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あいみょん AIMYON TOUR 2019 [音楽]

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歌詞にあらわれるセクシュアリティ、あるいはジェンダーに関する言葉の質が私にとっては重要なのではないかと気づいた。あくまで私にとってであって普遍化できるものではない。
女性歌手の歌う歌詞のなかの 「僕」 という一人称に惹かれたきっかけは浜崎あゆみの〈Fly high〉だったが、それは性の未完成さ、あるいは不安定さのひとつのあらわれという解釈もできるのだけれど、でもそれだけでは納得できない不純さが歌詞という形態には存在する。それがきれいな言葉で形容するのなら歌詞というものの不思議さなのだと思う。

浜崎あゆみのもうひとつのキーとなる曲に〈Moments〉があるのだが、過去の私にはまだ〈Fly high〉と〈Moments〉というふたつの曲の差異がわかっていなかった。それを的確な言葉にすることができないのだが、簡単にいえば〈Moments〉はずっと爛熟で頽廃である。あるいは〈Fly high〉にはMVのヴィジュアルを別にしても少女マンガ的少年性が垣間見えるが〈Moments〉にはそれがない (Fly high とそれに付随することについてはすでに過去に書いた→2018年03月18日ブログ)。
しかし私は 「僕」 という一人称にこだわり過ぎていたのかもしれない。あるいは過反応していたのかもしれなかった。あのちゃんが自分を指すときの 「僕」 はジェンダーを意識させない 「僕」 だし、ヒコロヒーの使う 「わし」 は最初、違和感があったがすぐに慣れた (それに「わし」 は男性の一人称とは限らないことを後から知った)。

そして、あいみょんも作詞のなかに 「僕」 を使う。別にあいみょんだけでなく、他の歌手だって使うのだが、そして性の越境は日本の演歌歌詞ではごく日常的でさえあるのだけれど、あいみょんの場合、特に有名曲にこの 「僕」 頻度が高いような気がする。たとえば〈君はロックを聴かない〉がそうだし〈空の青さを知る人よ〉も〈ハルノヒ〉もそうだ。〈マリーゴールド〉には 「僕」 は使われていないが、あきらかに男性の心情を綴った歌詞である。
だからといって、あいみょんは性倒錯ではないし同性愛とも思えない。つまり作詞というストーリーの中での 「男性」 性でしかない。それに何よりも 「僕」 という人称を使っている違和感がなくて、初めて聴いてしばらく経ってから私はそれに気づいたのである。それは近年のジェンダーに対する一般的意識の変化などが原因ではなくて、歌詞というものに対するあいみょんのストーリーテリングの巧みさなのだと思う。
それとこれは極私的嗜好なのだが、歌詞のなかに具体的な地名が出てくることに惹かれる。〈ハルノヒ〉の 「北千住駅のプラットホーム」 がそうだ。RCサクセションの 「多摩蘭坂を登り切る 手前の坂の」 もそうだし、山崎まさよしの〈One more time one more chance〉の歌詞の 「明け方の街 桜木町で」 も同様である。

あいみょんのライヴ映像のなかで私が好きなのは、少し古いのだが《AIMYON TOUR 2019 −SIXTH SENSE STORY− IN YOKOHAMA ARENA》だ。
それの1年前の 「TOKYO GUITAR JAMBOREE 2018」 におけるライヴ映像もYouTubeにあるが、ギターもJ-45でなくトリプル・オーで、まだ初々しく真摯な歌唱でこれはこれで好きなのだが、1年経った後の確信に満ちた歌唱を観ると、こんなに進歩してしまうのかと驚く。
どの曲もキャッチーなメロディライン、それはリスナーが歌おうとしても決してむずかしくなく、それでいて安直なつくりでもない。このライヴの満足感と充実感にはすでに一種の風格が感じられるのだ。


AIMYON TOUR 2019 −SIXTH SENSE STORY− IN YOKOHAMA ARENA
あいみょん/今夜このまま
https://www.youtube.com/watch?v=V6RTQmohrMA

あいみょん/ハルノヒ
https://www.youtube.com/watch?v=MgY-OY3RjUM

あいみょん/空の青さを知る人よ
https://www.youtube.com/watch?v=nGY19DwskCg

あいみょん/君はロックを聴かない
https://www.youtube.com/watch?v=cJnO-Y_YnFg

TOKYO GUITAR JAMBOREE 2018
あいみょん/満月の夜なら
https://www.youtube.com/watch?v=eJhy3HjspEo

[参考]
浜崎あゆみ/Fly high (MV)
https://www.youtube.com/watch?v=2zTG-uhGKbo
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パレ・デ・コングレ・ドゥ・リエージュのエリック・ドルフィー [音楽]

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Eric Dolphy

1964年のチャールズ・ミンガスとの過酷なツアーにおけるエリック・ドルフィーの動画を観ていた。ベルギーのパレ・デ・コングレ・ドゥ・リエージュにおけるミンガス・クインテットの演奏で Recorded for belgian TV show “Jazz pour tous” と注記されている。カメラのポジションが固定されていて、メンバー全員の映るショットがないのが残念だが、演奏はステージにおける狂躁的なミンガスとはやや異なっていて、しかしまだ若いミンガスの精悍なリーダーシップがうかがわれる記録である。

1964年はドルフィーの最後の年であるが、まず煩雑だがセッショングラフィを見てみよう (フランス語のアクサンなど付いていないがそのままコピペする)。

John Lewis 6 NYC, Jan. 10, 1964
New York Philharmonic Young People's Concert Philharmonic Hall, Lincoln Center, NYC, Feb. 8, 1964
Eric Dolphy 5 VGS, Englewood Cliffs, NJ, Feb. 25, 1964
Eric Dolphy 4 University Of Michigan, Ann Arbor, MI, Mar. 1 or 2, 1964
Eric Dolphy 4 WUOM Studios, Ann Arbor, MI, Mar. 2, 1964
Charles Mingus 6 Cornell University, Ithaca, NY, Mar. 18, 1964*
Andrew Hill 6 VGS, Englewood Cliffs, NJ, Mar. 21, 1964
Charles Mingus 6 Town Hall, NYC, Apr. 4, 1964**
Gil Evans Orch. Webster Hall, NYC, Apr. 6, 1964
Charles Mingus 6 Concertgebouw, Amsterdam, Holland, Apr. 10, 1964
Charles Mingus 6 University Aula, Oslo, Norway, Apr. 12, 1964
Charles Mingus 6 Konserthuset, Stockholm, Sweden, Apr. 13, 1964
Charles Mingus 6 Stockholm, Sweden, Apr. 13, 1964
Charles Mingus 6 Odd Fellow Palaeet, Stor Sal, Copenhagen, Denmark, Apr. 14, 1964
Charles Mingus 6 Bremen, W. Germany, Apr. 16, 1964
Charles Mingus 6 Salle Wagram, Paris, France, Apr. 17, 1964***
Charles Mingus 5 Theatre Des Champs-Elysees, Paris, France, Apr. 18, 1964****
Charles Mingus 5 Palais Des Congres, Liege, Belgium, Apr. 19, 1964
Charles Mingus 5 Bologna, Italy, Apr. 24, 1964
Charles Mingus 5 Wuppertal Townhall, Wuppertal, W. Germany, Apr. 26, 1964*****
Charles Mingus 5 Mozart-Saal/Liederhalle, Stuttgart, W. Germany, Apr. 28, 1964
Daniel Humair 4 Paris, France, May 28, 1964
Eric Dolphy 4 Cafe De Kroon, Eindhoven, Holland, June 1, 1964
Eric Dolphy 4 Hilversum, Holland, June 2, 1964
Eric Dolphy 7 Paris, France, June 11, 1964

このリストに拠ればヨーロッパでのミンガス・グループのツアーは4月10日の Concertgebouw から4月28日の Mozart-Saal までである。しかしその前に4月4日のニューヨークのタウン・ホールにおけるライヴもある。ベルギーの Palais Des Congres, Liege は4月19日となっているが、アルバムとして残されているライヴ録音に Théâtre des Champs-Élysées, Paris における《The Great Concert of Charles Mingus》があり、en.wikiには Recorded April 19, 1964 と表記されている。しかしセッショングラフィには18日とある。
これはなぜなのか、と思ったのだがde.wikiにその理由が書かれていた。

Am nächsten Tag folgte ein weiterer Auftritt in Paris, wo die Gruppe als Quintett auftrat. Das zweite Konzert fand am 18. April (genauer sehr früh am 19. April, nämlich von 0.10 bis 2.45), diesmal im “Theatre des Champs Elysées”, statt. Es wurde live vom ORTF- übertragen.

つまりシャンゼリゼでのライヴは18日の深夜、0時10分から始まっているので、カレンダー的には19日なのだ。深夜のライヴが終わって、その日のうちにベルギーに行き、パレ・デ・コングレで録音されたのが今回のターゲットとしている演奏である。このスケジュールは過酷過ぎて、音楽がやや沈潜しているような印象を受けた原因はそこにあるのかもしれない。セッショングラフィを見ると、この日からセプテットがクインテットに変わっているが、それはジョニー・コールズがダウンして抜けてしまったからである。
曲目は〈So long, Eric〉〈Peggy’s Blue Skylight〉〈Meditations〉の3曲だが、特に3曲目の〈Meditations〉は後半が現代音楽的になっていて、疲れているのかなとも思ってしまう。ドルフィーはフルートとバスクラを持ち替えていて、どちらもすごいが、クリフォード・ジョーダンのテナーもよく拮抗しているように聞こえる。

ドルフィーのリーダー・アルバムでいうのならニュージャージーのヴァン・ゲルダー・スタジオにおける《Out to Lunch!》のレコーディングが2月25日、そしてその後はオランダのヒルヴェルサムで録られた《Last Date》の6月2日なのである。この2枚のアルバムの間のミンガスとのツアーは音楽的には高度に充実していたのかもしれないが、同時にストレスも大きかったのだろうと思われる。

《Last Date》に残されているドルフィーの最後の言葉:

 When you hear music after it’s over, it’s gone in the air, you can
 never capture it again.
 音楽は終わってしまえば消えてしまい、二度ととらえることはできない

は諦念なのか、それとも単に物理的な現象を語ったことに過ぎないのか、私はたぶん後者だと思っているのだが、でも消えてしまわずに残っている〈You Don’t Know What Love Is〉は彼岸からの声のように聞こえて、今、あらためて再生することはあまりない。

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Charles Mingus & Eric Dolphy,
Palais des Congrès de Liège, Belgium, April 19th, 1964
Recorded for belgian TV show “Jazz pour tous”.
https://www.youtube.com/watch?v=03NX_EjGijM

[参考]
1964年のミンガス・グループのツアーのライヴ演奏がアルバム化されているのは下記の通りである。*印は上記のセッショングラフィに対応している。
* March 18, 1964: Cornell 1964 (Blue Note)
** April 4, 1964: Town Hall Concert (Jazz Workshop JWS 005)
*** April 17, 1964: Charles Mingus/Revenge! (Revenge 32002)
**** April 18 (19), 1964: The Great Concert of Charles Mingus (America)
***** April 26, 1964: Mingus in Europe Volume I (Enja 3049)
***** April 26, 1964: Mingus in Europe Volume II (Enja 3077)
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ユジャ・ワンの弾く〈You Come Here Often?〉 [音楽]

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Yuja Wang

前ブログに書いたユジャ・ワンのアルバム《The American Project》のことだが、このアルバムはテディ・エイブラムスが彼女のために書いたピアノ・コンチェルトでそのほとんどのトラックが占められているし、グラミーの受賞式にあらわれたのもエイブラムスであったから、ユジャ・ワンとエイブラムスによるアルバムといってもよいのだが、トラック1にコンチェルトの前哨のようにして入れられたマイケル・ティルソン・トーマスの〈You Come Here Often?〉が重要な意味を持っているように思える。

マイケル・ティルソン・トーマス (Michael Tilson Thomas, 1944−) はユジャ・ワン (Yuja Wang, 1987−) にとってもテディ・エイブラムス (Teddy Abrams, 1987−) にとってもレジェンドであり、現代的でありながらどこかに古き良きアメリカを引きずっているような風合いがある。
この曲〈You Come Here Often?〉はユジャ・ワンがアンコールなどでよく弾くプロコフィエフの技巧的な小曲のようでありながら、斬新な構築性に見えるプロコフィエフのある弱点を凌駕している点で、さすがに彼女宛に書かれた作品であることを見事に証明している。後半の左手の動きが秀逸である。
どちらかといえばプロコフィエフ的な系列の作品なのだが、緩急の配置のバランスが飽きさせない魅力となっている。短い曲なのに内容は濃密だ。
動画はマイケル・ティルソン・トーマスが7日前に自身のチャンネルに上げたものである。

古き良きアメリカというのは、全然見当外れな比喩なのかもしれないが、たとえばドヴォルザークの《アメリカ》に聴かれるような、少し感傷的でやや通俗な、尾鰭のついたキャディラックの走る夜の高速道路に流れる光のような翳りなく輝く全盛期の印象のアメリカであって、私はそれを巖本真理SQの演奏で初めて知った。そうした懐かしさのような、リリカルで、ある意味センチメンタルな遠い記憶はいつまでも褪せることがない。

ユジャ・ワンは特にアンコールを弾くとき、ともすると曲芸的でスピード一番なテクニック至上主義の曲を選ぶことが多かったが、それが次第にそうではなくなってきたのは、たぶんクライスレリアーナの頃からだったのではないかと私は感じている。以前の記事に書いたヴェルビエ・フェスティヴァルのことである (→2023年05月21日ブログ)。

今回、YouTubeで見つけたのはスウェーデンのイェーテボリ交響楽団の本拠地における2021年9月9日のライヴ映像である。
この日のメインとなったコンチェルトはリストの第1番であったが (指揮は首席コンダクターであるサントゥ=マティアス・ロウヴァリ)、そのアンコールで弾かれたのがグルックの〈Melodie from “Orfeo ed Euridice”〉とメンデルスゾーンの〈無言歌集 Allegro leggiero, fis-moll, op.67-2〉である。
どちらもごく穏やかで、そして悲しみをたたえた曲であるが、この儚さが音となるとき、世の中の諍いのもととなっているあまたの悪辣なものや人のことなどがどうでもよくなってしまうようなむなしさを覚えるのはどうしてなのだろうか、と私は思う。


Yuja Wang/The American Project
(Deutsche Grammophon)
輸入盤 YUJA WANG/TEDDY ABRAMS/LOUISVILLE ORCHESTRA / AMERICAN PROJECT [CD]





Yuja Wang/Michael Tilson Thomas: You Come Here Often?
https://www.youtube.com/watch?v=MK3sbDCMTcQ

Yuja Wang/Gluck: Melodie from “Orfeo ed Euridice”
(グルック/オルフェオとエウリディーチェ)
Santtu-Matias Rouvali, Gothenburg Symphony Orchestra
Göteborgs Konserthus, Sep 9, 2021
https://www.youtube.com/watch?v=kGkz0Oj4YCo

Yuja Wang/Mendelssohn: Songs without Words
Allegro leggiero, fis-moll, op.67-2
(アレグロ・レジェーロ [失われた幻影])
同上
https://www.youtube.com/watch?v=PF-oEvh6qD4
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〈弦楽のためのレクイエム〉 [音楽]

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Seiji Ozawa and Herbert von Karajan

ユジャ・ワンが2024年のグラミー賞をとったことは喜ばしくもあるが、その対象がアルバム《The American Project》だと聞くと、アメリカの限界というものも薄々感じる。圧倒的にすぐれているのはラフマニノフかプロコフィエフだと思うからだ。
だが、それよりもずっと悲しいニュースに遭遇して永遠に続くかもしれない暗い雪の日々というのはあるものなのか、とふと思う。ここ数年ずっと、私の心のなかは毎日が暗い雪の日々だ。

昔、まだ高校生の頃、割引で買えるレコードショップを知っている友人がいて、数えるほどしかレコードを持っていなかった私がそのツテで手に入れたレコードの1枚にフォーレのレクイエムがあった。もちろんクリュイタンスである。
なぜレクイエムなのかが今となってはわからないのだが、きっとオーソドクスなパターンで交響曲などに入れ込むのを避けたのかもしれない。レクイエムならフォーレかモーツァルトだという思い込みがあるのだけれど、でもフォーレは音が澄み過ぎていて、モーツァルトは彼自身の姿が感じられ過ぎていて、今の悲しみには合わないような気がする。

〈弦楽のためのレクイエム〉(1957) は武満徹の初期の代表的作品と今は言われるが、彼は早世した早坂文雄のために、またその頃、健康的に不安のあった自分自身にも向けて、その曲を書いたのだという。
初演は不評だったと聞くし、武満自身も情緒的過ぎて構造性に欠けるというようなコメントをこの作品に対して残しているようだが、情緒が計算ずくでなく自然に流れ出たところが、いつまでも変わらない清新な印象を持ち続けているように思える。むしろ音楽は構造でなく情動なのだ。

小澤征爾がこの曲を振った動画を観ることができるが、それは1990年11月6日の東京文化会館におけるライヴで、今や〈弦楽のためのレクイエム〉は人気曲だからあまたの演奏があるが、このときの小澤の指揮にまさるものはおそらく無い。
極弱音から入る冒頭のニュアンスが絶妙だ。小澤は両手を合わせ祈るようにしてから指揮棒を持たない両腕で音を紡ぎ出すが、この音の感触はこのライヴの演奏でしか聞くことができない。そしてこの冒頭の和音の鳴り方は一瞬、マーラーのアダージェットを連想させるのだが、指揮者によってはそのような音は聞こえない。つまり各楽器間のバランスの違いにもよるのだろう。

作曲家本人が不満足であろうとも、この曲はある種の特別な意味合いを持って成立しているような気がする。それは死者に対する思いであり、自らの不安感であり、そして人は必ず死ぬという無常観である。
そうした特別な曲を完璧に仕上げたマエストロが、今、そうした曲をおくられてしまう立場になってしまったのだ。小澤が師と仰いだのはカラヤンとバーンスタインとミュンシュ、こんな人は他にいない。

ブリュノ・シッシュの映画《ふたりのマエストロ》は指揮者の親子のストーリーだが、そのなかにスカラ座でジュリオ・カッチーニ (正確にはウラディーミル・ヴァヴィロフ) の〈アヴェ・マリア〉を振る小澤がモニターのなかに映るシーンがある。ほんの数秒なのにリアリティを高めるその効果は絶大だ。
小澤征爾は2002年、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートに招かれた。恒例の〈美しく青きドナウ〉が始まる前に、楽員たちが新年の挨拶を幾つもの言語で述べたシーンは、とても心があたたまる美しいときだった。このときの演奏曲リストを見ると、ヨーゼフ・シュトラウスの選曲が多いことに気付く。私の偏愛するウィンナ・ワルツはヨーゼフなので、小澤、わかってるなぁと思うのだ。


小澤征爾&新日本フィルハーモニー/
武満徹:弦楽のためのレクイエム
1990年11月6日・東京文化会館
https://www.youtube.com/watch?v=uHfa1uCAmAA

小澤征爾&ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/
ヨハン・シュトラウスII:美しく青きドナウ
2002年ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート
https://www.youtube.com/watch?v=VJZaElpTC7M

ブリュノ・シッシュ/ふたりのマエストロ・本編映像
スカラ座で指揮する小澤征爾の映像
https://www.youtube.com/watch?v=C16Kg6Q2hak
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shela〈Dear my friends〉 [音楽]

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shela

偶然、shelaのYouTubeチャンネルを見つけた。shelaは1999年頃から2005年くらいにかけて活動していたavexの歌手だが、アルバムは2枚しかない。そして2005年に2種類のsingle collectionというベスト・アルバムが出たのだが、これは 「これでおしまい」 というavexからの残酷なサインだと理解していた。そしてたぶんその通りだったのだろう。

最初に何枚もの色に関したタイトル曲のシングルが続いていて、それは White, RED, purple, orange と続き、アルバムリリースの直前に sepia というシングルが出たのだが、それらを収録したアルバムタイトルは《COLORLESS》だった。この逆説的ネーミングにしびれた。
そしてあの頃、私が延々と繰り返し聴いていたJ-popのアルバムは宇多田ヒカルの《First Love》、Sugar Soulの《on》、そしてこのshelaの《COLORLESS》だったことを思い出す。

それから20年近くの時を経て、再びshelaの歌唱を聴くことができるとは思わなかった。〈Days〉〈Dear my friends〉〈月と太陽〉の3曲がオフィシャルとしてupされているが、1年前の歌唱である。全く歌っていなかったわけではないとはいえ、20年前と変わらないこの歌唱はすごい。〈Dear my friends〉はそのしつらえがソニーミュージックのThe First Takeを連想させるが、もちろんファーストテイクではないだろう。
その昨年の〈Dear my friends〉と、約20年前のMVである〈Love Again〉〈friends〉の2曲、そして〈Dear my friends〉のオリジナルを下記にリンクしておく。


shela/COLORLESS (エイベックス・トラックス)
COLORLESS




shela/Dear my friends
https://www.youtube.com/watch?v=iPKxppaVXFU

shela/Love Again ~永遠の世界 (Music Video)
https://www.youtube.com/watch?v=v9VGFLASCEo

shela/friends (Music Video)
https://www.youtube.com/watch?v=-VhPYI1Ck6U

shela/Dear my friends (オリジナル・2005年)
https://www.youtube.com/watch?v=E_VyUtdtnwQ
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YouTobe: shela official
https://www.youtube.com/@shelaofficial6155

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川野芽生『Blue』 [本]

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川野芽生

Blueは刺青の青であり、海の色の青であり、哀しい歌の色であり、憂鬱の色である。
川野芽生の小説『Blue』はこれまでに発表されたなかで一番わかりやすい作品といってよいだろう。山尾悠子的な幻想文学を期待していた者にとっては 「えっ? こういうのも書いちゃうの?」 という意外性を少し感じた (落ち着いて考えれば意外ではないのだが)。私は川野の歌集『Lilith』が好きなのだが、短歌は読者層も限定的だし、たとえば塚本邦雄の作品のような伝統的表現から離れた表現とその技法を知らないとわかりにくいという一面がある。その点、小説ならとりあえず物語だから。

ストーリーは高校の演劇部で、アンデルセンの『人魚姫』を題材にアレンジした演劇を上演する/上演したという話が骨子となっているが、人魚姫やアンデルセンに内在している種々のヴァリエーションあるいはメタファーが現実の話に重なってくる。人魚姫が脚を獲得するという行為について 「脚っていうのは性的な含意を持たされやすい部位で」 あること。また、アンデルセンは同性愛者もしくは両性愛者だったことなど (p.31)。

基本的な登場人物は樹 [いつき]、ひかり、夏穂、瑠美、真砂の5人。前の4人は女性、真砂はTGであるが、SRSをしようとして結局挫折してしまう (保険診療ができるように見せかけて、実は保険外にしかならない現実の医療体制の矛盾が語られている)。瑠美は高身長で、背が低く作家先生と呼ばれているひかりに思いを寄せているが成就しない。わざと中途半端な状態のままを維持しているようにも見える。つまりLGBT的な関係性を包含している仲間たちである。

印象的な個所は幾つもあるが、たとえばバリー・ジェンキンスの映画《ムーンライト》からの言葉、

 In moonlight, black boys look blue. You blue.
 That’s what I’m gone call you: Blue.

は真砂が観た映画の記憶として唐突に出てくるのだが (p.99) 「黒人の少年は月明かりでは青く見える」 という表現は詩的でありながら単純にその美しさだけにはとどまらない。つまりこの映画作品で描かれている差別や性的な感情といった根本的なテーマが、一見、黒人差別などとは全くかけはなれているように思える自分たちの関係性にアナロジーとして投影されるのだ (ちなみに同映画のニコラス・ブリテルの音楽は素晴らしい)。

そんなことなどやりそうにないと思われていたようなひかりが自分の身体にある刺青を披露する場面、

 そう言いながら、滝上は首を傾けてタトゥーを見せた。
 「自分の体に加工を施すことによって、ようやく自分のものと感じられ
 るようになっていく、っていう感覚があるのだけれど」 (p.121)

という感覚は、金原ひとみが『蛇にピアス』で書いたのと同じだ。

真砂は本来の名前は正雄だったのだが、TG的性向から真砂という通称名にしたけれど、状況は悪くなるばかりで眞靑という名にさらに変更することを余儀なくされる。そして眞靑@blue_moon_lightとして呟く。
やってきたことは無になってしまったのかもしれない。何も起こらなかったし、起こったことは何にも帰依しなかったのかもしれない。すべては失われていたのかもしれないし、何も変わっていなかったのかもしれない。それは微かな痛みだ。それすらも幻想にしか過ぎなかったのかもしれない。


川野芽生/Blue (集英社)
Blue

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ジョニ・ミッチェル〈Blue〉 [音楽]

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Joni Mitchell

ジョニ・ミッチェルの《Blue》は1971年にリリースされた4thアルバムだが、最初の3枚のアルバム《Song to a Seagull》(邦題:ジョニ・ミッチェル/1968)、《Clouds》(青春の光と影/1969)、《Ladies of the Canyon》(レディズ・オブ・ザ・キャニオン/1970) とはやや一線を画すアルバムであり、Repriseレーベルにおける最後のアルバムでもある。そして〈Blue〉はLPのA面5曲目に収められたアルバム・タイトル曲である。
彼女の作品の中で評価の高いアルバムの1枚といってよい。

〈Blue〉はその歌詞に特徴があり、作られた当時の時代性を如実にあらわしている。
冒頭の歌詞、

 Blue songs are like tattoos

が、いきなり衝撃的である。
歌詞全体はBlueという名前 (愛称?) の男に宛てて語られている体裁をとっているが 「ブルーの歌はタトゥーのようだ」 というタトゥーとは刺青のことであり、他にも歌詞の中に酒やドラッグなどに関連する言葉が頻出する。ジミ・ヘンドリックスもジャニス・ジョプリンも1970年に早世した。《Blue》はその翌年のアルバムであり、時代は頽廃のアイテムに満ちていた。

 Hey Blue,
 There is a song for you
 Ink on a pin
 Under neath the skin
 An empty space to fill in

「インク」 「ピン」 「肌の下」 「空いているスペース」 といった言葉から連想されるのは刺青を入れる前の準備過程だ。

 Well there’s so many sinking now
 You’ve got to keep thinking
 You can make it through these waves
 Acid, booze, and ass
 Needles, guns, and grass

「sinking」 と 「thinking」、「Acid」 と 「ass」 で韻を踏んでいるが、そんなことはどうでもよくて、「booze」 「needles」 「grass」 といった単語が羅列されるのに注目する。「booze」 は酒のことであるが、「needles」 は針といっても注射針、つまりドラッグを打つための針であり、同時にレコードプレイヤーの針をも連想させる。そして 「grass」 は単なる草ではなく、マリファナの隠語である。だから日本語訳するなら 「葉っぱ」 である (ガラスと訳していたサイトがあった。ええと……)。

最後のほうに出てくる 「A foggy lullaby」 という言葉の唐突さが、やや謎だ。
ジョニの周囲にいた酒浸りやドラッグ漬けになった人々を憂う歌であり、それが lullaby なのだろうと読むこともできる。

シンディ・ローパーがジョニ・ミッチェルへのトリビュートとして歌ったヴァージョンも心に沁みる。チェロとミュート・トランペット。このトランペットの音色はどこかで聞いた曲を連想するのだが、何だったのか思い出せない。
このシンディ・ローパーの歌唱は Gershwin Prize 2023 でのものだが、ジョニ・ミッチェルの登壇の様子もリンクしておく。


Joni Mitchell/Blue
Live, 1974
https://www.youtube.com/watch?v=CaZFfjpCPfw

Cyndi Lauper/Blue
Live at the Gershwin Prize, Tribute to Joni Mitchell
https://www.youtube.com/watch?v=c_VrzLuy2WY

Joni Mitchell Accepts the Gershwin Prize | PBS
https://www.youtube.com/watch?v=kf6SQA909IU

Joni Mitchell/Blue
Full Album [Official Video]
https://www.youtube.com/watch?v=MvR7Dkg4NQU
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