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マリア・ジョアン・ピリスのジュノム [音楽]

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9月の高松宮殿下記念世界文化賞受賞、そして1回だけのマティアス・ゲルネとの《冬の旅》など、ここのところ、ピリスの話題が多い。
何となく検索していたらベルリン・フィルの digitalconcerthall にモーツァルトのジュノムがあるのを見つけた。2008年と少し古いライヴ映像だが、その日のコンサートを聴いてみた (wikiではピリスの表記を 「ピレシュ」 とすることにこだわっているようだが、今のところ私は 「ピリス」 を使用することにする)。

指揮はトレヴァー・ピノック、演奏日は2008年10月10日である。演奏曲目はモーツァルトの《交響曲第25番ト短調》K.183 (173dB)、《ピアノ協奏曲第9番変ホ長調 ジュノム》K.271、そして《交響曲第40番ト短調》K.550 というオール・モーツァルト・プログラムである。
単純にモーツァルトを並べただけではなく、K.183とK.550という、2つの短調シンフォニーを選択していて、しかもこの2曲はどちらもg-mollであること、間にはさまれたPコンはEs-Durだが、その特徴的な第2楽章がc-mollというプレーンな調性であることからもわかるように、全体がひとつの悲しみを醸し出すモーツァルト・プロであるといえる。

モーツァルトの時代にはまだメカニックな平均律的考え方は無く、調性はそれぞれの顔を持っていたはずである。モーツァルトの作品はほとんどが長調曲であり、そのなかでの短調曲はそれ自体が特殊な立ち位置にあることを暗示するが、調性はc-mollやa-mollが多く、それらはプレーンで素朴だけれどダイレクトな響きを持っている。a-mollでの有名曲といえばたとえばK.310 (300d) のピアノ・ソナタがある。
そんななかでg-mollという調性はより特異な意味を持っているのに違いなくて、41曲ある交響曲のなかで、この25番と40番しか短調曲はない。それが両方ともg-mollなのだが、g-mollという調性で思い出すのは小林秀雄がロマンティックに評したことで有名なK.516の弦楽五重奏曲第4番であり、g-mollは 「宿命の調性」 などと呼ばれているらしい (私が初めてK.516を聴いたのは巖本真理SQの文化会館での定演であり、まだオコチャマだった私は、恐ろしい曲を聴いたと衝撃を受けた。その後、ブダペストSQのクインテット・ボックスでK.516ばかり聴いていた覚えがある)。

ということで、それならPコンをd-mollのK.466にすればさらに悲しみ度は深まるのだろうが、それではあまりにベタなのでこの選曲になったのだと思う (いや、25番と40番を並列させたのだけで十分にベタなのだけれど)。
K.466はブーレーズ/ベルリン・フィルによる2003年のリスボンのジェロニモス修道院でのライヴ映像がある (そのことはずっと以前の記事に書いた→2014年10月28日ブログ)。

ピノックについて私はあまり良い印象を持っていなかった。なぜなら最初に聴いた彼のアルヒーフ盤のチェンバロ曲のCDが妙な残響を伴っていて、それは録音の際のEQの設定ミスなのか、それともルーム・アコースティク自体がそういうロケーションだったのか判別できないのだが、よく考えればピノックの演奏については問題がなかったはずなのだ。
冒頭曲の25番は1773年、モーツァルトが17歳のときの作品である。ピノックはチェンバロを前にして、弾き振りで指揮をする。これは相当カッコイイ。といってもチェンバロの音はほとんど聞こえないのだが、最終楽章でチェンバロの音が明瞭に聞こえてくる部分があって、古楽的なアプローチとしてのピノックのこだわりを感じる。

さて、ピリスを迎えた《ジュノム》である。ピアノ協奏曲第9番であり1777年に作曲された。de.wikiには „Jenamy“ (früher „Jeunehomme“) と注意書きがあるが、従来通りジュノムと表記することにする。ジュノムは数あるモーツァルトのピアノ協奏曲のなかで私が最も好きな作品であり、若き日のピリスが仏エラート盤に録音していたグシュルバウアーとの何枚かのレコードを繰り返し聴いていた記憶がある (そのことはずっと以前の記事に書いた→2012年02月04日ブログ)。エラートの白が基調のジャケットは品が良くて、クラシックのレコードのなかで一番好きなデザインだった。
だが、今回のピノック/ベルリン・フィルとの演奏は、聴き較べたわけではないが、ピリスは当時のエラート盤の音とは異なるニュアンスで弾いているように感じる。2012年の記事で私は、モーツァルトのソナタ全集は最初のDENON盤のほうが後のDG盤よりも好きだというふうに書いたが、実は後期になってからの翳りこそがピリスの神髄なのだと今では思う。単純に年期が入っているだけなのかもしれないし、年齢を重ねたことによる経験則の重なりによって音楽へのアプローチが変化してきたからなのかもしれない。動画を観ると軽々と弾くのではなく、鍵盤を摑むようにして、しっかりとひとつひとつの音を出しているように感じる。

第2楽章のアンダンティーノは第1楽章のEs-Durに対して平行調のc-mollとなる。モーツァルトのPコンでは第2楽章が短調になることさえ滅多に無いが、K.271はその滅多にない曲のひとつである。このアンダンティーノにおけるピリスの表現は儚くそして深い。
第3楽章は本来の調性であるEs-Durに戻るが、各楽章とも私にとっては馴染みのあるメロディであり、それはモーツァルトの曲の印象というよりも、それを何度も聴いていた時代を、過去の記憶を想起させる触媒として作用する。

コンサートの最後は交響曲第40番。39、40,41番と続くいわゆる3大交響曲のひとつであり、プログラムの最後に持ってくるべき作品でもある。1788年の作曲であるが、もうこの頃はチェンバロでなくフォルテピアノの時代であるから、ピノックはチェンバロは使わず普通に指揮する。
ピノックの設定した速度は速いのかもしれないが、その疾走感は決して軽いわけではない。むしろ後期のベームののったりとした今にも止まりそうな演奏はモーツァルトには似合わないような気がする。晩年の作品とはいえ、モーツァルトはこの曲を書いたとき、まだ32歳なのだ (モーツァルトは35歳で亡くなる)。
交響曲40番はおそらくあのサリエリの指揮によって初演されたとのことである。もっとも映画《アマデウス》のストーリーは史実ではなく、それをもととして創作された作品であることを考慮しなければならない。


digitalconcerthall
2008.10.10
https://www.digitalconcerthall.com/ja/concert/15
コンサート全曲と簡略なトレイラーが選択可能
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