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『萩尾望都 紡ぎつづけるマンガの世界』とその周辺のことなど [コミック]

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女子美術大学では2011年より萩尾望都を客員教授として招聘し、特別講義を年2回開いていた。この本はその記録とのことである。
2016年7月17日講義の中で萩尾は『ポーの一族』の続編について、次のように語っている。

 夢枕獏さんが、会うたびに 「いつか『ポーの一族』の続編を描いてよ。
 続きが読みたいな。待ってるから」 って。(p.151)

これは先日の《100分de名著》の特番《100分de萩尾望都》でも夢枕獏自身が話題にしていた。繰り返して言葉にしていれば実現することってあるのだな、と思う。番組自体も通常の《100分de名著》のような一般教養的内容でなく、より深い会話で構成されていて、きっと視聴率は高かったのではないだろうか。
マニアックな話題ということなら私が繰り返し取り上げている《関ジャム》があるが、そうした解説の元は坂本龍一の《Schola》であることにこの前、YouTubeを観ていて気づいた。〈Merry Christmas, Mr. Lawrence〉の解説では11th、13thの使い方と、さらにこれはサブドミナントから始まっているということ、そしてドビュッシーなどの影響があることを明晰に語っていて、100分特番もScholaも、NHKおそるべし、である。《タモリ倶楽部》をハイブロウにした《ブラタモリ》はちょっとズルいけれど。

というような前フリはともかくとして、女子美講義から幾つかをランダムに読んでみる。
第2章 (2016年11月26日) は 「トランスジェンダーのキャラクターはどこから生まれてくるのか」 というタイトルで、まず 「11月のギムナジウム」 (1971) についてであるが、萩尾によれば『トーマの心臓』(1974) の構想はすでにあって、その番外編のような話として出てきたのが 「11月のギムナジウム」 なのだとのことだ (p.057)。
なぜ男子校を舞台にした男の子ばかりの物語にしたかということについて、萩尾は、

 『11月のギムナジウム』は描いていてすごく楽でした。それはなぜかと
 考えていくと、私は女子だからといって不自由を感じたことはないと思
 っていたけれど、それなりに、女はこうしなさいという抑圧を受けてい
 るんじゃないか。そんなふうに考えて、だんだん過去のことを思い出し
 ていきました。(p.059)

という。そしてマンガ家としてデビューして出版社に行っても編集者から 「1年か2年描いたら結婚するんでしょ?」 というような会話になる。まだ 「女性は結婚して家庭に入るのが当たり前という感覚」 の時代だったのだという。しかし、やがて男子が先で女子が後の学級名簿はおかしいんじゃない? という疑問の出てくる時代となって来る。

 時代とともにものの見方が変わってきているんですね。そうすると、や
 はり私は自分でも気づかない抑圧を受けていたんだ。だから、男子生徒
 を描いたときに、すごく描きやすかったんだなと思いました。(p.060)

少女マンガというテリトリーの中で、少年ばかりが出てくるストーリーであるのは、当時は極端な冒険だったように思えるし、それを描いた萩尾だけでなく、それを通してしまった編集者や出版社はちょっとスゴい、と思う。
しかし 「11月のギムナジウム」 や『トーマの心臓』は、いわゆるBL系であり、トランスジェンダー的なコンセプトで描かれたのは、その後に描かれた『11人いる!』(1975) で顕在化したと言えよう。もっとも『11人いる!』におけるタダとフロルはトーマのユーリとエーリクであり、トーマにおけるユーリがあまりにかわいそうなので、その補完として『11人いる!』でリカバリーしたのだというスターシステム的な見方もあるように思う (スターシステムという用語は中島梓が手塚治虫の作品を解説したときに知ったのであるが)。
フロルの両性具有という概念は、アーシュラ・K・ル=グィンの『闇の左手』(1969) からヒントを得ていると思われる発言がある (p.066)。『闇の左手』は性差の不分明であり、『ゲド戦記』のアチュアン (1971) が名前の不分明にあるとすれば、ル=グィンのこうした境界線上における状況設定のアプローチが鋭敏であることがよくわかる (もっともアチュアンの無名性はアーキペラゴにおける 「真の名前」 という呪縛に対する反意でもある。アーキペラゴは体制であり、アチュアンはアンチテーゼなのだ)。

ここで面白かったのは『11人いる!』のヒントになったのは、宮澤賢治の 「ざしき童子のはなし」 なのだとのことである (新校本宮澤賢治全集第12巻)。広いお屋敷で子どもが10人で遊んでいたら、いつのまにか11人になっているという典型的な 「座敷わらし」 の話なのだが、それで『11人いる!』というタイトルになったのだという。そして『11人いる!』の後、SF系の作品が次々に生まれる。 「A-A’」 (1981)、「X+Y」 (1981)、 「マージナル」 (1985) など。もちろん『百億の昼と千億の夜』(1977)、『スター・レッド』(1978) もSF系だが、この3作は多分にメンタル系な特徴を併せ持つという傾向が共通していることであげられているように感じる。「マージナル」 はジョン・ウィンダムの、男がいなくなった未来の世界を描いた 「蟻に習って」 にヒントを得ているそうである。

もうひとつ、 「11月のギムナジウム/トーマの心臓」 には 「うりふたつ」 ないしは 「双子」 という設定がある。双子は 「セーラ・ヒルの聖夜」 (1971) で特徴的な意味をもち始めるが、それは 「アロイス」 (1975) そして 「半神」 (1984) と、次第に重いテーマとなって続いて行く。同じような外貌でありながら内面が異質であることの究極が 「半神」 であり、つまり双子のテーマが 「半神」 に収斂していったとみることもできる。双子は人間の表と裏、陽と陰のメタファーであり、それを2人の人格に分けることによって抽象性は増す。

     *

ちくま文庫で『現代マンガ選集』という8巻のアンソロジーが出された。責任監修者は100分de萩尾望都にも出演していた中条省平である。この中に 「少女たちの覚醒」 という少女マンガの巻があり、編者は恩田陸である。
恩田は作品を選ぶ際の苦労を綴っているが、その中に次のような言葉がある。「そして、何よりも心残りなのは、内田善美の作品を載せられなかったことだった。/実は、私はこのアンソロジーに内田善美の 「ひぐらしの森」 を入れるのが一番の目標だった。悲願といってもいい」。
だが版権の関係で収録することはかなわなかった。しかしまだあきらめていない、と恩田は書く。 「「ひぐらしの森」 や 「空の色ににている」 を新たな世代の読者が読めないのは、大きな損失であるとしか思えない」 とも。SFの源泉ともいえるパルプ・フィクションも、コミック・ストリップも、そして独自の発達をした日本のマンガも、かつては消費財であった。だがその中にこそ最もその時代を反映する真実が存在している。


萩尾望都 紡ぎつづけるマンガの世界 (ビジネス社)
萩尾望都 紡ぎつづけるマンガの世界 ~女子美での講義より~




萩尾望都/ポーの一族 プレミアムエディション上巻 (小学館)
『ポーの一族 プレミアムエディション』 (上巻) (コミックス単行本)




現代マンガ選集 少女たちの覚醒 (筑摩書房)
現代マンガ選集 少女たちの覚醒 (ちくま文庫)




100分de萩尾望都 NHK告知
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2021special/

100分de名著 萩尾望都 #4
(視聴は消されないうちに)
https://www.youtube.com/watch?v=OwqHs0x29Og

〈参考〉
Schola 坂本龍一/戦場のメリークリスマス 解説
https://www.youtube.com/watch?v=mBctM3EwPno
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