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Five Years — 最近読んだ本や雑誌など [本]

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最近読んだ本や雑誌など、またはまだ読みかけの本や雑誌の話題。穴埋め記事だと思ってください。

ジェイスン・ワイズ編の『スティーヴ・レイシーとの対話』はスティーヴ・レイシーへのインタヴューなどをまとめた本。スティーブ・レイシー (Steve Lacy, 1934−2004) はソプラノサックスを吹くジャズ・ミュージシャン。テナーとソプラノの持ちかえという使い方が普通なのに、レイシーは生涯、そのほとんどをソプラノだけで通した。シドニー・ベシェから触発されたのだという。彼はデューク・エリントンとセロニアス・モンクを敬愛していた。最初に買ったレコードはデューク・エリントンの《Duke Ellington and His Famous Orchestra》というブランズウィックのSP盤のセットだったそうである。モンクの曲をとても好んでいて、繰り返し演奏し、レコーディングを行った。19歳のとき、セシル・テイラーと出会い、彼のグループに10年間在籍した。

面白かったのはアルゼンチンでアストル・ピアソラと出会い、大喧嘩をしたということ。レイシーとピアソラの音楽性は全く合わなかったらしい。ピアソラはレイシーの音楽を、ナイフを歯にくわえて演奏しているようだと形容したとのことである。そして家に帰って、口直しにヴィヴァルディを聴きまくったのだという。
もうひとつ、あとがきの大谷能生によれば、間章 [あいだ・あきら] はレイシーの妻であり歌手としてレイシーと共演もしていたイレーヌ・エイビについて一切触れていないとのことなのである。さらにいえば、レイシーのグループに長く在籍していたスティーヴ・ポッツについても同様で、レイシーの音楽を語る際に、ポッツやエイビは無視して構わない存在とみていたのではないか、と推理する (ここでなぜ唐突に間章の名前が出てきたのかというと、月曜社は間章著作集を出版した会社だから。だがレイシーを日本のファンに紹介したのは彼の力である)。

この本、厚さはそんなでもないのだが、2段組みでツメ印字で文字がぎっしり詰まっているので、内容的には濃い。最後についている詳細な索引がとても便利である。

私はスティーヴ・レイシーを一度だけ聴いたことがある。しかしそれはレイシーのライヴではなく、舞踏家の大門四郎の公演においてであった。たまたまチケットをもらい、何も知らずに行ったのだが、舞踏というジャンルの公演に来る客層に対して新鮮さを感じた。そしてそのときのレイシーの、いわゆる劇伴にあたる音楽なのだろうが、それは残念ながら全く覚えていない。だがストレートなジャズでもなく、といってフリーでもないレイシーの特徴が反映されていたように思う。大門はフランス在住が長く、同じようにフランス在住だったレイシーと面識を得たのだろう。巻末索引で、日本人の中でもっとも多く話題に出ているのが大門四郎である。

『ジョニ・ミッチェル アルバム・ガイド&アーカイヴス』は五十嵐正・監修による《ジョニ・ミッチェル アーカイヴス vol.1》発売に合わせたと思われるムック。だが全アルバム紹介など、とても丁寧なつくりで現在読んでいる最中である。プリンスはジョニ・ミッチェルのファンで、でもそのプリンスに対してジョニは多分にツンデレだったらしい。プリンスはほかにコクトー・ツインズも好きだったらしく、その興味の広さに驚く。

『サウンド&レコーディング・マガジン』3月号の巻頭特集はYOASOBIのインタヴュー。ayaseはYOASOBIのプロジェクトの前にラウド・ロックのヴォーカルを7〜8年やっていたというが、その落差がすごいのと、またayaseの語ることが本当なのなら、Logic Proをほんの数ヶ月使って〈夜に駆ける〉を作るレベルに到達したらしい。中田ヤスタカとの対談もあるが、その対談でayaseはLogicに積んでいる純正プラグイン以外はまだ使ったことがないと言っている。ただ、このあたりの話題からわかってきたのはYOASOBIはあくまでプロジェクトであって、ayaseとikuraという組み合わせがなぜどのようにして企画されたのかは明かされていない。

中田ヤスタカといえばPerfumeだが『Perfume COSTUME BOOK 2005−2020』というPerfumeの衣裳の変遷を見ることのできる写真集があって、これがとても美しい。装苑の編集によるもので、『装苑』本誌でもいままで何度もPerfumeの特集をしているけれど、衣裳そのものが題材となりうる歌手というのは今までなかったのではないだろうか。

『rockin’on 2月号』は亡くなって5年経つデヴィッド・ボウイの特集。そのタイトルが 「5YEARS」 というのにシビレる。やるよね。編集部は5年間待っていたんだろうなぁ。
各アルバム評なども当然掲載されているが、以前は《Let’s Dance》なんて大衆迎合とか低俗とか言われて酷評されていたような記憶があるんだけど、それは間違いだったのか。まぁ、プリンスだって最初はオカマといわれたし、山下洋輔だってめちゃくちゃピアノとか言われたし、評論家なんて所詮はそんなものなんだけど。

で、そんなことはどうでもいいとして (という言い回しはつまり今までのがすべてマクラであることを意味しています)、〈Five Years〉の歌詞って、つまり一種のSFなんだけど、今聴くとなんか違うものを暗示しているような気がしてしまうのはなぜ? もちろんパンデミックです。

 Pushing through the market square
 So many mothers sighing
 News had just come over
 We had five years left to cry in

ボウイがジギーを書いたのは1972年で、世界の終わりが来るというコンセプトで作られている架空のSFストーリーなんだけど、今の時代にWe had five years left to cry inという歌詞を聴くと、じゃぁ、この状況はあと5年間続くのかも、と感じてしまう。あくまで私の勝手な思い込みなのですが。
その後はこう続く。

 News guy wept and told us
 Earth was really dying

ああ、そうなんだ。地球はたしかに疫病によって死に瀕しているのかもしれない、と思ってしまう。歌詞はその後、ああいうことがあった、こういうことがおこっている、というようなエピソードが羅列されていくのだが、最後のリフレインは、

 We’ve got five years, stuck on my eyes
 Five years, what a surprise
 We’ve got five years, my brain hurts a lot
 Five years, that’s all we’ve got

あと5年はガマンしろ。そうしないとこの疫禍は終わらない。ああ、頭が痛い。なんてことだ。あと5年だ、あと5年、我々は泣いて過ごすことになるんだ。なんてボウイは歌っていない。だけれど、そう歌っているように聞こえてしまう。


ジェイスン・ワイズ編/スティーヴ・レイシーとの対話 (月曜社)
スティーヴ・レイシーとの対話




五十嵐正・監修/ジョニ・ミッチェル アルバム・ガイド&アーカイヴス
(シンコーミュージック)
ジョニ・ミッチェル アルバム・ガイド&アーカイヴス




<サウンド&レコーディング・マガジン 2021年3月号
(リットーミュージック)
サウンド&レコーディング・マガジン 2021年3月号




Perfume COSTUME BOOK 2005−2020
(文化出版局)
Perfume COSTUME BOOK 2005-2020




rockin’on 2021年2月号 (ロッキング・オン)
ロッキングオン 2021年 02 月号 [雑誌]




David Bowie/Five Years
https://www.youtube.com/watch?v=4bcnO3VQ_fc
リンクが不正確でしたので修正しました。↑ これで視聴できるはずです。
1972年当時のきれいな動画です。
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MUSIC FUN!のYOASOBIとaiko [音楽]

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紅白歌合戦のYOASOBI 2020.12.31

YouTubeでMUSIC FUN!/YOASOBI×aikoの音楽談義というのを見る。
YOASOBIの2人ともaikoが大好きでリスペクトしているという感じが見てとれ、話はとても盛り上がった。下記にリンクした動画を観ていただけば一番手っ取り早いのだが、話のアウトラインを書いておくことにする。

aikoが10代の頃聴いていた音楽は、という問いに対して、主にJ-popを聴いていた、最初はユニコーンだった、そのうちインディーズのCDを聴くようになった、少年ナイフとかコレクターズなど、と答える。
aikoもikuraもずっと歌手になりたいと思っていたということは同じ。ただ、ikuraは若い頃、自分の声が嫌いだったという。だが17歳くらいのときに今の声になって落ち着いたのだそうだ。
ayaseの曲作りの最初のとっかかりはアコギ。だがギター弦を押さえる指が痛くてギターは挫折し、バンドでピンボーカルでやっていたが、バンドが解散してからひとりでやるにはどうすれば、と考えてDTMになったのだという。ここ2年くらいで、というのが驚き。DTMは全部自分で作れるのが魅力という。

aikoの曲作りについて。以前はカセットに録音していたが、現在はそれがiPhoneのボイスメモにかわっただけ。鮮度を落とさないように、降りてきたらすぐに録音するのだという。でもいつまでもそれではということで、1ヵ月前くらいにPro Toolsを買ったのだが 「わけわかめ」 なのだそう。ところがikuraもPro Toolsを導入して練習中とのこと。

aikoが語るには、楽曲と夜中に書く手紙は同じで、夜の時点では良いと思っていても少し時間が経ってから聴くと、なんだこりゃ、ということもあるのだと。そして詞先か曲先かという問いには、詞先か同時だという。
aikoの1stシングルは《トイレの花子さん》というアニメの主題歌で、でも歌詞だけ。曲はすでにあった (コモリタミノル)。そのレコーディングにはとても時間がかかってどれが良くてどれが悪いのかわからないほど何度も歌わされたのだという。
するとikuraも〈夜に駆ける〉のレコーディングのときは何度も歌わされて、ayaseのことを悪魔だと思ったのだそうだ。
3枚目のシングル〈花火〉がaikoのターニングポイントとなった曲。これがヒットしてミュージックステーションに出られたことによって、それ以後の活躍となり現在に至るとのこと。
カブトムシって甲羅はかたいけど、裏返しになると起き上がれない。かたそうだけど、でもやわらかい部分もある、みたいなところに感じて〈カブトムシ〉を作ったがスタッフなど周囲から 「虫? カブトムシ?」 と非難された。でもaikoは、何言われても私、かたくなに、絶対変えないんですという。
〈ボーイフレンド〉の 「あぁ テトラポット登って」 の 「あぁ」 はコードとぶつかっていて気持ち悪いといわれた。でも 「そうですか」 と言って意に介さず、繰り返し歌うことによって慣れさせたのだという。

今後の抱負としてはという問いには、Pro Toolsでジングルとか作ってみたいのだそうで、Pro Toolsでは、今のところikuraのほうが少しリードしているらしく思えた。面白くて二度見してしまいました。

そしたら続きのYouTubeでしらスタの〈歌唱力向上委員会〉という動画があって、これも面白くて二度見。オネエのボイストレーナーということでシャベリは強烈だがいいところを押さえている。ayaseの半音下がる転調というのがここでも意味を持っていることがわかる。

紅白歌合戦のYOASOBIの歌唱は所沢の角川武蔵野ミュージアムにある本棚劇場で、ここは数日前に別のTV番組でも紹介されていたので、あぁあそこか、とすぐにわかる。アニメの映像の比率が少し多過ぎたような気がしたが、初めてのTVでの歌唱がいきなり紅白というのはすご過ぎる。
そして最初のメディアであるThe Bookは発売数日で売り切れてしまってamazonではプレ値になってしまっている。早く通常盤を出すべきだと思うのだが。


YOASOBI/THE BOOK (SME)
【Amazon.co.jp限定】THE BOOK(完全生産限定盤)(特製バインダー用オリジナルインデックス(Amazon.co.jp ver.)付)




YOASOBI/aikoとの音楽談議 J-WAVE・WOW MUSIC
MUSIC FUN!
https://www.youtube.com/watch?v=ukHWAMXrWjg

しらスタ・歌唱力向上委員会 (白石 涼)
YOASOBI/夜に駆ける THE FIRST TAKEの分析
https://www.youtube.com/watch?v=UJ-rfiN-GOU

YOASOBI/夜に駆ける
紅白歌合戦 2020.12.31
https://www.youtube.com/watch?v=EABJzrOY7nQ
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『萩尾望都 紡ぎつづけるマンガの世界』とその周辺のことなど [コミック]

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女子美術大学では2011年より萩尾望都を客員教授として招聘し、特別講義を年2回開いていた。この本はその記録とのことである。
2016年7月17日講義の中で萩尾は『ポーの一族』の続編について、次のように語っている。

 夢枕獏さんが、会うたびに 「いつか『ポーの一族』の続編を描いてよ。
 続きが読みたいな。待ってるから」 って。(p.151)

これは先日の《100分de名著》の特番《100分de萩尾望都》でも夢枕獏自身が話題にしていた。繰り返して言葉にしていれば実現することってあるのだな、と思う。番組自体も通常の《100分de名著》のような一般教養的内容でなく、より深い会話で構成されていて、きっと視聴率は高かったのではないだろうか。
マニアックな話題ということなら私が繰り返し取り上げている《関ジャム》があるが、そうした解説の元は坂本龍一の《Schola》であることにこの前、YouTubeを観ていて気づいた。〈Merry Christmas, Mr. Lawrence〉の解説では11th、13thの使い方と、さらにこれはサブドミナントから始まっているということ、そしてドビュッシーなどの影響があることを明晰に語っていて、100分特番もScholaも、NHKおそるべし、である。《タモリ倶楽部》をハイブロウにした《ブラタモリ》はちょっとズルいけれど。

というような前フリはともかくとして、女子美講義から幾つかをランダムに読んでみる。
第2章 (2016年11月26日) は 「トランスジェンダーのキャラクターはどこから生まれてくるのか」 というタイトルで、まず 「11月のギムナジウム」 (1971) についてであるが、萩尾によれば『トーマの心臓』(1974) の構想はすでにあって、その番外編のような話として出てきたのが 「11月のギムナジウム」 なのだとのことだ (p.057)。
なぜ男子校を舞台にした男の子ばかりの物語にしたかということについて、萩尾は、

 『11月のギムナジウム』は描いていてすごく楽でした。それはなぜかと
 考えていくと、私は女子だからといって不自由を感じたことはないと思
 っていたけれど、それなりに、女はこうしなさいという抑圧を受けてい
 るんじゃないか。そんなふうに考えて、だんだん過去のことを思い出し
 ていきました。(p.059)

という。そしてマンガ家としてデビューして出版社に行っても編集者から 「1年か2年描いたら結婚するんでしょ?」 というような会話になる。まだ 「女性は結婚して家庭に入るのが当たり前という感覚」 の時代だったのだという。しかし、やがて男子が先で女子が後の学級名簿はおかしいんじゃない? という疑問の出てくる時代となって来る。

 時代とともにものの見方が変わってきているんですね。そうすると、や
 はり私は自分でも気づかない抑圧を受けていたんだ。だから、男子生徒
 を描いたときに、すごく描きやすかったんだなと思いました。(p.060)

少女マンガというテリトリーの中で、少年ばかりが出てくるストーリーであるのは、当時は極端な冒険だったように思えるし、それを描いた萩尾だけでなく、それを通してしまった編集者や出版社はちょっとスゴい、と思う。
しかし 「11月のギムナジウム」 や『トーマの心臓』は、いわゆるBL系であり、トランスジェンダー的なコンセプトで描かれたのは、その後に描かれた『11人いる!』(1975) で顕在化したと言えよう。もっとも『11人いる!』におけるタダとフロルはトーマのユーリとエーリクであり、トーマにおけるユーリがあまりにかわいそうなので、その補完として『11人いる!』でリカバリーしたのだというスターシステム的な見方もあるように思う (スターシステムという用語は中島梓が手塚治虫の作品を解説したときに知ったのであるが)。
フロルの両性具有という概念は、アーシュラ・K・ル=グィンの『闇の左手』(1969) からヒントを得ていると思われる発言がある (p.066)。『闇の左手』は性差の不分明であり、『ゲド戦記』のアチュアン (1971) が名前の不分明にあるとすれば、ル=グィンのこうした境界線上における状況設定のアプローチが鋭敏であることがよくわかる (もっともアチュアンの無名性はアーキペラゴにおける 「真の名前」 という呪縛に対する反意でもある。アーキペラゴは体制であり、アチュアンはアンチテーゼなのだ)。

ここで面白かったのは『11人いる!』のヒントになったのは、宮澤賢治の 「ざしき童子のはなし」 なのだとのことである (新校本宮澤賢治全集第12巻)。広いお屋敷で子どもが10人で遊んでいたら、いつのまにか11人になっているという典型的な 「座敷わらし」 の話なのだが、それで『11人いる!』というタイトルになったのだという。そして『11人いる!』の後、SF系の作品が次々に生まれる。 「A-A’」 (1981)、「X+Y」 (1981)、 「マージナル」 (1985) など。もちろん『百億の昼と千億の夜』(1977)、『スター・レッド』(1978) もSF系だが、この3作は多分にメンタル系な特徴を併せ持つという傾向が共通していることであげられているように感じる。「マージナル」 はジョン・ウィンダムの、男がいなくなった未来の世界を描いた 「蟻に習って」 にヒントを得ているそうである。

もうひとつ、 「11月のギムナジウム/トーマの心臓」 には 「うりふたつ」 ないしは 「双子」 という設定がある。双子は 「セーラ・ヒルの聖夜」 (1971) で特徴的な意味をもち始めるが、それは 「アロイス」 (1975) そして 「半神」 (1984) と、次第に重いテーマとなって続いて行く。同じような外貌でありながら内面が異質であることの究極が 「半神」 であり、つまり双子のテーマが 「半神」 に収斂していったとみることもできる。双子は人間の表と裏、陽と陰のメタファーであり、それを2人の人格に分けることによって抽象性は増す。

     *

ちくま文庫で『現代マンガ選集』という8巻のアンソロジーが出された。責任監修者は100分de萩尾望都にも出演していた中条省平である。この中に 「少女たちの覚醒」 という少女マンガの巻があり、編者は恩田陸である。
恩田は作品を選ぶ際の苦労を綴っているが、その中に次のような言葉がある。「そして、何よりも心残りなのは、内田善美の作品を載せられなかったことだった。/実は、私はこのアンソロジーに内田善美の 「ひぐらしの森」 を入れるのが一番の目標だった。悲願といってもいい」。
だが版権の関係で収録することはかなわなかった。しかしまだあきらめていない、と恩田は書く。 「「ひぐらしの森」 や 「空の色ににている」 を新たな世代の読者が読めないのは、大きな損失であるとしか思えない」 とも。SFの源泉ともいえるパルプ・フィクションも、コミック・ストリップも、そして独自の発達をした日本のマンガも、かつては消費財であった。だがその中にこそ最もその時代を反映する真実が存在している。


萩尾望都 紡ぎつづけるマンガの世界 (ビジネス社)
萩尾望都 紡ぎつづけるマンガの世界 ~女子美での講義より~




萩尾望都/ポーの一族 プレミアムエディション上巻 (小学館)
『ポーの一族 プレミアムエディション』 (上巻) (コミックス単行本)




現代マンガ選集 少女たちの覚醒 (筑摩書房)
現代マンガ選集 少女たちの覚醒 (ちくま文庫)




100分de萩尾望都 NHK告知
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2021special/

100分de名著 萩尾望都 #4
(視聴は消されないうちに)
https://www.youtube.com/watch?v=OwqHs0x29Og

〈参考〉
Schola 坂本龍一/戦場のメリークリスマス 解説
https://www.youtube.com/watch?v=mBctM3EwPno
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LUCY — 大貫妙子 [音楽]

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(左) HANA、(右) 大貫妙子

《音響ハウス Melody-Go-Round》というドキュメンタリー映画があって、その公開に合わせて大貫妙子へのインタビューが『Stereo Sound』217号に掲載されていた。音響ハウスというのは老舗のレコーディング・スタジオで、同誌に拠れば 「シティ・ポップの総本山」 と形容されている。
スタジオ・コンソール写真に加えて大貫妙子、佐橋佳幸、高橋幸宏、葉加瀬太郎などの写真があり、有名ミュージシャンの絶大な信頼を得ているスタジオであることは確かである。

昨年末に大貫妙子の東芝EMI期のアルバムがアナログ盤で発売されたが、そのことも話題の中に入っていた。アナログ化されたのは《DRAWING》(1992)から《One Fine Day》(2005) までの10枚で、最初の4枚については以前の記事ですでに話題に上げていたが、年末に10枚が出揃ったのである。
インタビューで大貫が語っているように、アナログ盤が同時にリリースされていたのは《PURISSIMA》(1988) までで、今回のユニバーサルからのアナログ・リリースは初めてのアナログということになるのだそうだ。厳密にいえば《LIVE’93 Shooting Star in the Blue Sky》(1996) は省かれているし、《PURISSIMA》と《DRAWING》の間にあたる《NEW MOON》(1990) も出ていないが、すでにソニーミュージックからリリースされた初期アルバムのアナログ盤とあわせて、これまでのアルバムがほぼアナログ化されたと思ってよい。
アナログ化に対して大貫は、やはりアナログで育った世代なので今回のアナログ化はうれしいとのことである。映画の中での発言だということだが、アナログで録音しているときは、テープを巻き戻している時間が重要で、その間に次にどう歌うかとか、心の整理をしていたのだという。そして、音楽を聴くときもメディアはCDまでで、ダウンロードやストリーミングをすることは無い、ともいう。

面白いのは若い頃の坂本龍一との録音時の話題で、その頃の坂本は食事はいつもカツ丼で、仕事が優先、食べるものなど、とにかく腹に入っていれば何でも良いという状態だったのだという。確か武満徹も同様で、ドンブリものが面倒くさくなくてよいと言っていた、と聞いたことがある。
また坂本は 「歌詞に興味のない人」 なので、大貫は歌詞を曲構成ができあがってから最後に書いていたとのこと。さらに、大貫がシンセの音がちょっとイメージと違うというと、そんなのわかってるよ、これは仮の音だよ、と怒られ、リズムをもう少し抑えたいんだけど、というと、もっと早く言えよ、と怒られ、いつもピリピリしていたとも。近年になって、アルバム《LUCY》のとき、そのことを指摘すると、「え? ボク? そんなこといってたの? 酷い奴だなぁ」 とすっかり忘れているような口ぶりなのだそうである。でも、きっととぼけているんでしょうね。
そして大貫は、編曲時にこういうイメージといって写真などを見せることもあるそうで、《LUCY》の〈Volcano〉という曲のイメージを考えていたとき、偶然そこにあった『ナショナルジオグラフィック』の火山特集の写真を示して 「こんな感じ」 と伝えたのだという。そうしたマジックが起こるのも音楽の楽しみだそうである。

最近のアナログ盤の復活を大貫は、「不思議なことが起きています」 というが、それはもちろん歓迎すべき不思議なことという意味である。最近の例をあげるのなら、松任谷由実の《深海の街》もアナログ盤が出されているし、もうすぐリリースされる宇多田ヒカルもアナログ盤が同時発売される。もっとも松任谷由実、宇多田ヒカル、椎名林檎の旧・東芝EMI組は 「何やってもOK」 の3人なので、当然アナログ併売というコンセプトなのかもしれない。
それはともかくとして、アナログ盤の大きなジャケットを見てしまうと、CDが 「まがいもの」 に見えてきて、ジャケット・デザインというのは重要だとあらためて思うのである。


大貫妙子/LUCY [アナログ盤]
(ユニバーサルミュージック)
LUCY [Analog]




大貫妙子/ATTRACTION [アナログ盤]
(ユニバーサルミュージック)
ATTRACTION [Analog]




Stereo Sound 217号 (ステレオサウンド)
季刊 Stereo Sound No.217(冬号)




大貫妙子/Happy Go Lucky (Live)
https://www.youtube.com/watch?v=PRM-eeVFEkI

大貫妙子/a life (UTAU Live in Tokyo 2010)
https://www.youtube.com/watch?v=XQpkgcNs5NY

映画『音響ハウス Melody-Go-Round』公式サイト
https://onkiohaus-movie.jp
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星野智幸『夜は終わらない』 [本]

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川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』は、暗い話なのだけれど美しい小説だと思う。吉本ばななの『N・P』もそうで、こうした一定のほの暗さのような雰囲気を私は愛しているような気もする (『N・P』のことはずっと以前にすでに書いた→2012年07月11日ブログ)。
『すべて真夜中の恋人たち』は『群像』2011年9月号に掲載されたのち、単行本となったのだが、その『群像』掲載号を古雑誌でたまたま手に入れたところ、星野智幸の『夜は終わらない』の連載第1回が掲載されていたのである。読んでみると面白かったので、もう10年も前の雑誌の連載だから完結しているはずと思って本を探し、文庫になっているのを見つけて終わりまで読んでみた。

主人公の玲於奈 [れおな] は結婚詐欺を繰り返す女で、しかも不要になった男は殺してしまうという冷酷な殺人者なのだが、プロローグで記述される彼女の描写が良い。当時の類似連続殺人事件にヒントを得ているとかいうことはどうでもよくて、彼女の突っ張った性格、ペットのフェレット、銀色のポルシェといった通俗的なスタイリッシュさに満ちている。だが彼女は男を殺す前に、何か面白いお話をさせて、それが面白ければ殺さないという奇妙な方策を持ち合わせている。
つまりアラビアン・ナイトの女性版で、だから彼女はシャフリヤールなのである。だが玲於奈が殺そうとしていた男のなかに久音 [くおん] という話を紡ぎ出す男がいて、その話の中の登場人物がまた話を語り、そしてその話の中の登場人物がまた話を語り、というふうにどんどん深層に降りて行く。
この話法について行けるかどうかが読み切れるか否かの鍵で、ついて行けないとなんだかわからない複雑な小説ということになるらしいのだが、構造はそんなに込み入っているわけではない。そして最後に全ては折りたたまれてしまう。

ただ残念なのはもっとも魅力的なキャラである玲於奈が、物語の連鎖が始まると後退してしまい、背景としか見えなくなってしまうことだ。数々の 「紛いアラビアン・ナイト」 はそれぞれに奇妙に歪んでいて変わっているのだが、すべては木偶人形が動いているようでもあり、強い生命力を感じさせない。紗の1枚かかった向こう側の風景のように読めてしまう。このタイトルから連想したのはセリーヌの『夜の果てへの旅』であるが、セリーヌのような自らを語る虚無ではなく、もう少し色彩を持った不定形な虚無を感じる。そしてそれはあらかじめ想定された作家の冷静な領地の中にある。
それともうひとつ、私はクリストファー・プリースト『夢幻諸島から』について書いたように (→2013年10月16日ブログ)、幾つもの短編が組み合わさって全体を構成しているというような物語構造があまり好きではない。それでこの本も、間に他の本を挟みながら読んでいたのだが、読書の中断によってストーリーが飛んでしまうようなことはなかった。それだけ印象が濃かったということでもある。

巻末解説で野田秀樹が語っているように 「劇中劇中劇中劇中……」 というような劇中劇の連鎖は、「妄想の凧がどこまで上がるか」 ということなのである。凧が高く上がれば上がるほど妄想は膨らむが、凧は必ず落ちるのである。落ちないにしてもいつかは地上に戻らなければならない。その最も地上にいるのが玲於奈であり、それゆえに作家の創り出したものでありながら、最もリアリティが高くなる。だがそのリアリティさは錯覚であり玲於奈もまた作家の創造物に過ぎない。
もっとも妄想の高い部分は 「星工場」 というメルヘンなネーミングを持ちながらキナくさいストーリーの 「フュージョン」 のように思うが、話は二重スパイの重なりによって誰が敵で誰が味方かわからない状態へと融解して行く。この話の部分を野田秀樹は対幻想/共同幻想という吉本隆明からの概念で語っているが、演劇とは結局、共同幻想だという締めくくりかたに野田の作劇法の片鱗を知る。
それはホンモノ/ニセモノという対立概念にも通じるが、野田の『ゼンダ城の虜』も『贋作・桜の森の満開の下』も贋作をベースとしているし、『小指の思い出』はタイトルだけを借用したデフォルメであり、そうした借用は寺山修司の『百年の孤独』の方法論に似る。つまり外装だけを盗む確信犯である。
そして『夜は終わらない』はアラビアン・ナイトの変形譚なのであるが、過去の物語をリフレッシュさせようとする意図とは裏腹に、むしろもう一度アラビアン・ナイトをこそ読んでみたいとする見当違いの意識を私に目覚めさせたりするのだ。

だから次に語られるべきは、地上にいる玲於奈の、彼女自身の物語のはずなのであるが、語ろうとする玲於奈の開けたドアの外は昼なのに暗いばかりで、夜は終わらないのだ。


星野智幸/夜は終わらない (講談社)
夜は終わらない(上) (講談社文庫)

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Let’s Sing Outのジョニ・ミッチェル [音楽]

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Joni Mitchell (1966)

昨年 (2020年) 発売されたCDの中で私にとって最も重要なのはプリンスの《Sign “O” The Times》とジョニ・ミッチェルの《Archives vol.1》である。どちらも過去の作品のリイシューであるのが残念といえばそうなのだが、渋谷陽一が以前の番組の中で、《Shine》(2007) は彼女の最後のアルバムになってしまうかもしれないと言っていたことを考え併せれば、こうしたアーカイヴが編集されるということを冷静に受け止めるしかないのだろう。

ジョニ・ミッチェルにはRhinoからリリースされた《The Studio Albums 1968−1979》という廉価盤があった。《Song to a Seagull》(1968) から《Mingus》(1979) までが収録されているが、スタジオ・アルバム集なので当然ながら《Miles of Aisles》は省かれている。
この続編を期待していたのだがそれは発売されず、今回の《Archives》で、より綿密な校訂でRhinoより再発されるという方針なのではないかと思われる。そして最初の発売であるvol.1は1963−1967のアーリー・イヤーズとなっており、正式なアルバム発売以前のジョニの音源を集めたものである。これらの音源は今までブートとして出ていたものもあるらしく、そうしたものを整理して正式なアーカイヴにするという意図があるようだ。

CDと同時にアナログ盤も発売されたが、《Early Joni》は1963年のごく初期の音源でCD1の前半、《Live at Canterbury House》は1967年のライヴで、CD4の後半からCD5にあたる音源である。したがってアナログは全部の音源を網羅しておらず、あくまでCDがリリースのメインである。アナログ盤はプレスがチェコ・リパブリックと表示されていてちょっと不安を感じてしまうが、大丈夫なのだろうと思うことにする。

ごく初期のジョニの音源として〈Let’s Sing Out〉というTV番組の映像があるのだが、これはwikiによればカナダで放送されていた番組で、CTVで1963年から1966年まで、CBCで1968年まで放送されたとある。This series, patterned after the American Hootenanny showと説明されていて、実際にそういう名称のアメリカの番組もあったらしいが、フーテナニーという言葉を久しぶりに見たような気がする。
〈Let’s Sing Out〉の映像はYouTubeでも散見するが、ジョニに関していえばGo Faster Recordの《Let’s Sing Out》というDVDがあるが未見である。だがおそらくYouTubeにあるのはこれが元なのではないかと思われる。映像のクォリティが低いのは元からなのか、それともダビングのせいなのかは不明であるが、年代を考えれば仕方のない範囲である。

初期のジョニの映像は、ごくつつましいフォーク・シンガーといった感じで、私が最初に聴いた彼女のアルバムは確か《Hejira》だったので、その印象にちょっと落差があって楽しい。だが、そのごく初期の演奏にもすでにジョニ特有の音が聞こえてくる。YouTubeにある〈Coyote〉を聴くと、10年経つとこのように変わってしまうのか、とも思ってしまうのだ。もっともこのほうがジョニ・ミッチェルらしくて私は好きなのだけれど。

ジョニの2枚目のスタジオ・アルバム《Clouds》の邦題は 「青春の光と影」 というのだそうで、沢田聖子には同名のアルバムと楽曲があるが (作詞作曲はイルカ)、その出所はここだったのか、と気がついた。

尚、〈Let’s Sing Out〉の映像には、やはりごく初期のサイモン&ガーファンクルの映像もあり、若い2人の初々しい演奏を聴くことができる。

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Joni Mitchell (1975)


Joni Mitchell/Archives vol.1 (ワーナーミュージック・ジャパン)
アーカイヴス Vol.1:アーリー・イヤーズ(1963―1967)




Joni Mitchell/The Studio Albums 1968−1979 (Rhino)
Joni Mitchell the Studio Albums 1968-1979




Joni Mitchell/Urge For Going (Let’s Sing Out 1966)
https://www.youtube.com/watch?v=vLu2-gG68S0

Joni Mitchell/Coyote
(live at Gordon Lightfoot’s Home
with Bob Dylan & Roger McGuinn, 1975)
https://www.youtube.com/watch?v=zeaO5UZ5OcI

Joni Mitchell/Coyote
(live 1979 with Pat Metheny, Jaco Pastorius and Don Alias)
https://www.youtube.com/watch?v=DHQfIwyEVzY

Simon & Garfunkel/live Let’s Sing Out 1966
https://www.youtube.com/watch?v=fu9ATbLE72I
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