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角田光代訳・源氏物語 [本]

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源氏物語の現代語訳には思い出があって、まだ読解力の無かった頃、谷崎潤一郎訳に挑戦したのだが全然ダメ。何だかよくわからない日本語のような気がして、ストーリーが頭の中に入って来なかった。それでどうしたかというと、どうせ読みにくいのなら原文で読んだほうがいいのではと思って、注釈本で読み始めたらそのほうが谷崎訳よりもよくわかるのである。
だが、そうはいっても注釈本にはこまごまと注があって、研究者にはそうした注釈が必要なのだろうが、本文のみを読もうとしてもどうしてもそれに気をとられてしまって読みにくいことこの上ない。それで途中までは読んだのだが、他の本に興味が移って中断したままになってしまった。

河出書房から池澤夏樹個人編集による日本文学全集が出始めたときも、乗り損なってしまい、ほんの数冊しか買っていないのだが、最後の配本として角田光代訳の源氏物語全3巻が出ることになった。う〜ん、どうしようかなと思っているうちにどんどん進行して全3巻が出て完結してしまった。
話がそれるがこの全集、池澤夏樹個人編集というのに特色があって、古い作品は皆、現代語訳で出すこと。しかも新訳。それがどこまでかというと樋口一葉までであって、樋口一葉は川上未映子訳、しかし夏目漱石や森鴎外はそのままであり、それ以降の年代の作品は皆、原文のままという方針である。
それよりも面白いのは収録する著者の選択の独自性であって、独断と偏見というのか、それが気持ちいいくらいに池澤好みらしいのが特徴だといえる。現代作家になるとそれが顕著で、たとえば17巻は堀辰雄、福永武彦、中村真一郎の3人相乗りにもかかわらず、25巻は須賀敦子ひとりで1巻である。さすがにそれはどうなの、と思ったのか26巻から28巻までは近現代作家集となっているのだが、それでもさらに偏っている感じで、でもそれでいいのだ。だって個人編集なのだから。

で、その源氏物語が完結したので3巻セット箱入りというのが出ているのを書店で見つけ、思わず買ってしまったのである。ただ箱に入っているだけなんですけど。でもピンクの箱に金の箔押しがあって、それらしい。読書のわくわく感を刺激するのである。箱を開けるとかすかにお香のようなかおりがただよって、1巻目にしおりが入っているのがそのかおりの元らしい。

本文はまだ読んでいません。
でもとても読みやすいような気がします。
とりあえず谷崎源氏よりは私にとっては読みやすい。源氏にはいろいろな訳が出ていますが、ネットで見た範囲内でしかないですが、与謝野晶子訳が比較的近いニュアンスがあるような気がします。
河出書房のサイトに若紫の冒頭が読めるようになっているので、そこを比較してみました。

これが原文です。岩波書店の日本古典文学大系から。

 わらは病にわづらひ給ひて、よろづに、まじなひ・加持など、まゐらせ
 給へど、しるしなくて、あまたゝび起り給へば、ある人、「北山になむ、
 なにがし寺といふところに、かしこき行ひ人侍る。去年の夏も、世にお
 こりて、ひとびと、まじなひわづらひしを、やがて、とゞむるたぐひ、
 あまた侍りき。しゝこらかしつる時は、うたて侍るを、とくこそ心みさ
 せ給はめ」など、きこゆれば、めしにつかはしたるに、「老いかゞまり
 て、室の外にもまかでず」と、申したれば、「いかゞはせむ。いと忍び
 てものせん」と、の給ひて、御供に、むつましき四五人ばかりして、ま
 だ暁に、おはす。

与謝野晶子訳は、

 源氏は瘧病にかかっていた。いろいろとまじないもし、僧の加持も受け
 ていたが効験がなくて、この病の特徴で発作的にたびたび起こってくる
 のをある人が、
 「北山の某という寺に非常に上手な修験僧がおります、去年の夏この病
 気がはやりました時など、まじないも効果がなく困っていた人がずいぶ
 ん救われました。病気をこじらせますと癒りにくくなりますから、早く
 ためしてごらんになったらいいでしょう」
 こんなことを言って勧めたので、源氏はその山から修験者を自邸へ招こ
 うとした。
 「老体になっておりまして、岩窟を一歩出ることもむずかしいのですか
 ら」
 僧の返辞はこんなだった。
 「それではしかたがない、そっと微行で行ってみよう」
 こう言っていた源氏は、親しい家司四、五人だけを伴って、夜明けに京
 を立って出かけたのである。

そして角田光代訳は、

  光君がわらわ病を患ってしまった。あれこれと手を尽くしてまじない
 や加持をさせたものの、いっこうに効き目がない。なんども発作が起き
 るので、ある人が、
 「北山の何々寺というところに、すぐれた修行者がおります」と言う。
 「去年の夏も病が世間に流行し、まじないが効かず人々が手を焼いてお
 りました時も、即座になおした例がたくさんございました。こじらせて
 しまいますとたいへんですから、早くお試しになさったほうがよろしい
 でしょう」
  それを聞いてその聖を呼びよせるために使者を遣わした。ところが、
 「年老いて腰も曲がってしまい、岩屋から出ることもままなりません」
 という返答である。
 「仕方がない、内密で出かけることにしよう」と光君は言い、親しく仕
 えている五人ばかりのお供を連れて、まだ夜の明けきらないうちに出発
 した。

ルビは省略しました。角田訳にはルビ付きがかなり多いです。これも読みやすい理由です。
上記引用部分では、「しゝこらかしつる時」 というのが難しいですが、それ以外はそんなにむずかしくはありません。源氏物語は主語がないのと、句点がなくて (というかそもそもそんなものは存在しないのですが) 延々と続くのが特徴ですが、与謝野訳でも角田訳でも、主語を入れて、文章もだらだら長くせず、すぱっと切ってしまうのが潔くて、しかももちろんわかりやすい。敬語を逐一訳さないで省略してしまうのも機能的です。
でも原文の息遣いというかリズムを再現するのはもちろん無理です。この部分の最後の 「まだ暁に、おはす」 も 「まだ夜の明けきらないうちに出発した」 となってしまいますが、「まだ暁に、おはす」 という簡潔さにはとうてい及ばない。でもそれはしかたがないのです。与謝野訳では 「夜明けに京を立って出かけたのである」 と 「京」 という言葉が補われているので親切。でも 「そっと微行で行ってみよう」 より、角田訳の 「内密で出かけることにしよう」 のほうが現代的でわかりやすいですね。
しかもタイトルの 「若紫」 には角田訳ではサブタイトルが付いています。「運命の出会い、運命の密会」。すごいな。でもこれは中身がどういうものなのかわかりますし、よい方法だと思います。もちろん各巻毎に系図が載っています。故人に三角マークが付いているのも良いアイデアです。


角田光代訳・源氏物語 (河出書房新社)
『源氏物語』完結記念 限定箱入り 全三巻セット




河出書房新社 源氏物語上〈試し読み版〉
https://bpub.jp/kawade/item/500000504315

角田光代/なぜ源氏物語を訳したのか? ダイジェスト
https://www.youtube.com/watch?v=6N14Nku4rRs

角田光代/なぜ源氏物語を訳したのか? 講演前半
https://www.youtube.com/watch?v=_VEhDLKonZY
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THE HOME TAKEのYOASOBIを聴く [音楽]

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いまさら感はあるんだけど、少し前に車の中でFMを聴いていたら〈夜に駆ける〉が流れてきて、これっていいなあと思って、無限ループのようにして聴いていた。
wikiを引用すれば、YOASOBI (ヨアソビ) はボーカロイドプロデューサーのAyaseとシンガーソングライターのikura (幾田りら) による2人組の音楽ユニットである。オフィシャルサイトに拠れば 「小説を音楽にするユニット」 とも。
怖ろしいほどのYouTubeのアクセス数もそうだし (今日現在でオリジナルが2790万回再生、下記THE HOME TAKEが1870万回再生)、TVの情報番組でもとりあげられていて、だからいまさら感といってしまうのだが、でも一応書いておこうと思う。

YouTubeに THE HOME TAKE あるいは THE FIRST TAKE というコンテンツがあって、コロナ禍から生まれた動画だと思うのだけれど、ごくシンプルに歌をリスナーに届けるというシステムで、つまり裸になった歌という意味あいもあって、動画でありながらそんなにヴィジュアルに頼らない、音楽を聴くという行為が結構シビアで、それゆえに美しい。
それで、オリジナルの動画でなくTHE HOME TAKEの動画を下記にリンク。さらに《あさイチ》という番組に出演した動画はTV画面を撮影したものらしいので画質も音質もちょっと悪いけれど、それもリンクしました。

メロディラインにある跳躍進行はいかにもボカロPっぽいけれど、全体を流れている哀しみがいい。実は日曜日の夜、TVで《関ジャム》を観ていた。川谷絵音の以前の回のほとんど再放送みたいなのだったのだが、これも面白かった。9thや11thをやたらに使うのとか (即興での曲づくりという企画なのだが、川谷の弾くギターのコードを、ちゃんMARIが即座にコードネームにしてホワイトボードに書き出してしまう)、ビザールなギターとか、そして川谷絵音もボーカロイドを使っていたみたいで、時代の流れはそういうものなんだなぁと思う。かつての〈初音ミクの消失〉に象徴されるような、機械でなければ歌えないような曲構造が変化しフィードバックして人間の歌唱に影響しているように感じられる。

〈夜に駆ける〉はその真ん中へんで出てくる歌詞、すっと暗くなる表情で歌われる 「君が嫌いだ」 あたりが心に沁みる。そして 「それでもきっといつかはきっと僕らはきっと」 という 「きっと」 の連鎖が続く。「分かり合えるさ信じてるよ」 と言われてもそれはきっと信じられなくて、あまりにストーリー性がありすぎて、確かにそれは小説を音楽にしていることなのかもしれなくて、でもそれが重い。

 君にしか見えない
 何かを見つめる君が嫌いだ
 見惚れているかのような恋するような
 そんな顔が嫌いだ

 信じていたいけど信じれないこと
 そんなのどうしたってきっと
 これからだっていくつもあって
 そのたんび怒って泣いていくの
 それでもきっといつかはきっと僕らはきっと
 分かり合えるさ信じてるよ


YOASOBI/夜に駆ける THE HOME TAKE
https://www.youtube.com/watch?v=j1hft9Wjq9U

幾田りら/夜に駆ける (弾き語り)
https://www.youtube.com/watch?v=ABFoxSfwksg

YOASOBI あさイチ生出演 2020.06.05.
https://www.youtube.com/watch?v=h2ayuzSxyo4
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ほしおさなえ『活版印刷三日月堂』のこと [本]

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ほしおさなえ『活版印刷三日月堂』のことは以前の記事に 「『空色の冊子』を読む」 として書いたが、それはシリーズでいうと第5巻目の話で、なぜそんな中途半端なところから感想を書く? と思われてもしかたがないのだけれど、それは私の読み方に問題がある。というのはこの本にはサブタイトルがついているのだが巻数が表示されてなかったので、順番に読まなかったのである。つまりシャッフルした状態でかまわず読んでいたのだ。なんか話が前後しているなぁ、と思いながら読んでいたのだが、そういう読み方でもなんとなくわかってしまうような書き方だったので、後になってから気づいて、ああそうだったのか、と思った次第で、つまり私がそんなに緻密な性格でないことがバレてしまったわけです。『ポーの一族』だって私は第3巻から読み始めたのだが、それはたまたま書店に第1巻と第2巻がなかったからに過ぎない。あえて居直ってしまうんだけど、いいんだ、どこから読んだって。

ついでに白状してしまうと、映画館が今みたいなシステムでなく、自由に出入りできて、観ようと思えば1日いてもいいようだった頃、私は映画の上映途中から入って終わりまで観て、次の回の最初から観て、観たところまできたら出てくるというのの常習であった。今だってTVの映画放送でも、途中から観たり、逆に最初から途中までしか観ていなかったりということが数多い。映画の好きな人からしたら、とんでもないヤツなのである。たとえばジブリの《天空の城ラピュタ》を全部観ているのかどうか、いまだに自信がない。切れ切れに観ているのだが、たぶん全編観てないような気がする。

さて、『活版印刷三日月堂』のことだが、小説の内容については書かないでおこうと思っていて、前の記事でもわざとのように書いていない。あらすじなど書いてもムダだと思うからだし、そういうのはネットを探せばいくらでも見つけられるし、ちょっと懐かしい描写のあるこの作品について何か書くとかえって興ざめのような気がするからである。発行元のポプラ社って、小学生の頃に初めて読んだアルセーヌ・ルパンの子ども向けの本を出していた出版社だよね、ということを思い出した。このポプラ文庫にも、子どもの頃のドキドキ感がまだ残っているような気がする。

前の記事にも書いたことだけれど、この小説のキーワードとして考えられるのは、川越、宮澤賢治、荒井由実の〈ひこうき雲〉だと思う。
その宮澤賢治だが、彼の全集について 「星たちの栞」 の中に次のような箇所がある。

 「『校本宮澤賢治全集』。古いほうの……」
 箱には文字と小さな絵。引き出すと青っぽい布張りの本が出てきた。表
 紙の文字は金の箔押し。むかしながらの全集だ。一九七〇年代に編纂さ
 れたこの全集がその後の宮澤賢治のテキストの基礎になっていると聞い
 たことがあるが、はじめて見た。九〇年代から新版の編纂がはじまり、
 二〇〇九年に完結。いま学校の図書館にあるのも、その『新校本宮澤賢
 治全集』の方だ。(第1巻 p.170)

この部分をとても納得しながら読んだのである。そうだよなぁ、と思う。たぶん、後から出た新校本全集のほうが研究の成果が盛り込まれていて、内容としてはより良いもののはずなのである。でも、本のかたちだけを見てしまうと、前の全集のほうが格段に美しい。というふうには『活版印刷三日月堂』には書かれていないけれど、そういうことなのである。もちろん校本全集は活版印刷、新校本全集はオフセット印刷である。
といっても私は新校本全集は全巻持っているが、前の全集は2冊しか持っていない。しかも2刷であるが、でもこれが活版印刷の見本のような本なのである。もっともそれは宮澤賢治全集に限らずそうで、たとえば漱石全集は菊判の頃の全集が一番美しいし、三島由紀夫全集もひとつ前の全集のほうがよいと思う。どちらも最近の全集は新漢字旧仮名であるが、菊判の漱石とひとつ前の三島全集は旧漢字旧仮名だからである。でもこれらの旧全集も残念ながら各々、ほんの数巻しか持っていない。入手しにくいので、もっとも金さえ出せば手に入れられるのかもしれないがそれほどの気力もなく、なぜなら別にコレクターではないので、それは仕方のないことだと思う。それに全集って全部揃っているとカッコ悪いみたいな妙な感覚もちょっとあったりする。実はヤセ我慢に過ぎないのかもしれないが。

宮澤賢治全集は校本全集も新漢字旧仮名なのでそれについては残念なのだが、すでに旧漢字で組むのはむずかしくなっていた頃だし、それに一般的な感覚でいうと、旧漢字にしたら読みにくくて売れなくなってしまうからそうしなかったのだと思う。新校本全集は本文と注釈とが別々になっていて、つまり貼箱の中に各巻2冊ずつ本が入っている。これは研究者にとっては便利なのかもしれないのだが、表紙がソフトカバーなのである。これをハードカバーにしたらとても高価になってしまうからソフトカバーにしたのだとは思うが、クロス装のハードカバーである校本全集と較べると、もうガッカリするくらい佇まいが違う。
それにこれは少し専門的な指摘になるかもしれないが、製本も糸かがりではないし、そして新校本全集の致命的な欠点は写植の文字がアマいことである。おそらく現像が適正ではないのだと思うが、フォントがぼってりとしていて、エッジの効いていないヌルい文字になってしまっている。本来のこのフォントの見え方ではない。だが、この当時はこの程度でも通してしまったのかもしれない。
さらに細かいことを言ってしまえば、本文13Qなのだが、文字送りがベタではなく12.5Hのように見える。この微妙なツメが気持ち悪いのだが、MicrosoftWordのようなPCソフトはデフォルトでツメになってしまうし、この頃からツメ印字が良いという感覚があったのもしれない。ましてWordの場合、見ているとどんどん詰めてしまう設定にしている人がよくいるけれど、そういうのはバカ詰めといって嫌われたはずだったのであるが (しかもプロポーショナルかどうかもわからない謎のツメ)、もはや現代では汚いものがデフォルトになってしまっているのは嘆かわしい。というのもPCで使われているフォントが、活版の活字のようなクォリティを持っていないからなのだろう。なぜなら、バカ詰めにすればフォントのアラが隠せるからである。

ガッカリ感のある本って限りなくあるのだけれど、でも全集と銘打っていてこれはないよね、というものまで存在する。たとえば清刷を元にしたオフだとか、さらには前の印刷物から起こした版だったりとか、雑なつくりの本があまた氾濫しているが、それはそうした違いを見分けられる人が少なくなってしまったからなのだろう。
もっとも音楽メディアだって、私の持っているチック・コリアの《Circle》の2枚のCDは針音がする。マスターがなくてアナログレコードがソースらしい。SP盤復刻か? とツッコミを入れてしまいたくなる。

最後に『活版印刷三日月堂』の中で心に響いた言葉のひとつ。「雲の日記帳」 に次のような言葉がある。

 「本というのは、たくさん作って消費するものじゃない。みんなが同じ
 ものを繰り返し読んで、なにかを発見し続けていくものなんだって気づ
 いたんだ。俺はそういう本を作りたい。いまの時代にはむずかしいかも
 しれないけどね」 (第4巻 p.179)


ほしおさなえ/活版印刷三日月堂 星たちの栞 (ポプラ社)
([ほ]4-1)活版印刷三日月堂 (ポプラ文庫)




荒井由実/ひこうき雲
https://www.youtube.com/watch?v=SlXL1A7rrxo
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僕らだけの未来 — GARNET CROW [音楽]

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すごくマニアックなことを書けば、ゴールドトップのレスポールはレスポール・スタンダードとは音が違うように思う。ゴールドトップはその表面を1色で塗りつぶせばいいだけだから、スタンダードのように杢目云々みたいに材料に気を使う必要がない。サンバーストが経年変化でどうなるか、といったような姦しい評価とも無縁だ。だからそんなに良い材でなくてもいいという話も聞く。
スタンダードだったら、ほとんど黄色にしか見えないレモンドロップが好きなのだが、もちろんオリジナルなんて買えるわけがないから再生産モデルでの話なのだけれど、一度、理想的なレモンドロップを見たことがある。だが色は理想的なのだが、ブックマッチの左右の杢があまりにも非対称なので見送ってしまった。ところがそれ以降、美しいレモンドロップに遭ったことがない。

そもそもゴールドトップがレスポールの本来の色だったのだそうである。ソリッドな塗装は一見つまらないように思えるが、ゴールドトップは角度によって色が違って見えるように思える。ステージで真正面からライトが当たったときの美しさったらない。そして何よりも音が、これは私の勝手な思い込みなのかもしれないが、音が重くて太いような気がする。重いというよりも深いというべきなのだろうか。
そう感じたのはエディ・マネーのライヴのときだった。バックバンドのギタリストがゴールドトップを弾いていたのだが、そのとき初めて、ああこれがギブソンの音だと瞬間的に納得してしまったのである。そのギタリストの名前は覚えていないし、そしてエディ・マネーがどんな歌唱だったのかもほとんど覚えていなくて、でもそのゴールドトップの音だけは覚えている。
だからゴールドトップを弾くギタリストは特別な存在のように思えてしまうのだが、でもゴールドトップとレモンドロップとどちらか1本くれるといったら、きっとレモンドロップを選んでしまうだろう。人間の心とはそういうものである。それともそういうのって私だけ?

GARNET CROWは 「あの」 GIZAに所属していたグループで、会社都合で解散して (させられて?) すでに7年が経つ。その頃はGIZAのヴァリエーションのひとつのパターンくらいにしか思っていなかったのだが、今考えるとその頃のシーンはとても良かったように記憶しているし、すべて名探偵コナンのタイアップ曲と言われてしまえばそうなのかもしれないが、きっとその少し軽薄なテイストが共感できる時代だったのだろうと思う。

なぜゴールドトップのことを長々と書いていたかというと、GARNET CROWの動画をYouTubeで探していたら岡本仁志がゴールドトップを弾いている曲があったからなのである。GARNET CROWはヴォーカル、キーボード2人、ギターという変則的なグループで、だからベースやドラムはバンドメンバーではない。
ヴォーカルの中村由利による作曲とキーボードのAZUKI七による作詞がバンドのキャラクター全体を支配している。〈僕らだけの未来〉のライヴ映像で岡本仁志がゴールドトップを弾いているのだが、ある意味、岡本は単なるギタリストなのに過ぎない。だが、単なるギタリストこそがカッコイイのだ。
AZUKI七の歌詞は常に何か変だし、何か不穏だ (常用しているS90もやや異質だけれど)。

 生まれ変われるなら
 早く君に会いたい
 通り過ぎたときに
 君だけが足りない

歌い出しのこの部分だって、「生まれ変われるなら」 は 「早く君に会いたい」 には接続しない。2行目の 「早く君に会いたい」 の 「君」 が4行目の 「君だけが足りない」 の 「君」 に呼応しているだけだ。AZUKI七も言っているようにそこにあまり意味を求めてはいけないし、これは一種のサウンドなのだと思うことにする。
だから 「水平線に届くまで/君と走りたい」 と歌われていても実際に走ることはなく、「情熱は逃げない/抱きしめ」 と書かれていても、そんなアマちゃんな情熱など最初から信じてはいない。「ない」 の連鎖と脚韻にだまされてもいけない。本音は 「世界は悪意に満ちてゆく」 という箇所にあるのだ。だからAZUKI七はデカダンなのだ。

 言葉じゃできない 会話するように
 輝く君のそばにいるよ
 好きにやればいい
 愛がなくちゃ大差ない
 世界は悪意に満ちてゆく


GARNET CROW/The One — All Singles Best (GIZA)
THE ONE ~ALL SINGLES BEST~




GARNET CROW/僕らだけの未来
https://www.youtube.com/watch?v=I2sikk6yMZE
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音楽は地球を救う (のだろうか?) —『BRUTUS』のクラシック特集 [本]

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2020年は巡礼の年ならぬ疫禍の年。その年もすでに6月になった。発売が遅れていたり発売されない雑誌などもあったりして、でも書店に行くのさえ剣呑だと思ってしまい、しかし通販で本を買うことは滅多にしないので、先日、久しぶりに買い物に行ってきた。

タワーレコードの宣伝誌『intoxicate』で志村けんの追悼記事を読む。志村のソウル好きについて触れている。『BRUTUS』にも同様のことが書かれている。ドリフターズのヒゲダンスのネタ元となったテディ・ペンダーグラスの3rdアルバム《Teddy》に収録されている〈Do Me〉、早口言葉の元であるウィルソン・ピケットの〈Don’t Knock My Love〉(同名タイトルアルバムに収録) についてはどちらにもとりあげられている。志村はペンダーグラスのアルバムをジャケ買いして〈Do Me〉を知ったのだという。ベタにソウルなジャケットがカッコいい。
山下達郎は自身のFM番組〈サンデー・ソングブック〉で志村の入院の報を受け、エールとして〈Do Me〉をかけたが、翌週、急逝への追悼として〈Don’t Knock My Love〉をかけることになってしまったのだという。音楽は無力でやるせない。だがそのときリンクされた音楽の記憶は永遠に残るのだろう。

『intoxicate』の記事の末尾には、志村が東八郎から聞いた言葉が書かれている。「自分は文化人、常識派と見せようとした段階でコメディアンとしての人生は終わりだよ」。志村はその言葉を座右の銘としたという (末次安里/intoxicate 145号 p.05)。
『BRUTUS』の記事には〈サンデー・ソングブック〉放送時の山下達郎の言葉が紹介されている。

 山下による 「文化人、知識人としての生き方を選ばず、いちコメディア
 ンとしての人生を全うされた」 (大意) という発言は優れた志村けん論で
 あると同時にアーティストと呼ばれることを嫌う山下達郎そのものを語
 る言葉のように響いた。(安田謙一/BRUTUS 916号 p.095)

東八郎も山下達郎も言っていることは同じである。最近は自らのことをアーティストとかクリエイターと称する人がいるらしいが、幼児性の発露としか思えない。

また志村はプリンスの2ndアルバム《愛のペガサス》(Prince, 1979) を絶賛していたというが、その裏ジャケのペガサスに乗るプリンスが志村的という指摘も頷ける。志村のいろいろなキャラクター設定の中には、そうした一種のパロディ (それはリスペクトやシンパシィを伴っている) がまぎれ込んでいたのに違いない。

さてその『BRUTUS』916号は 「クラシック音楽をはじめよう。」 という特集になっていて、いわゆるクラシック音楽入門とのことなのだが、これがかなり面白い。表紙を飾っている15歳のグレン・グールド。これを見て買ってしまったというのが本音なのだけれど。
本来なら次号の917号が並んでいなければならない時期なのだが、なぜか前号が売れ残っていた。

「作曲家ってどんな人?」 というコラムがメチャメチャ笑える。簡単なプロフィールに続けて小タイトル、そして短い解説が続くのだが、たとえばブラームスのタイトルは 「しつこい片思いが名曲を書かせた切ない人生」、ストラヴィンスキーだと 「ココ・シャネルにもひいきされた炎上系」、ドヴォルザークは 「後半生はアメリカでも活躍した、鉄道オタク」。でもベストワンはショスタコーヴィチである。小タイトルだけでなく解説まで引用すると 「体制と反体制のはざまで生きたトリックスター。/ソビエト時代のロシアを代表する天才作曲家。音楽にさまざまな皮肉を込めて体制をおちょくり、鉄のカーテンの内側にいながら常にぎりぎりの作品を書いた (後略)」。いや、もうね、小田島久恵さん最高です。

アンドラーシュ・シフへの川上未映子のインタヴューは、いつもながら真面目で共感する箇所が多い。シフは次のように語っている。

 例えば、トルストイの『戦争と平和』は偉大な本ですが、全部読み切る
 にはかなりの努力が必要です。ネットで1分間のあらすじを読むだけで
 は読書をしたことにはなりません。座って、最初から最後まで一字一句
 を全部読み、この長い旅路を経験することで初めて、非常な満足感を得
 られるのです。音楽を聴くのも、これに似ていると思います。

そして、

 昨今、音楽に関して忍耐力を持って向き合うことが難しくなってきてい
 ます。今は皆、すぐに手に入るといった瞬時性を重視します。本を読む
 といってもあらすじを2行読んで理解したつもりになったり、YouTube
 で音楽を10秒ずつ聴いたり。交響曲やソナタを全部聴くようなことは
 稀になってきています。このような感じでは、より深く理解するのは難
 しいと思います。

シフは 「偉大な芸術を理解するのはやはり簡単ではなく、そこに近道はないのです」 という。忍耐力を必要とする作品を理解するのは簡単ではないからといって簡単にわかってしまう道ばかりを選んでいると、理解力はどんどん衰えてゆく。お手軽な道にはお手軽な喜びしかないのだ。そしていつの間にか、お手軽な近道しか歩けなくなってしまう。シフは、たとえばゴルトベルク変奏曲についても、全部を通して聴くこと、演奏する場合も繰り返しを省略しないで弾くことに意味があるのだという。

「みんなのMYクラシックピースガイド」 は著名人の 「私のベスト3」 で、企画としてはありきたりだが、そう書いたら恥ずかしいんじゃないの、と思えてしまったり微笑ましい面もあったりして面白い。でもこういうのって、あまりヒネり過ぎるのもダメで素直なチョイスのほうが無難のような気もする。

クラシック入門といいながら初めて知った話題もいろいろあって結構マニアック。というか、私の知識が入門者程度なのだろう。プロコフィエフに短編小説集があるのも知らなかったし、ファスビンダーの《13回の新月のある年に》にマーラーのアダージェットが使われていたのも知らなかった。アダージェットならヴィスコンティという刷り込みがあるので。最近、ファスビンダーの名前をよく聞くが、ファスビンダーはマストのように思う。
よく聞く名前といえば、ジョヴァンニ・ソッリマがそうだが、アルバム《Caravaggio》の影絵のようなジャケット・デザインはチェロを叩きつけようとするシルエットになっていて、ザ・クラッシュの《London Calling》のパロディだ。あ、そうか、と気づくまでに一種の間があった。

でもこの蔓延する現代のペスト、どうなるのだろうか。あまりにも感染力が強いこと、重篤化すると急激に死に至ることなどから感じられる不自然さは、自然由来のものではないのでは、とSF好きな私は妄想してしまうのだが、これって意外に図星なのかもしれない。しかし例えそれが当たっているとしても、真相は決して明らかにされないだろう。
ともかく耳の痛くならないマスクを所望したい。マスクにしてもメガネにしても、耳という 「でっぱり」 に依存していて、デザイン的に全く進歩がないのが不思議。あと、傘もそう。それを使用するために片手がふさがってしまう傘。基本的なかたちは江戸時代から変わっていない。なぜもう少し気のきいた機能的な傘が作れないのだろうか。耳に依存しないメガネ、腕に依存しない傘が作れたらノーベル賞をあげてもいい。といっても私の決められることではないけれど。


BRUTUS No.916 2020年6月1日号 (マガジンハウス)
BRUTUS(ブルータス) 2020年 6月1日号 No.916 [クラシック音楽をはじめよう。] [雑誌]




Teddy Pendergrass/Teddy (BBR)
TEDDY: EXPANDED EDITION




Giovanni Sollima/Caravaggio (Plankton)
カラヴァッジョ




Teddy Pendergrass/Do Me
https://www.youtube.com/watch?v=rso4272f9PI

Teddy Pendergrass/Do Me (live)
https://www.youtube.com/watch?v=XKHHxy_jMBU

8時だョ!全員集合/ヒゲダンス
https://www.youtube.com/watch?v=UYJdhe1RQS0

Wilson Pickett/Don’t Knock My Love (live)
https://www.youtube.com/watch?v=X-03-clz9h4

Andras Schiff/Beethoven: Piano Sonata No.30
https://www.youtube.com/watch?v=15EFrXnj49Q

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー/13回の新月のある年に trailer
https://www.youtube.com/watch?v=FI3cVWdr7qQ
https://www.youtube.com/watch?v=rpHw9sQ2ZQs
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