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ペイズリーパーク1987のプリンス [音楽]

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9月25日発売のプリンスが配送されてきた。お、重い……、今回の《Sign ‘O’ the Times》は12インチボックスに入ったCD8枚組+DVD1枚という大部なエディションで、でも実はこの前の《Up All Nite with Prince》を、まだよく聴いていません。

今回のDVDは1987年12月31日のペイズリーパーク・ライヴとのことだが、YouTubeのオフィシャルからその映像が9月24日付けでupされている。う〜ん。
いつもながらの延々と続くメドレーというパターンは同じで、ウリは《THE FLESH sessions》といったブートでも知られていたマイルス・デイヴィスとの共演であるが、この動画のリストで見ると1:38:30から30分以上にわたって続く〈It’s Gonna Be a Beautiful Night / Chain of Fools〉にマイルスは登場して来る。マイルスはさすがにマイルスで、一瞬にしてそのシーンをマイルス色に変化させる。
全体的に見ると〈Little Red Corvette〉がすぐに終わってしまうのが残念だが、〈If I Was Your Girlfriend〉から〈Let’s Go Crazy〉への流れがシブくて、しかもこういうレッツ・ゴー・クレイジーってあるんだという意外性もある。プリンスの演奏はほとんどがギターで終始するが、ライヴの最後のほうで生ピアノで弾く一瞬のインプロヴィゼーションにきらめきがある。

この前の『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』という本の記事を書いていたときに、1980年代という時代の音楽の変遷について考えるヒントをもらったような気がする。
YMO散開後、細野晴臣はアンビエントな音楽に傾斜してゆく。もちろんすべてがアンビエントではなく、振れ幅があるが、それは《コインシデンタル・ミュージック》(1985)、《エンドレス・トーキング》(1985)、そして《銀河鉄道の夜》(1985) といった作品に感じられる内向的な方向性だ。それはたとえばブライアン・イーノの《Thursday Afternoon》(1985) などと時期を同じくしている。

私の好んでいた音楽の範囲でいうのなら、デヴィッド・シルヴィアンの《Secrets of the Beehive》が1987年、そしてその後は1999年の《Dead Bees on a Cake》まで彼のソロアルバムは存在しない。コクトー・ツインズは《Treasure》が1984年、《Victorialand》の1986年を経て《Blue Bell Knoll》(1988) へと収斂してゆく。むしろ衰退といってもよい。エンヤが1988年の〈Orinoco Flow〉をヒットさせて翌1989年の《Watermark》をリリースしたあたりでそうした傾向、つまり外から内への移行が顕著となる。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの1stである《Isn’t Anything》が1988年でありシューゲイザーというジャンルを打ち出した頃でもある。ビッグネームを見てみるとU2の《The Joshua Tree》が1987年、ケイト・ブッシュは《The Sensual World》を1989年に出しているが、ケルトを取り入れたのはエンヤに感じられるようなその時期の流行だったともいえるが、wikiにも書かれているようにジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』のモリー・ブルームにインスピレーションの元があるという (私のリアルタイムでのケイト・ブッシュはこのセンシュアル・ワールドからであるが、それまでの作品と較べてやや違和感があった。それはそれまでの伝統的西欧主義で維持されてきた音楽シーンへの懐疑なのだろう)。
こうした変化の区切り、あるいは転換点の象徴として、1985年のライヴエイドという巨大イヴェントがあるが、ライヴエイドにはプリンスもマイケル・ジャクソンもスティーヴィー・ワンダーも出演していない。そして私はこのライヴエイドを全く知らないし映像などの記録も観たことがないので、なんとも言いようがない。考えられるのはウッドストックやライヴエイドのような巨大イヴェントによって生じる幻想は色褪せ始め、時代はインティメイトでインディヴィデュアルなほうにシフトしていったのではないかと思えることだ。

そうした流れの中でのプリンスは、1986年の《Parade》から1987年の《Sign ‘O’ the Times》、そして《Lovesexy》(1988)、《Batman》(1989) と続くが、ヒットチャート的なトレンドからすると異質であり、売れてはいたのだけれど自分の本質からは遠いことしかできない不満が、その後の名前が消失する時代へとつながっているように思える。


Prince/Sign ‘O’ the Times (ワーナーミュージック・ジャパン)
【Amazon.co.jp限定】サイン・オブ・ザ・タイムズ:スーパー・デラックス・エディション (メガジャケ付)




Prince/Live at Paisley Park 1987.12.31
https://www.youtube.com/watch?v=v_aAug_PpUM
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巖本真理のショスタコーヴィチ [音楽]

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巖本真理 (巖本メリー・エステル、1926.01.19−1979.05.11) は日本の弦楽四重奏曲演奏の黎明期における最も重要な人である。
彼女は日本のヴァイオリン教育者として著名な小野アンナ (アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワ、1890.03.14−1979.05.08) に学び、若くしてその才能を開花させる。小野アンナはレオポルド・アウアー (1845−1930) の弟子であり、彼女に学んだヴァイオリニストには諏訪根自子、前橋汀子、潮田益子などがいる。日本のヴァイオリニスト (特に女性) の系譜は小野アンナから始まったと言っても過言ではない。

その巖本真理弦楽四重奏団のCDが3セットリリースされた。バルトークの全6曲、それにベートーヴァンのラズモフスキー第2番を含む6曲、モーツァルトの狩を含む3曲とメンデルスゾーンの第1番というセットであり、各2枚組である。
音源はニッポン放送の 「フジセイテツ・コンサート」 という番組のために録音されたライヴで、ニッポン放送開局65周年記念新日鉄コンサートシリーズとして出されたものとのことである。AM放送なのでモノラルであるが、その歴史的価値は大きい。
このシリーズには弦楽四重奏曲以外にもハイドンのコンチェルト第1番、そして諏訪根自子によるバッハのドッペルコンチェルトで巖本が2ndを弾いている1957年の録音があり、これらはすべてキング・インターナショナルという発売元でmade in Japanなのであるが、CDショップではなぜか輸入盤扱いとなっている。

巖本真理は1966年に常設の弦楽四重奏団である巖本真理弦楽四重奏団を結成し、定期的な演奏会を続けたが、その頃、弦楽四重奏というのはかなりマイナーで地味なジャンルであって、それをレギュラーで継続させたのは驚くべきことであり、弦楽四重奏曲へのシンパシィが感じられる。
たとえば1960年代から70年代の頃のバルトークに対する評価は、まだ前衛音楽であり、つまり現在ほどの理解は得られていなかったはずで、評価も当然ながら確立していなかったのではないかと思われる。バルトーク・ピチカートとして知られる第4番も、こうした公開のコンサートで演奏したのはこの弦楽四重奏団が初めてだったとのことである。

そのキング・インターナショナル盤の巖本真理なのだが、まだ感想を書けるほどには聴き込んでいないので、その前に少し違う話題を書いてみることにする。それはYouTubeにあるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第15番である。第15番 es-mollはショスタコーヴィチが書いた最後のクァルテットであり、作品番号も144となっている。全楽章がほとんど変ホ短調であり、速度もすべてアダージョもしくはアダージョ・モルトであり、すべてアタッカでつながっていて、やや異様な表情を備えた作品である。初演は1974年であり、ショスタコーヴィチは翌1975年に亡くなった。このような作曲家晩年の作品には、死を予感させる何かが時として宿っていて、この曲もそのように聴こえるといったらそれは思い込みに過ぎるのだろうか。
YouTubeに書かれているデータによれば巖本真理の演奏は1977年のエアチェックと記載されていて、ショスタコーヴィチの評価も当然、現在のようには定まっていなかったはずであり、そうした中でこの曲を取り上げたことに同時代的意識が感じ取れるのは確かである。そして巖本真理はその1977年に癌のため53歳で亡くなっている。彼女が亡くなったのは小野アンナの亡くなった日の3日後であった。

巖本真理弦楽四重奏団のセッション録音は少ない。それは単純に時代がまだ熟成していなかったこともあるが、何よりも弦楽四重奏曲に人気がなかったこと、だからレコードを出してもそんなに売れなかっただろうと思えること。そして彼女自身がナマで演奏することに重きを置いていたのではないかと感じ取れることにもある。音楽は一回性のもので、二度と還っては来ないという楽曲演奏への覚悟がそこに存在する。


巖本真理弦楽四重奏団/バルトーク:弦楽四重奏曲全集
(King International)
バルトーク : 弦楽四重奏曲全集 / 巌本真理弦楽四重奏団 (Bartok : The Complete String quartets / Mari Iwamoto SQ) [2CD] [ステレオ] [日本語帯・解説付] [国内プレス] [Live Recording]




巖本真理弦楽四重奏団/ベートーヴェン:弦楽四重奏曲集
(King International)
ベートーヴェン : 弦楽四重奏曲集 / 巌本真理弦楽四重奏団 (Beethoven : String quartets / Mari Iwamoto SQ) [2CD] [ステレオ] [日本語帯・解説付] [国内プレス]




巖本真理弦楽四重奏団/モーツァルト&メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲集
(King International)
モーツァルト、メンデルスゾーン : 弦楽四重奏曲集 / 巌本真理弦楽四重奏団 (Mozart, Mendelssohn : String quartets / Mari Iwamoto SQ) [2CD] [ステレオ] [日本語帯・解説付] [国内プレス]




ショスタコーヴィチ/弦楽四重奏曲第15番変ホ短調
1977年10月31日(月) Air Checked
https://www.youtube.com/watch?v=Xn_Lp-KCOa8

*トップ画像は東芝音楽工業盤のレコードジャケット。
 10インチ盤で手書きのタイトルが当時の雰囲気を偲ばせる。
 このデザインのままで再プレスして欲しい (無理でしょうね)。
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『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』を読む [本]

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DU BOOKSから出版された『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』を読んでみたのだが、さすがにマニアックなディスクユニオン、私はあまりに何も知らなくて書くことがない。この本はさすがにパスしてしまおうとも思ったのだが、一応 「読みました」 という証しとして、さらっと書いておくことにする。
ニューエイジ・ミュージックとはヒーリングとかアンビエントなどに代表されるような、いわゆる 「癒し系」 な音楽の総称ととらえることもできるが、それはジャンル分けをどこまで細分化するかによっても解釈が異なるし、といって大雑把にとらえるとワールド・ミュージックもイージー・リスニングも皆この中に入ってしまうような曖昧な音楽といってよい。それは日本におけるニューミュージックというジャンルがかなり曖昧なのと同様である。
ただ、wikiには 「ニューエイジ・ミュージック (New-age music) とは、1960年代のヒッピー・カルチャーにルーツを持ち」 とあって、このヒッピー・カルチャーという捉え方は重要なのではないかと思える。つまり癒し系は癒し系なのだが、そのルーツを辿るのならばむしろサイケデリックの変形であるとする意見もあるようだ。

冒頭のまえがきにはこうした音楽に関して 「長きに渡って見過ごされ、あるいは虐げられてさえもいた 「ニューエイジ・ミュージック」 「ヒーリング・ミュージック」 と呼ばれる音楽たち」 と形容されていて、それが今、復権されつつあるというように書かれている (p.II)。その復権度がどのくらいなのかはわからないが、たとえば昨今のアナログレコードの復権というような言い方にそれは似ている。ブックオフのCD棚で一時はゴミ扱いされていたようなニューエイジ・ミュージックが、そうでもないかも、と掘り起こされたという面があるらしいのである。すべて伝聞推定で書いてしまうのは、その実感が私には無いので、でもそれは別としてこうした視点は面白いのかもしれないと思うのである。もっとも、ニューエイジ・ミュージックというジャンルがある程度確立してきたのは1980年代以降ということで、それは日本におけるバブル景気の上昇とリンクしていて、その頃の闇雲なヴァイタリティで、言葉は悪いがミソもクソもどんな音楽でもまとめて出してしまえたという時代背景があったような気もする。今だったらとても通らない企画がどんどん通ってしまったというのがバブル期の積極的で陽気な一面なのだと考えられる。

というのは、この本のリストの最後のほうに 「アニメ・サントラ/イメージ・アルバム」 という項目があって、そこに少女マンガを元にしたイメージ・アルバムが幾つも掲載されているのである (p.184)。〈日出処の天子〉〈ファラオの墓〉〈百億の昼と千億の夜〉〈吉祥天女〉〈夢の碑〉〈イティハーサ〉といった諸作品であるが、これらはシビアに言ってしまえばそのタイトルを冠したジャケット画だけがそのマンガ家の描いた絵、つまり担当であり、中身の音楽についてはほとんどそれとは関係のないミュージシャンが作っているのだろうと思われる。といっても例えば〈吉祥天女〉の曲を書いているのは久石譲で、イメージ・アルバムという名の下に結構自由にやらせてもらいました、というような内容なのではないかと思うのだが、聴いてはいないのでなんともいえない。制作年代は1982年から1988年頃までに限られていて、その最後のほうに〈オネアミスの翼〉がリストアップされている。
つまり日本におけるその時期は喧騒を連想させる時代背景だったのかもしれないが、それと相反する癒しを求めている需要があったのかもしれない。それは1988年にエンヤの《Watermark》、そしてデッド・カン・ダンスの《The Serpent’s Egg》といったアルバムがリリースされていることからもわかる。たぶんそれがその頃の世界的傾向だったのだ。

最初のセクションにある細野晴臣へのインタヴューがニューエイジ・ミュージック理解のためのヒントとなっているように思う。細野晴臣は音楽の多岐なジャンルへのアプローチがあるが、そのアンビエント期とでもいわれているような時があったそうなので、でもその頃の彼の音楽について私は何も知らない。ただ、アニメ映画のサントラとして杉井ギサブロー監督《銀河鉄道の夜》(1985) があり、そのあたりから敷衍して細野のインストゥルメンタル曲へ分け入って行くのもひとつの方法論だと考えられる。

細野晴臣がアンビエント系の音楽に興味を持ったのは横尾忠則とのコラボレーションによる《コチンの月》(1978) あたりからのようだ。YMOの活動期は1978年から1983年、それと並行してこうした音楽にも触手を伸ばしていた。

 そもそも80年代というまだロックの時代に、最初は横尾さんからブライ
 アン・イーノのオブスキュア・レーベルを紹介されて、そこのシリーズ
 を全部聞いて、ギャヴァン・ブライアーズが好きだったりとか、ハロル
 ド・バッドがよかったりとか。もちろんイーノの 「アンビエント」 シリ
 ーズも聴いて、これは帰って部屋で聴くものだと思って。スタジオでは
 テクノをやり続け、うちへ帰ってきてからそれをずっと流していた。ま
 ぁ癒されたっていうかな。(p.VI)

アンビエントな音楽は《花に水》(1984) を経て《コインシデンタル・ミュージック》(1985)、《エンドレス・トーキング》(1985) といった作品に結実してゆく。これらはYMO後であるが、ポップさと静謐さといった振れ幅が面白い。
しかしこのインタヴューは今年、2020年はじめに行われたため、コロナ禍に関する発言があるのだがそこに細野の鋭い指摘を感じる。

 今は物凄い変化が激しい時期で、特にコロナウイルスのせいでグローパ
 リズムが崩壊しつつある。数年前まではそういうグローバルな音楽を聴
 いていいなって思っていたけれど、自分がそっちに行くかどうかはすご
 く迷っていた。(p.IX)

そして現在の音楽シーンへの言及。これが手厳しい。

 今は音楽の良し悪しなんか問われないですよ。音のよさとそれを並べて
 くデザインだけっていうか、あとは声の力っていうかな。それだけでで
 きているんで。これから先そういうシステムはどこへ向かっていくんだ
 ろうってね。ところが今、すごい風が吹いているわけだ。今その真った
 だ中だから先がどうなるかわからないけれど何かが変わっていく最中な
 んだろうって思うね。(同)

「音を並べるデザイン」 という表現が辛辣だ。音楽制作の基本構造がマスプロダクション化されつつあり、それはかつて産業ロックなどと揶揄されていたはずの方法論の繰り返しに過ぎず、音楽自体を存立させている初期情動がなくてもシステマティックに生産されてしまう危険性があるという意味にもとれる。この 「すごい風」 がどのように影響を与えるのかはわからないと言いつつ、その変化が必ずしも良い方向に行くとは思えないというペシミスティックな予感をも内包している。
グローバリゼーションなどという言葉は西欧中心主義的意識を覆い隠すための隠れ蓑であり、私は以前からそれが欺瞞のポーズであることを指摘していたが、このように発言力のある人からそう言ってもらえると溜飲が下がる思いである。
そしてこのインタヴューの後、状況はさらに悪化し、今年のコンサート等の企てはボロボロになってしまったわけだが、さらにこの先がどうなるかはわからないというのが細野が言うように正直なところだろう。ただ、イヴェントとかコンサートというものを経済的にとらえてみた場合、その音楽性よりもグッズの売り上げに左右されるような本末転倒な意識があるということも聞いたことがあるが、音楽とは何かということをこの際あらためて確認してみる必要がある。

尾島由郎とスペンサー・ドランとの対談の中で、ドランはニューエイジ・ミュージックに関する非常に示唆に富んだ発言をしている。ニューエイジ・ミュージックは音楽がアートではないという前提のもとにあって、それはパーソナルなムードを統制する道具、あるいは感情をマネージメントする効用ツールとして作用している。そしてSportifyなどのサブスクリプション・サーヴィスにおいてはそれぞれの音楽の意図やコンテクストは不要であり、音楽はプレイリストという実用性だけで消費されてしまう。これはアートとしての鑑賞としては真逆であり、こうしたネガティヴな側面によって実際のサウンドは見過ごされてきた面があるというのである。(p.XIII)
これに対して尾島は、ニューエイジ・ミュージックがウィンダム・ヒルに代表される癒しの音楽、つまり心理的・経済的に傷を負った心に、安らぎや元気を与える音楽としてマーケティングされ、音楽にそれほど明るくない人たちをそのマーケットの対象として広がっていたと分析する。その結果として、芸術的に高いものではないという見方が生まれたのだとするのである。
ドランはシュトックハウゼンのグローバル・ヴィレッジへの批判を述べ、作曲家コーネリアス・カーデューはこうした方向性はヨーロッパ主義的な考え方であり、シュトックハウゼンについても 「シュトックハウゼンのようなセールスマンたち……」 と言っていたことを指摘している。ここに出現しているのもグローバリゼーションという 「巨大な存在の脅威」 である。(p.XVI)
ドランは2017年の彼の作品《Lex》について、ニューエイジ的な思想性やサイケデリック的なビジュアルの側面もあるが、直接それらとは関係がないと断言する。そして、

 『Lex』のコンセプトは文学上のスペキュレイティブ・フィクションに
 近くて、理論的な近未来の世界を使って、今現在の私たちの現実世界の
 陥穽を考察して、同時にそこからポスト・ヒューマン的な状況を描くこ
 とにありました。(同)

と語っている。

ニューエイジのそもそもの歴史は18世紀末のアメリカ独立戦争の頃に、フリーメイソンや薔薇十字団といったいわゆる秘密結社内で囁かれていた言葉であって、それが神智学協会につながっていくというような歴史的な変遷を説明してくれる持田保の解説は素晴らしいが、それがずっと時代を経るごとに風化して、日本に入ってくる頃にはそうした神秘学・宗教学的な装いがすべて抜け落ちてしまっていることは、外国からの文化の受容の際における日本の得意技であるように思う。
そしてニューエイジに関する持田の定義は次のようである。

 ニューエイジの思想が霊性進化論やグノーシス思想より発生したもので
 ある事実を踏まえた上で、ニューエイジ・ミュージックというものを考
 えると 「秘教的な叡智や霊性へのアクセスのための音楽」 と定義される。
 この意味においてニューエイジ・ミュージックとは (ブライアン・イー
 ノが述べているように) アンビエント・ミュージックとは区別されるべ
 きであり、むしろサイケデリック・ミュージックに近しいといえよう。
 (p.XIII)

とこのへんまで書いてきて息が切れてしまった。興味のあるかたは本をご購入ください。
全体がマニアックではあるが非常に緻密に内容をとらえており、リストとしての役目も抜群。その解説文のフォントサイズは非常に小さくて、本の厚さのわりには内容が詰まっていて濃い。そして印刷も非常に美しい。
個人的には今まであまりよく知らなかった細野晴臣のアンビエントな作品に対する興味が湧いてきたというのが収穫である。

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Visible Cloaks/Lex


ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド (DU BOOKS)
ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド (環境音楽、アンビエント、バレアリック、テン年代のアンダーグラウンド、ニューエイジ音楽のルーツまで、今聴きたい音盤600選)




KANKYO ONGAKU (LIGHT)
KANKYO ONGAKU: JAPANES




細野晴臣/MEDICINE COMPILATION (SMD)
【Amazon.co.jp限定】MEDICINE COMPILATION (メガジャケ付)




Iasos/Excerpts from INTER-DIMENSIONAL MUSIC
https://www.youtube.com/watch?v=Pk3PcedxMrE

細野晴臣/Endless Talking
https://www.youtube.com/watch?v=R42lGlBqrCA

Visible Cloaks/Lex
https://www.youtube.com/watch?v=8uhA_LmXaOM
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『URCレコード読本』を読む・2 [本]

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『URCレコード読本』を読む・1のつづきです。

そしてURC設立のきっかけとなったひとりである高石ともやのインタヴューはフォークというジャンルがまだ確立されていなくて、種々の音楽の混交が彼の原点にあることがよくわかる。

高石の音楽との出会いは小学生のときに観た映画《グレン・ミラー物語》で、だからディキシーランド・ジャズなのだという。それからフォスターの〈オールド・ブラック・ジョー〉を聴き、ハンク・ウィリアムズ、エルヴィス・プレスリーを聴き、こうした音楽は歌謡曲とは全然違うと思ったのだそうである。
兄の持っていた《サン・ジェルマン・デ・プレの詩人たち》という3枚組のLPにボリス・ヴィアンが入っていて憧れだったとも語る。ボリス・ヴィアンは『日々の泡』などで知られる小説家であるが、トランペットも吹いた人である。

デビュー前に、ピート・シーガーが来日したとき、横浜の体育館で前座で5曲歌ったのが高石が歌手になるきっかけだったともいう。

 本番前、とても緊張していて、ピートに 「ギター1本でどうやったらい
 いんですか?」 と訊いたら、通訳の人が 「誠実にやりなさいって言って
 ます」 って (笑)。(p.042)

高石がビクターからリリースした最初のレコードは、しかし彼にとってあまり気に入らない録音だった。それはまだ音楽づくりのシステムが旧態依然の体質だったからだという。しかし東芝でのフォーク・クルセダースと高嶋弘之はそうした時代の中で革新的だったのだという (高嶋弘之は当時の東芝音楽工業のディレクターでビートルズの日本招聘時のキーマンとして知られる)。

 同じ頃、東芝ではフォーク・クルセダースのレコーディングで高嶋 (弘
 之) ディレクターが生ギターの音量をギュンと上げてくれたから、加藤
 和彦が出来たんですよね。ビクターだったらとんでもない。生ギターな
 んかバックバンドの後ろの方というのが当たり前の時代に、あれをやっ
 た。フォークルがやらなかったら、日本の音楽の進歩が何年も遅れてい
 たでしょうね。(p.042)

それ以外にも、高石ともやと森進一のふたりで三沢あけみの前座をやったとか、高石の回想には、まさに音楽がまだ未分化だった時代であることを思わせられる話が多い。

当時のシーンの中で一目置いていた人は? と訊かれて高石は、加藤和彦と中川五郎だと答える。中川はピート・シーガーの歌った〈腰まで泥まみれ〉(Waist Deep in the Big Muddy, 1966) にすぐ訳詞を付けて歌っていたのだそうだが、それは単に英語力云々というような問題でなく、その思想性への共鳴にあると思われる。
一方でURCの創設者である秦政明について高石は 「根は興業屋でしたね」 とこきおろしている。
また彼のグループ、ナターシャ・セブンに後から加入した木田高介への評価も高い (p.044)。木田高介はジャックスのメンバーだったが、マルチ・プレイヤーであり、アレンジャーとしても優れていた。木田の特質はどんなスタイルの音楽にもフレキシブルに対応できる才能であり、この高石のインタヴューを読んでいて知ったのだが、かぐや姫の〈神田川〉を編曲したのも木田だったのだという。しかし、残念ながら彼は事故で早世した。

だがミュージシャンの他のミュージシャンへの評価は千差万別であり、たとえば岡林信康は〈それで自由になったのかい〉のレコーディング時、「ジャックスのドラムの人に叩いてもらったが、ジャズっぽい人だからイメージが違ってしまった」 と述べている (p.047)。ジャックスのドラムは時期からみて、たぶん、つのだ☆ひろであるが、ジャズっぽいのかなぁ、とちょっと不思議だ。もっとも当時のつのだは渡辺貞夫とも演奏していたのだから、先入観でジャズだと思ってしまったのかもしれない。そしてその後、岡林のバックをつとめたのがはっぴいえんどである。

高石ともやが尊敬すると言っていた中川五郎へのインタヴューが素晴らしい。実は私は、中川五郎という人は名前しか知らなかった。だが彼がここで語っている精神性に心打たれる。中川は中学時代、グループサウンズのオックスというグループのギタリスト岡田志郎と音楽仲間だったのだという。岡田はどんな曲でも弾く、ドラムも叩くというマルチなプレイヤーで、だが中川は 「僕はそんなに音楽が得意じゃなかった」 と謙遜する (p.049)。
そして中川はこう語っている。

 ……フォークはそんなに楽器が上手じゃなくても、やりたいことさえあ
 れば、自分なりのやり方でやればいいんだなと思って。だから僕もやり
 たいと思ったし、僕にはビートルズのコピーとかバンドを組むとか、そ
 ういう才能がなかったんです。単純にフォーク=素人でもできる、とい
 うところに飛びついたというか、これだったら僕にもできるかな、なん
 て思った。(p.049)

これに対してインタヴューアーは 「動機だけ聞いていると、パンク・ロックみたいですね」 と言っている。原初的情動はまさにその通りだ。中川はレコーディングに関して、このようにも語る。

 ただ僕の中では、今でもそうですけど、レコードを作る時に、ちゃんと
 したものを作ろうとか、作りたいとかいう意識はあまりないんです。普
 段やっていることが記録になればいいかなって、本来の意味でのレコー
 ドを作るような姿勢の方が強いので、一個一個のレコードにあまり強い
 思い入れとか、こういう作品にしようとかいうことがないんですよ。
 (p.053)。

中川五郎は現役でライヴ活動を続けているとのことだが、今の時期はどうなのだろうか。かえすがえすも憎き疫禍である。

さて、鈴木惣一郎がショックを受けたという、そして小沢健二によって発掘されたという金延幸子である。金延幸子のアルバムは《み空》1枚しかない。しかも、そのレコードが発売されないうちに彼女は、ポール・ウィリアムスという人と結婚して海外に移り住んでしまった。だが《み空》はカルト的人気があり、今回発売された国内CDより海外盤のほうが発売日は早い。
金延幸子のかなり齢の離れた姉は宝塚歌劇団のスター淀かほるだとのこと。彼女が最初に興味を持ったのはイギリス系のロックで、ビートルズ、アニマルズ、ストーンズ、キンクス、ハーマンズ・ハーミッツ、ピーター&ゴードンといった音楽を聴いていた。《ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!》を映画館に観に行ったら、ビートルズの人気が出る前で、まだ観客が全然いなかったのだという。
西岡たかしがジョニ・ミッチェルのレコードを貸してくれて、聴くと 「取りつかれたような不思議なメロディ」 だったという (p.093)。西岡はジョニと西岡に共通する部分があると見ていた。

金延は愚というグループを経てソロとなったが、「ソロになってから黒テントのオープニングで何ヵ月か歌って……」、「はっぴいえんどを初めて観たのも黒テントで、かっこいいなと思って凄く影響されました。彼らのレコードを聴くより先に、生で観ましたよ」 (p.095) と語っているが、金延やはっぴいえんどが68/71とそのようなかかわりがあったということに驚く。吉田美奈子も黒テントでひとりピアノを弾いて歌っていたとのこと。
そして金延はビクターでまずシングル盤を出すが、プロデュースした大瀧詠一とは気が合わなかったそうで、アルバムは細野晴臣に依頼することになった。ここにも登場してくるはっぴいえんどである。

だが金延幸子の歌はURCの中では異質であった。

 URCのレコードってソーシャル・ステートメントとか、メッセージの方
 が先でしょ。私の曲はメッセージでもない、まったく違うような、どこ
 に入れたらいいかわからないタイプのものだったので、それもあってず
 っと後回しにされてたと思うんですよね。それが、はっぴいえんどの
 『ゆでめん』が出たことによって空気が変わって、じゃあ私のアルバム
 もやりましょうか、ということにようやくなってきた感じでした。
 (p.095)

アルバムタイトルに関して、金延は 「空」 への思いを語っている。

 それと、私は空が好きなんですよ。小さい頃はうちに物凄い小さい窓が
 あって、そこから空をじーっと見つめてたんです。そうするといろんな
 想像がいっぱい出てくる。(p.096)

「み空」 というタイトルから連想するのは、私の場合、ハイドンの《天地創造》の冒頭の訳詞 「み空は語る神の栄誉」 であるが、金延によれば、複数の意味がこめられているらしい。なによりも 「みーそーら」 は 「eーgーa」 でもあるのだ。

夫であったポール・ウィリアムスとは結局1986年に離婚するが、彼は金延が音楽を続けることを望まなかったのだという。だがポールの友人にSF作家のフィリップ・K・ディックがいて、ディックは金延のアルバムを聴き、「もったいないから音楽をやりなさい」 と言ってくれたのだという。ディックはアメリカで一番最初の《み空》のファンだったとも。(p.100)
その後、自主制作のシングルを出したときもスポンサーになってくれて、アルバムを出そうかと思っていた頃、ディックは倒れてしまったのだそうである。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が《ブレードランナー》として映画化されて、まさに彼の名前がよく知られるようになってきた時期であった。

現在、金延幸子と交流のあるギタリスト、スティーヴ・ガンのインタヴューを読むと、《み空》が時代を超えた性質を持っているアルバムであることを再認識する。彼は細野晴臣のファンなのだそうだが、それ以外の日本のミュージシャンで好きなのは? という問いに対して、裸のラリーズ、高柳昌行、タージ・マハール旅行団などの名前をあげている。このアヴァンギャルドさがすごい。

最後に蛇足でしかないが私のURCとそれに関連する体験と記憶について。はっぴいえんどは、さすがにそういうジャンルに詳しい友人がいてレコードを貸してもらった。だから全く知らないわけではないのだが、聴くことに関して積極的だったかというとそうでもなくて、当時のファースト・インプレッションとしては 「のろいな」 というふうに感じていたのかもしれない。たぶん、その頃はスピードこそが第一だと思っていたように思う。だからポスト・はっぴいえんどの変遷もほとんど知らなかったし、ましてフォーク系の音楽はほとんど聴いたことがなかった。その頃の音楽嗜好とはかけ離れていたのだろう。
だが〈腰まで泥まみれ〉という曲にだけ、かすかな記憶がある。私の通っていた高校には中庭のような空間があって、そこに古びた部室の建物があった。その一室に気の合う人たちがいて、私はその部の部員でもないのにときどき出入りしていた。ちなみに音楽関係の部ではない。
ひとりギターのうまい人がいて、その部室の中でだったか、それともどこか他の場所であったのか忘れてしまったが、その人の歌った歌が〈腰まで泥まみれ〉だったのだ。唐突で、私にはその歌の歌詞の意味がそのときはよくわからなかった。わからなかったけれど、あまりにリアルで、そんな曲をなぜその人が知っているのかが謎だった。これはたぶんベトナム戦争に関する歌なのだということは朧げにわかったが、《地獄の黙示録》を観たときもそのストーリーがどうしてそのようになっているのかが同様によくわからなかった。もちろんそのときはわかったようなフリをしていたのだが、ピート・シーガーとフランシス・コッポラとベトナムとアメリカの歴史とがどのように関連しているのかがわかったのはもっとずっと後になってからだった。

蛇足の蛇足として、小杉武久氏とは、あるライヴの後しばらくお話を伺ったことがある。その音楽のアヴァンギャルドさとは全く異なり、音楽に関してとても真摯な姿勢を感じたし、音楽というものがそのアプローチによってどのくらい深くまでいけるものなのかということを反芻することになった。私が尊敬する音楽家のひとりである。


URCレコード読本 (シンコーミュージック)
URCレコード読本




金延幸子/み空
https://www.youtube.com/watch?v=-0w6GTjzf4Q

金延幸子/青い魚
https://www.youtube.com/watch?v=YHGjp8csyD0

中川五郎/腰まで泥まみれ
https://www.youtube.com/watch?v=PBFpp0mQ4xk
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『URCレコード読本』を読む・1 [本]

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はっぴいえんど 1st (1970)

URCとはアングラ・レコード・クラブの略称であり、日本のロック、フォーク黎明期におけるいわゆるインディーズ・レーベルである。当初は限定1000名の会員制として発足したが、あまりに反響があったので一般発売になったのだという。
最近になって再発盤が出ているのだが、この本にはベスト50曲という記事があるだけで、全アルバムのリストがあるわけでなく、資料本としての使い勝手はあまりよくない。だが何人かの主要ミュージシャンへのインタヴューはとても面白い。つまりインタヴュー集として割り切るしかない。このような時代を経た回想の場合、話は美化されがちになるが、結構ズバリと言ってしまっている部分があったりして、これもこの世代の特徴なのかもしれないと思う。

読み進めて行くと、特にURCのメインのアルバムはフォークだと思われるのだが、そのフォーク自体を私はほとんど知らないので、理解するのがむずかしい。巻末のほうにあるURCの次の世代のインタヴューがあるので、そのあたりの会話から逆照射することによって、その時代をとらえることができるような気がする。
たとえばワールド・スタンダードの鈴木惣一朗とカーネーションの直枝政広のトーク。このへんに鍵があると思って読んでみた。

直枝は中2の頃、岡林信康のベスト盤を聴いたのがURCとの出会いだったということだが、歌い方が柔らかい、もっと激しく歌ってほしいと思ったのだという。だが高校生のとき、友人からはっぴいえんどの1st (通称・ゆでめん) を500円で買って聴き、やられてしまった。しかしそれはもちろんリアルタイムではなく、1975年頃の 「音楽がどんどん洗練されていった時代」 で彼はSongs, Band Wagon, Niagara Moon, キャラメル・ママなどを聴いていて (それらは 「はっぴいえんど後」 の時代であるから)、URCはちょっと上のお兄さん世代の音楽という認識があったのだという。(p.164)
一方の鈴木は、リアルタイムで意識していたのはエレックであり、URCはアングラなイメージがあって、近づいてはいけない音楽と思っていたのだという。その頃、彼が聴いていたのは当時フォークとして最もメジャーであった吉田拓郎や井上陽水で、対して岡林にはウェットな印象があったのだそうだ。
鈴木の指摘は以下のようである。

 あえて、あたり前のことを言うけど、当時の日本のフォークやロックは、
 洋楽をどういうふうに咀嚼するかがテーマだった。その咀嚼率の高さに
 関しては、(鈴木) 慶一さんとか細野 (晴臣) さんが抜群に高いわけ。
 (p.167)

そして、

 エレックも含めて、最初の頃の日本のフォーク、ロックは、まだうまく
 噛み砕けてないんだよね。今は優しい気持ちで聴けるけど (笑) (p.167)

さらに鈴木は、金延幸子についても後聴きであり、そのことがかなり詳細に語られている。

 金延 (幸子) さんの『み空』も、当時聴いてたら影響受けたと思うね。
 再発された時に聴いてショックだった。リアルタイムでは知らなくて、
 初めて聴いたのは80年代。(久保田) 麻琴さんの家に遊びに行った時に
 聴かせてもらった。その時は〈ジョニ・ミッチェルみたいだな〉と思っ
 たんだけど、ずいぶん引っかかってたんです。はっぴいえんどがバック
 にいる感じとか、シャレたレコードだなって。再発された時は、ニック・
 ドレイクとかアシッド・フォークのことも知ってたから、そうかって。
 (p.167)

インタヴューアーの村尾泰郎が《み空》について言及する。

 『み空』は小沢健二がライヴの客入れで使ったことから再評価に繋がっ
 たとも言われています。小沢健二やサニーデイ・サービスなど90年代
 に新しい世代のアーティストが、60〜70年代の日本のフォークやロッ
 クを再発見して…… (p.167)

それに対して鈴木の批評は、

 サニーデイには当初、レトロスペクティヴみたいなものがあったと思う。
 もう一回、はっぴいえんどをやろうっていう。でもそこから20年経って、
 ネバヤン (never young beach) とか聴いてると、細野さんのことが好
 きだと言ってるけど、深く聴いてるわけじゃないのがわかるんだよね。
 けれども、知らずにやってる強み、みたいなものがある。それがダメだ
 と言ってるわけじゃなくて、知らないことは若さの特権だから。僕らの
 ように知りすぎると曲を書くのが怖くなって、それでスランプになって
 いく人もいっぱいいる。(p.168)

「深く聴いてるわけじゃない」 と断定してしまうのがすごいが、逆にその程度にしておいて深く聴かないほうがいい、とも言っているわけで、音楽というものは意外に表層的なところで影響力を持つのかもしれないと思う。それはつまり多分にテクニック的なものであり、精神性にまでは踏み込まないという意味でもある。
直枝は細野晴臣の〈夏なんです〉に関して、松本隆の歌詞がそれまでの歌謡曲の時代とは異なる方法論であるという。

 「夏なんです」 なんかは日本の夏の風景が見えてくる。日向と日陰の温
 度差みたいな感じ。そういう叙情性を教わりました。それまでの日本の
 歌謡曲って夢を歌ってきた。はっぴいえんどは目の前のことを歌ったん
 だよね。(p.168)

松本の歌詞については『SWITCH』No.6号でも特集されていたが、そのテクニック的な特性から太田裕美の〈木綿のハンカチーフ〉について語られてしまうことがとても多い。しかしそれは職業的作詞家として自立してからの松本の方法論あるいは技術論であり、そのルーツとしての視点ははっぴいえんどの歌詞に感じられる。より素朴でノスタルジックでありながら必ずどこかにひねりのある世界を提示している。

鈴木惣一朗は1985年のはっぴいえんど再結成ライヴに参加したときの、現場のちぐはぐさについても語っているが、それは音楽を介しての関係性が容易に変質することをあらわしている。そのライヴの映像はたしか以前に観たことがあるが、がさがさしていて楽しさがなく、全く感動しないライヴだった。この証言を聞くと、なるほどと納得できるのであるが、コアなファンにはすでに周知のことなのだと思う。

ただこの2人はどちらかといえば洋楽寄りなので、URCの中で主に洋楽をルーツとしたはっぴいえんどに共感するのだろうと思う。
それに対してURCで最もフォーク的であるのが、高石ともや、岡林信康、高田渡、加川良といった人たちであるとするのならば、そのテイストを引き継いだのが三上寛、なぎら健壱などになるのだろう。なぎら健壱の語っていることは、その当時の雰囲気を伝えていてとても面白い。アマチュアだったのがいつの間にかレコードを出せるようになったという経緯が、その頃の音楽状況の未分化さ、たくましさをあらわしている。
なぎらがURCを見つけたときのエピソードはこうである。

 いろいろ聞いているうちに、アングラ・レコード・クラブというのがあ
 ることを知ったわけですよ。詳しく聞いたところによると、1回につき2
 千円払えば、LP1枚とシングル盤2枚が来ると。しかも汚い商売で、逃
 げられないように5回分をまとめて払わなければならない。私は当時、
 高校生だから、5回分なんか払えるわけないんだよね。(p.140)

だが時代とともにフォークはポップス寄りになっていって、つまりアンダーグラウンドではなくなって、やがてニューミュージックへとつながっていくあたりのことを、なぎらは次のように語っている。

 負の部分で、吉田拓郎がキャーッと女の子たちに言われているのを観た
 瞬間に、フォークは終わったなと思いましたね。(p.147)

ミーハーな人気が悪いというよりも、複数の出演者がいるフェスで、お目当ての演奏が終わると帰ってしまうのが嫌だと、なぎらはいう。それはフォークというムーヴメントにおける運命共同体的な思想が崩れていってしまうことへの不快感・喪失感でもあったのだろう。
その後、URCはエレックに吸収されるかたちとなり、なぎらはワーナーに移ったが、エレックの社長たちから酒席に誘われて無理やりエレック (=URC) からアルバムを出すことにされそうになって、あわてて飲み代を返しに行ったという話に笑う。そしてその後、エレックはつぶれてしまったとのことだが、それは音楽が大きなビジネスに変容して行くきっかけだったとも言える。

なぎらはその後のフォーライフに関しても否定的だ。「それがフォークの崩壊の始まり」 だと言い、フォークに存在していた反骨精神や反戦といった思想性が要らなくなってしまったと言う。「ニュー・ミュージックはフォークの延長にあるにせよ、URCが持っていた気骨が完全に潰されていくのはそこですね」 (p.149)

こうしたフォロワーの人たちの証言から遡って本の冒頭を読むと、小倉エージの 「URCレコードの歴史」 という解説があるが、URCは発売禁止されたレコードを自主制作盤で出してしまおう、というのが元々の動機だったようだ。会員を募集して配布するという旨の会員募集の広告画像が掲載されているが、なぎらが言っていたように会費は 「年額10,000円」 とあり、しかも 「50回分割も可」 となっている。その頃の1万円はかなり高額だったのだろうが、でも50回分割って……。


URCレコード読本 (シンコーミュージック)
URCレコード読本




はっぴいえんど/夏なんです
https://www.youtube.com/watch?v=DpnSNRvG6rw

はっぴいえんど/あやか市の動物園
https://www.youtube.com/watch?v=OC5k3zAWpq0

はっぴいえんど/十二月の雨の日
https://www.youtube.com/watch?v=g0ItJou8HVM
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