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ヴィヴィアン・ウエストウッドを悼む [ファッション]

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ヴィヴィアン・ウエストウッド
(2022年03月05日/AFPBBNews 2022.12.30より)

年末に入ってきた悲報は衝撃だった。彼女は魔女だから800年くらい生きると思っていたから。
追悼記事の中では、ele-kingのサイトで元日に公開された三田格の文章が心に残った。ロンドンでの忌野清志郎の撮影の話。パンクからニューロマンティクスへとそのデザインを変化させていったが、その思想性は終始パンクから離れることはなかったこと。マルコム・マクラーレンのこと、そしてアンドレアス・クロンターラーのこと。
最後に三田格は次のように書く。

 ヴィヴィアン・ウエストウッドの真骨頂はやはり力が漲るデザイン力で
 あり、無為自然という意味でのアナーキズムではなく、大胆に布をカッ
 トするように制度として立ちはだかる壁を突破しようとする実行力に直
 結させたことだと思うから。

六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーにおける展覧会で、彼女の特異な、しかし魅力的な作品を見ることができたのは幸運だった。パンクは彼女の初期情動であり、ニューロマンティクスは過去への回帰のようにみえて実は大いなるパロディでもある。
今回、幾つかの記事を読んでいて、ゴールドレーベルは実質的にクロンターラーのアイデアであることを知った。だが、古風なラインを見せていながら常にエキセントリックで、ひと目でヴィヴィアンのものとわかる派手さ・斬新さはヴィヴィアンから生まれたものに違いない。

すでに衰退してしまった某巨大SNSがまだ健在だった頃、そのヴィヴィアン・ウエストウッドのコミュニティでの話題がアクセサリーばかりだったのを揶揄したことがある。アクセサリーはあくまで付属品なのだから、服そのものを語るのが本筋のはずだが、原因のひとつとしてあまりに服が高価なこと、そしてサイズがむずかしいことがきっとあったのだろうと今では思う。アクセサリーなら、とりあえずサイズの心配はあまり存在しないから。
しかも服は、たとえプレタポルテのレッドレーベルであっても、ライセンス製品は所詮ライセンスでしかなかったように思う。ライセンスの縫製は平面的で本国版のような立体感とはほど遠い。むしろ、過去作品の再生産であったアングロマニアのほうが、ときとして面白いものが出ていたようだったと振り返ってみる。
だが、こうしたこともすでに過去の記憶で、曖昧で不確かな彼方の思い出に過ぎない。

ヴィヴィアンのあるショップで、非常に詳しい店員さんがいた。着ている服はもちろんヴィヴィアンだがそのコーデが尋常ではなく、あぁこうやって合わせるんだと感心するくらい優れていた。なによりその言葉が、まるで本家ヴィヴィアンを代弁しているような示唆に満ちたお勧めをするのだった。そうした店員さんはヴィヴィアンに限らずどこのショップでも滅多にいないが、全くいないわけではない。そのような巡り合わせもまたファッションの醍醐味である。だから、常套句的な必殺のオススメワードとしての 「最後の1点です」 には 「その勧め方は0点です」 と切り返すのが正しい。

ニューロマンティクスとは作り上げられた偽のウエストラインであり、奇矯なデザインでその肉体の本質を隠そうとするための、一種のブラフである。それゆえにヴィヴィアンは、着る人自体の思考の姿勢を変えてしまう。それは服に絡め取られてしまいかねない危険であり、人は強い意志で服に対抗しなければならない。ファッションとはそうした危険を内在するパワーを持ったものであり、だからそうした力を持たないファッションデザインをファッションとは呼ばない。

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Andreas Kronthaler for Vivienne Westwood
(2022SS/Fashion Pressより)

R.I.P. Vivienne Westwood/三田格
https://www.ele-king.net/news/rip/009026/


ヴィヴィアン・ウエストウッド、イアン・ケリー/
ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝 (DU BOOKS)
VIVIENNE WESTWOOD ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝

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ジェニー・ビーヴァンのクルエラ [ファッション]

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このところ、夏菜の初音ミク・コスプレが話題だが、『装苑』7月号の特集は 「妄想・空想 自己実現のためのイマジネーション」 となっていて、まさにコスプレ特集的な色合いである。
この暗い時代の中で、それぞれに異なる色彩で楽しいのだが、目を惹いたのはディズニー映画の《クルエラ》に関する記事である。

プロモーションには 「ディズニー史上最も悪名高きヴィラン “クルエラ” の誕生秘話をスタイリッシュに描き出す、衝撃のパンクロック・エンターテイメント!」 と書かれていて、冷静に考えるとよくわからないところがまさにスタイリッシュだ。ディズニーの1961年アニメ《101匹わんちゃん大行進》の登場人物のひとり、クルエラにスポットを当てた実写版であり、サイド・ストーリーといえる。

映画の衣裳を担当したのはジェニー・ビーヴァンである。映画の衣裳と通常のファッションとはあくまでも異なるが、バロネスとクルエラという正と悪の対比がそのファッションとしてそのまま現れていて強固なインプレッションとなる。ここに描かれているファッション自体は架空のものでしかないのだが、たとえば《プラダを着た悪魔》などよりも結果としてもっと直接的なファッションとしての顕示なのではないだろうか。

VOGUEサイトの2021年5月17日からあらすじを引用すると、

 舞台はパンクムーヴメントが吹き荒れる1970年代のロンドン。ファッ
 ションデザイナーを目指すエステラ (エマ・ストーン) は、業界の大物
 であるバロネス・フォン・ヘルマン (エマ・トンプソン) の目に止まる。
 この2人の出会いをきっかけにさまざまな事件が起こり、少女エステラ
 は冷酷なクルエラへと変貌していく。それに伴い、エステラのファッシ
 ョンも、控えめなアンサンブルから血のように真っ赤なボールガウン、
 スパンコールを散りばめたモトクロスパンツ、豪華なミリタリージャケ
 ット、手縫いの花びらが散りばめられた裾たなびくスカートへと変化。
 彼女にとってファッションは、バロネスの存在に影を落とし、体制に挑
 戦するための武器となるのだ。

『装苑』の記事の中でビーヴァンは、ヴィヴィアン・ウエストウッドの影響を強く受けていて、それは70年代のパンクでありアヴァンギャルドで最も先鋭なファッションであったというニュアンスである。またジョン・ガリアーノや、歌手のニナ・ハーゲンからインスピレーションを受けたとも述べている。
だがVOGUEの記事によれば、その70年代にビーヴァン自身が着ていた服は、たぶん憧れはあったのだろうがとてもヴィヴィアン・ウエストウッドを買う余裕などなく、それほどエキサイティングなものではなかったが、ウェッジヒールのブーツ、軍物やバイカーの古いジャケットを買って、それらを全く違うアイテムと合わせてみたりしていたと回想する。
クルエラの軍服のようなジャケットと巨大な真紅のラッフルスカートは、そうした異質なアイテムを強引に合わせるコーディネートの肥大したイメージの再現というふうに捉えることができる。
まだ若く貧しい頃のクルエラは古着を着ていたに違いないと考え、大量の古着をセレクトしてエマ・ストーンにフィッティングさせたという。結果としてそれらの古着を実際の衣裳として使用することはなかったというが、時代を表現するのに有効な試行であったと見るべきだろう。

クルエラのアヴァンギャルドさに対比されるのがバロネスのファッションで、バロネスは正統的で優れたデザイナーではあるけれど、すでに最盛期を過ぎていて古いということを念頭にしてビーヴァンはそのデザインを設定している。そしてそうした王道ファッションとしてディオールやバレンシアガを参考にしたとも述べている。
その新しいものと古いものの対比は色彩にもあらわれていて、クルエラのカラーは黒、白、グレー、そして赤であり、対するバロネスのカラーはブラウンとゴールドを多く使用したという。

こうした対比の前に、アニメ本来のダルメシアンに関するこだわりは低くなってしまっているが、メイクなどを含めてのクルエラという性格の造形にファッションの影響が強くあらわれていて、単なるヴィランのストーリーということでなく、むしろアヴァンギャルドな志向がまだ健全だった時代を振り返っているかのようにも思えてしまう。だがファッションとは振り返ることではない。懐古は死であり、川久保玲も言っていたが、たかが疫禍の蔓延程度のことに屈してしまってはならない。
ファッションとはその人の存在理由の証明であり、したがって今年の流行スタイルとか今年の流行色といったようなトレンドへの最大公約数的追従はファッションの思想とは相反するものなのである。

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装苑 2021年7月号 (文化出版局)
装苑 2021年 7月号 (雑誌)




映画《クルエラ》特報【悪名高きヴィラン誕生編】
https://www.youtube.com/watch?v=avXMOY9Nri0

映画《クルエラ》のファッション
https://www.youtube.com/watch?v=78Ny-tCZz4w
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Marcia funebre ― アズディン・アライア [ファッション]

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Alaia.fr/より

シューリヒトのEMI盤のベートーヴェン全集のことを以前に書いたが (→2017年07月29日ブログ)、結局ワーナーの廉価盤で聴いている。シューリヒトのベートーヴェンは、ときとして颯爽としたスピード感が、さっと通り過ぎるように思えていたときもあったのだが、それは違うのだ。この清新で品格のある音はぼんやりと聴いているとまるで水の流れのように何でもなく流れて行く。その水の流れがここちよい。ウィーン・フィルでなくパリ管という選択がこの透明な美しさの一因なのかもしれないと思ったりする。

第2番の端正さをあらためて見直してしまったり、木管の美しさにうっとりしたりするのだが、でも今日の気分は第3番なのかもしれないと思ったりする。フーガになるところはベートーヴェンとシューリヒトが二重写しになって迫ってきて、他に何もいらないような気がしてしまう。
音楽が、必ずしも歴史とともに進歩しているのかどうかはわからない。それは音楽にかかわらずそうで、人間の歴史が時の経過により進歩しているかどうかというのも怪しいものだ。科学技術の進歩というのは人類の歴史というフィールドのごく一部の領域にしか過ぎず、それだけで全てをおしはかることはできない。すでにピークを過ぎてしまった領域が厳然として存在する。

アズディン・アライア (Azzedine Alaïa) はチュニジアのチュニス生まれのファッション・デザイナーであるが、ことあるごとにボディコンの創始者という形容でしか日本のメディアでは扱われてこなかった。しかしバブル期の頃の日本で流行したというボディコンは無自覚な消耗品としての生産形態のひとつに過ぎず、端的にいうならばファッション以前であり、アライアの提唱したボディ・コンシャスとは別物である。

アライアはクリスチャン・ディオール、ギ・ラロッシュ、ティエリー・ミュグレーといったメゾンを通過し、1980年に自らのブランドを興すが、デザイナーとしての名声を確立してから後、比較的早い頃に引退というかたちをとった。プラダの後援をとりつけて服飾美術館のようなものを作りたいとかいうニュースを聞いたとき、過去のデザインへの共感はよいとしても才能をそういうことに使うのはもったいない、と思ったのだが、それは大量流通という業界に対する批判からそうした言葉を使って消耗するステージから隠棲したのでであり、よりこだわりを持った作り方に方針を変えただけであった。ファッションシーズン毎のコレクションという方法とは無縁なところで作品を発表してきたことからも、アライアのこだわりと頑なさは類推できる。それは伝統的な職人の感性に近い。

たとえば11月18日のBBCnewsのサイトでは、アライアの訃報に対するレディ・ガガやマライア・キャリーのツイートが紹介されている。
http://www.bbc.com/news/world-europe-42038082
アライアの作風から私が連想するのはゴルチエであるが、しかしアライアはゴルチエとは違う、もっとなにか不明な芯を持っている人であった。そこに俗にまみれない美学と精神性を見る。
アレキサンダー・マックイーンのときほど唐突ではなかったにせよ、ひとつの才能の終焉があったことを改めて私たちは報されたわけであり、このようにして時代はその次の階梯に切り換えられていくのである。

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Azzedine Alaïa, 1976 (vogue.co.jpより)


Carl Schuricht/The Complete EMI Recordings (Warner Classics)
Icon: Complete EMI Recordings




Carl Schuricht/Beethoven: Symphony No.3, 2nd movement
https://www.youtube.com/watch?v=ffBq4VybAnI
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透明なものと不可視なもの ― 嵯峨景子 「“トーマ”の末裔たち」 について [ファッション]

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深津絵里 (1990)

「なぜジルベールではなく、トーマなのか」 と書かれても、何を今さら、と思ってしまうのだが、その何を今さらという認識は直感に基づいたものであり、直感は 「もの」 の本質を最も効率的に射抜くものではあるのだけれど、しかし理詰めにして、これまでの行跡を整理してみることも必要なのだ、とあらためて思ったのが、嵯峨景子の 「“トーマ”の末裔たち」 というコラムを読んだ感想である。

と、結論のようなものから先に書いてしまったが、 「何を今さら」 が必ずしも一般的な共通認識としてはまだなりえなくて、しかも時代が移ってしまい、それが形骸化していくのだとすれば、少年愛とか、やおいとか、ボーイズラブという言葉でくくるのではなく、マニアックではない地平で分析してみる方法をとらなくてはならないということなのだと読める。

嵯峨は次のように書く。

 私は少年好きではあるが現実の美少年に対する執着は薄く、マンガや小
 説を中心に虚構の少年像を追い求めている。

それゆえに、リアルな写真集などよりいわゆる2次元や、小説のような文章表現のなかにこそ関心を持つというのである。そうした感覚が、ジルベールでなくトーマ、という選択につながる。

 求められるのはジルベールの生身の体に刻まれた性の匂いよりも、性が
 背景に退いた、虚構としての透明な身体であることが多い。一方、トー
 マが遺した詩には 「性もなく正体もわからないなにか透明なもの」 とい
 う印象的な一節が記されている。『トーマの心臓』では、性の入り口に
 佇む肉体を有しつつも、傷ついた魂を救済する精神性へと向かう少年た
 ちの姿が描き出されている。

そうしたギムナジウム的世界観をファッションを通して見た場合、重要なのはリボンタイのような制服的なアイテムであり、また映画《1999年の夏休み》をその様式美のひとつであると指摘する。そこで嵯峨によってあげられているのが靴下留め (ソックス・ガーター) である。
男性における靴下留めは本来、長ズボンの中で靴下を吊るという用途で使用されるもので、見えないものである (なぜ靴下を吊るのかというと、昔の靴下は履き口にゴムが入って折らず、そのままだと落ちてしまうからである)。
ところが、それを少年の穿く半ズボンで使用すれば見えるものとなる。こうした移行はマニアックでフェティッシュなアイテムだが、それを採用する2次元キャラは多く、そして実際のファッションにも援用されているという。
嵯峨は、少年という表象に結びつけた早い事例として四谷シモンの人形 「ドイツの少年」 を挙げている。

 裸体であるため必然的に言える形で装着された靴下留めは、実用的な機
 能を離れ、オブジェめいた装飾性と拘束感が際立っている。

この場合、少年という表象といいながらも、それをファッションとして使用するのは少年や成人男性ではなく、少年的なファッションを好む少女である。《1999年の夏休み》はトーマを原案とした作品であり、しかしながら少年を少女が演じ、そして声はまた別の声優が担当するという、何重ものフェティシズムによって形成されているのだ (と、この重層さをあえてフェティシズムと断定してしまおう)。
女性用の靴下留め (ガーター) は、ふとももまでのストッキングを吊るものであり、これも本来は見えてはいけないものであったが、それをわざと露出させるセクシャルな方法論、あるいはショービジネス的なアイデアがあり、単純に考えれば、その男性版に過ぎないともいえる。
こうしたフェティッシュ系のファッションは多分にコスプレとの関連性もあり、それがごく狭い世界にとどまるか一般的になっていくかは、その時代の流れによる。オーバーニーソックスなどは以前は多分にコスプレ的であったが、いつのまにか一般的なアイテムとしてのポジションを獲得した。
また、見えてはいけないものが見えてもよいものに変わっていくアイテムには、たとえばキャミソールがあげられる。

近代の女性のファッションは男性のファッションを盗用することによってそのテリトリーを拡大してきた。トレンチコートも、タンクトップも、ライダースジャケットも、そして半ズボンもそうである。というより、ズボンそのものが本来は男性のファッションであった。

ファッション・ブランド名で少年を連想されるものをあげるのならば、まず思いつくのは COMME des GARÇONS (コム・デ・ギャルソン:少年たちのように) である。ファッションの傾向は少年性とは何の関係もないが、その名前は少年を冠している。ギャルソンにはオム (メンズ) もあるが、紳士服であり、ファム (レディース) と同様に少年性が顕れているわけではない。
またファムにはアヴァンギャルド性があるが、オムにはそうした方向性は基本的にはない (と以前、川久保玲は言っていた)。
ギャルソン以外でも EASTBOY とか PAGEBOY というようなブランドがあるが、いずれもレディース・ブランドであり、少年用のラインは存在しない。boyをブランド名に用いたのは単なる精神性であって、具体的な少年ではないのである。

古くからのアパレルであるジュンにはJUN (メンズ) とROPÉ (レディース) という2大ブランドがあるが、以前にはROPÉのプロデュースするDOMONというメンズブランドがあった。単なるメンズブランドとレディースブランドがプロディースするメンズブランドは違うのである。さらにROPÉのプロデュースする george sand というレディースブランドが存在したが、これは名前が表すように、男装の麗人的なデザインをコンセプトとしていた。テールコートのような側章のあるパンツとか、メス・ジャケットなどである。

嵯峨が (おそらく古書で) まとめて大量に買い込んだというボーイズラブ系の雑誌『JUNE』とか『小説JUNE』は、当初『JUN』というタイトルで創刊されたが、たぶん前述アパレルのジュンからクレームがありJUNEに改名したのではないかと思われる (これは想像だが)。出版元はゲイ雑誌を出していた会社であり、それを知ったとき、幻想と現実の振り分けかたに感心したものである。

イタリアのブランド DIESEL にはメンズ、レディース、キッズの展開があるが、レディースの打ち合わせはほとんどが右前 (男性用と同じ) である。そのテイストを狙う国内のアパレルであるバロックジャパンリミテッド (moussy、SLYなどのブランド) も右前であることが多い。わざとメンズライクななかで女性的な雰囲気を出そうとするコンセプトであり、これも一種のフェティシズムなのかもしれない。
Hysteric Glamour もレディースは多くが右前だが、ややフェミニンに傾く場合、左前が存在する。その他のブランドでも、右前、左前が混然としていることは多い。それはカジュアルの基本が男性ファッションからの転用であるからであり、メンズライクをきわめれば当然、打ち合わせもそうなるのである。ボーイズデニムという言い方も、わざとちょっとゆったりとした、不良っぽい少年をイメージしたレディース・アイテムである。

しかしその逆は存在しない。男性ファッションにスカートを持ち込もうとしても、それはごく一部のアヴァンギャルドにとどまり、普遍化されることはない。
同様にして、girlという言葉を冠した男性ブランドも存在しない (たぶん)。

《1999年の夏休み》については以前、PASCOのCMに関連して深津絵里を検索していたとき、偶然知ったのだが (→2017年04月29日ブログ)、それが今回もでてきたのでちょっと驚きである。
脚本の岸田理生は寺山修司との関係性において、そして音楽の中村由利子はジブリの《星をかった日》の音楽も担当していたことを知った (→2013年09月18日ブログ)。ときとして意外なつながりが発見できるものである。

ただ、竹宮惠子は、彼女の描いた少年について、少年は少年でなく少女であると過去に語っていた。それが真実なのか、それともそれは 「はぐらかし」 なのか不明である。このへんはまだずっと未消化のままである。

引用元:嵯峨景子/ 「“トーマ”の末裔たち」 (ちくま2017年5月号~7月号・筑摩書房)


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萩尾望都/トーマの心臓 (小学館)
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嵯峨景子/コバルト文庫で辿る少女小説変遷史 (彩流社)
コバルト文庫で辿る少女小説変遷史

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ヴィンテージとアヴァンギャルド —『装苑』など [ファッション]

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装苑 2017年7月号

書店で雑誌を見ていたら満島ひかりが表紙になっている『MOE』を発見。新しい雑誌かと思ってしまった。これってありなのかなぁ、中身は変わらないんだけど。なんでも先月号からモデルあり表紙になったらしい。先月号の表紙はのんとのこと。

それはいいとして、『装苑』7月号の特集は 「ヴィンテージからファッションを学ぶ」 だった。これがなかなか面白いんです。あくまで古着じゃなくてヴィンテージで、トップの記事は原宿のMARTEというショップの野村仁美、そして欅坂46の志田愛佳、けやき坂46の長濱ねるの会話で、内容自体は何ということないんだけれど、野村の50~70年代のワンピースへの溺愛というキャッチが今のファッションへのアンチテーゼともなっている。
最近のゆるめ&らくちん傾向なトレンドとも言えないようなトレンドと較べると、「ウエストを絞った体のラインが美しく見える服が好き」 という志田の言葉には説得力がある。古い服を古い服として着るのではなく、テイストの変わったマテリアルと考えることは一種のファンタシィでもあるのだが、特に日本ではトレンド以外のものは全くといっていいほど市場に出回らなくなってしまうのだから、そうしたなかでこういう選択肢もありなのだと思う。
といっても、ヴィンテージでなく、まさに古着でしかない古着屋も存在するので、話はややこしいのだが。特集末尾には東京ヴィンテージショップ+マーケットガイドもあり。

かつてヴィヴィアン・ウエストウッドはウエストが無い服は服ではないと断言していたが、その孤立性と独善性が本来のファッションのベーシックであり、それはかつて鷲田清一が形容していた拘束性に連なる。

アンティークとヴィンテージには基準があり、基本的には100年以上経っているものがアンティークであり、それより新しいものがヴィンテージ、これは家具などにも同様に言えるのだが、そのことをコスチューム・ジュエリーという記事で稲田梨沙が書いている。コスチューム・ジュエリーというのも、つまりハイジュエラーで作られるような高価な品でない、いわゆる貴石を使わないジュエリーを指すのだそうだが (p.51)、むしろそのアイデアとセンスが、ヴィンテージなワンピースを選ぶセンスと共通する。高価な品でないということから連想したのは、森茉莉が11歳のときに父親に買ってもらったという 「伯林の洋服屋に注文した時、ごく値段の安い玩具同様の」「偽もののモザイクの首飾り」 のことだった (『贅沢貧乏のお洒落帖』ちくま文庫・p.122)。
批評精神のないままにファスト・ファッションを選べばそれは単にチープにしか映らない。それを自分なりにどのようにアレンジするかということと、自分なりのトレンドを見つけていくということとは通底するのだ。古着は利用するのに失敗すればただの 「お古」 だから、トレンドのお仕着せよりずっとエネルギーを必要とする。

「100年前のヴィンテージから見えるもの」 という記事で目を引くのは、昭憲皇太后の大礼服の写真で、凝った刺繍は和服の伝統から較べればまだ全く未知数のなかで作られた過去を見せていて、もう100年以上経っているのだから、ヴィンテージというよりまさにアンティークな遺産である (p.59)。こうした努力とか開拓精神のようなものが今の日本にあるかと考えると甚だ心許ない。

そしてヴィヴィアン・ウエストウッドのコラム記事 Fashion Revolution には、Who made my clothes? という文字が大きく書かれていて、「服を買う時は、良いものを選んで、それを長もちさせなさい。私たちは数より質を大事にしていかなくてはなりません。ファッションを仕事にしている私には、人々が消費ばかりする危険な傾向に対する責任があると考えています」 というヴィヴィアンからの言葉が載っている。大デザイナーである彼女はずっと長くひとつの靴を履いていて、破れてもテープで補修して尚、持たせているというのだ。写真まである (p.96)。

さて、『VOGUE』7月号を読むと、真っ赤な地色のページに川久保玲の記事がある。メトロポリタン美術館の今年のファッション展はコム デ ギャルソンとのこと。
リン・イェーガーは、川久保のことを 「その並外れた想像力や驚異の大胆さ、そしてアーティストとしてのクレイジーなヴィジョンは、時として見る者を真に圧倒する」 と絶賛するのだが、パーティーの描写のなかで 「楽しんでいる人々を横目に、部屋の両隅におずおずと佇み、うつむいて床を見つめる人物が二人いた――川久保と私である」 というのには思わずホントかな、と笑ってしまった。川久保については納得できるけどイェーガーさんは、ね (p.086)。
表紙にも使われている2017-18AWの写真はモデルの髪の毛が縮れていてヒツジのようだが、以前のギャルソンに、ニットをフェルトのように異常に圧縮させたコレクションがあったことを思い出させる。縮れる、曲がる、撚れる、というような形容に照応する処理にときとして執着するなにかが川久保にあるように感じられる。それは穴あき、ほつれ、やぶれ、といったダメージを創始期から引き摺っている彼女のテーマでもある。

他に『VOGUE』今月号では 「これ誰?」 的な上戸彩のポートレイトも新鮮だが、最も美しいと思われるのは、巻末近くにあるスタイリスト/ジョヴァンナ・バッタグリアによるポップカラーな You’re My Favorite Pin-up というページで、パトリック・ドゥマルシュリエのカメラによるディースクエアード2、アルチュザラ、ミウミウなどにラテックスのサイハイソックスを履いたモデルのポーズは過剰に人工的であり、先進の美学はこのあたりなのだろうと思わせる (p.224)。

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top and skirt: DSQUARED2
style: Giovanna Battaglia Engelbert
photo: Patrick Demarchelier


装苑 2017年7月号 (文化出版局)
装苑 2017年 7月号 (雑誌)




VOGUE 2017年7月号 (コンデナスト・ジャパン)
VOGUE JAPAN(ヴォーグジャパン) 2017年 07月号




MOE 2017年7月号 (白泉社)
MOE (モエ) 2017年7月号【特集:大人からの絵本 おすすめの300冊】




Metropolitan Museum of Art
Rei Kawakubo/Comme des Garçons
Art of the In-Between/2017.05.04-09.04
http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2017/rei-kawakubo
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擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (2) [ファッション]

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Alexander McQueen 2016AW (Sarah Burton)

擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (1) のつづきです。


《制服という記号》

すべての衣服は制服であることという視点も面白いし、特に今の時点では、この本の書かれた当時より卑近な話題として解釈できる。
「〈わたし〉の自己同一的な存在は」 「意味の共同的な制度に自らを同調させること」 であり、「〈わたし〉がある属性を手に入れること」 「〈わたし〉の生成にとって決定的な役割」 をするのが衣服であるという (p.122~123)。
それは 「可視性のコード化」 (p.125) であり、「生存を制度化する (制服としての) 衣服」 (p.126) なのだというのである。

制服が個性を消してしまって均一の記号として作用するという負の面に対して、むしろ制服という記号のなかに個性を隠すという方法論も存在する。それが高校生の制服であり、それを拡大解釈したアイドル・グループの衣裳であり、そしてコスプレである。このラインはひとつながりであり、デザイン性の多少による違いに過ぎない。
鷲田はこうした可視性のコード化によって 「個々人の差異を消すという口実」 は 「もっとのっぴきならない事態を隠しているのではないか?」 と指摘する (p.127)。ではそれは何か。

衣服が常に両義性を持つものとするのならば、制服という強制力がもっと負の作用を強く持つ場合もあるはずである。つまり、その人がどういう職種であるかを同定させるためだけの記号としての制服であり、それは企業が従業員を従属させるために着せる、その多くはファッション性を持たない劣悪なデザインと縫製の制服である。個性をわざと喪失させ、醜悪な記号として押し込めることによって、人を奴隷的に扱えるような意図のもとに、それは作用する。
制服の究極の形態は軍服であり、軍服というコードが何を示すのかは明快である。本来、自分の自由度を表出するはずのモードが全く反対のものとして (つまり一種の拘束として) 作用するというのも皮肉な両義性である。こうした強制力をあらかじめ持っている制服のしめつけは、拘束というより暴力に近い。負の面に対する視点があまり見られないのは、やはりこの論の書かれた時代性だろう。つまり当時は、現代より物事に対してずっと楽観的であったのに違いない。

 わたしたちは他者たちからひとつのタイプとして承認されるかぎりでし
 か〈わたし〉となりえず、その意味で共同性のなかにすっぽり包みこま
 れることになる。(p.135)

衣服は、それ自体が社会的な意味作用を持ち、可視的なイメージを提出しているのだとすれば、その統一的なイメージとかスタイルというものは社会のなかの共同性として認識されるということだが (p.135)、つまり逆に言えばそうした記号化というかたちでしか承認され得ないという負の部分もあると思われるし、そしてそれは日々増長しつつある。


《匿名化》

さて、制服という匿名性を持つ現象を考えたとき、最も極端な状態はマスク (仮面) である。それは隠蔽性の極端なかたちであり、〈わたし〉の存在を匿名化する (p.138)。顔を隠すということは〈わたし〉を匿名化することであり、といって、顔を隠すことによって自分が完全に隠せるというものでもないと思うのだが、ともかく識別力は落ちるわけである。
それはさらに例としてあげられている 「秘部を隠せば何でもできる」 という常識からの逸脱の言葉となり、そして逆説的には 「顔さえ隠せば何でもできる」 というマスクの効用にまで達するのだ (p.139)。

つまり秘部ということについて言えば、具体的な 「だれかの秘部」 だからエロティックなのであり、性器それ自体とか、顔の写っていないヌード写真はエロティックではない、と鷲田は述べるのである (p.140)。
さらに 「秘部さえ隠せば何でもできる」 と 「顔さえ隠せば何でもできる」 という特殊論を一般論に拡大解釈すれば、「何にでもなれるという過剰な可能性」 と 「何にもなれないという空虚な不可能性」 は表裏のようでありながら、簡単に転化するものだというのがその論理である (p.140)。

通常のファッションは、そこまで追いこむことはなく、もっと軽薄で、衣服をとりかえることによる可視性の転位によるささやかなエクスタシーに過ぎない、と鷲田はいうが、その根源には、ここで引用されているロラン・バルトの 「モードは、人間の意識にとってもっとも重大な主題 (《私は誰か?》) と 「遊んで」いるのだ」 というヘヴィな意味あいを持っているのだ (p.141) といわれるとそうかもしれないと思う。

「過剰なまじめさと過剰な軽薄さの共存がモードのレトリックの基盤」 (p.143) というバルトの言葉は気休めであって、そうした重い認識は一度報されてしまうと人の記憶からは容易に薄れないはずである。


《フェティシズム》

フェティシズムに関して鷲田は、脚や髪や生殖器は 「あやしい部位」 であり、それはどういうことかというと、「〈わたし〉が少なすぎる部位」 だと述べる (p.154)。しかしその前に鷲田は、マスクに関連する個所で、具体的な秘部でなければそれはエロティックではないと書いているので (p.140)、「〈わたし〉が少なすぎる部位」 とは、それと呼応するものではないかと考えられる。
つまり〈わたし〉という個別性が薄いからこそ、それは架空のものに近くなり、フェティシズム (=物体としての執着/信仰) が生まれるのだといってもよいのではないか。
ファッションにおける 「身体の一部分を覆い隠すという衣服の構成法」 (p.158) もフェティシズムを逆用した行為であるとするのである。


《モードの〈ずれ〉》

モードとは自然からの逸脱であり、一貫した転位であり、そして〈ずれ〉によって成り立っていると鷲田はいう (p.159)。そしてモードには衣服だけでなく化粧もその中に含まれ、つまりそれらが 「わたしたちの可視的な存在をデザインする」 のだという (p.160)。
〈ずれ〉とはつまり、人は自分という存在をありのままに認めようとしないで、自分を自分の理想とするかたちに変えようとする人為的操作があることを示し、服装やメイクによって、いわば仮面を装着する行為を言っているのだ。それは自分を装飾し、実際より良く見せようとする欲望であるが、それが過剰になれば自分は消失してゆく。それは 「危うい行為である」 と鷲田は言う (p.165)。

 衣服の取り替えによる可視性の変換を、そして、それのみをてこにして
 〈わたし〉の変換を企てるというのは、可視性のレヴェルで一定の共同
 的なコードにしたがって紡ぎだされる意味の蔽いでもって、〈わたし〉
 の存在を一度すっぽり包み込むことを意味する。そうすると、わたしは
 たしかに別なわたしになりうるにしても、そのような〈わたし〉の変換
 そのものは、〈わたし〉が他の〈わたし〉とともに象られている意味の
 共通の枠組を、いわばなぞるかたちにしか可能とならないであろう。
 (p.165)

共同的なコードとはすなわち定型的なパターンの中に自分をまぎれ込ませることを意味し、そうした記号的なモードにおいて自分は消失し、属性だけが残る、その例が、制服で身を包むことであるとするのだ (p.166)。
それは制服という限定された記号だけに限らず、あらゆる衣服は制服としての特徴を持つ、と鷲田は言う (p.166)。
つまり制服という記号の中に自分をまぎれ込ませようという消極的な行為と、個性的な外見への過剰なこだわりによる積極的なモードへの固執は結果として同質の問題を含んでいるとするのだ。

なぜ可視的な存在をデザインする (可視性を変換しようと企てる) のかは、つまり自らの可視的存在についての不安があるからであり、自分のフィジカルな 「見た目」 に対しては、「こんなはずではない」 とする否定的な思い込みとコンプレックスがあり、そしてその自分の 「見た目」 は、自分から見た場合 「鏡像」 (=虚像) に過ぎず、自分が見えないものに対する不安が、その 「可視性の変換」 という行為を起こさせるというように考えていいのだろう。
メルロ=ポンティの次の引用は鏡の功罪 (どちらかというと罪) について語っているように思える。

 私が〈見るもの - 見えるもの〉であるが故に、つまり、そこには〈感
 覚的なものの再帰性〉があるが故に、鏡が現れるのであり、鏡はその再
 帰性を翻訳し、それを倍加するのだ。この鏡によっていわば私の外面が
 完成されるわけであって、私がもっているどんなに密かなものも、すべ
 てこの〈面影〉、この〈平板で閉ざされた存在者〉のうちへ入りこんで
 しまうのである。(p.174)

鏡に映る像は実体のようでありながらそうではなく、メルロ=ポンティはそれを幻影とまで表現しているが、つまりその虚像を実体として思い込もうとする行為は、その行為自体を表すと同時に、人間の認識の方法が脆弱であることのメタファーであるのかもしれない。
鷲田は次のように書いている。

 わたしたちの可視的存在は根源的に脆弱なものなのであって、その脆弱
 さが〈わたし〉が内的密度を手に入れることを不可能にする。〈わたし〉
 のこのような空虚を補塡するために、わたしたちは衣服という別の可感
 的で物質的な存在を呼びもとめる。(p.175)

しかしモードとは不完全で可変的なもの (現象?) であるために、「衣服はたえず変換しなければならない」 という。その変換がつまりトレンドなのである。

さらに鷲田はパンク・ファッションの様相についてさらっと触れ、ファッションはその現象面としてナルシスティックであり、可視性の様式化であるという (p.183)。もし、様式化というのならば、最初のほうで提起された 「SMファッションのステロタイプさ加減」 も、様式化という形容の中で正当性を獲得することになるのかもしれない。
モードは 「ある意味を加味しながら別の意味を失効させるという仕方で、たえまなく転位してゆく。累積するのではなく循環する」 (p.188) ので、それがファッション・デザインのステロタイプ (=限界点) であるともいえる。ファッションはメリーゴーラウンドのように回帰するが、しかし乗客は毎回異なる。あるいはまた、最高回転数を超えないように使い続けなければならない繊細なエンジンでもあるのだ。
それでいて、トレンドには法則性はないので、今シーズンのものは来シーズンにはダサくなってしまう (p.202)、という。

「わたしが〈わたし〉を追いかけるナルシスティックな回路」 (p.209) とは、ありのままの自分となりたい自分のことであり、それは自分を納得させるためにつくられた幻想の回路なのかもしれない。
さらに 「〈わたし〉の生成と崩壊が繰りかえされるきわめてエロチックな場面」 (p.209) というが、「この両義性がもっともあからさまに出現するのが制服なのであって」 (p.209) と繰り返し書かれているのを読んだとき私が連想したのは、その後の 「なんちゃって制服」 を経て、AKB的な制服/コスプレに到達する伝播と発展である。

        *

あとがきに、モードは残酷なものであると同時に、思いやりのあるものでもある、と鷲田は書く。それは人間の〈もろさ〉につけ込んだり、あるいはヴェールで覆ったりという相反する対応をみせるからであり、これもまた両義性と言えるのかもしれない。
ただ、この本の書かれたのが、もう30年も前の、ましてバブル期という特殊な時代であったことから来る古風な印象は否めない。なるべく普遍的な視点で終始しようとしても、時代からの影響はあるものなので、そうした 「旬」 の気配が必ずつきまとうのもモードという現象の宿命である。
また雑誌への連載であったという経緯があるためか、論理構造に 「行ったり来たり」 とか 「堂々めぐり」 (まさに 「死と再生の循環運動」 (p.098) である) があるように思えたので、一度解体して再構築しようとしたが途中で放棄した。すごく簡単にいえば 「可視性」 と 「制服」 という単語に全てが集約されてしまうように思う。「可視性」 とは、自分から見ることと、他人から見られることの差異を明白にするための論理基準であり、「制服」 とは個性を主張するか、マジョリティに埋没するかの選択肢における触媒である。どちらにもある種の憂鬱と抑圧が存在する。

しかしファッションとは、本来もっと軽く楽しくなくてはならないはずだ。ファッションという言葉の持つ軽さ (むしろ軽薄さ) と、モードという言葉の持つ暗い重さとでもいうべきニュアンスの違いを、直感的に私は感じとる。
あるいはファッションとは、それらの現象を、単発的に点としてあらわしているのに対し、モードは思想を継続的な流れとしてとらえているようにも思える。といってもこれはあくまで私の印象に過ぎないので、本来の言葉の真実の意味は、もっと別のところにあるのかもしれない。

しかしこの『モードの迷宮』後、時代は変わった。日本は不況となり、そうした動きは世界に蔓延し、気がつくと日本は物づくりの基礎を失った。クリエイティヴであることより、安価であることが重要な価値観となった。
それまではトレンドをファッションメーカーが主導していたのに、必ずしもそうではないトレンド (ニュートラとか渋カジとか) が起こるようになり、やがてデザイン性の無いもの (否定的な意味でなく質実であるということだけを特徴としたユニクロのようなブランド)、あるいはごく微視的なデザインの差異によるファッション・ブランドの並立や、ファスト・ファッションとして括られる使い捨て的なブランドが隆盛になった。
ハイブランドのオートクチュールやプレタポルテのファッションショーと、リーズナブルな、たとえばTGCのショーとは同じように見えて同じではない。しかしレストランにも高級なのと大衆的なものが存在するように、常に勢いがあり需要があるのは大衆的で大量生産のブランドである。

鷲田の 「すべての衣服は制服である」 という規定と、制服というタームは、かたちが少し変わっているが、ある意味予言的な言葉である。鷲田は制服の正の部分しか指摘しなかったが、それはAKBなどのアイドルグループの衣裳やコスプレの衣裳として具現化している。〈制服〉的なものは典型的な表象であって、普通の衣服とそうした衣裳との間にはグラデーションがあり、そうしたテイストのアイデアは数限りない。技術的な進歩があるにせよ、ごく廉価なファスト・ファッションに多く採用されるようになったスパンコールやラメ、フリルやレースなどの素材の使用もその一端である。
しかし、すでに私が指摘したように、制服には負の部分があることを忘れてはならない。それはまさに、悪辣な拘束と隠蔽と変形であり、そうした一見、理解しにくい不当な統制によって人の精神を損壊する行為に加担するのである。
そうした現象は、鷲田がこの本を書いた時代よりずっと顕著に悪質さを増加させていると思われる。そうしたことと比較すると、この鷲田の制服論はずいぶん穏やかなのである。

もうひとつ、私が不満なのは、「可視性」 ということへのこだわりは、あくまでファッション/モードを消費する側からのこだわりであり、精神分析的な 「わたしたちのこころ」 の問題としての分析のように思えてしまうからである。
モードについて、たとえばクリエイターたちはどう考えているのか。そして彼らが考えていることに対して、消費者はどのように反応しているのか、それともそうしたシステムはすでに衰退の時代にあるのか、そうしたアプローチに乏しい。それはあくまでこの本が、ファッションに関する現象への論考であって、ファッションそのものの論ではないからである。
クリエイターの意図は必ずしも市場に正当に、想定していたように反映されるわけではない。その意外性もファッションのひとつの特徴であると言えよう。

ファッション・デザインを変化させるエレメントは数多く存在するが、その変数は一定の区間を往復するしかできないものであり、ファッションの歴史のアーカイヴから一部引用する (p.189) という手法が一般的であり、したがってそのラティチュードは思っていたよりも狭いのである。
しかしファッションとは強制的な消費を起こさせるための仕掛けであるから、今シーズンが昨シーズンより必ず斬新で優れているという説得性を創り出して、昨シーズンのデザインはダサいと消費者に思い込ませ、新たな購買意欲を喚起させなければならない。つまり 「さまざまな 「共感覚」 [シネステジー] を新たなかたちで蠢かせることによって」 (p.207) 次のトレンドが正しいと信じ込ませる必要がある。それは一種の幻想の創作である。簡単に、脈絡もなく、それまでの美学が反古にされてしまうという点でファッションは芸術とは異なるのである。そこに特権的な例外はない。それは引用されているボードリヤールの言うように 「あらゆる記号が相対的関係におかれるという地獄」 (p.202) なのである。

ではファッションとはそのすべてが消費の海の藻屑となり淘汰されてしまう消耗品なのだろうか。そうでないものは確実に存在し、目先が変わってもその基部は動かない。決してラビリンスではなく、整然としていてパースペクティヴを持っている。その原動力となるものはファッションに対する信念あるいは思想である。それが真のクリエイティヴなものであるのならば、消費されながらも厳然として残っていくものである。


鷲田清一/モードの迷宮 (筑摩書房)
モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

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擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (1) [ファッション]

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拘束と隠蔽と変形。大きく3つに分けられたそれぞれの章タイトルに入っているこれらの言葉から連想されるのは、SMとかフェティシスムに通じるイメージである。
鷲田清一の『モードの迷宮』が単行本として上梓されたのは1989年というバブル景気の時代で、その時代はそうしたスキャンダラスなテリトリーに属する言葉を 「ファッション」 のように用いるのが、一種のトレンドだったのかもしれない。だとすれば、その分、少し割り引いて考える必要があるが、SMのファッションに関して記述されている個所で、最もウケたのはSMプレイに関する次の部分である。

 一定の規範的秩序のなかで自らを編成してきた〈わたし〉は、野性的な
 ものの無規範性、つまり動物性との境界にふたたび連れ戻される。四つ
 ん這いにさせられ、「雌犬」、「ブタ」 とののしられる。(ここで侮蔑語と
 して人間と野獣の中間にいる動物、つまり家畜やペットの名が選ばれ、
 だれも 「北極グマ」 とか 「キリン」 とは呼ばない ―― E・リーチ 「言語
 の人類学的側面」 参照。) (p.075)

確かにそうだ。でももっとよく考えれば、それらはイヌとかブタなどのごくありふれた、人間の生活に密着した種類の動物に限られ、たとえば 「ドロボウネコ」 とか 「エロウサギ」 くらいまでなら使うのかもしれないが、ハムスターとかハリネズミになるとちょっと微妙である。

なぜSMの話題が出て来たのかというと、

 実際、魅惑的なモードというものはいつもどこかにSMファッションの
 統辞法を導入している。(p.076)

からなのだが、しかしSMのファッションというものは永遠のステロタイプであり、ファッションというタームが流行という意味を包含するものならば、そのパターンは固定されていて保守的であり、つまり一種のトラッドで流動性はない。
ファッションとは限られた範囲のなかから適宜取捨選択するものに過ぎないとはいうのだけれど、たぶんそれは一般的ファッションについての方法論に過ぎないのであって、SMファッション自体には、たとえばヘヴィメタルと同じように様式美だけが存在するように思う。ただこれは現代からの視点であって、1989年にはもっと異なるアクティヴな様相があったのかもしれない。


《コードを欠くモード、あるいは美徳の不幸》

SMというイメージから敷衍して拘束というキーワードの下に語られるのは、「お決まり」 な流れなのかもしれないが、まず19世紀ヴィクトリア朝におけるコルセットである。コルセットは貞淑、気品、礼節といった美徳を形成するための衣服 (というより器具、むしろガジェット) として流行し発達したはずだったのに、それは次第に別の効果を示すようになる。「肉感性を隠伏させてしまうはずのアイテムが、逆に肉感性を顕在化させてしまう」 (p.059) のだ。

それは纏足とかハイヒールでも同様であって、このような身体に対する物理的な変形とか毀損というかたちでの拘束が、身体の本来の動きを制限し、変容させることによって別の意味を持つようになるという。
そうなると歩行は単なる歩行でなく、妖艶であったり、コケティッシュで挑発的であったりするという視点でとらえるようになることを、鷲田は 「一個の個性的・感情的・性的な表現」 であるというメルロ=ポンティの言葉を引用して指摘する (p.051)。

シンデレラの靴は、靴が一定の目的のためにハイヒールという形態をとるに至るルーツであるが、グリム版のシンデレラでは、シンデレラの姉が無理矢理に小さい靴を履こうとして、母親に渡された包丁で自分の足指を切ってしまう描写があるのだという。しかし靴から血があふれて、イカサマをしたことが王子にバレてしまうのであるが (p.045)、これを鷲田は 「モデルを身体に合わせるのではなく、身体をモデルに合わせてゆくという、ファッションの原則」 (p.046) であるという。
それはこの 「拘束の逆説」 という章の最初で、すでに規定されている。

 わたしたちは衣服を身体に合わせるというより、むしろ自分の肉体をモ
 デルチェンジして、モードという鋳型に合わせようとしているのではな
 いだろうか。
 イニシアティヴをもっているのはモードである。そして、これが衣服と
 身体に規則を与える。(p.023)

昔の軍隊で、軍服や軍靴に身体を合わせろと言われたという理不尽さや、トレーニング・ジムのCMで、太った身体が一定のパターン化された〈鍛え上げられた身体〉に変わる使用前╱使用後の対比画像などは (エステティック・サロンの肥満╱痩身の対比でも同じことだが) 目標となる完成形が一定の規則を持つモードなのである。

 わたしたちはモデルに従って、自分の衣服、自分の身体を見る。モデル
 に則って衣服を取り換え、身体を変形する。モードの主導権。標準的な
 サイズ、規範的な状態が、わたしたちを金縛りにする。しかも、当の標
 準や規範は目まぐるしく変化する。そしてわたしたちは、そのつど見え
 ない規則を遵守し、ときにはそれから逸脱するほどに、装飾をこらし、
 衣服で身体を拘束し、ひいては自分自身の身体をも変形しつづける。そ
 してそれでもなお、わたしたちは自分の衣服に、自分の身体に、いつも
 不安を抱きつづけるしかないのだ。(p.025)

では、目まぐるしく変化するモードの標準や規範は誰が操作して決定しているのだろうか。その答えは無い。
ただ、そのようにして不安を抱き続けるということは 「ファッションに関心があるか、ないか、ということとは何の関係もな」 くて、むしろファッションに関心がない、無感覚であると言っている人ほど、その時点での流行服を身につけていることが多く、したがって 「様式にこだわるという語の本来の意味で、彼らこそもっともファッショナブル」 (p.025) なのだとする、一見逆説的な提示にヒントがあるように思える。

言語表現においてはひとつの言葉が多様な意味を持つ場合と、多様な言葉がひとつの意味しか持たない場合とがある (前者の例として 「雨降りだ」 と言ってもそれが 「傘を持ってきてよ」 「君の勘はよく当たるね」 「きょうの試合は中止だ」 「外出するのが億劫だ」 といった幾つもの意味を持っていたりすること。後者の例として 「寒い」 「あした会える?」 「旅に出たいの」 といった多様な言葉の真の意味はたったひとつである、と鷲田は解説する。(p.030))。衣服においてもそれは同様に成立するが、しかしファッションの構造 (アイテムの組み合わせ) は言語のようにシステマティックではない。

 衣服を構成する各アイテム間の配置関係には、言語に見られるような、
 一義的に規定された顕示的な意味と言外の意味との構造的分割が見うけ
 られないということだ。厳密なコードによってシステマティックに規定
 された意味を欠くがゆえに、衣服の意味はそれだけ多義的なものとなる。
 すべての意味が暗示 [ほのめかし] であると同時に、表面に露出している
 ことになる。(p.031)


《可視性の変換》

ここで鷲田の提示するのが可視的、可視化という概念である。これは全編にわたって使用されている重要な言葉である。

 身体は〈わたし〉という見えないものに浸透されてはじめて、〈わたし
 の身体〉として可視化する。ところが逆に、この〈わたし〉という見え
 ないものは、衣服や身体、さらにはそのヴァリアントとしての言語とい
 った、可感的な物質の布置のなかで、〈意味〉を通して紡ぎだされるも
 のでもある。要するに、衣服=身体は、意味を湧出させる装置でありな
 がら同時に意味を吹き込まれるもの、つまりは意味の生成そのものなの
 だ。(p.027)

単純に物理的な身体を覆うものとしての衣服という考え方だけでは人間の衣服に対する (特にモードとしての衣服に対する) 認識の思考は説明できないと鷲田は指摘する。
ファッションというものは他人に見せる、あるいは他人から見られるということを大前提としていて、しかしそのように視覚にたよることが重要であるのにもかかわらず、ひとつの矛盾が存在する。それは人は自分の姿 (実像) を見られないということなのだ。

 わたしたちは、自分の可視的な存在を想像のなかでしか手に入れられな
 い。身体の目に見えるわずかな部分を、鏡に映った像を、パッチワーク
 のように自分の想像力の糸で縫い合わすしかない。(p.088)

鏡像のなかの自分は虚像であり、実際の自分とは違う。写真や動画に撮られた自分も2次元の複製に過ぎず、真の自分の姿ではない。人が自分の姿を見ることはできないのだ。そしてたとえば写真に撮られた自分の像に満足するひとはいない (p.088) ことからも、人が自分で考えている自分の実像と実際の像には 「ずれ」 があるとするのである。

拘束という言葉と並列して語られる隠蔽については、まず、A・リュリーの刺激的な引用がある。

 衣服というのは、言葉でいえば 「私には秘密があります」 というせりふ
 にあたる。(p.093)

想像力は隠れているものを見たいというのよりは、隠されているものをこそ見たいというのが、そのめざすものだというのだ。それを可視性という言葉にからめて表現するのなら次のようになる。

 だから 「わたしには秘密があります」 ということが重要なのであって、
 「秘密」 そのものが重要なのではない。秘匿されているものではなくて、
 「何か」 が秘匿されているという事態が、可視性の表面にざわめきをひ
 き起こすのだ。(p.094)

モードのポイントはつねに環流し、循環するものであって、一定の幅の範囲内で、その丈、長さ、幅、大きさといったファクターを往復するが、それは死と再生の循環運動でもあるのだという (p.098)。
また、過去の差異の在庫目録から一部を引用するのがファッション・デザインの正統な手法であるとも言う (p.189)。

〈拘束〉という言葉は、一定の道徳的規準によって定められた規範への従属をうながし、規制するものであるのに対し、〈隠蔽〉とは規範から逸脱するものを秘匿し隔離することを表す。それらは 「肉的・野性的」 と表現されているが、つまりもっと具体的には性的で淫靡な状態、原初的で衝動的な状態になることを回避するために〈拘束〉や〈隠蔽〉の手法が用いられるということである (p.100)。
しかしヴィクトリア朝における、コルセットで拘束し、幾層にも重ねられた長いスカートと下着で隠蔽するという美徳への偏執的手法が、かえって性的なフェティシズムを増長させるもとになったことはいうまでもない。

なぜそのようにしてまで偏執的に隠蔽しなければならないのだろうか。身体には 「これ以上見せてはいけない」 部位と 「見せてもよい」 部位とが存在するというが、ではその境界線はどこなのだろうか、とする問いがある (p.099)。
〈わたし〉の可視性を変容させるものがモードの視点であり、そして〈わたし〉の可視性は演出可能であるとするのならば、隠蔽するという手法は身体を隠蔽という視点からでなく可視性の変換という視点から見られねばならない、とする (p.104)。
隠蔽と対立する概念である露出に対してもそれは言えて、つまりあるものを見せたり隠したりすることによって、別のあるものを見せたり隠したりしてしまう転位とか擬装という行為 (一種の 「めくらまし」 だろうか) が問題だというのだ (p.105)。

こうしたテクニックは鷲田が規定する性的な何かを対象とした隠蔽の手法に限らず、ファッションの手法としてよく行われることである。つまり、色彩や形状によって錯覚を誘い、撹乱して、弱点のある部位から目を逸らさせるための工夫である。

擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (2) へつづく。


鷲田清一/モードの迷宮 (筑摩書房)
モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

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川上未映子『おめかしの引力』を読む [ファッション]

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川上未映子 (撮影・荒木経惟)

川上未映子の『おめかしの引力』が面白くてさらさらと読んでしまった。新聞に連載していたファッションのエッセイをまとめたものだが、「おめかし」 という表現がファッションに対するこだわりを反映している。多分に自己満足なのかもしれないが、でも 「私はコレ」 という芯が通っているので一般的なファッション本とは違い、だから 「おしゃれ」 じゃなくて 「おめかし」 なのだとのこと。最近の芥川賞作家って羽田圭介とかもそうだし、もはやタレント? なんだろうか。

服が好きで好きで次々に買うんだけれど、でもいざとなると着ていく服が無かったりして、しかしそれが止められないという、まさに 「断捨離」 とか 「こんまり」 とかとは正反対の世界である。私も断捨離とは無縁だからとても共感。とゆーか断捨離って、言葉自体が宗教っぽくってなんだかちょっとなぁ~と思ってるし。初めて聞いたとき作務衣の親戚かと思った。
それとご本人のお言葉によれば 「やっぱ大阪人ですよねー」 と言われても納得してしまう卑下なのか自慢なのかよくわからないファッション感覚が伝わってくる。地方性のせいにするのってズルイって感じもするけれど、大阪はたこやき・お笑い・ヒョウ柄とか言われてるのは本当なんですね。

ハイブランドを買うときに、あまりにも高い品の場合、「一生着るんだから一回につきこれくらい、と思えば安いんやないの」 と1日あたりの単価を出して無理矢理自分を納得させることとか (だからって毎日着るわけじゃないのに)、お姉さんとファストファッション店に行ったとき、お姉さんは大満足なんだけどご本人は爆死したみたいで (若くないとこういう服はムリとのことです)、素直に大阪ノリに乗り切れなかったり、そうした経過に大笑いしてしまう。
ハイヒール・命なのでマノロを買ったら絶望に近いほど感動して、この靴なら全力疾走もできるんだけど、妊娠して仕方なくレペット履いたら全然似合わなくて、ぺたんこ靴のほうが、きっと履きこなしのハードルは高いんだ、とか。

一番共感したのはタートルネックが圧迫感があって鬱陶しくてダメという個所。私も同じ感覚なので、以前はそんなことなかったんだけれど、ある日、その圧迫感がキモチ悪いということに気がつき、以来、タートルネックのセーターなんて絶対に着ません。あぁつまらないとこに共感してるし。

本の真ん中へんにお気に入り服の写真が挿入されているが、それらがほとんどハイブランドであるので私には無縁なのはいいとして、ファッション写真として写された2枚の写真がある。
1枚はKENZOのスカートと古着のブラウスを着た資生堂用の写真。撮影は荒木経惟。もう1枚はヴィヴィアン・ウエストウッドのワンピースを着た篠山紀信撮影の写真展用のもの。
小さい写真なんだけれど、プロのカメラマンが撮るとどうなるかということだけではなくて、荒木と篠山の写真のとらえかた/個性の違いがくっきりとわかって、この部分に一番感動しました。あ、それじゃ本の感想にならないか。荒木の作品はいつもと少し異質な川上未映子的な表情が出ていて、それは風景でさえも特殊な色に変えてしまう彼の存在がそうさせる強いなにかなのだと思う (トップ画像参照)。
川上未映子はちょっと上野樹里に似ていて、でもこう書くとどちらもそれぞれ嫌がるんだろうけど、つまりどちらも女優顔っていうことです (これもフォローになってない?)。

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川上未映子 (撮影・篠山紀信/本に掲載されているのとは異なるが同じ展覧会の作品)


川上未映子/おめかしの引力 (朝日新聞出版)
おめかしの引力




トップランナー/川上未映子
http://www.pideo.net/video/pandora/e46733b3d276a6d4/
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生のものとヴァーチャルなもの — ニコラ・ジェスキエールのルイ・ヴィトン [ファッション]

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『VOGUE JAPAN』が200号だったので買ってみた。
雑誌には定期的に買ってしまう雑誌と滅多に買わない雑誌があって、『VOGUE』はたまにしか買わないほうに入ってしまう。だってさ、内容が無いよう~、というようなギャグはさておいて、マジメに見ても見事なまでに何もない。何もないというのはもちろん皮肉な比喩で、とりあえず私の生活には関係ないという意味である。この関係なささ加減は『CG』(カーグラフィック) といい勝負である。
でも何もないけれどすごくゴージャスで、高級ブランドの、どれだけ金をかけているのかわからないような広告ページが並んでいて、つまり逆説的に言えば何もないように見える究極のものがもっとも至高のファッションなのだと思う。

表紙モデルはイーディ・キャンベル (Edie Campbell) で、中に彼女のショットを集めた特集ページもあって、そこには 「ロックな空気感」 とか、ありきたりな形容がされているけど、若い頃のパティ・スミスっぽい印象もある。

だが裏表紙のルイ・ヴィトンの広告に目がいって買ってしまったのかもしれない。Lightning SERIES 4と銘打たれている今シーズンのヴィジュアルは、FFXIIIのライトニングことエクレール・ファロン (Éclair Farron) をモデルに起用しているのだ。この異様な美しさをプロデュースしているのがヴィトンのデザイナー、ニコラ・ジェスキエールである。

ルイ・ヴィトンは1854年創業の有名なカバン・メーカーであるが、アパレルを始めたのは比較的近年であり、「ヴィトンって服も作ってるんだ」 というような見方が一般的であった。1997年から開始されたアパレルをデザインしたのはマーク・ジェイコブス (Marc Jacobs, 1963-) で、彼はすでに1986年から自身のブランドを立ち上げ、さらに96年からはbisブランドであるマーク・ジェイコブス・ルックを展開し始めていたなかで、さらにヴィトンのディレクターとなったのである。
ルイ・ヴィトン自体がLVMHとなりグローバル化するなかで、ジェイコブスも確実に地歩を固めていったが、2013年にジェイコブスはヴィトンを辞めることになり、その後任のデザイナーとなったのがジェスキエールなのである。

ニコラ・ジェスキエール (Nicolas Ghesquière, 1971-) は19歳でジャン=ポール・ゴルチエのニット (maille) デザインのアシスタントを得て、それを足掛かりにティエリー・ミュグレーなどを経て、1995年頃からバレンシアガのライセンス製品のデザインをするようになっていた。
バレンシアガは1918年からのスペインを出自とする老舗であり一時は隆盛を極めたが、1968年にクチュールから撤退し、そして1972年に創業者のクリストバル・バレンシアガが亡くなると、ブランド名を貸すことによって成り立っているだけの過去のメゾンのようになってしまっていた。
しかし1997年、ジェスキエールがディレクターに就任すると (その時、彼は26歳)、名門バレンシアガは再生した。それはジェスキエールのアヴァンギャルドで、かつ伝統的なデザインにも通暁する彼の才能によるものであった部分が大きい。
バレンシアガってすっごく昔のブランドだと思っていたのに、最近のアレは何なの? というような唐突な印象を当時受けたことを憶えている。

一番新しいファッションショーの動画がサイトにアップされているが、そのメカニックなステージ造形と、レザーを多用したファッションとが融合しているのか、それとも拮抗しているのかわからないままにジェスキエールの術中にはまっていくような気がする。
彼はそのインスピレーションをSFから、フィリップ・K・ディックやジョージ・ルーカスから受けたと言う。また1970年代のアメリカのTVドラマ L’Âge de cristal (Logan’s Run) のタイトルもあげられている。
幾つにも仕切られた矩形の客席の間のランウェイを無表情なモデルが歩き回る。そのウォークに合わせてディスプレイを光の流れが通り抜けて行く。こうした最近のショーはなぜこうも同じ種類の生っぽいデジタル音楽なのかという不満が残るにせよ。
ライトニングの着ていたレザージャケットはヴィトンのモノグラムと斜めによぎる縞を皮革の上に載せているようで、美しいフォルムとアヴァンギャルドなその遊びがコスプレのような異質な雰囲気を醸し出している。もちろんこのデザインのままで販売されることになっているようだ。

ヴィトンのモノグラムは、かつて日本の伝統的な紋様にインスパイアされて成立したデザインであったが、今、日本のコスプレ文化が逆輸入のようにしてファッションの牙城である一流ブランドのデザインにフィードバックしていくという不思議さが面白い。
イーディ・キャンベルの特集の最後のページで、彼女もライトニングと同じようにこのレザージャケットとバルーンスカートを着ているが、丹念につくられたヴァーチャルのイメージにはさすがにかなわない。

伝統のなかに破調なものを率先してとりいれる手法は以前のシャネルにも見られたが、ジェスキエールの場合は、そうしたテクニック的な改竄でなくもっと根本的な思想の変容のように感じられる。
こうしたカウンターカルチャーからの本歌取りがパリのメゾンの疲弊から来るものなのか、それとも新しいデザイン意識だと捉えるべきなのかはもう少し時間が経ってみないとわからない。でもショーの最後に出て来たジェスキエールは、その佇まいと動きがスポーティに軽やかで、ここに未来があるようにも思える。

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Nicolas Ghesquière


VOGUE JAPAN 2016年4月号 (コンデナスト・ジャパン)
http://7net.omni7.jp/detail/1202240948
[Kindle版]
VOGUE JAPAN (ヴォーグジャパン) 2016年 04月号 [雑誌]




ルイ・ヴィトン16SSショー
http://jp.louisvuitton.com/jpn-jp/stories/womens-spring-summer-16-show
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サラバンドというアンニュイ — UNTITLEDの安室奈美恵 [ファッション]

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今TVで流されているUNTITLEDのCMが目を惹く。安室奈美恵が 「イイ女」 感満載で、白いブラウスと黒のミニキュロットに、黒いジャケットを羽織るというアクション。
ネットには15秒と30秒ヴァージョンの他に60秒のヴァージョンもあって、これらはVeil編と表示されているが、長いヴァージョンになるほど絡みつく布の印象が強く残る。

UNTITLEDというのは、どちらかというとキャリアっぽいファッションのブランドだったはずで、安室奈美恵がブランドイメージそれなりの年齢になってきたとはいえ、まだギャル系のイメージを色濃く残す彼女を起用するということは、新しい購買層を獲得することができるかもしれないが、今までの固定客を逃すかもしれないと、いらぬ心配をしてしまいそうになる。
実際にはそれをも含めた商品展開であって、大アパレルだからそんなにヤワな指向ではないし、むしろ周到な意図が垣間見えるのだけれど、その前のヨンアあたりからやや傾向が変わってきているような感じはする。そうした微妙な変化の継続性が存在しなければブランドは立ちゆかない。

レースを透して、あるいはシルキーな布にくるまれる肢体という映像は、直接的なセクシーイメージよりも、むしろファッションの基点は布なのだというメッセージに思える。それは以前書いたディオール・オムのCMに通じる。ディオールの場合はもっとダイレクトにハサミとかファッションの現場の作業を映し出す手法であるが (→2012年02月15日ブログ)。
跳ね上げ窓のある古い煉瓦造りらしい高層ビルの部屋というロケーションも、すべてが少しアナクロで、UNTITLEDがやはりキャリア・ファッションでもあるのだという含みを残す。

音楽はバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ1番のサラバンド (BWV1002) のサックスによる演奏 (鈴木広志) である。このサックスのがさがさとした質感と和音の重なり加減が、プリミティヴな楽器のような音にも聞こえて、かえってしなやかな布の手触りを連想させる。

サラバンドといわれて思い出すのはイングマール・ベルィマンの同名の映画《Saraband》で、ベルィマン最後の作品であるが、そこで繰り返されるサラバンドは同じバッハでも無伴奏チェロ5番のサラバンド (BWV1011) である。それはストーリーを反映した、やりきれなさと鬱屈の表象でもある。原曲もスコルダトゥーラを指定された暗い音色をあらかじめ持っている。
サラバンドはバロックの頃に用いられていた古い舞曲の種類のひとつだが、BWV1002と1011のどちらのサラバンドも暗くて、けだるくて、重い。たとえばクラヴィーアのパルティータBWV825のサラバンドは例外的に明るいが、油断するとダレる曲でもある。

ファッションは機能性だけではなくて、ときどきの感情の機微を受け止めてくれるフレキシビリティを持っているはずであるが、その容量は、ときに過剰であったり不足であったりして起伏が伴う。機能性だけで考えればあらゆる芸術は無駄であり、ファッションはもっと無駄なジャンルに過ぎない。でも、そうした無駄なもの、そうした不定形の翳りのようなものの必要なときが、きっと人間にはあるのだろうと思う。


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Sarabande BWV1002

UNTITLED CM (Veil編)
http://www.youtube.com/watch?v=ZceQXnRObgM

Arthur Grumiaux/Bach: Partita No.1 BWV 1002 no.5 Sarabande
http://www.youtube.com/watch?v=iFAkjS39wj4

Pierre Fournier/Bach: Cello Suite No.5 BWV1011 no.4 Sarabande
http://www.youtube.com/watch?v=UJKByFsa8Fc

Dior homme CM
http://creativeexchangeagency.com/film/directors/sarah-moon/film/dior-homme-work-in-progress/507344dc-1d0c-4963-aece-76650a0b0910
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