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この夏のアンサンブル・アンテルコンタンポラン [音楽]

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タワーレコードの宣伝誌『intoxicate』の今月号トップはアンサンブル・アンテルコンタンポランの紹介記事である。2021年のサントリーホール・サマーフェスティバルに来日するので、そのプロモーションといってもよいが、このところ同誌はパッとしない表紙とトップだったので、少しだけ溜飲が下がった気がする。

Ensemble intercontemporain (アンサンブル・アンテルコンタンポラン:以下、EICと表記) は沼野雄司が記事で解説しているように、まさにピエール・ブーレーズのために作られたアンサンブルである。正確にいえばポンピドゥー・センターの附属施設としてのIRCAM (フランス国立音響音楽研究所:Institut de recherche et coordination acoustique/musique) の演奏団体であり、現代音楽を演奏するために特化されたグループである。
沼野の解説によればIRCAMにおけるEICとは、保守的なフランス音楽界に愛想をつかしてドイツに行ってしまったブーレーズを呼び戻すため、ポンピドゥーがブーレーズにIRCAMの椅子を約束し、さらに作品発表のために用意した理想的環境のアンサンブルなのである。文化がいかに重要で大切なのかということを知っているからできたことで、フランスの文化成熟度を実感させられる処遇であった。

NHKTVで放送されたブーレーズが指揮する《ダフニスとクロエ》の映像を見たときの感想として 「その精度が尋常ではない」 と沼野は語る。それはそうだ。ブーレーズはその作品が精緻であればあるほど、指揮の精確さが増す。そのブーレーズは残念ながら亡くなってしまったが、EICは後継としてのマティアス・ピンチャーに引き継がれ、彼のプロフィールと、ピンチャーから見たブーレーズの過去の印象が語られている。ピンチャーに対してブーレーズはかつての狷介さはなく優しかったということだ。

今号の表紙を飾るEICのピアニストである永野英樹の話も面白い。日本では学校教育で音楽史を教えられるから基本的な教養があるので、バッハやベートーヴェンが歴史上、どういう人なのかという知識こそあるが、フランスではそうした授業がほとんどないので、逆にリゲティを聴かせても、これはこういう音楽なのだと受け入れられてしまうとのこと。そして、現代音楽は録音で聴くと、どうしても壁のようなものを感じるが (つまり難解なように感じられるということ)、実際にナマで聴くとその魅力が理解できるはずだから是非ナマで聴いて欲しいと述べている。

YouTubeでEICのホームを見ると 「L’EIC, c’est ça! This is EIC!」 という宣伝としての短い時間の動画があるが、そのバックに流れているのはブーレーズの《Messagesquisse》である。チェロの、ときにヴァイオレンスな合奏が美しい。
そしてメニューの中にヴァレーズの有名曲である《Ionisation》も並んでいた。指揮しているのはチェリストでもあり、ヘルシンキ・フィルの首席指揮者であるフィンランドのスザンナ・マルッキ。イオニザシオンは、ずっと以前、確かストラスブール・パーカッション・グループの演奏で聴いたのが心に残っている。パーカッションを主体とする曲だが、その中で鳴り響くサイレンが不安感を誘って、一度聴いたら忘れない。
《Messagesquisse》も《Ionisation》もそうだが、最近の演奏者のテクニックは半端ではない、と思ってしまう。

尚、マルッキはかかし王子、マンダリンに続いてのバルトークの新譜が青髯公の城 (いずれもBIS盤)。それ以外のバルトークには、アンドレアス・ヘフリガーをソリストにしたコンチェルト3番があって、俄然興味をおぼえる。


Ensemble intercontemporain/New York (Alha)
New York




L’EIC/c’est ça ! This is EIC!
https://www.youtube.com/watch?v=5GqF0lQ06fs&t=2s

Ensemble intercontemporain/Varèse: Ionisation
https://www.youtube.com/watch?v=wClwaBuFOJA

Eric-Maria Couturier, Ensemble intercontemporain/
Boulez, Messagesquisse
https://www.youtube.com/watch?v=Cfnf15xVb8c
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東京事変《音楽》 [音楽]

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6月13日と20日の《関ジャム》は2週続けて東京事変のニューアルバム《音楽》のプロモーションとでもいうべき内容。だがアルバムそのものの紹介というわけでなく、東京事変の楽曲を包括して辿っていて中身が濃かった。ゲストにKing Gnuの常田大希と勢喜遊、ゲスの極み乙女。の理論派ともいえるちゃんMARI、そして本間昭光といった布陣。
King GnuとちゃんMARIの発言からは、同じミュージシャンであるゆえの共感のようなものがあって、そのひとつひとつが面白い。

亀田誠治がベースにもディストーションをかけて、そもそも何でも (ドラムでも) 歪ませるのが好きというのにも笑うが、それは浮雲 (長岡亮介) がギターなのにもかかわらずクリーンな音嗜好に対してのアンチテーゼでもあるようで、そして浮雲が同じフレーズを弾かないということに関しても、つまり覚えるのが面倒なのでという言い訳のような本音にも笑う。いつもその場でのインプロヴァイズということなのだ。『ギターマガジン』の今月号は浮雲のファントム特集だが (というのはジョーダンですけど)、これもアルバムのプロモーションの一環なのだろう。

椎名林檎の質問に対してKing Gnuが、自分たちの音楽はレディオヘッドよりオアシスという回答をしていたのは、つまりある程度のJ-pop寄りのテイストで作るという意味であって、なかなか奥が深い。それに対して椎名林檎は普段はピアノソロの曲とか、つまりインストゥルメンタルを好んでいて、歌のある音楽なんかほとんど聴かないといっていたのが印象に残る。歌詞に、時に古風な言葉が混じるのも決してそうした言葉を使いたいからではなく、メロディの音数に対して言葉の数を合わせたいからだという。

ただ、アルバム《音楽》はまだそれほど聴いていないのでなんとも言えないのだが、ここまでやってしまっていいのかというぼんやりとした危惧はある。椎名林檎なりの 「オアシス」 的な妥協の部分はあるのだろうけれど、メロディラインはカラオケで歌うのにはどんどん歌いにくくなっているように感じるし、でもそれである程度の支持があるのならむしろ素晴らしいことなのだが。
もっともラインクリシェの話題から連想したのだが、そうした音楽理論上のクリシェでなく、椎名の書く作品のテイストには彼女なりのクリシェ、というかつまり音の繋がりのパターンとしての手癖が常に存在していて、それがある限り椎名林檎はずっと椎名林檎なのだとも思う。
PVの〈緑酒〉は鈴木清順のパロディみたいで、料亭、その廊下、古い車、池の鯉、和服、懐かしいCP-70、そして刀とすり替えられたファントム (演奏で浮雲はティアドロップを弾いているが)。映画《名探偵コナン 緋色の弾丸》の主題歌は、あくまでコナンだから不安感を醸し出すようにこうしたコード進行を、というような解説があり、それなら〈赤の同盟〉だってドラマ主題歌だから、ということで理解できる。

椎名の発言の中で最も面白かったのがアルバムにおける曲順とコンサートにおける曲順が違う場合でも、つながりを考えてふたつのパターンに対応できるようにしておくというもので、これは以前に彼女が言っていたアルバムのつながりをコード進行的にスムーズにつながるようにまず決めておいてから曲作りをするということの発展形であるとも思えた。

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東京事変/音楽 (Universal Music)
音楽 (通常盤)




東京事変/緑酒
https://www.youtube.com/watch?v=OS45uTF_8P0

東京事変/赤の同盟
https://www.youtube.com/watch?v=t67VbQhh9_A

椎名林檎/長く短い祭 from (生)林檎博’18
https://www.youtube.com/watch?v=1Omyzc0ihyo
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プリンス — Live at Webster Hall [音楽]

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7月30日にプリンスの《Welcome 2 America》がリリースされる。もちろん速攻で予約してしまった。同アルバムは2010年にレコーディングされたまま、未発売だった音源である。
すでに〈Welcome 2 America〉と〈Born 2 Die〉がwebで公開されている。情報によればレコーディングにはタル・ウィルケンフェルドも参加しているとのこと。

だがアルバム自体はまだ発売前なので、それは来月の楽しみとして、最近ハマっているのは Live at Webster Hall の何曲かのパフォーマンスである。ウェブスター・ホールにおけるライヴは2004年の4月20日。バンドによる〈Musicology〉も盛り上がるが、ギター1本で歌う余裕綽々のプリンスが小気味よい。インティメイトでユーモラスで、永遠に衰退しない音楽。
〈Sometimes It Snows in April〉で歌を観客に任せて弾く完璧なギターワーク。この才能が失われてしまったことに対して、今はただ涙しかない。
セットリストをコピーしておく。

Prince at Webster Hall,
April 20, 2004. New York, NY, USA
Tour: Musicology Live 2004ever

1) Musicology
2) Dear Mr. Man

Solo guitar set
3) Cream
4) I Could Never Take the Place of Your Man
5) Sweet Thing (Rufus & Chaka Khan cover)
6) Proud Mary (Creedence Clearwater Revival cover)
7) Sometimes It Snows in April
8) Life 'O' the Party
9) Soul Man (Sam & Dave cover)
10) Kiss

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Prince/Welcome 2 America (SMJ)
ウェルカム・2・アメリカ (通常盤) (CDのみ) (特典なし)




Prince/Cream (Live at Webster Hall - April 20, 2004)
https://www.youtube.com/watch?v=r967lcA_rR8

Prince/Musicology (Live at Webster Hall - April 20, 2004)
https://www.youtube.com/watch?v=b2YdLEIAL4E

Prince/Sometimes It Snows In April
(Live at Webster Hall - April 20, 2004)
https://www.youtube.com/watch?v=iBThX4o2_KI

     *

Prince/Welcome 2 America
https://www.youtube.com/watch?v=HJtxSdTL488

Prince/Born 2 Die
https://www.youtube.com/watch?v=febeHW4EO4o
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アデュー、オリンピック [雑記]

今日 (6月12日) の朝日新聞の読書欄に作家の星野智幸がオリンピックについて書き、それに関する本を紹介している。

 小学生のときにモントリオール五輪に熱中して以来、無類のスポーツ観
 戦好きとなり、スポーツを通じて社会は良い方向に変えられるという信
 念も持っている私が、こんなにまでオリンピックに嫌悪を感じるとは。

という星野は、IOCの強権的な主張に対して 「IOCによる 「不平等条約」 のために住人たちが拒否できないという状況は、支配者が自分たちの利益のために植民地を踏みにじってきた歴史を繰り返している」 のだと認識しているが、それは今に始まったことではなく、そもそものオリンピックの始まりが強権と特権の体質だったのだと述べている。
ヘレン・レンスキーは 「スポーツ例外主義」 という言葉を使って、IOCはオリンピックを「『世界のスポーツの最高権威』という地位を築くことで、人体と心にダメージを与えるようなスポーツ実践」 を形づくってきたと指摘しているという。

 スポーツ例外主義とは、民主的な手続きだとか、女性の地位だとか、セ
 クシュアルマイノリティー差別だとか、不正義に対する抗議の意思表示
 だとかを、「スポーツは政治に巻き込まれない」 というレトリックで無視
 する進め方のことである。

また、ジュールズ・ボイコフは第二次世界大戦前のベルリンで開催されたオリンピックにおいて 「IOCはファシズムと親和し」 ていたし、「戦後も、歴代の有力な会長は元ファシスト支持者たちで強権政治への志向を隠さなかった」 というのである。1936年のベルリン・オリンピックがヒトラーのプロパガンダのための開催だったことは自明である。
そして 「スポーツの清廉なイメージで不都合を覆い隠す 「スポーツウォッシング」 こそ、各国の政治が利用したがる五輪の効果だ」 と星野は書く。さらに 「スポーツ政治が持つこれら負の側面の源を探れば、白人男性至上主義に行き着く」 とする。そもそも第1回のオリンピックは男性のみの、より正確にいえば白人男性限定のスポーツ大会であったのだから。

オピニオンのページでは社会学者の佐藤俊樹のインタビューが掲載されているが、表明されている意見は星野と同様の 「気持ち悪さ」 である。そして、

 「日本の政治が科学の知識や知見をいかせていない。それも『うまくで
 きない』というより、『理解できていない』ように見えます。科学が進
 歩し、感染者数の予測や状況ごとの感染リスクなどのデータがたくさん
 とれるようになりました。そうした成果をベースにした議論もできてい
 ません」
 「材料を分析した上で方針を決めていれば、五輪も単純な『開催か中止
 か』ではなく、『この形ならばリスクはこれくらい』と提示できたはず
 です。今回は、そういう対応能力がないことを見せつけられた。それが
 強い感情的な反対論も生み出しました」

と佐藤は言う。
さらに佐藤は、コロナ対策とオリンピックとは二兎を追うことであり、そのようなことをする力は日本にはない。なぜなら日本はもはや大国ではない、とも言う。

 「コロナ禍のこの1年間で、現実を見ないわけにはいかなくなったのだと
 思います。ワクチン自体は早期に確保できたのに、接種の態勢の準備な
 し。IOCからは、日本をバカにするかのような発言が続きます。薄ぼん
 やりとは、認識せざるを得ないでしょう」

だからオリンピックが行われても行われなくても、そして行われたとして、開催して盛り上がったというようなことになったとしても、それは中途半端であり、すべてに中途半端な日本が浮き彫りになるのだというのである。

スポーツ欄には、日本ウェルネススポーツ大学教授の佐伯年詩雄が、「開催の是非 人任せにせず、スポーツ界から発信を」 という記事がある。

 この状況でなお開催を求めるのなら、なぜ、何のために開くのかという
 論理を示すべきです。誰も示すことができないできた大会の意義を自ら
 問い、自分の言葉にして訴えないといけません。
 懸念しているのは、このままでは五輪やスポーツそのものが信頼や価値
 を失い、傷つくことです。
 スポーツ界は黙って成り行きを見守っているだけ。社会と共にコロナに
 対抗することをしてきていない。

と佐伯は語っている。これはつまりアスリートやスポーツ関係者が、レンスキーのいう 「スポーツ例外主義」 に乗って安穏としているのに等しいとも言える。
そしてオリンピック後について佐伯は、

 開催の是非について、なにも語らなかったスポーツ界が信頼を取り
 戻すのは並大抵のことではないです。

ともいう。

以上は新聞記事を要約したものだが、私の意見もこれらに近い。
ただ、簡単に述べると、今回のIOCの日本への対応は、直裁にいうのならば有色人種への蔑視がその根本にある。本来、白人種のものだったオリンピックを有色人種の国で開催させてやるのだから文句を言うな、ということである。もちろんそんなことを表だっては言わないが、そうした認識があることはすぐにわかるはずだ。
これは何もオリンピックに限ったことではない。かつてF1という自動車レースがあったが (今もまだあるのかもしれないが、よく知らない)、日本人ドライバーは確実に差別されていた。同じ条件の車が与えられることはなく、スタッフも車も、すべてが2番手、3番手であり、それが結果として 「日本人ドライバーはたいしたことない」 という評価につながっていたのは確かである。なぜならF1というのは白人のためのレースであり、それ以外の人種が入ることをよしとしていなかったからである。
こうした差別的認識の極端な例がナチスであり、そのナチスの牛耳っていたベルリン・オリンピックから聖火リレーが始まったのであることは意味深である。つまりいまだに国威昂揚であり、そもそもオリンピックの目的は富国強兵なのである。
かつてレコード大賞というイヴェントがあった (今もまだあるのかもしれないが、よく知らない)。レコード大賞はあるときから、裏取引の事務所間での疑似・賞レースとなってしまった。だから最近、レコード大賞をとった歌手がどんな人なのか、ほとんど知らないし関心がない。レコード大賞とオリンピックを同列にはできないのかもしれないが、私にとっては同じようなものである。腐敗したものは必ず滅びて行く。オリンピックの美名とでもいうべきものは、もうすっかりメッキが剥げ落ちている。もともとそれはメッキであって、無垢の金属ではなかったのだ。

コロナのワクチン接種に関しては、私はより皮肉な見方をしている。佐藤俊樹は、ワクチンが確保されたのにもかかわらず準備をしなかった、つまり対応が遅かったと見ているが、私はわざと遅らせていたのだというふうに考える。オリンピックを開催するか中止にするか、一番瀬戸際のときに、ワクチン接種が進まない、電話がかからなくて予約がとれないというような混乱状況になるような時期にあらかじめ設定しておいて、オリンピックに対する関心・注目度が少なくなるように仕向けて、そのうちにどんどん進めて、なしくずしで開催してしまおうとする計画である。そして今がまさにその状態である。これは悪辣な手法であるが、政治家とは常に強引に自己の目的を押し通そうとし、そのためには虚偽も厭わないものであることを認識しておかなければならない。

このコロナ禍の間、音楽業界は停滞し、ライヴもできず、ライヴハウスももちろんダメ。音楽関係者は大変な努力をしてきたことを知っている。これは私が音楽が好きだから言うのではないが、そのような逼迫した状況に対して国家は何の保証もしてくれてはいない。音楽などどうでもいいのだと思っているのである。大人数の集まるライヴはダメ、運動会もダメ、博物館や美術館もダメ。でもオリンピックはOK、パブリックビューもOK、何なんでしょうね?

佐伯年詩雄が危惧しているスポーツ全般に対する信頼がなくなることについては、私にとっては、もう遅いのである。私は東京オリンピックが開催されたとしても一切見ないし、今後、すべてのスポーツに関して無視することにする。それがこの国の現状と卑劣さに対する小さな抗議である。
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ジェニー・ビーヴァンのクルエラ [ファッション]

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このところ、夏菜の初音ミク・コスプレが話題だが、『装苑』7月号の特集は 「妄想・空想 自己実現のためのイマジネーション」 となっていて、まさにコスプレ特集的な色合いである。
この暗い時代の中で、それぞれに異なる色彩で楽しいのだが、目を惹いたのはディズニー映画の《クルエラ》に関する記事である。

プロモーションには 「ディズニー史上最も悪名高きヴィラン “クルエラ” の誕生秘話をスタイリッシュに描き出す、衝撃のパンクロック・エンターテイメント!」 と書かれていて、冷静に考えるとよくわからないところがまさにスタイリッシュだ。ディズニーの1961年アニメ《101匹わんちゃん大行進》の登場人物のひとり、クルエラにスポットを当てた実写版であり、サイド・ストーリーといえる。

映画の衣裳を担当したのはジェニー・ビーヴァンである。映画の衣裳と通常のファッションとはあくまでも異なるが、バロネスとクルエラという正と悪の対比がそのファッションとしてそのまま現れていて強固なインプレッションとなる。ここに描かれているファッション自体は架空のものでしかないのだが、たとえば《プラダを着た悪魔》などよりも結果としてもっと直接的なファッションとしての顕示なのではないだろうか。

VOGUEサイトの2021年5月17日からあらすじを引用すると、

 舞台はパンクムーヴメントが吹き荒れる1970年代のロンドン。ファッ
 ションデザイナーを目指すエステラ (エマ・ストーン) は、業界の大物
 であるバロネス・フォン・ヘルマン (エマ・トンプソン) の目に止まる。
 この2人の出会いをきっかけにさまざまな事件が起こり、少女エステラ
 は冷酷なクルエラへと変貌していく。それに伴い、エステラのファッシ
 ョンも、控えめなアンサンブルから血のように真っ赤なボールガウン、
 スパンコールを散りばめたモトクロスパンツ、豪華なミリタリージャケ
 ット、手縫いの花びらが散りばめられた裾たなびくスカートへと変化。
 彼女にとってファッションは、バロネスの存在に影を落とし、体制に挑
 戦するための武器となるのだ。

『装苑』の記事の中でビーヴァンは、ヴィヴィアン・ウエストウッドの影響を強く受けていて、それは70年代のパンクでありアヴァンギャルドで最も先鋭なファッションであったというニュアンスである。またジョン・ガリアーノや、歌手のニナ・ハーゲンからインスピレーションを受けたとも述べている。
だがVOGUEの記事によれば、その70年代にビーヴァン自身が着ていた服は、たぶん憧れはあったのだろうがとてもヴィヴィアン・ウエストウッドを買う余裕などなく、それほどエキサイティングなものではなかったが、ウェッジヒールのブーツ、軍物やバイカーの古いジャケットを買って、それらを全く違うアイテムと合わせてみたりしていたと回想する。
クルエラの軍服のようなジャケットと巨大な真紅のラッフルスカートは、そうした異質なアイテムを強引に合わせるコーディネートの肥大したイメージの再現というふうに捉えることができる。
まだ若く貧しい頃のクルエラは古着を着ていたに違いないと考え、大量の古着をセレクトしてエマ・ストーンにフィッティングさせたという。結果としてそれらの古着を実際の衣裳として使用することはなかったというが、時代を表現するのに有効な試行であったと見るべきだろう。

クルエラのアヴァンギャルドさに対比されるのがバロネスのファッションで、バロネスは正統的で優れたデザイナーではあるけれど、すでに最盛期を過ぎていて古いということを念頭にしてビーヴァンはそのデザインを設定している。そしてそうした王道ファッションとしてディオールやバレンシアガを参考にしたとも述べている。
その新しいものと古いものの対比は色彩にもあらわれていて、クルエラのカラーは黒、白、グレー、そして赤であり、対するバロネスのカラーはブラウンとゴールドを多く使用したという。

こうした対比の前に、アニメ本来のダルメシアンに関するこだわりは低くなってしまっているが、メイクなどを含めてのクルエラという性格の造形にファッションの影響が強くあらわれていて、単なるヴィランのストーリーということでなく、むしろアヴァンギャルドな志向がまだ健全だった時代を振り返っているかのようにも思えてしまう。だがファッションとは振り返ることではない。懐古は死であり、川久保玲も言っていたが、たかが疫禍の蔓延程度のことに屈してしまってはならない。
ファッションとはその人の存在理由の証明であり、したがって今年の流行スタイルとか今年の流行色といったようなトレンドへの最大公約数的追従はファッションの思想とは相反するものなのである。

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装苑 2021年7月号 (文化出版局)
装苑 2021年 7月号 (雑誌)




映画《クルエラ》特報【悪名高きヴィラン誕生編】
https://www.youtube.com/watch?v=avXMOY9Nri0

映画《クルエラ》のファッション
https://www.youtube.com/watch?v=78Ny-tCZz4w
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