SSブログ

カプソンとユジャ・ワンのピアソラ、最近の室内楽CDなど [音楽]

YujaWang&Capucon2013_220924.jpg
Yuja Wang & Gautier Capuçon (2013)

ここのところバタバタしていて、全然音楽が聴けていない。これは不幸なことである。
でも買っておかないと、と思っている何人かの偏愛するヴァイオリニストのCDは確保しているのだが、まだ未聴だったりする。

リサ・バティアシュヴィリの最近のアルバムのタイトルは《シークレット・ラヴ・レターズ》で、以前のアルバム・タイトル《シティ・ライツ》を連想させ、イージー・リスニングかと思わせられるが内容は全然そうではなくて、シマノフスキ、ショーソン、それにフランクのソナタである。
フランクはのそのヴァイオリニストの技倆を測るのに最適であるだけでなく、ピアニストのレヴェルもわかってしまうように思える。

アリーナ・イブラギモヴァの最近のアルバムはメンデルスゾーンのソナタ集だが、F-dur MWV Q26とf-moll op.4 MWV Q12の2曲に、1820年のF-dur MWV Q7、さらにMWV Q18というマニアックな収録曲。1820年だとメンデルスゾーンは11歳とのこと。
ただ、イブラギモヴァはキアロスクーロ・クァルテットもあるし、パガニーニの《カプリース》もあるし、で一応押さえているのだけれど追い切れていない。

でも最も先鋭的なのはバイバ・スクリデで最近作はシュルホフ、ヒンデミット、ヤルナッハ、エルトマンの無伴奏というのだけれど、これはかなりマニアックといってよいはず。
それより前のアルバムにモーツァルトのコンチェルト集があったのでその落差を大きく感じてしまうが (とはいってもカデンツァが自作のところがスクリデらしいのだけれど)、この世代の中では一番注目し続けていて、CDはほぼコンプリートしてしまっている。Olfeoってなかなかすごいのかも。
しかしごく初期のバルトークとイザイの無伴奏が廃盤になったままでプレミアがついている。はやく復活させて欲しい。

他にはザビーネ・マイヤーの《KlarinettenKonzerte》というモーツァルト、シュターミッツなどのコンチェルトのセットがあって、各種クラリネット・コンチェルトの集成なのだが、購入したのは単純に安かったからという理由が大きい。クラだけでなくバセット・クラ、バセット・ホルンの曲もあり。
さらに武満徹を含めた第2集もあるのを最近知りました。シュポーアが2曲入っている。

そしてユジャ・ワンはゴーティエ・カプソンのチェロにアンドレアス・オッテンザマーのクラリネットを加えたブラームスのトリオが最新盤。この曲はブラームス晩年の作品で、ちょっと地味な感じがあるがa-mollという調性の素朴な暗さが胸をうつ。YouTubeで音のみだが全曲を聴くことが可能だ。
だが、YouTubeで聴けるのに限っていえば、カプソンとのピアソラ《ル・グラン・タンゴ》が素晴らしい。少し以前のヴェルビエ・フェスティヴァル (2013年) の演奏が一番すぐれているように思える。ユジャ・ワンの室内楽曲に対する合わせ方は絶妙で、決して 「オレがオレが」 と無闇な自己主張などないのがさすが (あ、それにオレじゃないですね。失礼!)。ピアソラの楽曲はレパートリーとしてもうすでにクラシックと解釈するべきなのか、とも思うのだが、このカプソンのタンゴへのアプローチは濃密でテンションが途切れることなく、ピアソラの魂が宿っている。

さらにYouTubeでユジャ・ワンの2006年のカーティス音楽院時代のショパンのバラードを発見。19歳なので若い印象はあるが、ピアニズムとしてはすでに完璧である。


Yuja Wang, Andreas Ottensamer, Gautier Capuçon/
Works by Rachmaninoff & Brahms (Universal Music)
ラフマニノフ&ブラームス作品集 (UHQCD/MQA)(特典:なし)




Yuja Wang, Gautier Capuçon/Franck, Chopin
(ワーナーミュージック・ジャパン)
Piazzolla: Le grand tango 収録アルバム
ショパン、フランク




Lisa Batiashvili/Secret Love Letters (Universal Music)
シークレット・ラヴ・レター (UHQCD/MQA)(特典:なし)




Alina Ibravimova/Mendelssohn: Violin Sonatas
(HyPerion)
Mendelssohn Violin..




Violin Unlimited: Baiba Skride plays Solo Sonatas
(Orfeo)
近現代の無伴奏ヴァイオリン・ソナタ集




Sabine Meyer/KlarinettenKonzerte (Warber Classics)
Sabine Meyer Clarinet Concertos




Yuja Wang, Gautier Capuçon/
Piazzolla: Le grand tango
The Verbier Festival, Verbier Church, on July 30, 2013
https://www.youtube.com/watch?v=1HtmonWyo-4

Yuja Wang, Andreas Ottensamer, Gautier Capuçon/
Brahms: Clarinet Trio in A Minor, Op. 114
I. Allegro
https://www.youtube.com/watch?v=fAE3oqW9fRk
II. Adagio
https://www.youtube.com/watch?v=wWcHfO2P56E
III. Andantino grazioso
https://www.youtube.com/watch?v=FMz6IfgbWBo
IV. Allegro
https://www.youtube.com/watch?v=knu3RnjVmAc

Yuja Wang/Chopin: ballade 1
(live 2006)
https://www.youtube.com/watch?v=4l1bs5hlnYk
nice!(69)  コメント(4) 
共通テーマ:音楽

ゲルハルト・リヒター展に行く [アート]

GerhardRichter_ella_220917.jpg
Gerhard Richter/Ella (2007)

ゲルハルト・リヒター展の今回の展示の核となるのはアウシュヴィッツへの屈折した視点の末に完成された《ビルケナウ》であることは間違いないのだが、それとともに喧伝されていたのがエリック・クラプトンの所有していたリヒターの絵画が2016年のオークションで高額で落札されたという卑俗な話題である。

そうした話題がプロモーションの一環として作用したのかどうかはわからないが、東京国立近代美術館は考えていたよりも多数の来客者で満たされていて、しかも上野の美術館の客層とは異なって、圧倒的に若い人が多かった。

クラプトンとリヒターは全く関係がない。クラプトンが音楽シーンにクリームとして登場した頃、それまでのポップ&ロック・ミュージックとは一線を画する曲構成はアヴァンギャルドだったのかもしれないが、そのソロがアブストラクトかと問われればやや違うと思う。私が最初に聴いたのは《Fresh Cream》というやや地味目なアルバムだったが、基本はペンタトニックであり、サイケデリックの残滓を引き摺っている歴史的演奏というふうにしかとらえられなかった。
『ユリイカ』2022年6月号のゲルハルト・リヒター特集号では、荒川徹がディストーションのギターを強引にリヒターと結びつけていて、無理があるけれどとても面白い視点であると感じた。(p.240)

だが同号のマルコ・ブラウのリヒターへのインタビューの中で、リヒターは 「まったくいちども興味を惹かれなかったのはポップミュージックです」 と語っている (p.70)。ピンク・フロイドのコンサートに 「紛れこんだ」 こともあるが、観客の多さには驚いたものの音楽には驚かなかった、とも言う。

続けてリヒターは、

 ときに明確なタイトルを持っているのにもかかわらず、なにも物語らな
 い器楽が存在しているということは、私にしてみれば抽象的に描いても
 よいと認められているようなものです。(p.71)

と言っているが、これはクラシカルなインストゥルメンタルを想定しているのに違いない。

《ビルケナウ》について語るとき、基本的認識としていわゆるホロコーストとその後のドイツの歴史をどうしてもトレースしてみなければならない。『ユリイカ』の長谷川晴生に拠れば、特に西側に組み込まれた西ドイツは、邪悪な第三帝国の過去を克服したと当初は思われていたという。

 しかし、敗戦後に一定期間が経過すると、戦後に自己形成した世代の者
 たちは、そのような 「お約束」 に疑念を持つようになる。ドイツの過去
 は果たして本当に克服されたのであろうか。(p.139)

そしてアンゼルム・キーファーの写真集《占領 (Besetzungen)》(1969) や、ジグマール・ポルケの《パガニーニ (Paganini)》(1982) がセンセーショナルで挑発的で露悪的であることによって、克服されたという認識が欺瞞であることを示すことになった。そうした手法のパターンのひとつとして、リヒターもアウシュヴィッツの写真とポルノグラフィとを合体する構想を持っていたが断念したとのことである。
過去は清算されたとする薔薇色の未来のような欺瞞へのアンチテーゼとしてキーファーが提示したような、ある意味、わかりやすい方法論をリヒターは結果として採らなかった。

リヒターの技法としてアブストラクト・ペインティングとともにあるのがフォト・ペインティングである。長谷川晴生はその技法について的確な解釈をしている。

 リヒターの 「絵画」 は、それが敢えて写真を肉筆で絵画化するというフ
 ォト・ペインティングであるのも手伝って、城郭や飛行機や人物が時と
 してボカシをともなって単にそこにあるだけであり、いかなる文脈も与
 えてくれず、そもそも作家がそれらの対象にいかなる態度を示している
 のかを推察させてすらくれないのである。(p.141)

これがリヒター作品のわかりにくさだと長谷川は書くが、リヒターがインタビューで語っている 「なにも物語らない器楽が存在している」 という音楽に対する視点と、この 「そこにあるだけ」 とする態度は重なるものがある。

大作である《ビルケナウ》の生成過程についてはすでに有名なので省くが、田の字に並べられた4点の油絵と、それをデジタルコピーした4枚とが向かい合わせの左右の壁に配置され、正面の壁は巨大な暗い鏡になっている (つまり壁のかたちをコの字型とすれば 「コ」 の上下の横線の壁にあるのが絵画とそのコピー、「コ」 の縦線の部分にあるのが鏡)。
絵画本体とそのコピーが向かい合わせにされていることは、合わせ鏡の比喩であるが、鏡はそれを直接表現するアイテムであるはずだ。それなら4点の絵画と対面するのは4枚の鏡でもよいはずだがそうはならない。
それに左右の《ビルケナウ》とそのコピーを見較べる観客自身の姿が暗く映る鏡というのは、何か別の、一種の酩酊を呼び覚ます。

『ユリイカ』の清水穣の解説は、こうしたリヒターの創作理念をすべてレイヤーという概念で説明している。つまりデジタルコピーの役割は、本物の鏡でなく鏡面上の像であり、すなわちレイヤーであるというのだ。
そして、

 レイヤーの出現、すなわち、画像が不可視の透明な面の上に載っている
 という質が露わになることをリヒターは 「シャイン」 と呼び、それは自
 分の 「一生のテーマ」 だと言う。(p.79)

《ビルケナウ》に於いて、下層を塗りつぶす上層という技法を使っていることは、リヒターには 「層」 という概念が顕著であることに他ならない、と思う。塗り込められた下層は不可視だから存在しないのと同じなのだとすることはできない。それが《ビルケナウ》の基本構造である。

またフォト・ペインティングに対してもシャインの言及がある。

 フォト・ペインティングは、描き出した写真画像にボカシやブレを加え、
 本来ピントが合うはずだった面としてレイヤーを出現させる。従ってレ
 イヤーに見立てた《四枚のガラス》(CR160、一九六七年) がその純粋
 な骨格であり形式的な極相であった。リヒターは写真の具象に頼らない
 シャインの出現に向かい、まずはボケ・ブレを極大にして、レイヤーと
 画面が一つに重なる (これがリヒターの 「灰色」 の含意である) 灰色の画
 面、つまりグレイ・ペインティングを制作する。灰色ー鏡ーガラスはす
 べてレイヤーの変奏なのである。(p.80)

そしてアブストラクト・ペインティングと称する覆い隠し、塗りつぶし、削り落とし、傷や痕跡によって下層 (先行する層) に対する部分的破壊を行い、新しいレイヤーを出現させるのがリヒターの技法だと指摘するのだ。

 そのレイヤーは静かに積層するのではない。繰り返される破壊行為の合
 間から、切れ切れに出現するのだ。(p.80)

と清水は述べている。

アブストラクトというのは決して無署名性なのではなくて、スキージやローラーによってキャンバス表面にレイヤーを重ねてゆくその技法は、リヒターという確実な署名性を確保して成立している。

だがそれよりも私が注目したのはフォト・ペインティングという、多くがわざと画面をボカして曖昧なニュアンスを作り出すリヒターの技法である。その究極としての作品がポスターにも使用されている《エラ 903-1》であるように思う。ボカシは曲線を伴い微妙に揺れていて、古いブラウン管の映像のようにノイズを伴っているようにも見えて、そのなかに存在するうつむいた女性像から醸し出されるのは繊細な官能性である。


ゲルハルト・リヒター展
https://richter.exhibit.jp

ユリイカ 2022年6月号
特集:ゲルハルト・リヒター (青土社)
ユリイカ 2022年6月号 特集=ゲルハルト・リヒター ―生誕90年記念特集―




ディートマー・エルガー/評伝 ゲルハルト・リヒター
(美術出版社)
評伝 ゲルハルト・リヒター Gerhard Richter, Maler

nice!(88)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

わたしは今日まで生きてみました [雑記]

JWST_Jupiter_220909.jpg

ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡による木星の画像を新聞で見て衝撃を受けた。あまりにもくっきりし過ぎて、まるでSFのイラストのようで、でもNASAの表示があるし、もちろんイラストではない。そのことはTokyofmの〈東京プラネタリー☆カフェ〉で篠原ともえも話題にしていた。そして木星の画像は私の中で久しぶりに呼びさまされた宇宙への興味だった。

YouTubeで見つけた須藤薫のスイートベイジルでのライヴ録音〈見上げてごらん夜の星を〜心の中のプラネタリウム〉という星の歌のメドレーを聴きながらいろいろなことを思い出していた。
以前にも書いたことがあるが、私は小学校3年から4年頃、何のきっかけだったのかは忘れてしまったが、とても天文に夢中になった。星の名前や星座名を覚え、星座早見盤を買い、そして赤道儀が欲しいとねだったのだが、そんな高価なものが小学生に与えられるはずもなく、普通の地上用望遠鏡を手に入れたのがせいぜいだった。そもそも赤道儀がどういうものか大人にはわからなかったはずである。

だが比較的理解のある叔母に連れられて、当時渋谷にあった五島プラネタリウムに行ったことがある。半球状に拡がるイミテーションの夜空。ほとんど寝る姿勢に近い椅子から見上げる満天の星々は、見たこともないほど数多く輝いていて、天の川が見えて、それはまさに夢の世界だった。

叔母は家で学習塾をしていて、小学生の頃の私のすべての知識は叔母から教えられたものである。勉強だけでなく、叔母は小学生の私から見ると不思議なレコードをいろいろ持っていて、それは今から考えると結構ミーハーな選定なのだが、古いロカビリーのコンピレーションや、EMIのフルトヴェングラーや、カラヤンのチャイコフスキーのバレエ音楽のハイライト盤などがあって、私は繰り返しそれらを聴いていた。カラヤンはロンドン・レーベルの輸入盤で、圧倒的に音がよかった。
実はもうひとり、義理の叔母がいて、彼女が持っていたのはハリー・ベラフォンテのカーネギーホール・コンサートの2枚目 —— つまり長い〈マチルダ〉の収録されているレコードで、これも繰り返し聴いていた記憶がある。私の音楽的記憶の土壌はそのあたりにあったような気がする。

でも5年生になったら天文への興味は薄れてしまった。それは東京ではほとんど星空が見えないせいでもあるが、何より急速に視力が低下してしまって星を見る気力が失せてしまったことにある。

私の住んでいた町の当時の図書館は瀟洒な木造で、木の床にはオイルが引かれていて、中はひっそりとしていた。白い壁、広い机、窓の外の緑。いたずらな友だちが、私が大切にしていた全天恒星図の、星が密になっていない余白に鉛筆で落書きをした。ひどいことをすると抗議して消しゴムで消したのだが、まだ跡が残っている。今になって思うと、消さないでそのままにしておいたほうがよかったような気がする。それはあの頃の夏を思い出すためのしるしだからだ。

5年生になってからは視力が悪くなっただけでなく、クラス替えがあって担任もかわり、あのきらきらして一番楽しかった3〜4年生の頃の輝きは失せてしまった。そのあとは、やがて大人になってから現在までずっと雨降りが続いている。オリオン座はずっと見えない。

KinKi Kidsと吉田拓郎の《LOVE LOVE あいしてる》最終回。録画はしてあるのだが、まだ観ていない。でも〈今日までそして明日から〉の部分だけ、YouTubeで見つけた。《青春の詩》という赤いジャケットのアルバムに収録されていた古い曲。タイトルからして気恥ずかしいが、その時代をきっとあらわしているのだと思う。篠原ともえの声は美しい。歌詞が頭の中で繰り返し繰り返し再生される。何度も何度も。ルフランルフラン。
吉田拓郎を私はよく知らないが、アルバムとしては《元気です。》と《今はまだ人生を語らず》がベストだろう (後者はもちろん〈ペニーレインでバーボン〉が収録されていなければ意味がない)。だが、ごく初期の、ときとして野卑に流れる曲にも魅力がある。〈今日までそして明日から〉とはそんな曲だ。

この疫病の流行でライヴは死んでしまった。少しずつ復活の兆しはあるが、声援が送れなかったり、一つおきの席だったり、そうしたいくつもの束縛は気持ち悪くてライヴに行く興味が湧かない。コンサートにも、映画や演劇にも、私は行かない。
昔の、明るくて快活なライヴ映像や録音に没入するのはそんなときだ。疫病は今世紀中に終わるのだろうか。


篠原ともえ、奈緒、KinKi Kids/今日までそして明日から
LOVE LOVE あいしてる最終回・吉田拓郎卒業SP
https://www.youtube.com/watch?v=wcLyxNbRKWk

須藤薫/見上げてごらん夜の星を~心の中のプラネタリウム
live 2000.12.16、スイートベイジル139
https://www.youtube.com/watch?v=o8CoOHiEHVw
nice!(68)  コメント(10) 
共通テーマ:音楽

筒井康隆『残像に口紅を』 [本]

YasutakaTsutsui_220903.jpg

筒井康隆の『残像に口紅を』(1989) が売れているらしい。今時、30年以上前の作品がなぜ、と驚いたが、カズレーザーがTV番組で紹介したことが復活人気のもとなのだそうである。又吉直樹とかカズレーザーが 「これ、面白い」 というと売れてしまうというのは多分にミーハーな傾向なのだとは思うのだけれど、でも某新聞の書評欄で、本の帯のキャッチとあとがきだけ読めば書けるよなぁと思えてしまう書評があって、この評者、ホントに読んでから紹介記事書いてるのかって疑ってしまうような内容だった。そんなことはないと信じたいけれど、でもねぇ……。だったら又吉とかカズレーザーのほうが100倍信頼できると思う。

で、書店で『残像に口紅を』の文庫が山積みされていたので読んでみた。もちろん私はちゃんと読むのです。

内容はすでにあちこちで紹介されているとは思うのだが、簡単にいえば五十音のなかの一つの音、たとえば 「あ」 が使えなくなると 「あ」 を含む言葉も使えなくなり、そしてその物体は消えてしまうという、非常にシュールな設定なのだ (実際には単純な五十音だけでなくもう少し細かい設定がある)。
作家のテクニックとして考えれば、たとえば禁止音が 「あ」 だとしたら 「あ」 を使わないで文章を書かなければならない。実際にこの小説ではまず 「あ」 が消えるのだが、つまり〈「あ」 無し縛り〉でストーリーを作らなければならないのである。ひとつやふたつくらいの音ならなんとでもなるのだが、使えない音がだんだん増えて行くと次第に文章を書くことが困難になってくる。言い換えとか別の表現を探して書くわけだが、どんどん苦しまぎれが増えてくる。

読者として、最初のうちは、あれがない、これがない、というのを意識しながら読んでいるのだが、読み進むうちに禁止音が増えてくるとそんなのどうでもよくなってくる。というか逐一検証していられない。たぶん作家の苦しみが読者の喜びであって、へんてこな表現が増えるにつれ、こういうわけのわからない言葉って類語辞典で調べるのかなぁとか、いろいろと別のことを考えてしまう。結局こういうコンセプトは文章上における曲芸なのであって、筒井の友人である山下洋輔も、ピアノの特定の音だけを弾かないでアドリブするという 「縛り」 演奏のことを書いていたような記憶があるが、つまりそれは一種のdisciplineともいえるので、筒井の 「縛り」 と同様である。

筒井はこの小説をワープロを使って書いたとのことだが、1989年頃のワープロ (ワープロと言っているのだからおそらくワープロ専用機) がどの程度の性能だったかは不明だけれど検索機能などもまだ弱いはずだし、執筆にあたってはかなり苦労をされたのではないかと想像できる。
中公文庫の巻末に附属している泉麻子の 「筒井康隆『残像に口紅を』の音分布」 に拠れば、使用禁止文字を使ってしまっている違反箇所がいくつかあるとのことだが、まだPCが発展途上だった時代にそこまでの厳密性を求めるのは無理というものである。

それよりも重要なのは、使用文字が常に制約されているということへの興味ではなくて、そうした制限のかかった中で語られているぎくしゃくとしたストーリーへの興味である。
主人公の佐治勝夫は作家であるが、筒井本人を髣髴とさせる部分もあり、自伝として語られている箇所は、虚構でありながらなんとなく真実を描いているのではないかとも思えてしまう。このへんの微妙さが筒井テイストだ。
使用音がかなり制限されてからのほうがかえって真実が語れるのではないかという一種の逆説的手法で、自伝とか性的描写が語られる。わざとむずかしい言葉を使うのだが、それはそれ以外に逃げ道がないという制限を逆手にとって、わざと困難さを誇張しているようにも見られる。
ただ、さすがに笑える部分はほとんどなくて、あえていえば佐治勝夫には『夜走り少女』というジュヴナイル小説があるという箇所ぐらいだろうか。

筒井康隆に関しては新潮社の全集で、諸作をある程度は読んでいるが、私はそんなに熱心な読者ではない。全集以後の作品はほとんど読んでいなくて、もっとも『虚人たち』は読んだ記憶があるが、『残像に口紅を』もそれに似てアヴァンギャルドな手法で書かれている作品のひとつと位置づけられるだろう。アヴァンギャルドではあるが難解ではない。
自伝的な部分というのが気になってwikiを読んでみたらシュルレアリスムなどの文学的なものへの興味は当然として、演劇にかなり入れ込んでいたという事実を初めて知った。初期の長編『馬の首風雲録』(1967) は、つまりブレヒトの換骨奪胎なのであるが、私はまだブレヒトを知らないうちにこの作品を読んで、筒井の描く演劇的な抒情性を強く感じたことを覚えている。
2つの惑星というパースペクティヴや戦争という設定から連想したのはル=グィンの『所有せざる人々』(1974) であるが、もちろん『馬の首風雲録』のほうが早いから影響というのはありえない。とりあえずSFにおける重要な語彙として二重惑星とか連星というのは《スターウォーズ》でもわかるように魅力的な言葉であることは確かだ。

たとえばタイトルにしても『虚人たち』でも『あるいは酒でいっぱいの海』でも『朝のガスパール』でもすべて元ネタのあるパロディであるが、パロディとはあらかじめ元ネタを知っているからウケるという構造なのであって、説明されてわかったとしてもパロディとしての面白さはない。だからといって、では 「あるいは酒でいっぱいの海」 というネーミングが面白いのかというとそんなに面白くはなくて、つまり元ネタを凌駕していないその微妙なつまらなさというか、ハズれた感覚が筒井康隆テイストなのだとも言える。

といっていながら、この小説のタイトル『残像に口紅を』は秀逸でかなり心に残る。センチメンタルを拒否する作風でありながら、そこから滲み出すやや古風な抒情が垣間見えるとき、筒井康隆って馬の首の頃からの硬質なセンチメンタルをずっと持続している作家なのだ、とあらためて思うのだ。


筒井康隆/残像に口紅を 復刻版 (中央公論新社)
残像に口紅を 復刻版 (単行本)




筒井康隆/残像に口紅を (文庫/中央公論新社)
残像に口紅を (中公文庫)

nice!(74)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽