鳥羽耕史『安部公房 —消しゴムで書く—』 [本]

安部公房 (神奈川近代文学館サイトより)
(1984年。黎明期のワープロ・NEC文豪を使用している。FDは8インチ)
鳥羽耕史『安部公房 —消しゴムで書く—』はミネルヴァ書房日本評伝選の一冊として上梓されたもので、安部公房の作品と歴史を非常に詳細に解説した労作である。特にすぐれているのは各作品のあらすじを的確にまとめていることで資料的な価値は大変高い。しかし安部公房論ではなくあくまで評伝であるので、安部公房をある程度知っていないと読解できにくい内容であることも確かである。
そして安部公房は一種の 「火宅の人」 であったわけだが、それについての女性週刊誌的な記述を期待するとはぐらかされる。第一義なのはあくまで彼の作品であることを念頭において読む必要がある。
これを読んで思ったのは、私が興味を持って読んでいたり、あるいは演劇に興味を持っていた頃の安部公房は彼の歴史からするとほんの一瞬に近い時間に過ぎなくて、そこに達するまでの長い歴史があったことをあらためて知ることになった。
まず、彼の育った満州とその戦前・戦後における経験がその作品の形成に強く関与していることは確かだ。そして日本共産党に入党し、オルグ活動をした時期もあったが党の方針と次第に合わなくなり、結果として共産党から除名されたこと。そしてその除名直後の作品が『砂の女』であったことは非常に象徴的である。
安部公房作品を辿るときにその戯曲作品は重要であるが、それに先行するラジオドラマ等の脚本書きがあり (当時、まだTVは一般家庭に普及する前で、ラジオドラマは人気があった)、そうした経験が結実して安部公房スタジオにおける演劇作品となったと考えることができる。
安部の『制服』の舞台を観て劇団青俳に入団した蜷川幸雄という当時のエピソードを読むと、つまり演劇に関してもそれだけ以前からの歴史があるということがわかる (蜷川は1955年の青俳『快速船』で初舞台を踏んだのだという) (p.71)。
ラジオドラマに関しての逸話で一番面白かったのはNHK第一放送の子供の時間における連続ラジオドラマ『ひげの生えたパイプ』(1959) で、12歳の少年・津久井太郎が、父親の置いていったひげの生えたマドロスパイプは欲しいものを何でも出すことのできるパイプなことを発見し、それを利用していろいろな事件が起こるという内容なのだそうだが、太郎役の声優は大山のぶ代 (当時名/羨代) なのである。
ちなみに、藤子不二雄の『ドラえもん』の連載が始まったのは1969年である。
安部公房が最盛期だったと思えるのは、戯曲を書くことだけでは飽き足らず、自分で劇団を持って上演するという考えから立ち上げた安部公房スタジオの頃である。もう少し正確にいえば、安部スタジオの前哨となった紀伊國屋ホールにおける『ガイドブック』の上演 (出演:田中邦衛、条文子、山口果林)と、安部スタジオとしての西武劇場における第1回公演『愛の眼鏡は色ガラス』に至る時期であり、この間に新潮社の純文学書下ろし特別作品として小説『箱男』が出されたことにより、時代はまさに安部公房ブーム的な色合いを帯びていたといえよう (新潮社の全集の装幀が『箱男』のイメージをもとにしているのは周知である)。
しかし鳥羽耕史の記述に拠れば、安部が西武資本との強いパイプを作り、西武劇場での上演という恵まれた環境にあったことに対して、68/71黒色テント (当時名/演劇センター68/70) の津野海太郎はブルジョアジーの劇場と批判したのだという。津野は浅利慶太、安部公房、山崎正和をその批判の対象としていたとのこと (p.245)。また当時、朝日新聞で演劇評を担当していた扇田昭彦も安部スタジオに対して辛口だったそうである。津野の論調は68/71の方向性として納得できるが、扇田の批評は知らなかった。当時の白水社の演劇雑誌『新劇』からの影響もあるのかもしれない。
この件に関して『現代思想』(2024年11月臨増・安部公房) で木村陽子は、安部スタジオに対する反発は従来の新劇界からの嫉妬であると述べている。少し長いが引用する。
しかし、このような安部公房のメディア露出の多さが、嫉妬を招き、安
部スタジオへの反発をいっそう強めた向きもあっただろう。戦後の新劇
の復活のあとには、〈アングラ〉がきて、小劇場になだれ込むというの
が日本の演劇の正史だという認識は、〈アングラ〉に近い劇評家たちが、
やや恣意的に残したものである。そこには、戦後に人気が復活した宝塚
劇場のことはもちろん、商業演劇として成功を収めた浅利慶太らの 「劇
団四季」 の活躍が記載されることも稀である。ましてや、セゾングルー
プという大資本が、マーケティング戦略のひとつとして展開する 「西武
劇場」 でのオープニングを飾った、恵まれすぎた環境にいた安部公房ス
タジオのことなどは、〈アングラ〉を正史とする立場からみれば、巨悪
のような存在と映っていたかもしれない。(『現代思想』2024年11月臨
増 p.200)
対して大笹吉雄は『新日本現代演劇史』のなかで、繰り返し安部に言及しているとのことである (大笹の著作は最も信頼のできる劇評であると思うが、私は『日本現代演劇史』の3巻あたりまでしか読んでおらず『新日本現代演劇史』も読んでいないので未確認である)。
では、その安部スタジオの唐突な解散について、安部公房の妻である安部真知の協力が得られなくなったことがその原因である、と木村陽子は指摘している (『現代思想』2024年11月臨増 p.203)。
これは的確な解読であると思うが、安部スタジオと入れ違うようにして擡頭してきた小劇場の雄である野田秀樹の夢の遊眠社やその他の新興劇団のパワーが、安部スタジオのメソッドを色褪せたように見せてしまったことも否めないように思う。
安部真知は装幀だけでなく舞台美術も担当していたが、他の芝居の舞台美術も担当するようになり、結果として、独り立ちしていける要素が増大することとなった。だが私見を言えば、安部真知で最も印象に残っているのは小田島雄志・訳の『シェイクスピア全集』の挿画であり、当時としては異質で新しいシェイクスピアを感じさせる作品であったと思う。
私が最初に読んだ安部公房は、確か『飢餓同盟』『けものたちは故郷をめざす』の再刊本あたりだったと記憶しているが、彼の満州での体験という背景がそうした作品の底流にあることなどまるで知らなかった。それを知ると小説の風景はそれまでと違って見えるようになるのかもしれない。
安部公房も寺山修司も演劇のスペシャリストではなかったが、それゆえにその戯曲の特殊性が際だってみえるように思う。演劇は書籍や映画などと違って、記録として最も残りにくいものである。その刹那性、不回帰性こそが魅力なのだ。
鳥羽耕史/安部公房 —消しゴムで書く— (ミネルヴァ書房)

現代思想 2024年11月臨時増刊号 総特集◎安部公房
(青土社)
