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マグナス・ミルズ『鑑識レコード倶楽部』など [本]

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マグナス・ミルズの『鑑識レコード倶楽部』はタイトルからして胡乱であるが訳者は柴田元幸で、おぉこれはもしかして……と思いながら読んだ。

あとがきにもあるようにこの小説のストーリーを簡単にいうのならば 「パブの奥の部屋で男たちが持ち寄ったレコードをかわりばんこに聴く」 というだけの話なのだ。
柴田によればこの小説家には凝った比喩などないどころか、比喩そのものの使用がないとのことなのである。as if …… とか like …… といったような平均的小説における常套的な 「慣習」 を徹底して拒むのだという。原題は The Forensic Records Society であり、だから 「鑑識」 なのだが、違和感があり音楽に馴染まない言葉だ。wikiにはミルズのスタイルに関して 「Magnus Mills’s style has been called “deceptively” simple.」 と書かれていて、つまり一見シンプルなのだけれどそれは欺瞞なのだということである。

音楽をただ聴くだけで何も意見が言えないという禁欲的な鑑識レコード倶楽部に対抗して、告白レコード倶楽部とか認識レコード倶楽部とか、さらには新鑑識レコード倶楽部とかがそれぞれ次々に立ち上がるというのは現実の何かの象徴なのだろうか、と思ってしまう。こうした雨後のタケノコ状態というのはよく見かけることだからだ。
さらに告白レコード倶楽部というのはレコードの音楽に関連して告白をするというシステムなのだが、その倶楽部がどんどん巨大化していき、告白がヒステリー的に蔓延していく様子は一種の新興宗教を連想させ、とても気持ちが悪い。まさにストーリーそのものでなく、これはメタファーなのだと思わせられる。

もっとも、延々と出てくる曲名自体が私にとってほとんど知らない曲ばかりであるのは事実なのだが、単純に曲名だけでなくその曲の歌詞に何らかの意味合いがあって、それを指しているのかもしれないという推測も成り立つ。ピーター・バラカンでもわからない曲があるというこの内容の中でそれを全て感じ取れるかどうかは非常にむずかしいことだと思う。
あるいは、アルバムの場合だったらその収録曲のタイトルに意味があって、たとえば後注にもあるように、ニック・ドレイクの《Five Leaves Left》が提示された場合、そのアルバムの1曲目〈Time Has Told Me〉が連想できなければならないらしい。つまりそのくらいマニアックに振れているということだ。

だからこの本を読むことはオススメしない。読むのは時間の無駄だし、何が書いてあるのかよくわからなくて、わかったとしても 「それがどうした?」 状態だし、単なる時間潰しにしか過ぎない。
なのだが私は大変面白く読ませていただきました。アリスちゃんが何かパンクっぽくってカッコよい。ハーレイ・クインのコスプレしたローラを連想してしまう (違う〜)。

毛塚了一郎の『音盤紀行』第1巻は『青騎士』(KADOKAWA) に連載中のコミックスである。レコード店とレコードにまつわるストーリーなのだが、描かれているレコードショップの描写にマニアックな香りがする。
船から発信される海賊ラジオ放送とか、ロックを聴くことが犯罪になる恐怖政治が行われている国の話などもあるが、今の時代の 「かの国」 をどうしても連想してしまう。もっとも 「かの国」 はショスタコの時代から狂気を引き摺ってきた国なのだから何をいまさら、と言われればその通りだと答えるしかない。
ただ、レコードショップの細やかな描写とは裏腹に、エレキギターの描き方が貧弱で、これについてはもう少し学んでもらえたら、と思う。

『インディペンデントの栄光』の堀越謙三はミニシアターのユーロスペースの代表者であり映画プロデューサーであるが、ダニエル・シュミットなどを経て、レオス・カラックス、アッバス・キアロスタミ、アキ・カウリスマキなどを日本に紹介した人であり、さらに遡ればヴィム・ヴェンダースやライナー・ヴェルナー・ファスビンダーを日本に持ち込んだ人でもある。
連載中に大変興味深く読んだが、単行本化に際して年譜やインデックスなどが追加され非常に密度の濃い内容となっている。こうした映画を観る人にとっての必読書だと思われる。
青山真治が間章について描いた映画《AA》の製作と配給をしたのもユーロスペースであることは忘れられない。

アンドレイ・タルコフスキーの『映像のポエジア』が文庫化されたが、パラパラと見ただけでまだ読んでいない。が、タルコフスキー・ファンにとっては必読だと思う。
タルコフスキーもソ連時代に亡命し、二度と故郷に帰ることはなかった。亡命せざるを得ないような状況を作り出して平然としている国家はダメだと思う。

     *

プライヴェートな話ですが、先日、同じSSブロガーのにゃごにゃごさんの家にお邪魔しました。閑静な街、静寂な庭、ネズミ捕りもできる知的な猫、そして何より美味しい料理、に楽しいときを過ごさせていただきました。長々とお邪魔してしまい申し訳ございませんでした。また次の機会を!


マグナス・ミルズ/鑑識レコード倶楽部
(アルテスパブリッシング)
鑑識レコード倶楽部




毛塚了一郎/音盤紀行 1 (KADOKAWA)
音盤紀行 1 (青騎士コミックス)




堀越謙三/インディペンデントの栄光
(筑摩書房)
インディペンデントの栄光 ユーロスペースから世界へ (単行本)




アンドレイ・タルコフスキー/映像のポエジア
(筑摩書房)
映像のポエジア ――刻印された時間 (ちくま学芸文庫)

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筒井康隆『残像に口紅を』 [本]

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筒井康隆の『残像に口紅を』(1989) が売れているらしい。今時、30年以上前の作品がなぜ、と驚いたが、カズレーザーがTV番組で紹介したことが復活人気のもとなのだそうである。又吉直樹とかカズレーザーが 「これ、面白い」 というと売れてしまうというのは多分にミーハーな傾向なのだとは思うのだけれど、でも某新聞の書評欄で、本の帯のキャッチとあとがきだけ読めば書けるよなぁと思えてしまう書評があって、この評者、ホントに読んでから紹介記事書いてるのかって疑ってしまうような内容だった。そんなことはないと信じたいけれど、でもねぇ……。だったら又吉とかカズレーザーのほうが100倍信頼できると思う。

で、書店で『残像に口紅を』の文庫が山積みされていたので読んでみた。もちろん私はちゃんと読むのです。

内容はすでにあちこちで紹介されているとは思うのだが、簡単にいえば五十音のなかの一つの音、たとえば 「あ」 が使えなくなると 「あ」 を含む言葉も使えなくなり、そしてその物体は消えてしまうという、非常にシュールな設定なのだ (実際には単純な五十音だけでなくもう少し細かい設定がある)。
作家のテクニックとして考えれば、たとえば禁止音が 「あ」 だとしたら 「あ」 を使わないで文章を書かなければならない。実際にこの小説ではまず 「あ」 が消えるのだが、つまり〈「あ」 無し縛り〉でストーリーを作らなければならないのである。ひとつやふたつくらいの音ならなんとでもなるのだが、使えない音がだんだん増えて行くと次第に文章を書くことが困難になってくる。言い換えとか別の表現を探して書くわけだが、どんどん苦しまぎれが増えてくる。

読者として、最初のうちは、あれがない、これがない、というのを意識しながら読んでいるのだが、読み進むうちに禁止音が増えてくるとそんなのどうでもよくなってくる。というか逐一検証していられない。たぶん作家の苦しみが読者の喜びであって、へんてこな表現が増えるにつれ、こういうわけのわからない言葉って類語辞典で調べるのかなぁとか、いろいろと別のことを考えてしまう。結局こういうコンセプトは文章上における曲芸なのであって、筒井の友人である山下洋輔も、ピアノの特定の音だけを弾かないでアドリブするという 「縛り」 演奏のことを書いていたような記憶があるが、つまりそれは一種のdisciplineともいえるので、筒井の 「縛り」 と同様である。

筒井はこの小説をワープロを使って書いたとのことだが、1989年頃のワープロ (ワープロと言っているのだからおそらくワープロ専用機) がどの程度の性能だったかは不明だけれど検索機能などもまだ弱いはずだし、執筆にあたってはかなり苦労をされたのではないかと想像できる。
中公文庫の巻末に附属している泉麻子の 「筒井康隆『残像に口紅を』の音分布」 に拠れば、使用禁止文字を使ってしまっている違反箇所がいくつかあるとのことだが、まだPCが発展途上だった時代にそこまでの厳密性を求めるのは無理というものである。

それよりも重要なのは、使用文字が常に制約されているということへの興味ではなくて、そうした制限のかかった中で語られているぎくしゃくとしたストーリーへの興味である。
主人公の佐治勝夫は作家であるが、筒井本人を髣髴とさせる部分もあり、自伝として語られている箇所は、虚構でありながらなんとなく真実を描いているのではないかとも思えてしまう。このへんの微妙さが筒井テイストだ。
使用音がかなり制限されてからのほうがかえって真実が語れるのではないかという一種の逆説的手法で、自伝とか性的描写が語られる。わざとむずかしい言葉を使うのだが、それはそれ以外に逃げ道がないという制限を逆手にとって、わざと困難さを誇張しているようにも見られる。
ただ、さすがに笑える部分はほとんどなくて、あえていえば佐治勝夫には『夜走り少女』というジュヴナイル小説があるという箇所ぐらいだろうか。

筒井康隆に関しては新潮社の全集で、諸作をある程度は読んでいるが、私はそんなに熱心な読者ではない。全集以後の作品はほとんど読んでいなくて、もっとも『虚人たち』は読んだ記憶があるが、『残像に口紅を』もそれに似てアヴァンギャルドな手法で書かれている作品のひとつと位置づけられるだろう。アヴァンギャルドではあるが難解ではない。
自伝的な部分というのが気になってwikiを読んでみたらシュルレアリスムなどの文学的なものへの興味は当然として、演劇にかなり入れ込んでいたという事実を初めて知った。初期の長編『馬の首風雲録』(1967) は、つまりブレヒトの換骨奪胎なのであるが、私はまだブレヒトを知らないうちにこの作品を読んで、筒井の描く演劇的な抒情性を強く感じたことを覚えている。
2つの惑星というパースペクティヴや戦争という設定から連想したのはル=グィンの『所有せざる人々』(1974) であるが、もちろん『馬の首風雲録』のほうが早いから影響というのはありえない。とりあえずSFにおける重要な語彙として二重惑星とか連星というのは《スターウォーズ》でもわかるように魅力的な言葉であることは確かだ。

たとえばタイトルにしても『虚人たち』でも『あるいは酒でいっぱいの海』でも『朝のガスパール』でもすべて元ネタのあるパロディであるが、パロディとはあらかじめ元ネタを知っているからウケるという構造なのであって、説明されてわかったとしてもパロディとしての面白さはない。だからといって、では 「あるいは酒でいっぱいの海」 というネーミングが面白いのかというとそんなに面白くはなくて、つまり元ネタを凌駕していないその微妙なつまらなさというか、ハズれた感覚が筒井康隆テイストなのだとも言える。

といっていながら、この小説のタイトル『残像に口紅を』は秀逸でかなり心に残る。センチメンタルを拒否する作風でありながら、そこから滲み出すやや古風な抒情が垣間見えるとき、筒井康隆って馬の首の頃からの硬質なセンチメンタルをずっと持続している作家なのだ、とあらためて思うのだ。


筒井康隆/残像に口紅を 復刻版 (中央公論新社)
残像に口紅を 復刻版 (単行本)




筒井康隆/残像に口紅を (文庫/中央公論新社)
残像に口紅を (中公文庫)

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舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲』 [本]

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舌津智之の『どうにもとまらない歌謡曲』はタイトルのイメージに少し惑わされるが、70年代の日本の歌謡曲の歌詞論であり、ジェンダー論である。2002年に刊行された本であるが、20年経って今回、文庫で復刊された。
「4 うぶな聴き手がいけないの」 は歌謡曲におけるクロス・ジェンダーの考察であり、「攪乱」 という言葉が認識の基本として使用される。

 一般に、ある言語が、基本的には一つのカテゴリーでくくられる何かに
 ついて、いくつもの違った呼び名を持っているとき、その 「何か」 は文
 化的に重要な意味を持っている場合が多い。わかりやすい例でいうと、
 エスキモーは雪を表わすのに二〇以上の異なる名詞を使い分けるという。
 (p.108)

一般的にはひとつの名詞でしか分類されないものが、ある特定の民族においては幾つもの名詞に細分化されることは、クロード・レヴィ=ストロースが『野生の思考』で指摘していた通りである。
このことから敷衍して舌津は、「日本語が、実に多くの一人称 (と二人称) の代名詞を持っていること」 に言及する (一人称が 「わたくし」 「わたし」 「あたし」 「あたい」 「あっし」 「わし」 など)。これは階級の違いによる使い分けであると同時に、性差の指標ともなっているという。

もうひとつの特徴として 「日本語の歌はしばしば、人称代名詞や文末の助詞によって話者の性別が特定される」 (p.109) という。英語などのヨーロッパ言語と異なり、男言葉、女言葉が存在するのだ。

ところがここで、日本語の歌詞は性別の特定できる歌詞であるために、歌手の性別と歌詞の性別が必ずしも一致しない歌が、特に演歌において存在することがわかる。ぴんからトリオの〈女のみち〉などがその好例で、これを舌津は中河伸俊の考察を引用して、ジェンダー交差歌唱 (cross-gendered performance) であると解く。
そして 「七〇年代、大流行をみたものの、しばしば性差別的とみなされる女歌を、ジェンダーの観点から前向きに評価することはできないのか?」 (p.110) と書く。

ここで舌津の提起するのがデイヴィッド・バーグマンが示した 「キャンプ」 という概念である。

1. キャンプはスタイルであり、誇張、人工、極論を好む。
2. 大衆文化、商業文化、消費文化との緊張関係において存在する。
3. キャンプを認知し、対象を理解し、キャンプする人は文化のメインストリームの外部者。
4. 同性愛の文化に深くかかわる。

ここからの展開が面白い。
例として近田春夫が 「ほめてるつもり」 と念を押しながら 「朝丘雪路はオカマにしか見えない」 というコメントをあげていることについて。オカマとは女以上に女っぽくしようとする意志があるのだから、つまり朝丘雪路は 「女以上に女っぽく見える女」 という結論に達するのである。
ここで重要なのは 「っぽさ」 と 「らしさ」 の区別である、と舌津はいう。

 形式・約束としての 「っぽさ」 は 「実はそうではない」 ことを暗に示し、
 「らしさ」 は 「いかにもそうである」 ことを訴える。つまり、ある種の男
 性を形容する場合、「女っぽい」 とは言えても、「女らしい」 とは言わな
 い。(p.112)

そもそもキャンプとはスーザン・ソンタグによって知られるようになった概念とのことだが、彼女がキャンプの特質としてあげるのは 「美ではなく、人工ないし様式化の度合」 だという (p.113)。そしてまたキャンプとはコミカルな印象が生じてしまうが、大変真面目なものであるともいう。(p.115)

ここで近田春夫が例にあげた朝丘雪路の 「女っぽ過ぎる女」 は、つまり 「『女っぽい男』っぽい女」 なのだという。対して水前寺清子は 「男っぽい女」 なのである。

水前寺清子の男っぽさというのは 「ラ行を巻き舌で発音する」 形式にあるという。

 実際問題として、日常そのようなしゃべり方をするのは、ヤクザか江戸
 っ子か、いずれにせよ大変限られた種類の人々であり、そのスタイルは
 リアリズムというよりも、ひとつのフィクションないしはリプリゼンテ
 ーション (表象) である。つまり、「男性的」 な記号として、作られた男
 っぽさを演じるために使用されるのが巻き舌ラ行なのだ。(p.113)

では椎名林檎はどうなの? というと話が広がり過ぎるので棚上げにして、この水前寺清子によって確立された男っぽさを下地として出現してきたのが、七〇年代演歌における 「巻き舌の女言葉で歌う男性歌手」 だったと舌津はいうのだ。森進一、前川清、ぴんからトリオ、殿さまキングス、そしてその系譜は桑田佳祐につながるのだという。
「っぽさ」 と 「らしさ」 の差異はここでも示されていて、北島三郎や山本譲二は 「男らしい」、三善英史は 「女っぽい」、そして森進一をはじめとする 「巻き舌の女言葉で歌う男性歌手」 たちを 「男っぽい」 と定義する。それはつまり 「人工的にデッチあげた男性性」 であり、まさにキャンプなのである。さらに 「モノマネをすると笑えるのがキャンプである」 (p.115) とか 「北島三郎も、顔面だけは立派なキャンプである」 (p.115) とか、メチャメチャひどいことを言っている (言っているのは舌津先生です。念のため)。
つまり、

 ソンタグの言葉をそのまま引くならば、「キャンプとは、真面目に提示
 されはするが、『ひどすぎる』ために、完全に真面目に受け取れない芸
 術のこと」 なのだ。森進一などは、とりわけデビュー当初、ふざけて歌
 っているのかと思われ、真面目にやれ、と言われたというが、本人にし
 てみれば真剣なスタイルを追求していたことは言うまでもない。(p.116)

一方で、この時期のぴんからトリオ、殿さまキングスといったグループのド演歌は、そのインパクトの強烈さが気色悪過ぎて (これも褒め言葉だとのこと)、むしろパロディ演歌あるいはメタ演歌ではないかという。
〈女のみち〉の歌詞に見られる二重性——つまり女のみちを肯定しているのか否定しているのかよくわからない部分を、

 ソンタグによると、「キャンプ的感覚とは、ある種のものが二重の意味
 に解釈できるとき、その二重の意味に対して敏感な感覚のことである」
 という。(p.121)

「キャンプとは、両性具有的スタイルの極地である」 とソンタグが語ったにもかかわらず、両性具有の概念はその後、むしろ批判的に語られることが多くなったのだという。このへんの経緯がやや不明だが、マージョリー・ガーバーによれば 「良い両性具有」 と 「悪い両性具有」 があり、ダイナミックな可能性として、「身体的でセクシーで攪乱的」 な 「悪い両性具有こそが標榜すべきもの」 だとのことである。それはつまりマイケル・ジャクソンが歌った〈bad〉に籠められた意味であり、badとはもちろん悪いという意味ではない。

この 「悪い両性具有」 として舌津が例にあげているのが桑田佳祐である。
まず桑田佳祐の特徴としてあげられるのが過去のテキストからの引用あるいはパクリであり、〈チャコの海岸物語〉は平尾昌晃の〈星はなんでも知っている〉、〈BLUE HEAVEN〉は中村あゆみの〈翼の折れたエンジェル〉を取り込んでいるという。

こうした作詞法は、ソンタグにしたがえば 「キャンプ趣味は、複製に対する嫌悪感を超越する」 のであり、そしてあらゆる言葉はいつもすでに使用済みの言葉なのだと舌津はいう。
そもそもサザンオールスターズの〈勝手にシンドバッド〉というタイトルは沢田研二の〈勝手にしやがれ〉とピンク・レディーの〈渚のシンドバッド〉を合体させたものであるが、その〈勝手にしやがれ〉だってジャン=リュック・ゴダールの映画《À bout de souffle》(1960) の邦題そのままでしかない。言葉がすべて使用済みの言葉なのだとするならば、「問題はその組み合わせ/組み立ての新しさなのだ」 と舌津は書く。(p.130)

そして男言葉・女言葉の攪乱ということにおいて、前川清→桑田佳祐の両性具有的連続性を見い出している。たとえば〈そして、神戸〉は、その歌詞を語っているのが男性なのか女性なのか、1番の歌詞の最終行まで行かないとわからない。
対して〈勝手にシンドバッド〉は一人称が俺でありながら女性語尾 「不思議なものね」 「波の音がしたわ」 が出てきて、性別が不安定であるとのこと。男女2人の対話と考えるのには少し無理があるようだ。

ただこの人称の問題はそれだけで簡単に性別を特定できない、と私は思う。最果タヒはぼくを普通に使うし、浜崎あゆみの歌詞に頻出するぼくは、決して男性が語っている言葉ではない。
これは次の章にあるあいざき進也、原田真二、(若い頃の) 郷ひろみの問題ともかかわってくるのだが長くなり過ぎるので、興味のあるかたは是非ご一読を。

舌津は山口百恵よりも桜田淳子、キャンディーズでなくピンク・レディーに比重をかけていることを巻末の解説で齋藤美奈子は 「あまのじゃく趣味」 と指摘していたが、それぞれの後者のほうがキャンプ度はずっと高いし、ジェンダーの攪乱という点においても同様である。その作詞法について阿久悠は山本リンダ→ピンク・レディーへと続く中で、ジェンダーについて意識的であった。そしてボーイッシュという視点における桜田淳子→松浦亜弥という連続性への舌津の言及は慧眼である。


舌津智之/どうにもとまらない歌謡曲 (筑摩書房)
どうにもとまらない歌謡曲: 七〇年代のジェンダー (ちくま文庫 せ 14-1)




宮史郎とぴんからトリオ/女のみち
https://www.youtube.com/watch?v=LgXuIQFzU68

前川清/そして、神戸
https://www.youtube.com/watch?v=zoVP2q68dis

サザンオールスターズ/勝手にシンドバッド&チャコの海岸物語
https://www.youtube.com/watch?v=jrG-rl1uCPE
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『Hanako』9月号を読む [本]

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音楽について前記事のコメントのリプライに書いた内容なのですが、再録してしまいます。

 「何聴いても皆同じに聞こえる」
 という表現をするかたがいらっしゃいますが、
 それはまさにその通りです。
 深く聴かなければバッハだってベートーヴェンだって
 ビーチボーイズだってPerfumeだって
 同じような曲に聞こえるものです。
 でもそれは逆に、自分の耳がプアである
 と公言しているのに等しいので、どうなのかなぁ、
 とは思いますが。(笑)
 自分が好きで興味のある人の音楽は区別できる、
 自分が嫌いで興味がない音楽は皆同じに聞こえる、
 というだけのことです。
 これは簡単な心理であり、真理なのですが
 意外にわかっていない人が多いです。

これは自戒をこめて書いたことでもあるのです。すべての音楽が好きで聴いているという人はいませんし、音楽に限らず好き嫌いはあって当然なのですが、かといって簡単に 「嫌い」 と言って切り捨てられないのが私の性格なのかもしれません。
それと私はコンテンポラリー・ミュージックというのか、いわゆる現代音楽系の作品にとても興味があるのですが、そういうことを話題にしても好き嫌い以前に 「わからない」 「知らない」 という反応が多いのであまり書かなくなってしまいました。そのあたりは迎合主義です。ただ、そうした内容の記事の場合、ナイスやコメントは少ないのにアクセス数だけは多かったりします。これが不思議ですね (いや、不思議ではないんですけどそういうことにしておきます)。

さて、というわけで『Hanako』9月号の話題です。特集タイトルは 「J SONGBOOK 日本の音楽を学ぼう!」 で、Kinki Kidsと山下達郎がとりあげられています。J-popといわずJ SONGBOOKとしているのにこだわりを感じます。ちなみに表紙が2種類あって、Kinki Kidsの表紙と山下達郎の表紙。表紙だけ異なりますが中身は同じです。好きなほう買ってね、ということでしょう。Kinki Kidsの写真を撮っているのは篠山紀信、山下達郎を撮っているのは『サンレコ』もこの『Hanako』も高橋ヨーコです。

それでこの前のさらにつづきのように山下達郎の話題を求めて読み始めたのですが、Kinki Kidsや山下達郎に辿り着く前に、他の記事が面白いのです。

「私を創った音楽の歴史。」 という記事では、各ミュージシャンが影響を与えられたミュージシャンについて語っているのですが、上白石萌音はミスチル、絢香、吉岡聖恵 (いきものがかり) をあげています。
Awesome City Clubのatagiは小学生のとき、宇多田ヒカルの〈Automatic〉が刺さったというので早熟だなあと思いますが、最初に買ったCDは宇多田ではなくポケビだったというのが微笑ましい。モリシーは小2でミスチルの曲が弾きたくてエレクトーンを始めたが、B’zを聴いて衝撃を受け 「これからはギターだ」 と思ったというのがちょっとアナクロで素晴らしいです。高校生になった頃、はっぴいえんどなどの70年代日本のロックを知ったとのこと。モリシーの音、私は好きです。POLINは親の影響で松任谷由実を聴いていたが、その頃流行っていたモームスでなくLUNA SEAにハマり、そしてチャットモンチーという展開。
長屋晴子 (緑黄色社会) は大塚愛、吉岡聖恵、そしてセカオワをあげていますが、上白石も長屋も吉岡聖恵を選んでいるのが目を引きます。
こういうのって世代がはっきりあらわれるので、なるほど〜と感心します。ときとして、その世代では知らないはずの曲やミュージシャンを知ってたりする人というのも意外な感じがしてそれはそれでまた良いし。

そして面白かったのは平野紗希子とゆっきゅんによる浜崎あゆみフリークのトーク。ふたりともとても詳しいのですが、あゆ全盛期のファンよりも一世代後ですよね。そうすると微妙に視点が違うような感じもして、でも共通の心理も感じられたりして、つまり浜崎あゆみも、もう音楽の歴史の中に組み込まれようとしていることがわかります。

それに対して野宮真貴は憧れていた女性シンガーとして、佐藤チカ (プラスチックス)、シーナ (シーナ&ロケッツ)、イリア (ジューシィ・フルーツ)、松任谷由実をあげていて、これはストレートにわかるのでホッとします。でもデビュー盤は鈴木慶一プロデュースだったっていうのは初めて知りました。

鈴木涼美が椎名林檎と宇多田ヒカルをテーマに各1ページで書いている小説。椎名林檎ヴァージョンは町田のキャバクラ嬢というのがリアリティがあるのですが、その中で椎名がともさかりえに書いた曲では〈少女ロボット〉も良いけれど〈カプチーノ〉だって言うんです。マニアック過ぎてカッコイイ。
《少女ロボット》のCDはリサイクル書店で偶然見つけて購入したのを覚えています。


Hanako 2022年9月号 (マガジンハウス)
Hanako(ハナコ) 2022年 9月号増刊 [J SONGBOOK 日本の音楽を学ぼう! 表紙:山下達郎]




緑黄色社会/時のいたずら
https://www.youtube.com/watch?v=wIPB3jRsnB0

Awesome City Club/you
Awesome Acoustic Session at SHIBUYA SCRAMBLE SQUARE
https://www.youtube.com/watch?v=D0ytvJym0es
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最近の音楽書など [本]

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最近買った音楽関係の本の話題を少しだけ。まだ読んでいたり読んでもいなかったりなのですが。

長谷川友『プリンス:ゴールド・エクスペリエンスの時代』
先行書として『プリンス:サイン・オブ・ザ・タイムズのすべて』があるのですが、まだ購入していません。《The Gold Experience》(1995) はいわゆる 「かつてプリンスと呼ばれた……」 などとも表記された 「読めない記号」 だった頃のアルバム。
実はこの時期のプリンスは何となく買いにくかったので買っていませんでした。本来のプリンスに戻った頃になって、また聴いてみようかなと思ったのが《Musicology》(2004) あたりからなのでその間サボっていたのです。殿下、申し訳ございません。で、《The Gold Experience》今年になってソニーミュージック (輸入盤はLegacy Recordings) から再発されましたが、いわゆる通常盤で、例の大部のセットが出るのかどうかはよくわかりません。
本の内容はすごいといってよいと思います。プリンスの類書は数多く出ていますがその中ではダントツではないでしょうか。

小柳カヲル『クラウトロック大全 増補改訂版』
クラウトロックとはドイツのロックのことですが、ザワークラウト (酢漬けキャベツ) から発生した言葉で、もともとは蔑んだ表現だったらしいのですがそれを自虐的に使うようになったのだそうです。それらのアルバムの紹介本といってよいです。こうしたリストは意外に便利なときがあるので出たらば一応買っておくというのが習慣になっていますが、う〜ん……という場合もときどきあります。
ロックと銘打っていますが単純なロック・ミュージックだけでなく、もう少し幅広いジャンルを扱っていて、そうした全体像がクラウトロックなのだという定義らしいです。都市ごとの分類というポリシーがちょっと面白いのですが、きっちりと別れているわけでなく、目次がやや不明確でよくわかりません。全体は大きく2つに別れていて、Kapital 1: KrautrockとKapital 2: Neue Deutsche Welleとなっていますが、Kapital 1はカン、クラフトワーク、ファウストというふうに展開していて、まぁ順当。しかしKapital 2はつまり比較的新しい系のアルバムらしくて、全然知らないものばかりです。
幅広い例のひとつとしてホルガー・シューカイの項にデヴィッド・シルヴィアンとの《Plight & Premonition》(1988) もありますが、後述の『AMBIENT definitive』にもシューカイのリストがあって《La Luna》(2000) が選択されています。
著者は序文でクラウトロックは物理的メディアで聴いて欲しい、つまりジャケットデザインや装幀まで含めてが作品の全体像であるからとのことですが全く同意です。

三田格・監修『AMBIENT definitive 増補改訂版』
この本も上記と同じPヴァインからの出版。そして増補改訂版なのも同様です。2冊ともリストとしてのデータがやや弱い感じはしますが、ジャケットであたりをつけるのにはとても便利。やはり視覚の印象は重要です。
こちらも幾つかの章に別れて、各章ごとにクロニクルに並べられていますが、分類としてはややわかりにくいかと思える部分もあるのですけれど、でも仕方がないでしょう。たとえばクロノス・クァルテットと高橋アキによるモートン・フェルドマン《Piano & String Quartet》(1993) が入っているのは良いとして、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの《Loveless》(1991) もあって、マイブラってアンビエントだったのかぁという感慨もあり。
それと比較的多くの日本人ミュージシャンが扱われています。細野晴臣のアンビエントに対して 「YMOで疲れ切ったんでしょう」 と書いてあって笑います。

原塁『武満徹のピアノ音楽』
武満のピアノ作品に特化した内容ですが、図版として楽譜がかなり掲載されていて、ちょっと専門的過ぎてまだ読んでいないといっていいです。ただ、ところどころ拾い読みした段階で面白い箇所がたくさんあります。
武満はかなりの量の文章も書いていますが、音楽作品とそれに対応する文章というのがクセモノで、必ずしもそれをそのまま鵜呑みにできないというか、言葉は悪いですがだまされないようにしないといけません。

稲岡邦彌『ECM catalog 増補改訂版/50th Anniversary』
リスト本を掲げたついでに、少し古い本ですがECMのリスト本を。ECMを聴くのがお好きなリスナーには必携のリストです。でもどんどん増えていくので、そのうちまた増補増補改訂版が出るんだろうな、とは思いますが。


長谷川友/プリンス:ゴールド・エクスペリエンスの時代
(シンコーミュージック)
プリンス:ゴールド・エクスペリエンスの時代




小柳カヲル/クラウトロック大全 増補改訂版
(Pヴァイン)
クラウトロック大全 増補改訂版 (ele-king books)




三田格・監修/AMBIENT definitive 増補改訂版
(Pヴァイン)
AMBIENT definitive 増補改訂版 (ele-king books)




原塁/武満徹のピアノ音楽 (叢書ビブリオムジカ)
(アルテスパブリッシング)
武満徹のピアノ音楽 (叢書ビブリオムジカ)




稲岡邦彌/ECM catalog 増補改訂版/50th Anniversary
(東京キララ社)
ECM catalog 増補改訂版/50th Anniversary




Prince/Gold (Official Music Video)
https://www.youtube.com/watch?v=7IQE62Vn4_U
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『東京人』2022年6月号 「新宿歌舞伎町」 [本]

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新宿歌舞伎町タワー

前記事のつづきだが、映画《ブレードランナー》の新宿での封切館はミラノ座だった。雑誌『東京人』2022年6月号の特集は 「新宿歌舞伎町」 であり、そのミラノ座を含む過去と現在の歌舞伎町がとりあげられていて、面白そうなところをあちこち読んでいた。

知らないことも多くて、たとえばゴールデン街につながる遊歩道は 「四季の路」 (しきのみち) というのだそうだが、靖国通りがまだ都電通りだった頃、「新宿駅前から発着する都電十三系統が、角筈駅から大久保車庫に向けて分岐する回送ルート」 (p.35) だったのだが、1970年に都電は廃線となったのでその跡を遊歩道にしたのだという。《ブラタモリ》でもよく話題にされるが、道はその形状を見ることによってその由来がわかることを思い出す。

新宿ミラノ座の跡地には今、新宿歌舞伎町タワーという巨大ビルが建築中だが、そもそも新宿ミラノ座は新宿東急文化会館の一部であって、昔はスケートリンクも併設されていたのだという。ミラノ座は天井の高い大映画館であったが、中に柱を使わない大きな箱状の建築は非常にむずかしいのだそうだ。しかも映画館の上に同様な箱状のスケートリンクが載っていたわけで、現在建築中のタワーはその困難さを踏襲したさらに難しい建築になっているらしい。下層階に映画館や劇場、上層階はホテルになっているのだが、ホテルは構造的に柱が多く必要だから重いはずである。
このあたりの記述は建築論でもあり都市論でもあって、工事中の現場を囲む塀にエヴァンゲリオンの絵や森山大道の写真が使われたというのを読むと、つまり森山の写真も一種の都市論のように感じられる。

だがこの雑誌の記述は新宿歌舞伎町タワーを中心としていて、新宿東宝会館のことはあまり書かれていない。ミラノ座に対抗していたのは新宿プラザ劇場であったはずだが、プラザの名称はどこにも書かれていないのが残念である。
映画《スターウォーズ》の劇場パンフレットには劇場名が印刷されていて、「新宿プラザ」 と入っているパンフこそがステイタスであったはずだ (と思っているのは私だけ?)。
とは言ってもコマ劇場と東宝会館の跡地に建てられた新宿東宝ビルの屋上のゴジラの写真はしっかり載っているが。
掲載されている古い地図には淀橋区とか角筈1丁目という文字が読み取れて、角筈という地名があったことを思い出させてくれる。

KERAの述懐によれば 「新宿ミラノ座の斜め前に 「タロー」 というジャズクラブがあって、三階に 「新宿アートヴィレッジ」 という一六ミリ専門の小屋が入っていた」 (p.44) のだという。アートヴィレッジは知らないのだがタローにはかすかな記憶があって、それは沖至を聴きに行ったら本人が来なかったという悲しい記憶で、来なかったり休演だったりということによくめぐりあう私はよほど運が悪いのだろうか。日野皓正を太陽とすれば沖至は月の人で、私が惹かれるのはいつも月の人だったり冥府の犬だったりする。
それで思い出したのだが、たしかアケタの店に山下洋輔クァルテットを聴きに行ったことがあって、これはつまり武田和命の唯一のアルバム《Gentle November》のメンバーと同一だったのであるが、武田が遅刻して延々と来なくて、いよいよ登場となっってはみたものの、非常に難解とも感じられるソロを延々と吹き続けて、いやこれどうなのという雰囲気になった。もうすでに身体を悪くしていた時期だったのかもしれない。

『東京人』の特集に戻ると、ミラノ座の正面からの写真があるのだが、まだ噴水のある頃で、映画館の壁の看板はミラノ座が 「ロイビーン」 なのでおそらく1973年と思われるのだけれど、新宿東急で上映中なのは 「ダーティサリー」。こんな映画もあったんですね (ちなみにダーティ・メリーではありません)。

北大路翼の俳句がちょっと笑う。

 キャバ嬢と見てゐるライバル店の火事

新宿といえば西武新宿駅から地下に降りたサブナードはまるでシャッター街のようにも見えてしまったが、これもコロナの影響なのだろうか。歌舞伎町は元・青線で椎名林檎が歌ったように歓楽街で、李琴峰も書いているように怖い場所だったのかもしれない。だが次第にその様相が変化しているようにも思える。


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『東京人』2022年6月号特集は 「新宿歌舞伎町」
https://www.amazon.co.jp/dp/B09YDFBP2Y/

椎名林檎/歌舞伎町の女王 (齋藤ネコversion)
https://www.youtube.com/watch?v=v9X68cf40FU

山下洋輔トリオ リユニオン・セッション
https://www.nicovideo.jp/watch/sm22367480

武田和命/Our Days
https://www.nicovideo.jp/watch/sm17837452

     *

椎名林檎/歌舞伎町の女王 (2016)
https://www.youtube.com/watch?v=tHAZKEoruUg
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『NIAGARA TRIANGLE Vol.2 読本』を読む [本]

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別冊ステレオサウンドの『NIAGARA TRIANGLE Vol.2 読本』が面白い。
全く広告の入っていないいわゆるムック本だが、関係者へのインタヴューなど中身が濃くて、さすがステレオサウンドと思わせる。

その中で一番面白かったのは金沢明子へのインタヴューである。金沢明子は大瀧詠一の企画した《イエロー・サブマリン音頭》の歌手である。原曲はビートルズの〈イエロー・サブマリン〉であり、それを音頭に編曲してしまったというトンデモな曲であり、当時、ビートルズ原理主義者からは悪ふざけだと大顰蹙をかったことでも知られる。

この作品の成立経緯についてはwikipediaなどにも記述があるが、金沢明子の発言からはやや違ったニュアンスが聞き取れる。以下はその概略である。

金沢はビクターのプロデューサーの飯田久彦から 「ビートルズのイエロー・サブマリンを音頭でカヴァーするという企画があるんだけど、やってみませんか?」 と言われた (飯田久彦というのは日本のポップス黎明期の歌手で〈悲しき街角〉〈ルイジアナ・ママ〉などのヒット曲があるが、このときはすでにビクターでプロデューサーをしていた)。
だがその時点では曲も詞も別のものがついていて、とりあえず企画を通すためのデモ曲のようだった。ここで気がつくのは、最初から 「音頭でカヴァーする」 という意図でかたまっていたようなのである。ところがそれを飯田久彦が大瀧詠一に聴かせたところ、「やるんだったら僕にやらせてよ」 という話になり、大瀧がやることになった。金沢が知っている経緯はそういうものだという。

だが金沢はそのとき、大瀧詠一という人がどういう人かを知らなかった。《A LONG VACATION》がヒットしていた頃だったが、ジャンルの違いもあって、金沢にとってはまだ未知の人だったのである。だが松田聖子の〈風立ちぬ〉も大瀧の作曲だと知って、だんだん 「すごい話かも」 と思うようになった。

そしてレコーディング当日。金沢はまだ大瀧の顔さえ知らなくて、スタジオに入ったらジーンズを穿いて赤鉛筆を耳にはさんだ競艇場にいそうなおじさんがいて、この人誰だろう? と思ったらそれが大瀧詠一だった。《A LONG VACATION》のイメージからすると意外だったとのこと。

曲のアレンジは萩原哲晶で本人もスタジオにいたが、金沢は萩原のことは知っていた。萩原哲晶はクレージーキャッツの編曲者として有名だったからである。大瀧と萩原は録音の数ヶ月前に知り合い、クレージーキャッツのファンだった大瀧が萩原に編曲を依頼したのだとのこと。

さて、いざ録音となって、インタヴューアーの湯浅学が 「何テイク録音されたんですか」 と金沢に聞くと 「1テイク」 なのだという。正確にいうと1.5テイクくらいで、途中まで歌ったら、じゃ本番、ということになった。
なぜ1テイクなのかというと、大瀧から 「空いてるトラックがもう1コしかないんですよ。だから一発OKでよろしくお願いしますね」 と言われたからだとのこと。そしてさらに 「コブシを入れて」 「思いっきりやってください」 とも。ビートルズの曲なのにそんなことをしてもいいのか、とか、We all live in a yellow submarineの部分の英語に自信がなかったが、もうやるしかないと覚悟を決めた。

そしてスタジオのブースで歌い出したら、いままで見えていたガラス越しの人たちが皆、消えてしまった。どうしたのだろうと思っていたのだが、スタッフ一同、しゃがみこんで大爆笑していたのだそうである。
歌い終わってWe all live in a〜のところがぎこちないので、歌い直したいと思ったのだが、大瀧が 「これでいいんです」 というのでそれで終了となってしまった。

インタヴューアーの湯浅学は、トラックがもう無いなどといったのは大瀧のウソで (最も重要なメインの歌のトラックに予備がないはずがない)、金沢に緊張感を持って、さらに先入観無しに歌ってもらいたかったからなのだろうという。

リリース後、金沢が思っていた以上に話題になったが、ビートルズ・ファンから 「ビートルズをバカにしているのか」 とか、ビートルズ・ファンだった金沢の姉からも 「あんた何やってるの?」 と鼻で笑われたりした。
ところが《イエロー・サブマリン音頭》を聴いたポール・マッカートニーは、最後まで聴いてから立ち上がって拍手をしてくれたのだという。原則として歌詞の変更が認められないビートルズの楽曲としては異例の措置である。

この曲は当初、《NIAGARA TRIANGLE Vol.2》の最後のトラックに入れられるはずだった。また、この曲の編曲が萩原哲晶にとっての遺作となった。

とりあえず今回は《イエロー・サブマリン音頭》の話題だけで終わってしまいましたが、まぁいいでしょう。


NIAGARA TRIANGLE Vol.2 読本 (別冊ステレオサウンド)
(ステレオサウンド)
NIAGARA TRIANGLE Vol.2 読本 (別冊ステレオサウンド)




NIAGARA TRIANGLE Vol.2 40th Anniversary Edition (通常盤)
(SMR)
NIAGARA TRIANGLE Vol.2 40th Anniversary Edition (通常盤) (特典なし)




金沢明子/イエロー・サブマリン音頭
https://www.youtube.com/watch?v=CBML0RP5tg8

原田知世/A面で恋をして
https://www.youtube.com/watch?v=Fdjiq-uq7iE

Buddy Holly/Everyday
〈A面で恋をして〉の元ネタと思われる曲
https://www.youtube.com/watch?v=GEE2TyadgEM
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村上春樹『女のいない男たち』 [本]

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村上春樹『女のいない男たち』の文庫本がかなり売れているらしい。
同書には映画《ドライブ・マイ・カー》の原作が収録されているので、アカデミー賞効果もあるのだろう。そもそもこの『女のいない男たち』は短編集であり、映画は 「ドライブ・マイ・カー」 のストーリーだけでは成立しないので、他の短編からエピソードを加えた構造になっているとのことだ。「とのことだ」 と書いてしまうのは私がまだこの映画を観ていないからなので、この記事は『女のいない男たち』という短編集に関して感じたことを書いてみたのであって映画とは直接関係がない。村上春樹を久しぶりに読んだ気がする。村上春樹はやっぱり村上春樹だなと思って、ちょっと楽しかった。

『女のいない男たち』には6つの短編が収められているが、そのほとんどが不倫やそれに類した状況を題材としていて、しかも出てくる男が 「寝盗られ宗介」 を髣髴とさせたりするのだが、そんな中で2つ目の短編 「イエスタデイ」 だけが少し違う。そしてこれは青春を回想するような悲しい物語である。

「イエスタデイ」 は 「僕」 という一人称で語られる。僕の友人の木樽明義はビートルズの〈イエスタデイ〉を変な関西弁に訳しているのだが、彼は東京生まれの東京育ちであり、関西弁は人工的に習得した言語である。対して僕は芦屋生まれにもかかわらず東京弁を話す。つまり屈折した言語環境で自分を防御していることについて二人には共通性がある。
栗谷えりかは木樽のガールフレンドで、木樽とは小学校の頃からの長い付き合いなのだ。つまり二人は周囲も認めている許嫁のような関係なのであるが、ある日、木樽は僕に 「おれの彼女とつきあわないか」 という。木樽は僕に、おまえなら安心して預けられるみたいなことを言うのだがその意味がよくわからないから、結局それは進展しないままに終わってしまう。えりかは現役で大学に合格したのに木樽は二浪という負い目のようなものが木樽からは感じとれたのだ。

そして16年後、えりかと僕はあるパーティーで偶然再会する。僕は結婚しているが、えりかは独身のまま。そして木樽はどうしたのか訊ねると、大学進学はあきらめ鮨職人となって今はデンバーにいるのだという。おそらく木樽も独身なのだろうともいう。
ほんの少しのすれ違いがあって、結局それが人生を左右してしまったという話なのだが、でもそのようなちょっとした齟齬は、誰の人生にも転がっているような気がする。
木樽が関西弁で歌う〈イエスタデイ〉という屈折した心情の象徴としてビートルズが使われたのだろうが、私に聞こえてくる歌はどちらかというと 「Ah, look at all the lonely people」 というフレーズである。

尚、木樽 (きたる) という苗字と栗谷 (くりたに) という苗字の最初の3文字 (くりた) はローマ字にするとアナグラムになっている (KITARU → KURITA)。

5つ目の長めの短編 「木野」 [きの] はこの短編集の中で一番緻密で暗く、オカルトな様相も備えている。
木野はスポーツ用品販売会社の営業で地方への出張が多かった。その留守の間に会社の同僚と木野の妻が関係を持ち、それが発覚して木野は離婚することにする。
木野は会社も辞め、伯母が喫茶店を営んでいた路地奥の一軒家を貸してもらいバーを始める。
最初は目立たない店だったが、灰色の雌の野良猫が棲み着くようになり、その猫が呼んだのかやがて客がつくようになる。いつもひとりでやってきて酒を飲みながら読書をする客がいて、ある日、ガラの悪い2人連れ客が面倒を起こしそうになったとき、何らかの方法で撃退してくれた。彼は神田という名前だった。「かんだ」 ではなく 「かみた」 だという。

夏の終わりに木野の離婚は成立するが、やがて秋になると猫がいなくなり、かわりに蛇が店の周囲に姿を見せるようになる。そのことを伯母に電話で知らせると伯母は、蛇は人を導くが、それが良い方向なのか悪い方向なのかは実際になってみないとわからないという。さらに、

 「そう、蛇というものはもともと両義的な生き物なのよ。そして中でもい
 ちばん大きくて賢い蛇は、自分が殺されることのないよう、心臓を別の
 ところに隠しておくの (後略)」 (文春文庫 p.258)

というのである。
ある日、神田がやってきてこの店を閉めるようにと告げる。しばらくこの店を閉めて遠くに行き、なるべく繁雑に移動し、毎週月曜日と木曜日に必ず絵葉書を出す。宛先は伯母さんでよいが差出人の名前もメッセージも書いてはいけない。木野がもどって来てもよい状況になったら知らせる、というのだ。
木野は四国へ、そして九州へと旅を続けるが、やがて宿泊しているホテルから動けなくなり、伯母に文面を書いた絵葉書を出してしまう。するとホテルのドアをずっとノックする音が聞こえるようになる。
「ドアを叩いてるのが誰なのか、木野にはわかる」 のだが木野はドアを開けない。

 おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。
 (文春文庫 p.271)

詩的で流れるような記述によってこの短編は終わってゆく。具体的な説明はなされない。まるで推理小説における 「不誠実な語り手」 のように。
その流れのまま、最後の短編 「女のいない男たち」 が始まる。主人公の僕と、僕の昔の恋人・エム、そして彼女の現在の夫。冒頭、彼女の夫から電話がかかってくる。

 妻は先週の水曜日に自殺をしました。なにはともあれお知らせしておか
 なくてはと思って、と彼は言った。(文春文庫 p.279)

なぜ彼女の夫が僕にそんな電話をかけてきたのかがわからない。そこにどんな必然性があるのだろうか、と僕は考える。そして彼女が 「エレベーター音楽」 が好きだったことを僕は思い出す。エレベーター音楽とは

 つまりパーシー・フェイスだとか、マントヴァーニだとか、レイモン・
 ルフェーブルだとか、フランク・チャックスフィールドだとか、フラン
 シス・レイだとか、101ストリングズだとか、ポール・モーリアだとか、
 ビリー・ヴォーンだとかその手の音楽だ。(文春文庫 p.296)

無害な、ここちよい音楽が好きだったといった彼女のことを僕は思い出す。「そのようにして、彼女はこれまで僕がつきあった女性たちの中で、自死の道を選んだ三人目となった」 (p.282) と僕は語る。そしてその独白のままにこの短編集は終わって行く。
尚、木野という苗字はkinographyの略語kinoなのかもしれないが、あまり深読みはしないことにする。

この 「木野」 を経て 「女のいない男たち」 へと続く流麗さは、ビートルズでたとえるならば《アビイ・ロード》のB面のような印象を私は抱く。でも村上春樹の描く静謐さと内向性を考えると、きっとそれは勘違いなのだろうけれど。たぶん。


村上春樹/女のいない男たち (文藝春秋)
女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)




Paul McCartney Live at The Music for Montserrat
Royal Albert Hall (Monday 15th September 1997)
 01: Yesterday (00:45)
 02: Golden Slumbers / Carry That Weight / The End (03:48)
 03: Hey Jude (12:04)
 04: Kansas City / Hey Hey Hey Hey (18:32)
https://www.youtube.com/watch?v=TBmw6UMA7aw
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日本が生んだクラシックの名曲 —『東京人』2022年4月号 [本]

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少し古い話題になってしまったが『東京人』の先月号 (2022年4月号) の特集 「日本が生んだクラシックの名曲」 を読んだ。

片山杜秀と小室敬幸による 「作曲家の近代音楽史」 は明治からの日本の近代・現代音楽の歴史をわかりやすく解説していて、大変興味深い内容だった。また見たことのない写真も多く掲載されていて、当時の日本が西洋文化に触れてそれを急速に理解しようとしていた頃の情熱が感じ取れる。それは無理矢理に背伸びした試みだったのかもしれないが、まさに文明開化の一端としての音楽に対する旺盛な知識欲が存在していたのに違いない。
写真の中では宮城道雄、藤原義江、巖本真理の昭和17年の3ショットというのが意外な組み合わせで特に印象に残る。齋藤秀雄、小澤征爾、山本直純が談笑する3ショットは意外性はないけれどちょっとすごい。

ごく初期の音楽家のひとりとして幸田延 (こうだ・のぶ 1870−1946) が取り上げられている。彼女はボストンのニューイングランド音楽院やウィーン楽友協会音楽院でピアノ、ヴァイオリン、楽理などを学び、日本政府が西洋音楽振興のために作った音楽取調掛から発展した東京音楽学校で教鞭をとった。wikiによれば瀧廉太郎、三浦環、本居長世、山田耕筰などを育てたとある。
1897年に発表されたヴァイオリン・ソナタ変ホ長調は日本人初の器楽曲であり、YouTubeでも聴くことができる。とりたてて特徴のある作品ではないけれど素直で分かりやすい曲想であり、現代でも十分に鑑賞に堪える。CDなども複数に出ているようだ。
東京音楽学校は東京藝術大学の音楽学部の前身であり、そして幸田延は幸田露伴の妹である。幸田家は幸田露伴→幸田文→青木玉→青木奈緒という4代にわたる文学者の家系なのは知っていたが音楽系も兼ね備えていたというのは驚きである。そして幸田延の妹の安藤幸 (あんどう・こう) も明治の黎明期のヴァイオリニストであり、彼女の息子は小説家の高木卓である。この幸田ファミリーはすごい。

伊福部昭が彼の弟子の中でも黛敏郎を別格に評価していたという記述にも、なるほどと納得できる部分がある。片山に拠れば、オーケストラを強く鳴らしたいという欲求の点において伊福部と黛には共通点があるとしていて、つまりゴジラと涅槃の共演であって、ともかく爆音、そして本質的な孤独さとそれに耐える矜持の深さも似ているという。

ただ、これはこの特集の中での座談会で山田和樹が発言していることだが、海外で日本人作曲家の作品をプログラムにあげるということになると、どうしても武満徹になってしまう。それ以外の作曲家も、ということで三善晃《管弦楽のための協奏曲》をやることにしたとのことで、その意欲に共感する。同曲はシェーンベルクの影響があるとも言われるが、ブーレーズの華やかな部分を連想してしまう曲のように私は感じる。
もっとも三善晃という名前から最初に連想してしまうのは日本アニメーション/フジテレビによる《赤毛のアン》のオープニングテーマである。凡百のアニメ主題歌とは全然違う曲想に、最初聴いたとき 「こんなのやっちゃって、いいの?」 と驚いたのを覚えているからだ。

Naxosには片山杜秀が企画した《日本作曲家選輯 片山杜秀エディション》というボックスセットがあって解説を参照するときにも便利なのだが、現在は絶版なので興味を持った楽曲はNaxosの単売で見つけるしかない。J-popと違って日本の現代音楽は裾野がとても狭い。片山は現代音楽の退潮の原因は難解さか、それとも教養の消滅か、と書いているが、絶滅危惧種などと言わずに、もう少し一般教養となってもよいのではないかとひそかに思うのである。

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東京人2022年4月号 特集 「日本が生んだクラシックの名曲」
(都市出版)
東京人2022年4月号 特集「日本が生んだクラシックの名曲」[雑誌]




三善晃:管弦楽のための協奏曲
https://www.nicovideo.jp/watch/sm8188066

幸田延:ヴァイオリンソナタ 第1番 変ホ長調
https://www.youtube.com/watch?v=yryTmyT_0QA

赤毛のアン 第1話 「マシュウ・カスバート驚く」
https://www.youtube.com/watch?v=DBQgH2o8YKI
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真島昌利『ロックンロール・レコーダー』 [本]

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John Lee Hooker

ザ・クロマニヨンズの真島昌利の本が書店に山積みになっていて、真四角のEPサイズで裏表紙にEPのスリーヴに入ったレコードの写真があるので、もしかしてレコードが付録かと思ったのだが残念ながらそうではなかった。中身の文字は貼り込んだようにレイアウトされていて、内容が薄いのかというとそうでもない。真島が子どもの頃から聴いてきたディスクガイドになっていて、なかなか読ませる。

小学校6年生のとき、友だちの家でビートルズを初めて聴いて、といってもすでにビートルズは解散した後だからリアルタイムではないのだが、ギターをやりたいと思ってとりあえずギターを買ってきて、教則本通りに、まず 「日の丸」 をやって次に 「荒城の月」 をやって……でも何か違う。やりたいことからどんどん遠ざかっていってる気がする、というあたりがすごくおかしくて——いいなぁ。
それで友だちにビートルズみたいに弾くにはどうすればいいの? と聴いたら和音を鳴らすためのコードという押さえ方があるから、と教えてもらい『明星』という雑誌の付録の歌本を貸してくれた。それでアグネス・チャンとか天地真理の曲に付いているコードのダイアグラムを見て押さえ方を覚えていったのだという。それが中学生の頃。

最初はビートルズばかりやっていたのだが、そのうち古いロックンロールへ。ツェッペリンやパープル、キッスなどよりチャック・ベリーやエディ・コクランが好きだったという。そしてボブ・ディラン、スプリングスティーンなどを経てエヴァリー・ブラザースを初めて聴いたら、これビートルズそっくりだと思ったそうだが、もちろん順序が逆なわけでエヴァリー→ビートルズという影響なのだから。

で、ビートルズよりもストーンズのほうが野蛮な音で好きになり、さらに真島はブルースを遡って行く。エルモア・ジェイムス、ジョン・リー・フッカー、ジミー・リード、マディ・ウォーターズなどなど。でもその中で 「ジョン・リー・フッカーはひときわ独特で飛び抜けていました」 と真島は書いている。〈Sally Mae〉を 「初めて聴いたとき、奇妙な音のギターと低いうなり声に、僕は若干の恐怖をおぼえました」 と。

というふうに音楽遍歴が書いてあるんだけれど、ジョン・リー・フッカーがストーンズのライヴにゲストで出てきた動画があって、1989年のアトランティック・シティ、まずエリック・クラプトンがゲストとして加わり〈Little Red Rooster〉をやってから御大が登場して〈Boogie Chillun〉となるこの繋がりがとても良い。ミック・ジャガーの歌もすごくタイトだし、なによりこのライヴにおけるクラプトンのギターは素晴らしい。私が初めて買ったクラプトンのアルバムは武道館ライヴで、良いのかもしれないのだけれどレイドバックし過ぎていて、それよりこのライヴのシャープさのほうが好きだ。
ジョン・リー・フッカーはこの時72歳。なんかすでに重要無形文化財みたいな感じになっているが、バックで弾いているクラプトンやキースがとても楽しそうで、音楽っていいなとしみじみ思ってしまうのである。

それとこの本に掲載されているレコードの写真がとても美しい。おそらくマーシーのコレクションなのだと思うが、その大半が日本盤で、帯がきちんと付いていて、ジャケットの撮影も製版も秀逸で、これどうやって撮ったの? ってくらいにクォリティが高い。
CDはたぶん1枚も無い。最後のほうに書いてあるけど最近はSPも集めているらしい。チャック・ベリーのサインが入っているLPとかすご過ぎる。日本盤に付いている帯なんてダサいと思って私は皆、捨ててしまっていたんだけど、それってダメみたいですねぇ。


真島昌利/ROCK&ROLL RECORDER
(ソウ・スウィート・パブリッシング)
ROCK&ROLL RECORDER (ソウ・スウィート・パブリッシング)




Rolling Stones/Steel Wheels LIVE
(ユニバーサルミュージック)
スティール・ホイールズ・ライヴ(限定盤)(2SHM-CD)[SD Blu-ray]




The Rolling Stones, Eric Clapton and John Lee Hooker/
Little Red Rooster & Boogie Chillun
https://www.youtube.com/watch?v=uSxV-4RKkMc

John Lee Hooker/Sally Mae
https://www.youtube.com/watch?v=3-vsV8KrMR0
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