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ジェーン・バーキン〈Ex-fan des sixties〉 [音楽]

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Jane Birkin (What The France, May 19. 2020より)

リサイクル・ショップで奇妙礼太郎の《東京ブギウギ》と椎名林檎の《長く短い祭》のシングルCDを見つけて、それについて書こうと思っていたのだが、それよりもアリス=紗良・オットのデヴュー盤の再発が2回も延期になっていて、果たして本当に出るのかどうかということも書きたくて、それよりももうすぐベートーヴェンのコンチェルトが出るというニュースのほうにかき消されてしまっているのだろう。

《東京ブギウギ》はカヴァー・アルバムで、ふざけたイラストで東京タワーが描かれていてこの脱力感が良い。でも松田聖子の〈赤いスイートピー〉のカヴァーは入っているのだが〈SWEET MEMORIES〉は収録されていないのだ。もっとも〈SWEET MEMORIES〉のカヴァーはいくつもあるが、幾田りらの本気度満々のカヴァーにはかなわない。
YouTubeで検索するとアリス=紗良・オットのコンチェルトはリストの2番、ベートーヴェンの1番もあるが、比較的最近なのは2022年のパリ、エッフェル塔をバックに弾くグリークがあって、いまのところ元気そうなので少し心が安まる。

それよりも東京タワーで連想したのはCLAMPでなくてリリー・フランキーである。土曜日午後のTokyofmのリリー・フランキー《スナック ラジオ》を聴いていたら、エルメスのバーキンの由来について、ごく下世話な解説をしていたのにもかかわらず、他の出演者から全く何の反応もなかった。彼が言うように、バーキンのバッグを欲しがっている女性はジェーン・バーキンのことなんか知らないし曲なんか聴いたこともないだろうから、バーキンの由来なんてもう誰も知らないのだ、と力説。しかも東日本大震災のとき、彼女が使っていたバーキンがチャリティとしてオークションの出されたのだが、リリー・フランキーはそれが欲しかったとのこと。結果については言わなかったが、調べてみると約10万ポンドで落札されたのだそうである。誰が落札したのかは知らない。
何の反応もなかったのにもめげず、《スナック ラジオ》ではその後、ベタだけれどと断りながら〈ジュテーム・モア・ノン・プリュー〉がかけられた。

私にとってのジェーン・バーキンの曲は幾つもあるけれど、ひとつだけ挙げればそれは〈エクス・ファン・デ・シクスティーズ〉である。動画はine.frのものが一番優れていると思う。2013年初頭の、母と3姉妹のインタヴュー動画も見つけたが、この年末、ケイト・バリーは亡くなった。
同曲について、もう10年以上も前に書いた拙稿だが、一応それもリンクしておくことにする。


Jane Birkin/Ex fan des sixties (Archive INA)
https://www.youtube.com/watch?v=tXvgdtbzNyc

Jane Birkin et ses filles: amour, travail et pudeur
Vivement Dimanche 13 janvier 2013
https://www.youtube.com/watch?v=DYSUG3jHZJE

あなたのアイドルたちに Ex-fan des sixties/ジェーン・バーキン
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2012-09-29
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真四角な部屋と薪ストーブ — 村上春樹『街とその不確かな壁』その2 [本]

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水曜日の子供 — 村上春樹『街とその不確かな壁』その1 (→2023年07月08日ブログ) のつづきです。
この記事は上記作品をすでに読んだ人を対象としています。ネタバレもありますし、読んでいないとわかりにくい個所が存在します。あらかじめご了承ください。
尚、文中の 「私」 は主人公の第一人称として使われている 「私」 です。この記事の筆者のことではありません。また、表記として 「私」 と 「主人公」 が混在していますがご容赦ください。

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第一部で描かれる壁の中の街は、単に電気もガスも無い環境というだけでなく何かが決定的に欠けている世界である。それは現実世界と違う発達をした歴史のようでもあり、スチームパンク的なアナザー・ワールドを連想させるが、そうしたものよりもっと矮小で、ここちよく秘密めいたインティメイトな空間を形成している。
街はさびれていて、その廃絶した状態は何かの疫病があったからではないか、というような暗示もされるが (p.446)、物が足りないこと、不便な生活であること、そして時が止まっているように見えることが主人公である私には一種のユートピアとして認識されているように思える。

並行して進行する過去の物語は、ぼくときみの、名前のない二人がかたち作った壁の中の街の構築過程であり、それは文通という古風な手段を介在して、青春の輝きと悲しみを綴って行くが、砂の城が崩れてゆくように彼女の存在は次第に稀薄になり、やがて消失する。
それは思春期の喪失感であり孤独であるが、主人公はそれをずっと引き摺ったままで年齢を重ねてしまう。

対して第二部は、年齢を重ねた主人公が穴に落ちて壁の中の住人でいようと思ったのにもかかわらず現実世界に戻されてしまったので、壁の中の街の図書館への憧憬から、現実の図書館長となる話である。壁の中の街の図書館で扱われている図書は〈古い夢〉であり、現実の図書館とは異なるが、これはアナロジーであり、幾多の物語が閉じ込められている点において等価である。
第二部のメイン・キャラは主人公である私、子易辰也、イエロー・サブマリンの少年、コーヒーショップの店主であり、死者である子易以外に名前はない。

図書館は福島県にある町だが、壁の中の街のように暗く幻想的ではないけれど、やはり現実から隔離されていて、静謐で、内在された悲しみに満ちているが、これもまた主人公の現実世界におけるユートピアの体現なのかもしれない。
第一部は暗く緻密で幻想的、第二部は明るいけれど決定的な色彩がどこか欠けていて、読みやすい散文的な情緒をたたえながら、その裏側にデーモニッシュな様相が透けて見える。

話から外れてしまうが、この第一部と第二部の関係性から思い出したのは、私が偏愛する作家ジュリアン・グラックの『半島』(La Presqu’île, 1970) であった。同書は3編の作品で構成されているが、冒頭の 「街道」 (La Route) はさびれた過去の街道を行きながら、かつての街道の栄華が去来するという、緻密だがやや晦渋で幻想がダイレクトに理解しにくいような作品であり、動的な 「半島」 と著しい対照をなす。
全く関係性がないように見えて、この対比が重要なのだということに気付いた。それに 「半島」 は動的に見えて実は堂々めぐりで、全く動的ではないのだ。グラックは最後のシュルレアリスム作家といわれているが、この2編はそれぞれ手法が異なりながら、一定の関連性を持っていて、すなわち 「半島」 は 「街道」 を補完することにおいて『街とその不確かな壁』の第一部と第二部の関係性に似ている、と感じたのである。
また壁の中の街で主人公である私が高熱で寝込んだとき、看病してくれた老人が昔、軍人だった頃の、亡霊を見た話 (p.80) や、私が将校で異国で戦闘をしているという幻想的な夢 (p.135) は、戦争がその実体をともなわず、その予感だけがかもしだされていることにおいて、グラックの『シルトの岸辺』や『森のバルコニー』を思い出す。

高校生の頃、通学の電車の中でこの『半島』を読んだ記憶があるのだが、そのときはそこに描かれている内容がよく理解できなくて退屈な印象であった。グラックのおそろしさがわかったのはもう少し後年になってからである。

さて、『街とその不確かな壁』における実体と影との関係から当然連想するのは、アーシュラ・K・ル=グィンの『ゲド戦記』(Earthsea) である (特にオリジナルな最初の3部作)。邦題は順に 「影との戦い」 (A Wizard of Earthsea, 1968)、 「こわれた腕環」 (The Tombs of Atuan, 1971) そして 「さいはての島へ」 (The Farthest Shore, 1972) であるが、原タイトルに沿って、以下 「アースシー」 「アチュアン」 「ショア」 と略することにする (尚、私見だが 「Farthest Shore」 というタイトルはJ・G・バラードの『終着の浜辺』(Terminal Beach, 1964) へのリスペクトのような気がする)。

アースシーにおける重要な命題は名前であり、人には仮の名前と真の名前があって、真の名前を識ることはその者を支配できるパワーを持つことにつながる、というものである。見習いの魔術師であるゲドは、開けてはいけないパンドラの匣を開けてしまったことにより、自分の影に悩まされることになる。この実体と影との関係はル=グィンの『闇の左手』(The Left Hand of Darkness, 1969) における光と影との関係性と同義である。
そして 「アースシー」 で名前の重要性についてあれだけ語られながら、次作の 「アチュアン」 では名前の無い世界を描くというコントラストを見せているのだが、この『街とその不確かな壁』で、名前がほとんど存在しない状態を連想してしまうことも確かだ。

3作目の 「ショア」 は年老いた魔術師ゲドが若者を教える話だが、世界の均衡は崩れ、生者と死者の世界の境界が曖昧になるところは『街とその不確かな壁』のテーマでもあり、その中で引用されるガルシア=マルケスでも同様である (老魔術師が若者を教えるというシチュエーションは《スター・ウォーズ》におけるヨーダとルークの関係性である。ほとんど言及されないが、《スター・ウォーズ》は『ゲド戦記』からの影響が多く存在する)。

ただ『街とその不確かな壁』で描かれる影は、アースシーのような影で暗躍しているような影ではなく、もっと具体的な実体を持っていて、私と影とは会話をし、雄弁な影の強い説得に応じてしまいそうになったりするのだ。
しかし、私と影とが分離している壁の中の街での状態を除けば、影は通常の影であり、したがって影の無い者 (=子易) は死者である。アニメ《となりのトトロ》に於いて、影の無いシーンが死者であることを暗示していると指摘されたのは、影についての定型的な認識である。ということから壁の中の街の人々はすべて死者であるという類推も成り立つ。

壁の中の街の図書館のドアには 「「16」 という数字が刻まれた真鍮のプレート」 (p.28) が付けられているが、16はきみ (=少女) の年齢であり、それは永遠に16歳であり続けることを示しているのだ。壁の中の街の時計には針がない。なぜなら 「時間は進行しない」 (p.634) し、「現在という時しか存在」 (同) しないので、外部からの何らかの働きかけがない限り、私と図書館の少女の関係性は永遠に続くはず、と考えることができる。これが私にとって街がユートピアであるということの所以である。
ところが第一部の終わりで、私が街にとどまりたいと決心したのにもかかわらず現実の世界に戻ってしまったのは、主人公の潜在意識が冥府にとどまることを嫌ったからに他ならない。なぜなら主人公は死者ではなく生者であるからだ。

私は冥府への誘惑にいつもとらわれている。現実世界における冥府の象徴が、魅力的な死者である子易辰也である。つまり子易は、壁の中の街の16歳の少女 (あるいは過去の記憶の中のきみ) のヴァリエーションとも考えられる。なぜ子易がスカートを穿いているのかといえば、子易は憧憬する少女の変形なので、記号論としてスカートを穿かざるをえないのだ。

イエロー・サブマリンの絵が描かれたヨットパーカを着た少年は、現実世界ではコミュニケーション能力に障害があるのに、壁の中の街では私と普通に会話できることからも、少年は本来、冥府に属するべき住人と考えてよい。
第三部で少年は、壁の中の街に違和感を持ってあらわれるが (p.600)、私と一体化することによって、壁の中の住人としてのポジションを得る。

ストーリーの中で緑色は鍵となる色で、少年のあざやかな緑のヨットパーカ (p.600)、第一部で少女が着ているノースリーブの淡い緑色のワンピース (p.10)、壁の中の街で私がかけている濃い緑色の眼鏡 (p.30) など、すべてが緑色で、しかもその濃淡がそれぞれの性格をあらわしているともいえる (これはヴァージニア・ウルフが『灯台へ』(To the Lighthouse, 1927) で用いた色の扱いに通じる。『灯台へ』については→2016年12月03日ブログ、→2016年12月29日ブログを参照)。

少年は壁の中の街に行くため、抜け殻を現実世界に残す。それは私の夢の中にあらわれるのだが、深い森の中の小屋の物置に少年の姿をした人形として捨てられているのだ (p.561)。関係ないかもしれないが (否。関係はないといっていいのだが)、この人形から私が連想したのはバルトークの3大舞台音楽のひとつ《The Wooden Prince》である。3つのなかでは最も有名ではないが、最もアヴァンギャルドな作品である (最近は作品内容から邦題が《木製の王子》でなく《かかし王子》とされていることがほとんどだが 「かかし王子」 は語感が悪いように思う)。

子易がなぜスカートを穿くようになったのか。子易が妻と子を失った後、しばらくして周囲から後妻をという話があったのにもかかわらず、子易はそれを断り、そうした再婚話が来ないように、他人から自分が変な人であると見られるようにと、意図的にベレー帽をかぶりスカートを穿くようになったのが動機だということになっている。
つまり再婚はしないという意思表示でもあるのだが、そこに性的なアプローチに対する拒否が見てとれる。これはコーヒーショップの店主に関しても同様で、彼女はセックスが苦痛でできないこと (p.539)、そして簡単に脱がすことができないような身体を締め付けるオール・イン・ワンの下着をつけてガードしていること (p.581) などによって、性的なものへの拒否をあらわしていると見ることができる。子易のスカートやコーヒーショップ店主の下着が、衣服という記号によって他人を遠ざける意図を示していることはあきらかである。
そしてそうした二人の性的なものへの拒否感は、私の十代の頃にさかのぼって、キスしか許してくれなかった少女に対する性的飢餓感あるいは抑圧へとつながるように思える。

壁の中の街はその不便な環境にもかかわらず主人公にとってユートピアだったのではないか、というのは前述した通りである。街の存在は私、あるいは私と少女によって構築された架空の街に過ぎない (p.126) のだから、自分たちの都合の良いような全体像をとっているのが当然なのである。しかしその世界は狭量で、クエーカー教徒のように禁欲的で、その総体が生きること、ないしは性的欲望から切り離されていることも事実だ。ユートピアでありながらディストピアなのかもしれないという評価も成り立つ。

では現実世界の福島県の図書館での生活はどうだろう。周囲から干渉されることのない、静謐で、コンピュータとは無縁の (図書館では事務処理にパソコンを使用していない)、テレビもオーディオも無い、いわばノスタルジックで前時代的環境。というより禁欲的なことでは壁の中の街のヴァリエーションで、賑やかな生活に対する拒否感が感じられるが、これもまた私の意図によって構築されたユートピアなのかもしれない。
だがそれでいて私は孤独であることが述懐される。川沿いの道を行き止まりまで歩いた先で、

 そこに一人で立っていると、私はいつも悲しい気持ちになった。それは
 ずいぶん昔に味わった覚えのある、深い悲しみだった。私はその悲しみ
 のことをとてもよく覚えていた。それは言葉では説明しようのない、ま
 た時とともに消え去ることもない種類の悲しみだ。目に見えない傷を、
 目に見えない場所にそっと残していく悲しみだ。目に見えないものを、
 いったいどのように扱えばいいのだろう? (p.234)

何がユートピアであり何がディストピアなのか。ここで思い出すのは、やはりル=グィンの『所有せざる人々』(The Dispossessed, 1974) である。資本主義的で享楽的な世界と、原始共産主義的な禁欲的世界を対比させることによって、どちらが人間にとって幸福なのか、ということが提示される。光と影、あるいは実体と影のように二項対立を提示することがル=グィンの常套手段ともいえるが、その世界がユートピアかディストピアかという判断は相対的なものに過ぎず、自らがその世界を創り出したのだとしても、それが自分の理想に合致しているものなのかどうかはわからないのだ。

最後に仄めかされるのは、壁の中の街の少女は、壁が用意した私のためだけの少女かもしれない、ということだ (p.651)。それは子易の存在がなくなった後に、図書館の空気の質が変化したことに似ている (p.505)。
壁の中の街の図書館の新しい〈夢読み〉となったイエロー・サブマリンの少年に対応する少女は、私に対応していた少女とは異なるだろうし、少女でさえ、ないかもしれない。

壁の中の街の図書館の少女は、私のことを知らない。

 「いいえ、お会いしたことはないと思います」 と君は答える。君が丁寧な
 口調で答えるのはおそらく、君がまだ十六歳のままなのに私はもう十七
 歳ではないからだ。(p.31)

同様に、壁の中の街で〈夢読み〉をしている私は、街に出現してきたイエロー・サブマリンの少年を知らない (p.600)。実体と影とは別のものであり、記憶の共有はできていない。
再起動するたびに過去の記憶が消去されてしまうCLAMPの『ちょびっツ』のように、記憶の連続性や、連綿と続く記憶の堆積は無いほうが幸せなのかもしれない。


村上春樹/街とその不確かな壁 (新潮社)
街とその不確かな壁

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水曜日の子供 — 村上春樹『街とその不確かな壁』その1 [本]

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人は誰でも悲しい物語を持っている。だが多くの人々は、その悲しみを些細なこととして忘れてしまう。大人になるにつれて飛び方を忘れてしまうウェンディのように。
子どもの頃の淡い記憶をゼラチンの中に定着させるような行為、それは古風な夢のかたちの標本であり、あまりにも儚く気恥ずかしいことのはずで、その記述の冷静さと緻密さに作家の確かな構築力が感じられる。

小説は3部に別れている。第一部は高校生の頃のぼくときみの話。ぼくにもきみにも名前はない。きみと呼ばれる彼女は自分の夢の中の街について語る。街は高く堅固な壁に囲まれ外に出ることはできない。死に絶えたような生気のない街——電気もガスもない環境で人々は静謐で質素な生活を営んでいる。その街の図書館に彼女は勤めている。
図書館とはいいながらそこに本は一冊もない。収納されているのは〈古い夢〉で、その〈古い夢〉に触れることができるのは〈夢読み〉に限られている、と彼女は言う。そしてぼくに対して 「あなたは〈夢読み〉になるのよ」 (p.12) と言う。彼女はその夢の街の中のわたしこそが本当のわたしで、ここにいるわたしは影に過ぎない、とも言う。
しかし、夢の中の街の話の繰り返しと長い手紙の行き来の末に、彼女とは音信不通になってしまう。それがぼくの青春期に於ける強い記憶であり、その思い出から逃れないまま、ぼくは大学を卒業し、書籍取次会社に就職し、未婚のまま、四十五歳になる。

第一部では『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985) と同じように、もうひとつの物語が交互に語られる。もうひとつの物語とは、壁に囲まれた街で暮らすようになった私 (=年齢を重ねたぼく) と、十六歳のままの彼女 (=本当のわたし) の話で、私は〈夢読み〉としてその街の図書館に通い、古い夢を読むことになる。彼女は私のことを覚えてはいない。

壁の中の街に入るとき、私は目を傷つけられ影をはぎとられる。街の中の人々には影がない。私の〈夢読み〉はなかなか上達しないが、ある日、私は自分の影と出会う。影は、この壁の中の街はニセモノで、外の世界こそが本当の世界だと言う。そして、影と私が一緒にこの街を出て、元通りに合体すべきだと提案する。私と影とは街からの逃亡を企てるが、最後になって私は街にとどまる決断をし、影だけが街を出て行ってしまう。

第二部は現実の世界の話。三部にわかれている中で最も長い。
壁の中の街にとどまっているはずだった私は、なぜかこちらの世界に戻って来てしまっている。自分には影があるし、その影が話しかけてくることもない。私は仕事に戻るが、自分が図書館で働いている夢を見て、図書館で働くしかないと思い、図書館の仕事を探す。そして福島県の小さな町の図書館長に転職する。前館長の子易辰也 (こやす・たつや) は親切に仕事を教えてくれる。しかしあるとき、子易はすでに亡くなってしまった人であることを知る。子易には影が無く、子易の姿は特別な人の目にしか映らないのだ。

子易には妻子を亡くしてしまった不幸な過去があることを私は知る。そして、図書館は子易が私財を投じた彼の唯一の拠り所であることも知ることになる。だが死者である子易の存在は次第に稀薄になり、やがてその姿を見ることができなくなる。

図書館にいつも来て、本を読み続けている少年がいる。少年は16〜17歳くらいで、いつもイエローサブマリンの絵が描かれたヨットパーカを着ている。彼はサヴァン症候群で、どんな本でも読み、そして記憶してしまうようなのだ。
私が子易の墓で、壁の中の街のことを子易に伝えようとして語っていたのを少年は聞きつけ、壁の中の街へ行きたいと熱望するようになる。そしてある日、いなくなってしまう。
少年の家族は少年を探すが見つけることができない。私は少年が、壁の中の街に行ってしまったのだと思い、そのように説明する。

第三部は壁の中の街に残ったほうの私の物語だ。私は街の中で、イエローサブマリンの少年を発見する。しかし壁の中の街の私は少年のことを知らない。少年は積極的に私に近づいてきて、そして少年と私は一体化する。少年のほうが〈夢読み〉の能力はすぐれている。少年は私に、この街から去るようにとすすめる。この街から去って、外の世界で、元通りに影と合体すべきだというのだ。私は図書館の少女に 「さよなら」 を言い、壁の中の街から出て行くことにする。

真四角な部屋と薪ストーブ — 村上春樹『街とその不確かな壁』その2 (→2023年07月16日ブログ) につづきます。


村上春樹/街とその不確かな壁 (新潮社)
街とその不確かな壁




Dave Brubeck Quartet/Just One of Those Things
https://www.youtube.com/watch?v=bNmEM5CHrJ0

Dave Brubeck Quartet/You Go to My Head
https://www.youtube.com/watch?v=_4bzBqLiWoI

Yellow Submarine Original Trailer 1968 (Beatles Official)
https://www.youtube.com/watch?v=vefJAtG-ZKI
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