆえに極端にいえば寺山の戯曲はメモに過ぎず、舞台に乗せられたときにのみ完成品として形成されるものであり、それが一種の幻想性として作用するという皮肉である。

寺山の「疫病流行記」というタイトルはダニエル・デフォーの A Journal of the Plague Year の翻訳タイトルそのままであり、それはジョナサン・スウィフトの『奴婢訓』やガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』といったタイトルを流用した経緯とかわらない。寺山はあらためて自作にオリジナルなタイトルをつけることなどどうでもいい、と考えていた節がある。
そしてカミュの『ペスト』もそのエピグラフはデフォーの言葉であり、つまり元ネタはどちらもデフォーなのだ (尚、デフォーの最も有名な作品は『ロビンソン・クルーソー』、そしてスウィストは『ガリバー旅行記』の作者である)。

現実の感染症は人の心を暗くする。感染症という言葉に、ともすると「清潔寄り」な印象を受けてしまうが、その病気の本質は伝染病でありさらに昔の言葉でいうのならば「疫病」である。ペストはすでにその言葉自体が禍々しいが、黒死病というと、もっと時代がかっていて不穏な響きがする。不必要に汚れた言葉を使う意味はないが、言い換えして浄化した言葉で現実をカムフラージュしてしまうのはもっとよくない。経済効果優先の巨大イヴェントより、もっとシンプルで素朴なイヴェントに立ち戻ることはできないのかと思うのだが、金権政治に清潔さは似合わないのかもしれない。


アルベール・カミュ/ペスト (新潮社)
ペスト (新潮文庫)

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トミカの沼には近づくな [ホビー]

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トミカプレミアム12/ポルシェ911カレラRS2.7 (scale: 1/61)
(takaratomy.co.jpより)

サトーココノカドーの中で、なんとはなしにおもちゃ売場を見ていたらトミカの棚があるのを発見した。普通はそんなところは見ないのに魔が差したとしか思えない。時間はきっと逢魔が時だったのだろう。ちなみに逢魔が時という言葉から思い出すのは大島弓子ではなくて新星堂で出していたCDレーベルであるオーマガトキで、一時期、ブリジット・フォンテーヌはこのレーベルから再発されていたが、新星堂のレコード袋も紫だったことがあったのを思い出した。

まぁそんなことはどうでもいいとして、トミカである。トミカってこんなに種類があるんだ、というのが久しぶりに発見した印象で、でも変わっていないといえば変わっていないし、しかし単なる自動車だけではなくて、ディズニーキャラだったり、岸本佐知子さんが恐怖だと慄いていた機関車トーマスのシリーズまでが並んでいて、それこそ百花繚乱である。
ところでトミカというのは縮小率というのが決まっていない。いわゆるスタンダードなミニチュアカーというのは大体1/43というサイズなのだが、トミカは箱のサイズに合わせて製作されていてバラつきがあるが、大体1/60あたりのサイズが標準である。トミカの場合、大きめの車は小さく、小さめの車は大きく作って、つまり大体8cm×4cm×4cmの箱に入れたときブカブカだったりキツキツだったりがないようにしている。たとえばフィアット500Fは元の車が小さいので、1/45という大きめのスケールで作られている。そういう意味ではアバウトで、だからおもちゃなんだろうけれど、でもよく見ると、ていねいに作ってあるなぁと感心するのである。

早速、ネットのその手のマニアのサイトなどを閲覧してみたのだが、でもどちらかというとミニカー蒐集という趣味はややマイナーな感じがした。というか、そもそも何かを集めるということは、家のスペースとかを考えるとかさばるから無し、というのが本音のようにも感じる。それとフィギュアなどと同じで経年劣化の問題がある。ミニカーについていえば、ダイキャストvsレジンという材質の比較があって、どちらがいいとか悪いとか、でもよく考えると、そういうのってどのジャンルにもある問題だ。音楽メディアだってCDかアナログレコードかという対抗、いや、今はネット配信かそれとも昔ながらのメディアかという選択なのだろうか。
あるミニカーサイトではーーそのサイトオーナーは長年のコレクターに違いないと思うのだが、やはりミニカーはダイキャストと書いていた。精密な再現性も大切だがそれよりも質感が重要だとのこと。そして基本のひとつとしてトミカがある、とも。

まぁそんなこともどうでもいいとして、売場で格子状のケース内にディスプレイされているトミカを見ていると、やはりこのサイズだとドアが開いたりするギミックは全体のプロポーションが崩れてしまうと思うのである。でも子どもはそういうのが大好きだからドアもボンネットも開くように設計するのだろうが、純粋に自動車のデザインの再現性ということでみると、1/43サイズならともかくトミカサイズではドアが開かないほうが美しいということに気がついた。そう思ってしまう私はすでにオトナなのだから仕方がない。
そしてトミカには今までのスタンダードなシリーズとは別にトミカプレミアムというシリーズがあって、こちらのほうが価格的にはやや高いのだけれどよくできているように見える。

何か買ってみようと思ったのだが、だからといってこういうとき、オトナ買いでいきなり全部買ってしまうという行為はそれこそダサいのである。それに家の中のことを考えると、そんなものを置くスペースも無いし。それでルールを作った。1回に1台しか買わないこと。これが自己規制のルールである。こういうのって子どもの頃に戻ったみたいで面白い。考えに考えて、これが一番と決めるその過程がいいのだ。それはもう少し長じて、たった1枚だけレコードを買うときあれにしようかこれにしようか悩んだ状況にも似ている。オトナ買いというのは夢がないのである。
そして数台だけ買ってみたのだが、これが一番と思ったのは12番のポルシェカレラRS2.7である。俗に73カレラと呼ばれるもので実車の数は少ないはずである (当時、日本に正規輸入されたのは14台とのこと)。可動部分はサスペンションだけで、ドアも開かないしRRのエンジンも見えない。だが全体のディテールが小さくかわいくまとまっていてポルシェっぽく美しいのである。ディフォルメされているのだろうが、ポルシェの特徴をよくとらえているし、赤と白というカラーリングも洒落ている。ちなみにポルシェといってもポール・フレールは読んだことがあるが、サーキットの狼は読んだことがない。RSといえばこれ、ということらしい。

トミカにはトミーテックで作っているトミカ・リミテッド・ヴィンテージ、さらにヴィンテージ・ネオ、ヴィンテージ43などのシリーズがあるのだが (43のみ1/43スケール)、これらは完全にオトナのコレクターを対象としていて、このサイズにしたら精巧だけれど、子どもはたぶん買わないだろう。いやナマイキな子どもなら買うのかもしれないが普通に考えたら子どもには高価過ぎる。

トミカのサイトにはプレミアムの73カレラを発売した際のPVまであってトミカの担当者が新製品を紹介してくれるのだけれど、これがまたわくわくする。そのわくわく感というのは子どもの頃の精神性が呼び覚まされるからなのかもしれない。ただトミカの沼もいわゆるカメラのレンズ沼と同じで、あまり近づかないほうがいいというのが賢者の教えである。沼に近づくと水の中からあやしい神様が現れて 「おまえの落としたのはトミカのミニカーか? シュコーのミニカーか?」 と聞かれたりしそうである。


トミカプレミアム/12 ポルシェ911カレラRS2.7 (タカラトミー)
トミカ トミカプレミアム 12 ポルシェ 911 カレラ RS 2.7



トミカプレミアム 2017年7月新商品をレビュー【公式】
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=PKrVWQIoVko
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ヘキサグラム、そして永遠のタチェット — 白石美雪『すべての音に祝福を ジョン・ケージ50の言葉』を読む [本]

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John Cage, 1988 (npr.orgより)

ジョン・ケージの語った言葉から印象的なものを抜き出してそれに関する解説を付けているというのが、この本のなりたちである。ケージの言葉による一種の箴言集と考えてもよいのだが、それほどに堅苦しいものではなく、また、これだ! というような気のきいたフレーズはほとんど無いといってよい。そうした状況における決めゼリフの得意なのが武満徹だとするのならば、それと正反対のニュアンスがあり、それゆえにケージの人柄というものが滲み出ているような気がする。

あえて 「これだ!」 というのを選び出すのならば、それは、

 まちがっているのは私じゃなくて、ピアノだと判断した。私はピアノを
 変えてしまうことにした。
 I decided that what was wrong was not me but the piano.
 I decided to change it. [1972]

だと思う。(p.040)
これはプリペアド・ピアノを考え出す際に語られた言葉ということだが、ピアノを従来の演奏方法以外の方法で鳴らすための例として、解説ではまずクラスターとストリング・ピアノが挙げられている。これはヘンリー・カウエルという人が1920年代に編み出したアイデアであり、クラスターとは鍵盤ひとつひとつの音でなく、手のひら全体とか拳とか肘とかで音群として出してしまう方法、ストリング・ピアノというのはいわゆる内部奏法であり、マレット等でグランドピアノ内部の弦を直接叩いたり弾いたりする方法だが、もちろん音を出すための手具はマレットに限らない。指で直接というのも含まれる。
だがケージのプリペアド・ピアノの成立過程はそうした先例とやや異なる。ケージはあるライヴ会場で打楽器アンサンブルを使おうとしたが、会場を見たら狭くてそれは不可能にみえてしまった。ピアノを使うスペースしかないのだが、でも打楽器的な音を出したい。それでプリペアド・ピアノを思いついたのだという。
プリペアド・ピアノというのは、弦の間に消しゴムとかフェルトなどをはさんだり、あるいはネジとかクギなどの金属製のものを挟んだり乗せたりして、本来のピアノと違う音を出す方法である。ただこの方法はジョン・ケージとかチック・コリアだからできるので、シロートがこれをやるとピアノ管理者や調律師から叱られることは目に見えている。

ケージの世界に対する目が端的にあらわれている部分は、最初から2つ目の項目に取り上げられている次の言葉である。

 私たちが小声で静かになったら、他の人たちの考えを学ぶ機会が得られ
 るはずだから。
 For we should be hushed and silent, and we should
 have the opportunity to learn that other people think.
[1927]

小声で静かになるとは何のことなのかと思ってしまうが、これについての白石の解説を読むとそれがよくわかる。

 ちょうど時代は 「狂騒の二〇年代」、あるいは 「ジャズ・エイジ」 とも評
 された一九二〇年代である。アメリカ合衆国は未曾有の好景気に浮かれ
 ていた。第一次世界大戦の戦争特需で経済を持ち直し、戦後、債務国か
 ら一気に債権国へと転換すると、世界経済の中心地はロンドンのシティ
 からニューヨークのウォール街へと移る。そうした国力の増大を背景と
 して、合衆国は 「文明化する」 という大義のもとにラテン・アメリカの
 国々へと介入していた。(p.013)

端的にいえばこれがアメリカの覇権主義の始まった元であり (文中では 「汎アメリカ主義」 と書かれている)、それを批判したケージはその当時15歳であった。そしてそうしたアメリカの対外政策に対してケージは終生批判的だった。
ラテンアメリカに対する介入とその正当化について、以前の当ブログには今福龍太のカルメン・ミランダに関する記述があるが (→2019年08月17日ブログ)、カルメン・ミランダの悲劇はひとつのわかりやすい例に過ぎず、今福が指摘するようにそれらを総合したアメリカ的気質は根深い。ケージの主張していたような 「小声で静かに」 ではなく、大声でうるさくアメリカ・ファーストを叫んでいるのが昨今の現実である。

ケージは非アメリカ的なものに好感を持ち、アジアや日本の文化に対する理解もあったが、それでいてその民族的テイストにからめとられることはなかったのだと白石はいう。

 それでもケージが、即座にアジアや非西欧の民族音楽にのめり込むこと
 はなかった。コダーイ・ゾルターンやバルトーク・ベラ、あるいはスト
 ラヴィンスキーらが民謡に惹かれ、民謡を素材として吸収しながら独自
 の語法を確立したのとは異なり、ケージの発想はあくまで近代のモダニ
 ズムの延長線上に展開された前衛音楽と結びついていた。(p.019)

しかしそのように近代モダニズム、いわば純粋西欧的な基盤の上にケージの音は成り立っていながらも、その音楽的構成の手法について吉田秀和は異なった意見であったのだという。

 吉田は、芸術を自然の中に解消するケージの思想の重要性は認めながら
 も、音楽としてはヨーロッパ流の偶然性の導入、つまり限定された範囲
 でのみ、演奏家が決定する部分を取り入れた 「管理された偶然」 への共
 感を示している。つまり、作曲家が自らの表現をすべて放棄するケージ
 流の偶然性ではなく、作曲家が自己表現としての作品の在り方を維持し
 ながら、あくまで音楽に柔軟性を持たせるための技法として、部分的に
 偶然の要素を取り込んだヨーロッパの作曲家たちの方を評価したのであ
 る。(p.097)

ケージは1949年から1954年にかけてピエール・ブーレーズと手紙をやりとりし、それは2人の往復書簡として本にもなっているが、相互に影響はあったのかもしれないにせよ、その共感はどちらも当時のアヴァンギャルドであり周囲から理解されないという共通項によって支えられていたものであり、それぞれの方法論は全く異なっていたといえる。吉田秀和が評価したのはブーレーズ的方法論であり、それゆえにケージとは異なった意見であったというのも頷ける。

アヴァンギャルドという、ややもすると手垢のついた言葉についてのケージの視点は、

 前衛とは精神の柔軟性だ。そして夜のあとに昼が来るように、政治や教
 育の餌食にならなければ精神は柔軟になる。
 The avant-garde is flexibility of mind and it follows like
 day the night from not falling prey to government and
 education. [ca.1982] (p.180)

とのことである。prey to government and educationと 「prey」 と言っているのが面白いし、その悪の元がgovernment とeducationとして同列にされてしまっているのもこれまでのケージの発言を見ていると同様の反応である。教育はともすると腐敗した政治と同様に、かえって害悪になりかねないという意味である。
ケージの音楽教育に対する理想として、ブラック・マウンテン・カレッジというノースカロライナ州の山間地帯にあった教育機関があり、そこで教えたりしたことが彼の理想の教育機関はどうあるべきかという信念の根源になっている。ブラック・マウンテン・カレッジは1933年に創立され23年継続したとのことだが、ケージが訪れたのは1948年のマース・カニンガム (一般的にはカニングハムと表記される) とのツアーが始めであり、さらに同年と1952年にそこで夏期講習が行われたのだという。
それに先駆ける1947年からヨーロッパではダルムシュタット夏季現代音楽講習会が始まっているが、ダルムシュタットはブーレーズをはじめとするヨーロッパ的なアヴァンギャルドの総本山であり、ここにアメリカとヨーロッパの肌合いの差を感じることができる。

ケージは音楽的な偶然性ということを発想の元のひとつとしていたが、その偶然の選択肢の方法として易経を利用していた。ヘキサグラム (六芒星) とはその易経における6つの要素によるチャートを指し、2×2×2×2×2×2=64通りの分岐がある。だがチャートは後世にできた早見表に過ぎず、ケージが易経から具体的に用いたのはその操作のみであり、易経を表面的に応用したに過ぎないという批判もあるそうなのである。(p.074)

ケージのスキャンダラスといってよい面で代表的な《四分三三秒》—— ピアノ曲であるがピアニストは一音もピアノを弾かない —— には3種類の楽譜があり、1952年の初演時の大譜表に書かれた楽譜と1953年の白紙に縦線の書かれた楽譜は時間の経過としての概念がわかるが、1960年に印刷譜として出された楽譜はTacet (タチェット/休みという意味) という文字で表示されているだけで、時間の経過を表象するものは何もないと白石は解説する。
そしてこのTacet販の楽譜の成立について、白石は次のように書いている。

 この 「Tacet」 販の楽譜が出版されたころ、ケージはいろんなパターン
 の図形楽譜を好んで書いていた。彼の図形楽譜は音響そのものを記して
 いるのではなく、演奏家に対する行為の指示として書かれている。当時、
 ケージの音楽的創意は音響像から離れて、音響が生まれる行為へと注が
 れていたのだ。こうした関心の推移が、《四分三三秒》の楽譜の変化に
 投影されている。(p.055)

つまり図形楽譜はダイレクトで即物的な目印ではなく、もっと抽象的な概念を伝えるためのめやすに過ぎないのだという。言葉として乱暴だが、ケージの指示は 「何をやってもいい」 というのに等しい。だからといって何をやってもいいわけではないのはもちろんである。

またケージの性的傾向についてもさらりと書かれている。ケージは1935年にクセニア・カシュヴァロフという女性と結婚しているが、それまでに同棲していた男性もいたし、結婚している間にもモダンダンサーであり舞台芸術/音楽的な盟友でもあったマース・カニンガムと同性の恋愛関係を継続していた。ケージの《季節はずれのバレンタイン》という比較的有名な曲は、クセニアとの関係性を修復しようと作った曲なのだそうで、でも結局ふたりは離婚することになる。ケージをバイセクシュアルと考えてもよいが、どちらかというとゲイとしての性向のほうが強いと思われる。
松岡正剛の千夜千冊の1137夜にはポール・ラッセル『ゲイ文化の主役たち』という本の紹介があって、その中でケージは著者のランキングによれば第34位にされているそうである。ただ松岡のそれに対する解説の中で、「ぼくはケージとマーサ・カニングハムの仲を見せられて、目のやり場に困ったものだった」 とあるがマーサというのはミスタイプか、もしくは誤植なのか、それともマーサ・グラハムとマース・カニンガムがごっちゃになっているのかもしれない。マーサ・グラハムはマース・カニンガムの師匠にあたる人である。

ケージは私にとってあくまでも謎の人であって、その音楽性の核がどこにあるのかはいまだに不明である。彼の死後に催された水戸芸術館でのローリーホーリーオーヴァーサーカスについても私はかつて、よくわからないと書いた。それはいまだによくわからない状態のままであり、つまり全然理解力が成長していないことの証左であるが、この白石美雪の入門的ガイドによって少しだけその手がかりがついたような気がする。


白石美雪/すべての音に祝福を ジョン・ケージ 50の言葉
(アルテスパブリッシング)
すべての音に祝福を ジョン・ケージ 50の言葉




How To Get Out Of The Cage/A Year With John Cage
https://www.youtube.com/watch?v=LUPi_nK3Bis
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森山大道の撮る木村拓哉 [アート]

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木村拓哉/撮影・森山大道 (エル・ジャポン)

前記事の《SONGS》の放送の中で、新宿ゴールデン街に立つ木村拓哉を撮影する森山大道の姿が一瞬だけ映った。撮影された写真は雑誌『エル・ジャポン』に掲載されるとのこと、そこで早速ELLEの最新号を買ってみた。

『ELLE』とか『VOGUE』といったハイファッション誌は、時代の潮流とはほとんど無関係なままだ。景気が良いとか悪いとか、今のトレンドはとかいう現実は無視される。本来のハイファッションとはそういうものであり、それゆえに存在理由がある。
たとえばFrench Chic is Forverという特集記事の中のメゾン・マルジェラのニットには次のような解説がついている。

 ストリートでいくらビッグサイズが流行っていたとしても、パリジェン
 ヌが手に取るのはスモールサイズ。なぜならビッグサイズは 「体のライ
 ンが美しく見えない」 と考えているから。(中略) 太ったら隠すことがで
 きないという緊張感が、自然とエレガントなアチチュードを生み出して
 くれる!? (P.113)

マルジェラのニットを買える人がどれだけいるのだろうというような疑問はさておいて (いや、たくさんいるのかもしれないが)、こうしたコメントは昨今のルーズなトレンドに対する叛逆であり、フレンチ・シックの矜恃である。ファッションとはdiscriminativeなもの、というよりindividualisticなものであって、誰もが同じような服装をしてそれをトレンドというのならば、フレンチ・シックな思考はそれと正反対なポリシーを持つ。他人とは違うファッションを着たい、これがフレンチ・ファッションの基本なのだ。それはこの直後の記事がファッション・アイコンとしてあいかわらずのジェーン・バーキンが登場することによってもあきらかである。
バーキンの言葉として記載されている 「そのへんのものを適当に着ていたの」 というのはたぶん本当で、それはたぶん適当に書いていた歌詞がぴたりとハマってしまうゲンズブールの方法論に似る。

というようなステージにおいて、森山大道の写真はどのような見え方をするのだろうか。ELLE meets TAKUYA KIMURAとタイトルされた雑誌末尾に近いページは、しかし見事に森山大道だ。モノクロームでうつし出される新宿ゴールデン街。無秩序で雑多な、全く美的でない建物が林立する飲み屋街。とりどりに主張する看板。無造作に取り付けられたエアコンの室外機の群れ。積まれたビールケース。そうしたさまざまな物体がひしめき合っているさまを、カメラはすみずみまでパンフォーカスですくい取る。曖昧なものはどこにもない。

コマーシャルなファッション写真とは、限りなく完璧に造形されたものをさす。たとえば戎康友が三吉彩花をモデルに撮ったグッチ—— 「フェミニスティのその先へ」。(P.178)
すべてがかっちりとライティングされ、どこにも瑕疵はなく、商品もモデルの全身も最大限の美しさに輝いている。アイコニックなGGパターンのパンツスーツというのはあまりに造形的すぎて、これが唐草模様だったらギャグになるかもという限界点に達しているが、でも伊勢丹柄のスーツを着たお笑いもいるよなとは思うのだけれど、伊勢丹とグッチでは何かが違う。ともかく、ファッションでも建築物でも自動車でも、そのように撮るのがコマーシャルなフォトの定石である。
あるいはまた、この雑誌の表紙はスカーレット・ヨハンソンの顔だけで一杯に占められているが、右下にかすかに見えるリングがブルガリだったりする。その性懲りもないエグさもまたファッション・フォトのパターンである。

だが森山大道の写真はコマーシャルではない。だから木村拓哉の顔さえも、ジャニーズの商品として撮られている顔とは違う。妙に歪んで見えていたり、年齢を重ねてきた翳りや、本来なら見えてはいけない皺などもうつし出されてしまう。荒れた画質は、ときとして顔だけ増感したようにも見え、強くかけられたアンシャープマスクのような影響が服の輪郭にピークとなってフチ取りされ、まるでキリヌキされたかのような効果を出している。
それでいて、この写真全体から見えてくる美しさは何なのだろう。

でもELLEがまるで引き下がったわけではない。木村拓哉の着ている服には2パターンあるが、コートはサンローラン・バイ・アンソニー・ヴァカレロ、凝ったパッチワークのような革ジャンはセリーヌ・バイ・エディ・スリマン (さりげなく見えているようでこの革ジャンは美しい)。木村拓哉はしっかりとハイファッションの人質にされている。

「裏窓」 という店名の書かれたドアの前に佇む木村拓哉。上には古く煤けた電球なのだろうか、丸い傘が見え、ガスメーターと郵便ポスト。まさに昭和の風景のような風景が今でも現存しているゴールデン街のすがたをうつし出している。
今、ネットの記事で一番流布されているのはキネマ倶楽部という店の前のショットだ。彼は店のエアコンの室外機に腰掛けている。背後にはベタベタとシールの貼られたガスの室外機。道のずっとむこうまで、あまりにシャープに見えるゴールデン街の風景にくらくらする。

森山が宇多田ヒカルを撮ったときも私は簡単な記事を書いたことがあるが (→2018年04月22日ブログ)、森山の撮る人物は普段見ていたその人のイメージと微妙にずれている。えっ? この人ってこんな顔だったの? というような。だがそれが訴えかけてくるパワーはすごい。なぜならそれが真実の表情だからだ。表面的な美学でないところを撮るために森山のカメラはあるのだ。


エル・ジャポン 4月号 (ハースト婦人画報社)
ELLE JAPON(エル・ジャポン) 2020年04月号

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SONGSの木村拓哉 [音楽]

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NHK SONGS twitterより

昨夜のNHKTVでたまたま《SONGS》木村拓哉の回を観た。
ソロアルバムやコンサートのドキュメンタリー風な映像、そしてそれにまつわるB’zの稲葉浩志との対談など、面白くて見入ってしまった。稲葉浩志がこんなに喋るなんて、というのがかなり意外だったがそれは単に私の無知に過ぎないのかもしれなくて、そしてそれは後半の3曲の歌に自然につながってゆく。

〈サンセットベンチ〉という曲はシンガーソングライターであるUruからの提供曲だというのだが、これがメチャメチャ良い。今までの木村拓哉というイメージから、少しズレているような気がする。ズレているといえば、この前の《教場》というTVドラマも後半のほうだけ観ていたのだが、このヘヴィーさはどうなの? とちょっとびっくり。色々なシチュエーションに挑戦、といえばカッコイイのだがそういう視点も含めて、少し違う方向性を探っているようにも見えて、ふ〜んと思ってしまう。それと花壇のことについて、結局ドラマの中では説明がなかったように思うのだがそれはわざとだったのだろうか。そういうのも詳しく解説したネットの記事があるのだが、ぼんやりとシェードがかかっていることで余韻になることもあるのだと思う。ギャグをいちいち解説したらかえって興ざめなのと同じことだ。

そして今日、TOKYO FMの昼前に木村拓哉のDJの番組があったのを、またたまたま聴いていたら、ゲストは及川光博でこれがまた面白かった。及川のニューアルバムのプロモーションが目的なのだが、どちらがホストなのかわからない状態でミッチーが質問攻め。ミッチーが木村拓哉のコンサートに招待されて行った話をしていて、招待席だからその業界の人たちが集まっていたのだが、コンサートの最中に冨永愛が 「ここ、立ち上がってもいいの?」 と聞くので、あなたが立ち上がると目立つからと言って止めた話とか、LED付きのマイクってあれ高いの? という話とか。
でも一番面白かったのは木村が、山下達郎と稲葉浩志のカヴァーはやらないというような発言で、まぁそうですよね。

それでこのTOKYO FMの昨年の放送には、ゲストにUruを迎えた回がある。その放送を聴くとUruの歌を教えてくれたのは小日向文世で、あるドラマ収録の合間に 「木村クン、これ知ってる?」 と見せてくれたのがUruの歌う〈夜空ノムコウ〉のカヴァーだったとのこと。それがきっかけとなって今回のアルバムに曲を書いてもらうことになったのだという。聴いてみると、全く違うのだが私が思い出したのはSotte Bosseだった。女声で歌われる男声の歌ということでcanaの歌う山崎まさよしの〈One more time, One more chance〉にずっとハマっていたことを思い出してしまう。単純にキーが違うということだけではなくて、そこに何らかの違和感が生じて、そのかすかな色彩感の変化が曲の異なった面を見せる。
YouTubeにupされていたUruのカヴァーは〈夜空ノムコウ〉以外もすべて今でも聴くことができるが、放っておくと次々に出てくるカヴァー曲をずっと聴き続けてしまう。これもまた柴田淳にも感じるカヴァーの魔力である。

昨日の木村拓哉の《SONGS》でも〈夜空ノムコウ〉は歌われた。今回行われたコンサートでなぜSMAPの歌を歌ったかというと、やはりそれは期待されているから、その時代を共有していたという一種の証だからなのだという表現を彼はする。過去の歌はもう歌わないというような頑なさはそこには無い。歌のいのちとは独立したものなのだから。
〈夜空ノムコウ〉はたぶんコンサートと同じように、最初はキーボードだけの伴奏でゆっくりと歌いあげるように、そしてテンポアップして曲に入って行くという構成をとっていたが、暗いセットが次第に明るくなると、木村拓哉のいる場所はペンタグラムの中央に立っているのだが、最初に映し出された斜めからのカメラでは内側の五角形のひとつの頂点にいるように見えていて、だが他の4つの頂点には誰もいない。ネットには、あの五芒星のかたちの意味するものに涙が出たという感想が書かれているのがあった。NHK、やるね!
しかし、スガシカオはなぜこんな歌詞が書けたのだろうか。今聴くとすべてにダブルミーニングがあるようで、だからといってそれは決して予言の書であったというわけではない。


木村拓哉/Go with the Flow (ビクターエンタテインメント)
【メーカー特典あり】 Go with the Flow (初回限定盤B  [CD + DVD]) (各形態共通特典 : “ポストカード




Uru/モノクローム (SMAR)
モノクローム(初回生産限定盤B)(カバー盤)




木村拓哉/サンセットベンチ MusicVideo short ver.
https://www.youtube.com/watch?v=eEYy3vGyNoE

Uru/夜空ノムコウ
https://www.youtube.com/watch?v=gGn1CN_Z4Vg

SMAP/夜空ノムコウ
https://www.dailymotion.com/video/x2b28yf

Uru/真夏の果実
(Sotte Bosseもカヴァーしていたサザン)
https://www.youtube.com/watch?v=sNbsjw6K5z0

*SONGSの歌唱部分は
現在、新浪微博/木村拓哉_WhatsupTAKUYA 2月29日 23:33にあり
www.weibo.com/u/5850260753?refer_flag=1008085010_&is_hot=1

【再放送】
NHK総合 2020年3月7日(土)午前1:40 ~ 午前2:10 ※金曜深夜
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