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武蔵村山混声合唱団演奏会 [音楽]

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今回はごく身近な話題。
友人から混声合唱のコンサートがあるので一緒に行かない? という誘いを受けた。友人の知人が出演する地元のアマチュアの合唱団なのだという。3月の最終日は急に暖かさを通り越して、やや暑いくらいの日だった。

会場は武蔵村山市民会館という場所で、東京のやや外れにあるホールである。開場前のロビーはすでにかなりの人で賑わっていて、年齢層も高い。
最初に正直に書いてしまうと、混声合唱というイメージから私が想像していたのは、日本の童謡とか、最近のポップスの編曲版などを歌う和気藹々とした雰囲気のコンサートで、つまりヤマハのポップスコーラスのCM映像みたいなのに毒されていたのである。まさに不明を恥じるばかりだ。

演奏曲目は演奏順に工藤直子作詞/木下牧子作曲〈光と風をつれて〉、ヨーゼフ・ラインベルガー〈レクイエム ニ短調 op.194〉、鶴見正夫作詞/荻久保和明作曲〈IN TERRA PAX (地に平和を)〉という3曲である。いずれも複数の曲で構成されている組曲である (レクイエムを組曲とは言わないけれどご容赦ください)。
私は合唱曲というジャンルに関してほとんど何の知識もないので、見知らぬ曲ばかりだと思ったが、それぞれかなり有名曲であることを後で知った。
何よりも衝撃だったのはそれぞれの作品自体のクォリティの高さと、おそらくそれを歌うことの難しさである。〈光と風をつれて〉だけはやや少ない人数で歌われたが、ところどころでインティメイトな、それでいてやや不安を感じさせるような美しい和声があり、昔の合唱曲の明るいけれどありきたりな音しか知らない者にとって、こういう曲があるのだということをあらためて思い知らされた。
〈IN TERRA PAX (地に平和を)〉はいわゆる反戦歌であるが、それをナマのまま提示するのでなく、メタファーによって訴える内容である。かなり技巧的なピアノ伴奏と、それに見合った幅のあるダイナミックな合唱の対比が美しい。

ラインベルガーの〈レクイエム〉は合唱団指揮者千葉裕一氏の研究対象でもあった作曲家のようだが、当時は有名だったけれど死後、忘れ去られてしまった人だとのことである。Rheinbergerianaというラインベルガーについて非常に詳しいサイトによれば、単に忘れ去られてしまったのではなく、「打ち捨てられた dismissed」 「無視された neglect」 作曲家なのだという。作風はやや保守的であり、次第に飽きられてしまったのだ、と。わかりやすい形容をすれば、ニュアンスが少し違うかもしれないがサリエリのような扱いなのだ。
ラインベルガーにはレクイエムとして書かれた作品が3曲あるが (b-moll op.60, Es-dur op.84, d-moll op.194)、今回選択されたのは、ずっと宿痾に悩まされていた作曲家最晩年の作品194である (作品番号の最後の曲はop.197と付けられている未完のミサ曲である)。

しかし実際に聴いてみると曲自体は非常に優れた構成力に満ちていて、決して飽きられてしまうような作品ではない。この曲には4名のソリストを加えていることからも今回の演奏における千葉裕一氏の力の入れ方がわかる。それはアンコールにもラインベルガーを持ってきたことからも自明である。
アンコール曲は〈Drei geistliche Gesänge〉(三つの宗教的歌) op.69の第3曲〈Abendlied〉(夕べの歌) という作曲家が25歳のときの作品であり、晩年の作品とは対照的な明るさが感じられる。

聴いていて連想したのは、最近続けて音楽系のTVドラマとして放映された《リバーサルオーケストラ》と《さよならマエストロ》のことだった。2つともごくマイナーな地方オーケストラの存続をかけた闘いのストーリーという点で似ていたし、幾つもの葛藤や不安や猜疑も存在していたが、そこで描かれていたテーマとは、音楽は必ずしも超一流の演奏家の専有物なのではなく、広く全ての人々が楽しむことのできるものであるということだ。
オーケストラに限らず、アマチュアの合唱団でもロックバンドでも、一流のプロの演奏者と較べれば瑕疵があるかもしれない。でもそれが何だというのだ、と私は思う。音楽の喜びとは演奏する喜びもあり、それを聴く喜びもあり、音楽に浸るというその喜びには巧拙は存在しない。そうした音楽に対する原初的な喜びをあらためて知らしめてくれた演奏会であった。
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安部公房生誕100年 [本]

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『芸術新潮』3月号は安部公房の特集で 「わたしたちには安部公房が必要だ」 というキャッチが麗々しく目立っていて、なぜ今、安部公房? と驚いたのだが、生誕100年という表示にやや納得する。表紙は画面左下に大きく安部の姿が、そして右上の背後にはスタジオで練習している俳優が2人、ピントから外れた状態で写っているモノクロ写真。撮影者はアンリ・カルティエ=ブレッソンだ。
掲載されている安部のエッセイによれば、カルティエ=ブレッソンの使っていたライカを安部も買いたいと思ったのだが、それは結局潰えてしまったことが述懐されている。その思いはフェティシズムだったのだと安部は言う。

安部公房が急死してからすでに30年を過ぎて、だがその名前は急速に忘却されてしまったような気がする。といっても、薄っぺらな流行作家だったわけではない。むしろ正反対で、その作品は先鋭的でアヴァンギャルドなコンセプトを持っていたゆえに、時代の先を行き過ぎていた感じさえある。アラン・ロブ=グリエやガブリエル・ガルシア=マルケス的な方法論との近似性を感じるが、そもそもその頃、一般的な読者層にはガルシア=マルケスなど膾炙していなかったはずだ。

私が安部公房を認識したのはどちらかというと作家としてではなく、戯曲家としてであったような気がする。その重要な作のひとつとして『友達』があげられるが、といってももちろん初演ではなく、いつどこの劇団で観たのかは忘れてしまったがその不条理さと不安な空気に、こんなことはありえないと思いながらもそれはこの世間のひとつのメタファーなのかもしれないということに気がついていた。
たとえば初期の出世作の『壁』における 「バベルの塔の狸」 にしても、その描かれたものの感触は『友達』と同様に不快だった。この気持ち悪さを冷静な筆致で気持ち悪く書いてしまうところが安部公房の神髄なのだ。

そのエキセントリックさの極地が『箱男』であり、そのイマジネーションも当然ながら気持ち悪さを伴っていて、その同時期に安部公房スタジオを立ち上げたあたりが安部の絶頂期であったように感じる。
そして普段何も感じないような些末なものへの拘泥というか執着心の発露に、寺山修司の性向というか方法論と似たものを感じる。寺山もまた演劇を自らの活動の中心としてとらえていたはずであるが、寺山の演劇は小竹信節のメカニックな装置に幻惑されるのだけれど実はメカニックではなくきわめて詩的であるのに対して、安部の演劇はその構造にごつごつとした骨太の仕掛けがあるように感じる。

堤清二の庇護の下に西武劇場で上演された一連の安部の戯曲は、しかし次第に実験的な色合いを強め、コマーシャルなものから疎遠となってしまい消滅した。それは68/71が演劇的悦楽よりも政治的・思想的な方向性を強くした結果、根源的で原初的なお芝居の楽しみを喪失したのと似ている。そして時代は革新的戯作法で疑似エンターテインメントを標榜する野田秀樹のような傾向に移っていったのだと思う。
ふと思い出すのは、野田の同世代として如月小春や、天井桟敷の戯曲を寺山と共作していた岸田理生がいたこと。だが二人とも亡くなってしまったのが悲しい。

個人的感想でいえば、安部公房の戯曲は安部公房スタジオ立ち上げの前夜に書かれた紀伊國屋ホールにおける『ガイドブック』が、安部のメカニックでありながらそのメランコリーとか抒情性を垣間見せる作品であったと私は思う。「世界の果て」、それは乾いていて誰にもその素顔を見せない仮面のように、抒情を拒否する場所なのだ。

安部は抽象的な表現としてのメカニックさだけではなく、実際にメカが好きで、コンタックスやローライで撮った写真を自分で現像していたのだという。そして初期のワープロであるNECの文豪開発にもかかわっていたし、EMS Synthi AKSなども所有して使用していたという。当時、EMSを使っていた人なんてブライアン・イーノくらいしか私は知らない。
その安部の撮っていた写真を整理した写真集が出版されるのだという。まさに新潮社が仕掛けている安部公房復活宣言のように見える。

西武劇場のマース・カニングハムの公演のとき、舞台下でジョン・ケージがシンセを弾いていたのだが、それがmoogだったのかEMSだったのか知りたいのだけれど、でも無理だろうなとも思う。そもそも私はその頃、まだオコチャマでジョン・ケージがどういう人だったのかさえ知らなかったのだから。
今のガジェット・シンセならTEENAGEだろうけど、OP-1はすでに製造完了していて時の流れを感じる。それにTEENAGEはスマート過ぎて、EMSのような無骨さがない。


芸術新潮 2024年3月号 (新潮社)
芸術新潮 2024年3月号




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箱男オフィシャルサイト
https://happinet-phantom.com/hakootoko/
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関ジャムの Kroi [音楽]

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関ジャムの Kroi (Kroiサイトより)

日曜日の夜は憂鬱な月曜日が間近なとき。
Rainy days and Mondays always get me down
と歌うよりも、いつものように《関ジャム》を観て明日のことを考えないようにしている。つまり《関ジャム》とは現実逃避のツールなのだ。
でも関ジャニはSUPER EIGHTになったのに、番組タイトルは 「関ジャム」 のまま。ジャニじゃなくてジャムだからOKなのか……う〜ん。

それはさておき、2024年03月10日の放送の特集はimase、原口沙輔、そしてKroi [クロイ] というゲストで、それぞれの音楽を語るという内容。いつもながら面白い。で、この番組に限らずこうしたバラエティでよく見かけるのがサッカーオタクな影山優佳。もはや元アイドルということらしいのだが、私はFMで聴いて声を知っていたのが先なので、声と顔のイメージが違うなぁと思ってしまう。

Kroiが自分たちの音楽についてこのように話すのを聴いたのは初めてなので、いろいろ発見があったり納得できたりという感じだったのだが、特に内田怜央の、歌詞ははっきりと聴き取れなくても良いという意味の発言が心に残る。つまり彼にとっての歌は一種のエフェクトであり、インストゥルメンタルであって、言葉本来の意味はその存在意義が弱い。もちろん歌詞こそが音楽の要である人もいるだろうし、それはそれで重要なことだが、内田にはラップの根源的意味とは何かという意識が常にあるのだと思う。そして彼の基本は韻を踏むことよりもリズムとしての言語であり、エフェクトとしての言葉なのだ。

現在のドメスティックなバンドの中で圧倒的にすぐれているのは King Gnu だと私は思うが、Kroi はもっとアナーキーで、といっても甲本ヒロトとは違っていて、全然見当違いなのだが髪型とサングラスから私が連想したのは早川義夫で、とりあえずアナーキーさということでは合っているのかもしれない。
そして私がいつもシンパシィを感じるロックは、ととのった美しさよりもソヴァージュでいびつな音なのだ。


Kroi/Hyper
Live from “Dig the Deep” at Zepp Haneda, 2023
https://www.youtube.com/watch?v=WyH7cexPQ98

Kroi/Fire Brain
Live from "Magnetic” at NHK HALL, 2023
https://www.youtube.com/watch?v=_ugCkii8QrY

Kroi/Balmy Life
Live from "Magnetic” at NHK HALL, 2023
https://www.youtube.com/watch?v=nKLL6mCjwtA

参考
King Gnu/硝子窓
https://www.youtube.com/watch?v=DAzN019hKhc
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