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ペストと疫病流行記 [本]

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Albert Camus

夜道を帰ってくると、車は通るのだが人はほとんど歩いていない。今夜も昨夜も、誰にもすれ違わなかった。食べ放題の飲食店は閉まっているし、開いている居酒屋もあるが活気はなくて、街全体がゴーストタウンのようだ。桜は咲いているが幽鬼の花のようでもある。

こうした今の状況下で、アルベール・カミュの『ペスト』(La Peste, 1947) が売れているのだという。タイトルからの連想があまりに即物的でそんなふうに反応するのかと思ったのだが、その即物的な観点から見た描写そのものが今を照射していることに気がついた。
たとえばこんなところ。

 市内それ自体のなかでも、特に被害のひどい若干の区域を隔離して、そ
 こからは必要欠くべからざる職務をもつ人間しか出ることを許さないよ
 うにすることが考えられた。これまで、そこに住んでいた人々は、この
 措置を、特に自分たちだけを目当てにした一つの弱い者いじめみたいに
 見なす気持ちを押ええなかったし、いずれにしても、彼らは対照的にほ
 かの地区の居住者たちのことを、まるで自由な人間のことでも考えるよ
 うに考えていたのである。ほかの地区の居住者は、それに引きかえ、彼
 らの最も困難な瞬間にも、他の人々は自分たちよりもまたさらに自由を
 奪われているのだと考えることに、一つの慰めを見出していた。「それ
 でもまだ俺以上に束縛されている者があるのだ」というのが、そのとき、
 可能な唯一の希望を端的に示す言葉であった。
      (カミュ全集第4巻「ペスト」宮崎嶺雄訳、新潮社、p.137)

小説のかたちとしては『異邦人』に続く不条理文学であるのだが、不条理を不条理な状況として描くためにはリアリティを積み重ねていくことによって、その不条理さを確立するという技法が必要なのだ。それはクリアなイマジネーションであり、幻想文学とは全く逆の方法論でもある。ペストは一種の寓意でありながら寓意ではない。そこにカミュの特質が存在する。シシュポスの無益なリフレインの寓意と同じで、結局人間は強大な悪意 (と言ってもいいだろう) には対抗できないし、それをコントロールすることは不可能なのだ。不可能なことなのにもかかわらず「原発のアンダーコントロールはできている」云々と口にした者がせせら笑われているのに等しい。つまり寓意として考えれば原発とペストはイコールなのである。
高畠正明の解題によれば、カミュはハーマン・メルヴィルの『白鯨』(Moby-Dick, 1851) に小説の手法としての関心を示したのだという。白鯨自体をひとつの象徴として見ることも可能だが、その象徴性をかたちづくるためにリアリティ、あるいはリアリティと思わせられる描写を積み重ねていく手法という点にカミュは惹かれたのだろう。

もうひとつ、同様な即物的観点から思い出してしまう作品に寺山修司の戯曲「疫病流行記」がある。

 魔痢子 その話はきいたわ。支那人地区 [チャイナタウン] で疫病患者
 が一人出たという噂でしょう。
 支配人 いいえ、一人ではありません。「週刊死亡報」によると、疫病
 で死んだ患者は五日前には十七人、三日前にはもう四十二人になったそ
 うです。
 魔痢子 それは新聞が大袈裟に書き立てているだけ。実際は疫病じゃな
 くて、ただの食中毒ですよ。それに、暗い話が流行る時、キャバレーを
 流行らせるのこそ、支配人の腕というものです。誰でも憂さ晴しを求め
 ますからね。
        (寺山修司の戯曲第5巻「疫病流行記」思潮社、p.57)

疫病が流行っているということを懸命に否定して、患者を少なく少なく見積もろうとしたり、他の話題に視点を逸らそうと画策している虚偽で塗り固められた者と真実を暴こうとする者との対立構造がここから読み取れる。
寺山はその作品ノートで、この作品を海外で上演した際には一切の台詞を用いず、釘打ちの音に集約したのだという。そしてそれは、

 言葉から意味の持つ修辞性を剥奪し、演劇を文学から独立させようとい
 う意図によるもので、単に「海外公演」の方便というわけではなかった。
                         (同書、p.329)

と書いている。
さらに寺山はこの釘を打つという行為について、雑誌『みずゑ』に掲載された松本俊夫の批評を引用する。

 何らかの目的のために、超自然的手段をもって状況を統御しようとする
 のが呪術だとすれば、ここで釘打ちの呪術が統御しようとしているのは
 疫病である。それはまず何よりも箱男のそれのように、疫病の遮断とし
 て表現されているとみてよいだろう。だが、デフォーの言いまわしでは
 ないが、釘づけにされた扉の内側では、これまた「新しい世界が始まっ
 ていた」ことを見落とすわけにはゆかない。それは呪術的幻想の伝染性
 と呪縛性としての「もう一つの」疫病である。
                        (同書、同ページ)

寺山の描いた疫病と「もう一つの」疫病について松本は「そのプロセスと構造はそれじたいで呪術的幻想の類感性を見事に浮かびあがらせているが、その下意識の共同性としてのこの悪夢には二つの強迫観念が横たわっている」というふうに指摘する。それは戯曲の中にあらわれる幾つかの具体的なエピソード、私が今書いている言葉で代替するのならば「象徴性をかたちづくるためのリアリティの積み重ね」によって現出されている2つのベクトルを指しているのだが、それを松本は不安と願望の互いに補完する関係性という。そして、

 しかもそれはレミングのねずみのように、疫病がパニックをひき起こし
 てゆくことの結果とも原因ともなっており、その意味において釘打ち行
 為が、自閉と監禁の両義性をとり込みつつ、一方で疫病を遮断しながら、
 他方ではむしろ積極的に、感染の触媒となってゆく関係に対応している
 ことは明らかである。
                         (同書、p.330)

というのである。
つまり、寺山の場合の疫病という言葉はカミュが描いたペストより、より寓意は顕著であり、単なる象徴に近いものであるのかもしれない。でありながら、疫病を否定してただの食中毒だと済ませようとする欺瞞のような具体性を強調し積み重ねることによって寓意が強まるのである。
だがそれよりも私が着目したのは寺山が戯曲を書く際に「演劇を文学から独立させよう」とする意図であり、それゆえに極端にいえば寺山の戯曲はメモに過ぎず、舞台に乗せられたときにのみ完成品として形成されるものであり、それが一種の幻想性として作用するという皮肉である。

寺山の「疫病流行記」というタイトルはダニエル・デフォーの A Journal of the Plague Year の翻訳タイトルそのままであり、それはジョナサン・スウィフトの『奴婢訓』やガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』といったタイトルを流用した経緯とかわらない。寺山はあらためて自作にオリジナルなタイトルをつけることなどどうでもいい、と考えていた節がある。
そしてカミュの『ペスト』もそのエピグラフはデフォーの言葉であり、つまり元ネタはどちらもデフォーなのだ (尚、デフォーの最も有名な作品は『ロビンソン・クルーソー』、そしてスウィストは『ガリバー旅行記』の作者である)。

現実の感染症は人の心を暗くする。感染症という言葉に、ともすると「清潔寄り」な印象を受けてしまうが、その病気の本質は伝染病でありさらに昔の言葉でいうのならば「疫病」である。ペストはすでにその言葉自体が禍々しいが、黒死病というと、もっと時代がかっていて不穏な響きがする。不必要に汚れた言葉を使う意味はないが、言い換えして浄化した言葉で現実をカムフラージュしてしまうのはもっとよくない。経済効果優先の巨大イヴェントより、もっとシンプルで素朴なイヴェントに立ち戻ることはできないのかと思うのだが、金権政治に清潔さは似合わないのかもしれない。


アルベール・カミュ/ペスト (新潮社)
ペスト (新潮文庫)

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