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桃山 — 天下人の100年など [雑記]

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豊国祭礼図屛風

東京国立博物館の《桃山—天下人の100年》に行く。
ここ最近の世の中、動きにくいことこのうえなしで、こうした場所に行くのにも日時予約とか面倒な手続きが多いのだが、その指定された時間内には予約した人しか入れないのでとても空いていて良い環境で鑑賞できる。これは疫病流行時の利点なのかもしれないと思ってしまう。日曜日なのに、普段の東博の人気企画展だったら考えられないような空き空きで超快適。
でも中の係員に 「密になるな」 と注意されたりするのがちょっとウザいけれど、気にしなければ問題ないです。はっきり言って 「天下人の100年」 ってキャッチが漠然としてるし、あれもこれものごった煮みたいな展示なのかもしれないという危惧は全然的外れで、時間があるのでしたら見たほうがいいです。展示物の集め方がとんでもないです。1時間30分くらいで見てくださいということですが、はっきりいって無理。駆け足で見ても2時間。できれば展示替えになったらもう一度行くくらいでないと納得のいく鑑賞はできませぬ。正確にいうと展示替えは8回あるのですが、とりあえず大きく分けて前期・後期ということです。

でも、こういうの見ての印象として、すでに文化のピークは過ぎてしまっているのかなと思う。確かにこのあたりの時代はまだ医学だって科学だって発達していないから、疫病なんかが流行ったらバタバタ人が死んだに違いないけれど、でも素晴らしい文化があって、そしてこうした文化はもうすでに過去の栄光で、たとえば現在の日本にはそんな高水準な文化的環境は残っていない。職人的技術も失われてしまっている。これは断言できます。そしてそれは世界的な規模においても同様で、たとえば音楽だってバッハ、モーツァルト、ベートヴェーンの時代が最盛期で、現代はすでに黄昏。どんどんベタ下がりで、もう太陽が昇ることはないのだろうと思うわけです。もちろん人によって感じ方は違うだろうし、現代のほうが住環境も食文化も最高、なんて素敵なすばらしい新世界だって考えたって構わない。ですが私は文化というものを大切にしたいので、そういう面からいうと、現代はもうね〜。あぁ。
感想は書きません。なんかねぇ、気が抜けちゃったというか、むなしいというか、そういうことです。現代はさぁ、ヴァイタリティが無いよね。

     *

中古レコードは安いと思う。何十年も昔のブルーノートのオリジナル盤とかそういうのは別として、単純にちょっと前のレコードだったら、意外にも安いのです。逆に最近出ている180グラム重量盤の新品は高価です。
で、この前、某レコード店でそれとなく見ていたら、12インチシングルというのがあって、あまり考えもなく買ってしまう。Sugar Soulの《ナミビア》とUAの《スカートの砂》。いずれも12インチシングルでした。CDシングルではなくて12インチシングルというのがオシャレなんです。違うかな。
ついでにPINKのファースト・アルバムとE.D.P.Sの《BLUE SPHINX》。これらはLPですがちょっとマニアックかもしれない。PINKは、岡野ハジメがちわきまゆみのプロデュースをしていたので知ったんだけれど、季節外れのグラムロックみたいな衣裳でちわきまゆみのバックでベースを弾いていたのを見たことがあります。もう最高! 昨年出版された『岡野ハジメ エンサイクロペディア』って本はマニアック過ぎて笑います。
ツネマツマサトシの最盛期はすごかったなぁ。レコードやCDではその本質は伝えきれてません。あ、本質じゃなくて音質か。YouTubeなどで見ても全く違うものに見えてしまって悲しい。

あと、セシル・テイラーの《Great Paris Concert》というレコード。freedom盤の再発で昨年のレコードの日に出たらしいのですがすでに廃盤。それを中古盤の中に発見。1966年10月30日のライヴで、セッショングラフィによれば同年12月5〜7日のセッションもある。パリ録音には1987年11月13日というLeo盤もあるけれど、それ以外にも見たことがあるような気がする。


東京国立博物館特別展 桃山—天下人の100年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2043

岡野ハジメ エンサイクロペディア
(シンコーミュージック)
音楽プロデューサー 岡野ハジメ エンサイクロペディア CATHARSIS OF MUSIC




Sugar Soul/Sauce (LIVE)
https://www.youtube.com/watch?v=MwXGZqgYscE

UA/数え足りない夜の足音
https://www.youtube.com/watch?v=5QE3KdrQJWE

E.D.P.S
https://www.youtube.com/watch?v=IJaVWs2xWEU

Cecil Taylor/Student Studies Part 1
https://www.youtube.com/watch?v=xGG43-GBe3M
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ほしおさなえ『紙屋ふじさき記念館 麻の葉のカード』 [本]

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角川文庫から出ているほしおさなえ『紙屋ふじさき記念館 麻の葉のカード』と『銀塩写真探偵 一九八五年の光』を読む。三日月堂の活版印刷に続いて、今度は紙だよ、と聞いて書店で探したら『紙屋ふじさき記念館』と『銀塩写真探偵』が並んでいるのを発見。

まず『銀塩写真探偵』はそのタイトル通り、フィルムカメラの話。デジタルカメラが普通の今日、フィルムカメラでしかもモノクロにこだわる写真家と、そのこだわりに共感して弟子入りする高校生を描く。途中から 「魔法の引伸し機」 が出現してSFっぽくなるのだが、それはともかくとして作者の古いカメラへの憧憬というのか、そのこだわりかたが三日月堂の活版印刷と同様の嗜好で面白い。主人公はニコンF3で写真を撮り始めるが、その師匠の回顧談はライカM3の中古を入手するという話であり、それらにまつわる人間模様がいつもながらの 「ほしおさなえ節」 なのである (『pen+』という雑誌のライカ特集を読んだばかりだったので、あぁM3と納得した。ブラックボディのM3を持った木村伊兵衛はカッコイイ)。
主人公は東京の西国分寺の公団住宅に住んでいるという設定なのだが、このあたりを知っている人にはごくローカルな話題になってしまっているのが楽しい。主人公の通っているのは恋ヶ窪高校で、大学は近くの国分寺大学に合格する (ここ、笑うところ)。SFになっていく部分では、過去の国分寺あたりの風景が語られるが、ほしおさなえは国分寺崖線のことも書いていたし、このへんの地理に詳しいんだなぁと思いながら読む。銀座の中古カメラ店の描写なども妙にリアルで、「オフセットじゃなくて活版だよ」 というのと同様に 「デジカメじゃなくてフィルムだよ」 というメッセージが感じ取れる。

『紙屋ふじさき記念館』は紙、というか和紙に関するストーリーでそれは三日月堂の活版へのこだわりの同工異曲ととることもできるが、ここでも例によっていろいろな蘊蓄があって、そのマニアックなのに引き込まれる。紙屋ふじさき記念館は日本橋高島屋の近くのビルという設定になっているのだが、このあたりの描写も上手くて、つまりリアルな地理をたどりながら、ふっとその中にウソを混ぜていくのがこころよい。三日月堂でもそうだったのだが、どこまでが本当でどこからがウソなのか、といつも気になってしまう。
主人公・百花は大学生で、あるきっかけでふじさき記念館という和紙加工のコンサルタントみたいなことをしている偏屈な館長の下でバイトを始めるのだが、器の店を営む叔母さんとか、螺鈿のアクセサリーとか、魅力的なアイテムにことかかない。
つまりこれは理想的な青春小説だし、夢の世界の小説なんだよなぁ、実際にはこんなにうまくいくことなんてそんなにないんだけど、と少し冷静に引いてしまった状態で思うのだが、その気持ちよさでぐんぐん押してくるところが、繰り返すけれど 「ほしおさなえ節」 なのだ。

それでこの紙屋ふじさき記念館って、これから続くのかなと思っていたら、やっぱりその続編が出ていました。でも活版とかフィルムカメラとか和紙とか、そういうのってノスタルジックというだけではなくて、やはり強固な歴史があって、だから主人公は本はデジタルでなくて紙の本で読みたいと言うし、それはこの頃、アナログレコードが盛り返してきているのと同様な傾向なのかもしれないと思う。もちろんそれがメインストリームに復活することはないのだろうけれど、でもそんなに簡単にすたれないということ。シンセもいいけど、やっぱりハモンドだよ、みたいなのも同じ。


ほしおさなえ/紙屋ふじさき記念館 麻の葉のカード
(角川文庫)
紙屋ふじさき記念館 麻の葉のカード (角川文庫)




ほしおさなえ/銀塩写真探偵 一九八五年の光
(角川文庫)
銀塩写真探偵 一九八五年の光 (角川文庫)




ほしおさなえ/紙屋ふじさき記念館 物語ペーパー
(角川文庫)
紙屋ふじさき記念館 物語ペーパー (角川文庫)




Pen+ (ペン・プラス)『増補決定版 ライカで撮る理由。』
(メディアハウスムック)
Pen+(ペン・プラス) 『増補決定版 ライカで撮る理由。』 (メディアハウスムック)

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高橋アキの弾くシューベルト [音楽]

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Morton Feldman/For Bunita Marcus ジャケットより
(左から:Morton Feldman, Bunita Marcus, 高橋アキ)

高橋アキは現代曲演奏のオーソリティとして見られてしまう。一番最近に買った高橋アキのCDは昨年、mode recordsからリリースされたモートン・フェルドマンの《For Bunita Marcus》であるし、その昔、レコードで最初に買った高橋アキは東芝盤の《高橋アキの世界》であった。
このレコードを買ったとき、こんなのは知らないだろうと思って叔父に見せたら 「祖堅か、あいつはうまいぜ」 といきなり言われて驚いた記憶がある。祖堅とは《高橋アキの世界》に収録されている近藤譲の曲でトランペットを吹いている祖堅方正のことである (なお《高橋アキの世界》については→2012年10月06日ブログに、フェルドマンの代表的なピアノ作品集《Aki Takahashi Plays Morton Feldman》(mode records) については→2013年03月19日ブログにすでに書いた)。

だからその高橋アキがシューベルトを弾いたCDが出たときも、あまり食指が動かなかったことは事実である。しかもシューベルトは、これも以前のブログに書いたことだがイェルク・デムスがハンマーフリューゲルで弾いた古いレコードが最初だったので、それの刷り込みがあり (つまり最初に聴いた演奏に馴染んでしまい、それが自分のスタンダードとなってしまうということ)、なかなかその影響から抜け出せなかった。ポリーニの《さすらい人幻想曲》を聴いたときも、そんなに心が動かなかったのである。つまり逆にいうと、その時点でシューベルトは私にとってまだよくわからない存在だったのかもしれなかった (デムスのシューベルトについては→2019年03月20日ブログを参照)。

だがこの前、タワーレコードの宣伝誌『intoxicate』で俵孝太郎が高橋アキのカメラータ最新盤《グラーツ幻想曲》を褒めている記事を読んでいて、そのとき、これ、いいかもしれないと突然思ったのである。それは直感なのだが、未知のCDを買うときなんてだいたい直感とかジャケットデザインが何かいいな、とかその程度のことで決まるものなのだ。でもそれでいて、その《グラーツ幻想曲》は買わないで、最初に出したシューベルトをまず聴いてみようと思ってしまうのが少しだけ天邪鬼なのだともいえる。
高橋アキのシューベルトをリリースされた順にいうのならば、最初が13番 (D.960) と21番 (D.664)、2枚目が19番 (D.958) と20番 (D.959) という具合で、最後期の作品からだんだんと前に戻るようにした選曲がなされている。

D.960はシューベルトの最後のソナタである。それは1828年、彼の死の2ヶ月ほど前に書かれた長大な作品であるが、私がシューベルトのソナタで一番繰り返し聴いた回数の多いのがこの曲である。これは結果論なのかもしれないが、その曲想は暗く、そして死の予感に満ちているように思える。Molto moderatoで始まる音はときどき立ち止まる。立ち止まるのは振り返るためなのだろうか。この暗さに太陽の光は全く見えない。

高橋アキのピアノは現代ピアノであるから当然のようにクリアで、デムスのもこもこしたハンマーフリューゲルとは違う。当然その息づかいも違う。だが第2楽章あたりで、この曲は音と音の途切れる瞬間、無音になる瞬間の長さがとても重要なのだということに気づく。それはピアニストによって微妙に異なるはずだが、高橋アキのタイム感はとても見事だ。というよりそのインターバルの感覚が私の理想とする息づかいに合致していて、それが音楽的感興を呼び覚ます。
原田雅嗣による抽象画風なジャケットは昔のハヤカワミステリの表紙画を連想させる。

高橋アキはサティのピアノ曲演奏でそれをポピュラーにしたことでも知られるが、サティの楽譜の校訂版はユニークなレイアウトで、注意書きのメモもあったりして楽しい。


高橋アキ/シューベルト:ピアノ・ソナタ集 D.960&664
(カメラータ・トウキョウ)
シューベルト:ピアノ・ソナタ集 D.960&664




高橋アキ/シューベルト:ピアノ・ソナタ集 D.958&959
(カメラータ・トウキョウ)
シューベルト:ピアノ・ソナタ D.958&D.959




高橋アキ/シューベルト:グラーツ幻想曲
(カメラータ・トウキョウ)
シューベルト:グラーツ幻想曲




高橋アキ/シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D.960
https://www.youtube.com/watch?v=qlIFB786LIs

高橋アキ/サティ:3つのジムノペディ
https://www.youtube.com/watch?v=Kc34gdS3SFI

高橋アキ/Paul McCartney: Yesterday
編曲・三宅榛名
https://www.youtube.com/watch?v=hz_n1qMKHI8
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XTC、Doves、そして金原ひとみへ [音楽]

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レコードショップにXTCの《Oranges & Lemons》が飾ってあったので思わず買ってしまった。レコードジャケットはCDよりもずっと面積が大きいので目を引く。ジャケ買いという言葉があるけれど、納得できてしまう。重量盤2枚組 (スーパー・ヘヴィーウェイト・ヴィニルと表記) でずっしり感がある。そしてこのイラストは昔のサイケデリック・ムーヴメントの名残のような雰囲気が感じられて、XTCの中で一番好きなジャケットだ。
ついでに中古盤のとても安いレコードがあって5〜6枚買ったら、レコードってとても重くて笑ってしまった。かたちにこだわるわけではないのだけれど、レコードに較べるとCDって所詮、仮のメディアに思えてしまう。実体としての存在感に乏しいし、そもそもCDだとジャケ買いしたいというような意欲が湧かない。

日曜日の夕方、FMを聴いていたら渋谷陽一がダヴズをかけていた。11年ぶりのニューアルバム。この新しいんだか古いんだかよくわからないようなテイストがいい。それは多分にメチャメチャしゃしゃり出て来ているギターにあるんだと思う。
その後の Night Fishing Radio では、サカナクションの山口一郎がずっとコールドプレイをかける。ゲスト・佐藤吉春とのトークの中でのコールドプレイへの言及、「ある時期はあんなに聴いていたのに聴かなくなってしまった。それはなぜなのか?」 みたいな話になる。それはレディオヘッドでも同じ、という。なぜなのかわからないが、言いたいことはなんとなくわかる。

配信ライヴっていいな、という言葉も聞くけれど、それは無理して言ってるように感じてしまう。本物のライヴができないので窮余の一策としての配信なのだからそれはあくまでも仮のものだ、文字通りのヴァーチャルに過ぎない、と私は思う。画面で観ているのだからTV番組やDVDとかわらない。それは単なる映像であってライヴ会場で感じる空気感が存在していない。もちろん、ファンはライヴに 「飢えて」 いて、だから配信でも何でもとりあえず聴ければいい、という気持ちがあるから 「配信ライヴっていいな」 って発言になるんだと思う。でも、配信ライヴのほうがラクチンだから、今後ウチのバンドは配信ライヴだけにします、とはならないはずだ。なったら困る。これは極端な言い方かもしれないが、プロのバンドのライヴ映像よりシロートバンドの生演奏のほうが感動することはある。だからライヴは重要なのだ。この宿痾の世界が、早く元通りの世界に戻ることを祈るばかりである。
「新しい生活様式」 などという偽善に惑わされてはならない。そんな欺瞞の言葉に納得していると、より不自由さを強いる統制がやってくるはずだ。「新しい生活様式」 と 「素晴らしき新世界」 という言葉は同じニュアンスを持つ。オルダス・ハクスリーのタイトルの意味はもちろん揶揄なのだから。

書店で、金原ひとみの『fishy』を買おうと見ていたら、その隣に『パリの砂漠、東京の蜃気楼』があったので、それも買ってしまった。レコードと同じようなジャケ買いである。赤と黒の色合い、押された文字、カヴァーの写真、帯の文字レイアウトのアヴァンギャルドさ、見返しの色など、美しく完璧な装丁で、金原ひとみの本らしい。この本は画面で見ただけではわからない。そのインクの色合いと用紙との融合が、質感が大切なのだ。だから実際に手にとってみないとわからない。もしかすると、手にとってもわからない人もいるかもしれないが。

本の内容は著者のこれまでの暮らし、パリと東京での暮らしを各12ずつ書き連ねた私小説のようでいて、でもそれが本当にプライヴェートそのものなのかそれとも創作が入っているのかあるいは全く架空の話なのか、よくわからないところがいい。自身をカリカチュアするのは小説家の常套手段であり、それが自身に近ければ近いほどさりげなく嘘が書ける。
金原は書く。フランスに住み始めた頃、最初に知っていたフランス語の言葉はボンジュールとメルシーとミスティフィカシオン (mystification)、この3つだった。ミスティフィカシオンとは 「欺瞞」 のことである。
私が最初に知ったフランス語はなんだろう。たぶん、エギュイユだ。L’Aiguille creuseは小学校の3年生か4年生の頃に読んだモーリス・ルブランの『奇巌城』の原タイトルだからだ。それは今考えると多分にロマンであり、aiguille creuse —— 空洞の針という設定が幻想小説の意味合いも持っていたように思える。
と思いながら読んでいたら、「ミスティフィカシオン」 の次の短編は 「エグイユ」 だった。だがその 「針」 は象徴ではなくて、具体的な、ピアスのための針のことだった。「蛇にピアス」 と違って 「耳にピアス」 だったらそれは普通のように思えるが、金原の無数に思える左耳のピアスはピアスという概念から外れつつある。それはなにかそれ自体で命を持つオブジェのようなものにも見える。

この頃、日本の小説にはやりきれなさを描いた暗い小説がよくあるように感じる。読んでいて暗くてやりきれなくて、でもそれは日本の現代の世相を反映しているのに過ぎないのかもしれなくて、だが金原の書くことは同じように暗くて破滅的な様相を帯びながら少しだけ違う。私にとっての金原は共感することが多くて、いや、共感でなくて何かの共有のようなもの、納得してしまえる感触があってここちよい。それは彼女の持つ通俗性と下品さが私の心情にきっとフィットするからなのだ。
ということで前半のパリ編を読んだ。コロナ禍の前に書かれたものなのにすでに鬱陶しい穢れた空気を感じてしまうのはなぜなのだろう。これから後半の東京編に入る。


XTC/Oranges & Lemons (Panegyric)
Oranges & Lemons [Analog]




Doves/The Universal Want (Universal Music)
ザ・ユニバーサル・ウォント




金原ひとみ/パリの砂漠、東京の蜃気楼 (ホーム社)
パリの砂漠、東京の蜃気楼




XTC/King For A Day
(Late Night with David Letterman, June 30, 1989)
https://www.youtube.com/watch?v=Amx5CK7vdoc

Doves/Prisoners
https://www.youtube.com/watch?v=Q02PXRTMus4&feature=emb_title
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