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バルナバーシュ・ケレメンの弾くバルトーク [音楽]

KelemenQ_170717.jpg
Kelemen Quartet (www.kelemenquartet.huより)

フンガロトンのBartók New Series (いわゆる新全集) は、ダークグリーンの旧全集に較べると格段の進歩があり、それはコチシュに負うところが多く、かえすがえすもコチシュの逝去が残念でならないというようなことはすでに書いた。
もうすぐ彼のオムニバス的な追悼盤が出るようだが、販売元の宣伝文では、バルトークの演奏に対するコチシュのアプローチを 「狂気と兇暴性を見せる凄みにみちてい」 ると書いていて、なんとも刺激的だ。

ただ、この新全集の全容がぼんやりと掴みにくくて、仕様がSACDだったりただのCDだったりするのは仕方が無いとして、そのパッケージには全集としての番号 (つまり本でいえば第何巻か) が振られているのだが、それが明記されている情報がどこにもなくて、いまだに買い逃している盤があったりする。緻密にサーチすればいいのだろうが、そもそも売る気があるのならもっとわかりやすく表記するべきだと思うのだ。

それでこの前、気づいて買ったのがヴァイオリン・ソナタの1番と2番、そして無伴奏の収録されているNo.15なのだが、バルトークのソナタには多くの録音があり、私はいままでテツラフのソナタを偏愛していたのだけれど、このケレメンとコチシュのを聴いてしまうとそれが簡単に揺らぐ。たぶんテクニックとか音楽の構築性とかそういうことではなくて、もっと精神的ななにかなのだと思う。それもコチシュがケレメンに及ぼしている影響があるのだろう。

でも、今回はそのソナタ盤ではなくて、つまりケレメンのヴァイオリンのバルトークに対する 「味」 みたいなのを知るのには、ヴァイオリン協奏曲第2番と2つのラプソディの入っているNo.9が適切なのだと思う。注目すべきなのはもちろんそのラプソディである。
バルナバーシュ・ケレメン (Barnabás Kelemen, 1978-) はこの新全集においてコチシュの信頼を一手に受けているが、その音はコチシュのバルトークに対する視点と非常に似通った面がある。
協奏曲とかソナタのような比較的スクエアな、言葉をかえていえば伝統的で主にドイツ音楽的な作品に比肩させようと考えるのならば、どうしてもその語法にすり寄らなければならないので、その書法もそのような制限を受けているように思える。民族的な特有の音をあらかじめ所有しているという枷をはめようとする中央ヨーロッパ語族からの偏見は、バルトークであっても武満徹であっても同様であった。だがラプソディのような作品の場合は、比較的自由に曲想を構成することができるので、そこにマジャールの、そしてロマ的な熱い思いが濃厚に入って来る。

もっとも、いたずらにマジャールとか民族的なテイストを強調すればそれは俗な音に傾きやすく、それがダメなのではないがバルトークはたぶんそうした音を目指してはいなかったはずである。バルトークがその究極としてリスペクトしていたのはバッハとベートーヴェンであるのは明白であり (つまり私にとっての3Bとはバッハ、ベートーヴェン、バルトークであり)、もっといえば一番スクエアな形式による作品群はそれらへの挑戦であった。
だがそうした曲、たとえばヴァイオリン・ソナタを聴いていても、このケレメンとコチシュのアプローチはすごい。けっして俗に堕しないが、スクエアな書法から外れるように見せかけてぎりぎりでとどまっているような方法論が見えて、それでいて音の一粒一粒が生きている。
それがラプソディの場合だと、もっと全開になってしまうので、でもそれがマジャールの、憧憬を呼ぶべき音なのだ。最も強く感じるのは――それはラプソディにあってもソナタにあっても言えるのだが、リズムの揺れでありその昂揚感である。下世話にもなりかねないアーティキュレーションであり、先の宣伝文の 「狂気と兇暴性」 とはよく言ったとあらためて感じるのだが、しかしバルトークの音は乱暴に強引に爆音で弾いたら決して得られなくなってしまう音である。その作曲者のパッショネイトな影が音の背後に存在する。

このディスクにはそれぞれの曲の異稿も収録されていて、ラプソディ第1番のフリッシュの第2稿、第2番のフリッシュ第1稿、そして協奏曲第2番の第3楽章第1稿とある。

ケレメンは2009年からクァルテットを結成して弦楽四重奏の演奏もしているようだが、wikiによれば (と書こうとしたらja.wikiにはケレメンの項目すらなかったのだが) ケレメンは、イェネー・フバイ→エデ・ザトゥレツキー→エステル・ペレーニ→ケレメンと続く系譜のなかにあり、ケレメン・クァルテットのサイトによればクァルテットの活動も続いているようだ。コンサート・スケジュールを見るとバルトークやベートーヴェンのラズモフスキーなどの曲目があり、そのクァルテットでの演奏も是非ホールで聴いてみたいものである。


Barnabás Kelemen, Zoltán Kocsis/
Bartók: Violin Concerto, Rhapsodies for Violin & Orchestra
(Hungaroton)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00L4XN5UE/
Bartok_vK&Rhapsodie.jpg

Barnabás Kelemen, Zoltán Kocsis/
Bartók: Sonatas for Violin & Piano Nos1,2; Sonata for Solo Violin
(Hungaroton)
バルトーク : ヴァイオリン・ソナタ集 (Bela Bartok : Sonatas for Violin & Piano Nos 1, 2 , Sonata for Solo Violin / Barnabas Kelemen (violin), Zoltan Kocsis (piano)) [SACD Hybrid] [輸入盤]




Kelemen & Katalin Kokas play Bartók
https://www.youtube.com/watch?v=XG7r8WJqJI8

Kelemen Quartet/Bartók: String Quartet No.5-V movement
live 2011
https://www.youtube.com/watch?v=PdmxrfQA32M
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末尾ルコ(アルベール)

わたし、バルトークを長い間ロシア出身と勘違いしていた歴史があります(とほほ)が、それはさて置き、そんなに詳しく聴いてきたわけではないですが、基本的にバルトークの音楽は大好きです。そう言えば、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルと言うベルギーにモダンバレエ振付家がバルトークの「弦楽四重奏曲第4番」で作品を作っていて、それをパリ・オペラ座バレエのダンサーたちが踊る映像をWOWOWで放送していましたが、それも素晴らしくカッコいい作品となっており、そうしたことも含めて(バルトーク、いいなあ)と、このところもずっと頭にありました。
「Kelemen & Katalin Kokas play Bartók」と「Kelemen Quartet/Bartók: String Quartet No.5-V movement live 2011」は視聴させていただきました。なにせバルトーク=ロシア出身なんてとんでもない思い込みがあったわけですから、「マジャール」というキーワードを意識して聴くと、今までと違った感覚を味わえる気がします。確かハンガリー語はフィンランド語などと同様に日本語と共通点があるのでした。ずっと以前、それを知ったとき、どこか文化的にも通じるものがあるのかな、なんて夢想したことを覚えています。
森茉莉の作品、お書きくださったコメントを拝読し、ますます読みたくなりました。「神の本最優先」というお考えにもまったく同感です。そもそも、「何でも新テクノロジー」という風潮が大嫌いなんです、わたし。

>誰か有名な人が褒めないと無名な人は認められない

これってかなり重要な問題で、古くは浮世絵なども海外で評価を得てから日本でも高級な美術品として認められた経緯がありますし、クリント・イーストウッドは米国ではずっと「単なるアクション俳優兼監督」見做されていたけれど、フランスの批評家がずっと褒め続け、ついには世界でも不世出の監督の一人として認められたとかいうこともあります。特に現代日本は、「本当にいいものを味わいたい」という人が少なくなっていますから、今後は余程気を引き締めてアンテナの感度を鋭敏にし続けねばならないなと感じています。

『「ボヴァリー夫人」 論』はホント、「読み方」もよく吟味したいなと。日本語訳と原語版とを並べて、正座して読むとか(笑)。 RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2017-07-18 01:40) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

4番に振り付けですか。それはカッコイイです。
一般的にバルトークの弦楽四重奏曲で一番完成度が高いのは
第5番だと言われていますが、どの曲にも特徴があって
ブラームスの4つの交響曲と同様に品位が高いです。
4番は有名なピチカートの楽章がありますし、
私は一番好きです。

ただ、バルトークはときとして暴力的に感じる部分があり、
それを乱暴に演奏することで表現しようとする勘違いがあるので、
バルトークを生徒にやらせるのはむずかしい、
とピアノの先生が言っていました。

ロシアの音楽とソヴィエト連邦の音楽は違うと私は考えていて、
つまりたとえばショスタコーヴィチはソヴィエトの音楽です。
でもロシアはヨーロッパに広がる民族的な音楽の源泉であり、
そうした土俗的な音楽を含めた習慣とか歴史に関与し
それらを流布したのがロマの音楽だと思います。
バッハのような西洋近代の本流のクラシック音楽は、
実は非常に技巧的で人工的な音楽に過ぎません。
それはキリスト教の流布と関連させて考える必要があります。
しかし民族的な音楽は本来もっとプリミティヴなもので
非キリスト教的でもあります。

ケレメンというヴァイオリニストは、こういったら失礼ですが、
ちょっとクラシックっぽくない風貌で野性的な印象があります。
YouTubeにはタンゴを弾いている動画があり、
全く異なるジャンルでありながらいきいきとしています。
そしてタンゴには 「ダンス (踊り)」 が不可欠ですが、
民族的なテイストを表出するのに必ず存在するのがダンスです。
ダンスはプリミティヴな喜びであると同時に
セクシュアルなイメージを伴います。

ケレメンのタンゴ:
全部観る必要はありませんが7分を過ぎたあたりから
ダンサーが加わります。
https://www.youtube.com/watch?v=j2UUgBng9YM

文化の伝播がどのように起こったのかはわかりませんが、
遠く離れた国の文化に不思議な共通点があるということは
よくありますし、それは偶然だけでは片付けられないと思います。

浮世絵もイーストウッドもそうですが、
人は身近なものに対して鈍感なんだと思います。
自分自身の目を持っていないと、評価する行為に臆病になります。
そうしたマジョリティな時代趨勢に流されていく人々と
デジタル信奉者には 「長いものには巻かれろ」 的な共通点があります。
すべてをデジタルに代替えしようとする人たちは
電子教という一種の新興宗教に毒されているのかもしれません。

山田爵はべらんめえなところがあったそうですが、
蓮實先生も映画論など読んでいるとところどころアブナかったりで、
ですから寝っ転がって読むほうがいいんです。
そのうち文庫で分冊になって出る・・・・可能性は低いでしょうが。
by lequiche (2017-07-18 03:57) 

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