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ヘキサグラム、そして永遠のタチェット — 白石美雪『すべての音に祝福を ジョン・ケージ50の言葉』を読む [本]

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John Cage, 1988 (npr.orgより)

ジョン・ケージの語った言葉から印象的なものを抜き出してそれに関する解説を付けているというのが、この本のなりたちである。ケージの言葉による一種の箴言集と考えてもよいのだが、それほどに堅苦しいものではなく、また、これだ! というような気のきいたフレーズはほとんど無いといってよい。そうした状況における決めゼリフの得意なのが武満徹だとするのならば、それと正反対のニュアンスがあり、それゆえにケージの人柄というものが滲み出ているような気がする。

あえて 「これだ!」 というのを選び出すのならば、それは、

 まちがっているのは私じゃなくて、ピアノだと判断した。私はピアノを
 変えてしまうことにした。
 I decided that what was wrong was not me but the piano.
 I decided to change it. [1972]

だと思う。(p.040)
これはプリペアド・ピアノを考え出す際に語られた言葉ということだが、ピアノを従来の演奏方法以外の方法で鳴らすための例として、解説ではまずクラスターとストリング・ピアノが挙げられている。これはヘンリー・カウエルという人が1920年代に編み出したアイデアであり、クラスターとは鍵盤ひとつひとつの音でなく、手のひら全体とか拳とか肘とかで音群として出してしまう方法、ストリング・ピアノというのはいわゆる内部奏法であり、マレット等でグランドピアノ内部の弦を直接叩いたり弾いたりする方法だが、もちろん音を出すための手具はマレットに限らない。指で直接というのも含まれる。
だがケージのプリペアド・ピアノの成立過程はそうした先例とやや異なる。ケージはあるライヴ会場で打楽器アンサンブルを使おうとしたが、会場を見たら狭くてそれは不可能にみえてしまった。ピアノを使うスペースしかないのだが、でも打楽器的な音を出したい。それでプリペアド・ピアノを思いついたのだという。
プリペアド・ピアノというのは、弦の間に消しゴムとかフェルトなどをはさんだり、あるいはネジとかクギなどの金属製のものを挟んだり乗せたりして、本来のピアノと違う音を出す方法である。ただこの方法はジョン・ケージとかチック・コリアだからできるので、シロートがこれをやるとピアノ管理者や調律師から叱られることは目に見えている。

ケージの世界に対する目が端的にあらわれている部分は、最初から2つ目の項目に取り上げられている次の言葉である。

 私たちが小声で静かになったら、他の人たちの考えを学ぶ機会が得られ
 るはずだから。
 For we should be hushed and silent, and we should
 have the opportunity to learn that other people think.
[1927]

小声で静かになるとは何のことなのかと思ってしまうが、これについての白石の解説を読むとそれがよくわかる。

 ちょうど時代は 「狂騒の二〇年代」、あるいは 「ジャズ・エイジ」 とも評
 された一九二〇年代である。アメリカ合衆国は未曾有の好景気に浮かれ
 ていた。第一次世界大戦の戦争特需で経済を持ち直し、戦後、債務国か
 ら一気に債権国へと転換すると、世界経済の中心地はロンドンのシティ
 からニューヨークのウォール街へと移る。そうした国力の増大を背景と
 して、合衆国は 「文明化する」 という大義のもとにラテン・アメリカの
 国々へと介入していた。(p.013)

端的にいえばこれがアメリカの覇権主義の始まった元であり (文中では 「汎アメリカ主義」 と書かれている)、それを批判したケージはその当時15歳であった。そしてそうしたアメリカの対外政策に対してケージは終生批判的だった。
ラテンアメリカに対する介入とその正当化について、以前の当ブログには今福龍太のカルメン・ミランダに関する記述があるが (→2019年08月17日ブログ)、カルメン・ミランダの悲劇はひとつのわかりやすい例に過ぎず、今福が指摘するようにそれらを総合したアメリカ的気質は根深い。ケージの主張していたような 「小声で静かに」 ではなく、大声でうるさくアメリカ・ファーストを叫んでいるのが昨今の現実である。

ケージは非アメリカ的なものに好感を持ち、アジアや日本の文化に対する理解もあったが、それでいてその民族的テイストにからめとられることはなかったのだと白石はいう。

 それでもケージが、即座にアジアや非西欧の民族音楽にのめり込むこと
 はなかった。コダーイ・ゾルターンやバルトーク・ベラ、あるいはスト
 ラヴィンスキーらが民謡に惹かれ、民謡を素材として吸収しながら独自
 の語法を確立したのとは異なり、ケージの発想はあくまで近代のモダニ
 ズムの延長線上に展開された前衛音楽と結びついていた。(p.019)

しかしそのように近代モダニズム、いわば純粋西欧的な基盤の上にケージの音は成り立っていながらも、その音楽的構成の手法について吉田秀和は異なった意見であったのだという。

 吉田は、芸術を自然の中に解消するケージの思想の重要性は認めながら
 も、音楽としてはヨーロッパ流の偶然性の導入、つまり限定された範囲
 でのみ、演奏家が決定する部分を取り入れた 「管理された偶然」 への共
 感を示している。つまり、作曲家が自らの表現をすべて放棄するケージ
 流の偶然性ではなく、作曲家が自己表現としての作品の在り方を維持し
 ながら、あくまで音楽に柔軟性を持たせるための技法として、部分的に
 偶然の要素を取り込んだヨーロッパの作曲家たちの方を評価したのであ
 る。(p.097)

ケージは1949年から1954年にかけてピエール・ブーレーズと手紙をやりとりし、それは2人の往復書簡として本にもなっているが、相互に影響はあったのかもしれないにせよ、その共感はどちらも当時のアヴァンギャルドであり周囲から理解されないという共通項によって支えられていたものであり、それぞれの方法論は全く異なっていたといえる。吉田秀和が評価したのはブーレーズ的方法論であり、それゆえにケージとは異なった意見であったというのも頷ける。

アヴァンギャルドという、ややもすると手垢のついた言葉についてのケージの視点は、

 前衛とは精神の柔軟性だ。そして夜のあとに昼が来るように、政治や教
 育の餌食にならなければ精神は柔軟になる。
 The avant-garde is flexibility of mind and it follows like
 day the night from not falling prey to government and
 education. [ca.1982] (p.180)

とのことである。prey to government and educationと 「prey」 と言っているのが面白いし、その悪の元がgovernment とeducationとして同列にされてしまっているのもこれまでのケージの発言を見ていると同様の反応である。教育はともすると腐敗した政治と同様に、かえって害悪になりかねないという意味である。
ケージの音楽教育に対する理想として、ブラック・マウンテン・カレッジというノースカロライナ州の山間地帯にあった教育機関があり、そこで教えたりしたことが彼の理想の教育機関はどうあるべきかという信念の根源になっている。ブラック・マウンテン・カレッジは1933年に創立され23年継続したとのことだが、ケージが訪れたのは1948年のマース・カニンガム (一般的にはカニングハムと表記される) とのツアーが始めであり、さらに同年と1952年にそこで夏期講習が行われたのだという。
それに先駆ける1947年からヨーロッパではダルムシュタット夏季現代音楽講習会が始まっているが、ダルムシュタットはブーレーズをはじめとするヨーロッパ的なアヴァンギャルドの総本山であり、ここにアメリカとヨーロッパの肌合いの差を感じることができる。

ケージは音楽的な偶然性ということを発想の元のひとつとしていたが、その偶然の選択肢の方法として易経を利用していた。ヘキサグラム (六芒星) とはその易経における6つの要素によるチャートを指し、2×2×2×2×2×2=64通りの分岐がある。だがチャートは後世にできた早見表に過ぎず、ケージが易経から具体的に用いたのはその操作のみであり、易経を表面的に応用したに過ぎないという批判もあるそうなのである。(p.074)

ケージのスキャンダラスといってよい面で代表的な《四分三三秒》—— ピアノ曲であるがピアニストは一音もピアノを弾かない —— には3種類の楽譜があり、1952年の初演時の大譜表に書かれた楽譜と1953年の白紙に縦線の書かれた楽譜は時間の経過としての概念がわかるが、1960年に印刷譜として出された楽譜はTacet (タチェット/休みという意味) という文字で表示されているだけで、時間の経過を表象するものは何もないと白石は解説する。
そしてこのTacet販の楽譜の成立について、白石は次のように書いている。

 この 「Tacet」 販の楽譜が出版されたころ、ケージはいろんなパターン
 の図形楽譜を好んで書いていた。彼の図形楽譜は音響そのものを記して
 いるのではなく、演奏家に対する行為の指示として書かれている。当時、
 ケージの音楽的創意は音響像から離れて、音響が生まれる行為へと注が
 れていたのだ。こうした関心の推移が、《四分三三秒》の楽譜の変化に
 投影されている。(p.055)

つまり図形楽譜はダイレクトで即物的な目印ではなく、もっと抽象的な概念を伝えるためのめやすに過ぎないのだという。言葉として乱暴だが、ケージの指示は 「何をやってもいい」 というのに等しい。だからといって何をやってもいいわけではないのはもちろんである。

またケージの性的傾向についてもさらりと書かれている。ケージは1935年にクセニア・カシュヴァロフという女性と結婚しているが、それまでに同棲していた男性もいたし、結婚している間にもモダンダンサーであり舞台芸術/音楽的な盟友でもあったマース・カニンガムと同性の恋愛関係を継続していた。ケージの《季節はずれのバレンタイン》という比較的有名な曲は、クセニアとの関係性を修復しようと作った曲なのだそうで、でも結局ふたりは離婚することになる。ケージをバイセクシュアルと考えてもよいが、どちらかというとゲイとしての性向のほうが強いと思われる。
松岡正剛の千夜千冊の1137夜にはポール・ラッセル『ゲイ文化の主役たち』という本の紹介があって、その中でケージは著者のランキングによれば第34位にされているそうである。ただ松岡のそれに対する解説の中で、「ぼくはケージとマーサ・カニングハムの仲を見せられて、目のやり場に困ったものだった」 とあるがマーサというのはミスタイプか、もしくは誤植なのか、それともマーサ・グラハムとマース・カニンガムがごっちゃになっているのかもしれない。マーサ・グラハムはマース・カニンガムの師匠にあたる人である。

ケージは私にとってあくまでも謎の人であって、その音楽性の核がどこにあるのかはいまだに不明である。彼の死後に催された水戸芸術館でのローリーホーリーオーヴァーサーカスについても私はかつて、よくわからないと書いた。それはいまだによくわからない状態のままであり、つまり全然理解力が成長していないことの証左であるが、この白石美雪の入門的ガイドによって少しだけその手がかりがついたような気がする。


白石美雪/すべての音に祝福を ジョン・ケージ 50の言葉
(アルテスパブリッシング)
すべての音に祝福を ジョン・ケージ 50の言葉




How To Get Out Of The Cage/A Year With John Cage
https://www.youtube.com/watch?v=LUPi_nK3Bis
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