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サントリーホールのチョン・キョンファ [音楽]

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昨日は台風のため、交通機関はほとんど止まってしまったが、今朝は点検後すぐに復帰するという話だった。しかし現実にはJRは正午頃まで動かなかった。そんな中、サントリーホールのチョン・キョンファに行く。台風のため、開演時間が1時間遅れに変更されていた。

コンサートの演奏曲はブラームスのソナタ第1番《雨の歌》、第2番、第3番である。つまり全曲演奏なのであるが、あれもこれもの名曲アルバムでなくブラームスのソナタ3曲という潔さに惹かれた。でも逆に、チャレンジャーだなぁという心配もよぎる。
着いてみるとサントリーホールの周辺の飲食店も今日は閉店しているところが多く、なんとなく閑散としている。そんな日なのに、通り道のテーブルでお弁当を食べていた家族連れ (しかも複数) はなぜこんなところにいるのだろうかという疑問がよぎる。
ホールに入ってみると、客席も半分とはいわないが6分くらいの入りで、それが台風の翌日の混乱で来られない人がいたためなのか、それともそんなに切符がはけなかったのかは不明である。やはりブラームスばかり3曲だとちょっと地味なのでは、という危惧なのだ (しつこい)。

定刻、といっても1時間遅れだが照明が暗くなりチョン・キョンファがステージに登場。パープルのドレスに銀のシューズ。ピアニストはケヴィン・ケナーである。ケナーの楽譜はタブレットで、でも譜めくりの女性 (めくらないが) がいるということは手動なのだろうか。膝に操作ボックスのようなものを置いている。チョンも譜面台を立てているが、こちらはもちろん伝統的な紙製の譜面を自分でめくるシステムである。
チョンは髪をかなりショートにしていて、髪の長かった若い頃の雰囲気とはかなり違うが、その存在感はただものではない。むしろ典型的な 「ただものではない」 感がして、おおお、と思ってしまう。

ここでブラームスへの興味について書いておきたい。ブラームスはロマン派の作曲家でベートーヴェンの後継で、というような歴史認識が一般的であり、その作品は伝統的な古典的手法を多少ロマン派的に変えていったというような中庸を目指した人のような解釈があるが、そういうものを打ち砕いたのが野本由紀夫のブラームスの交響曲に対する解説であり、そのことはすでに以前のブログに書いた。
野本の解釈は、ブラームスの曲は一聴、耳当たりがよく、心を和ましてくれて、伝統的な音楽の継承というような穏やかな作品というふうに見えながら、実は結構アヴァンギャルドで、でもそれが表面に出て来ないのでわからない、ないしはわかりにくいということなのである (というふうに私は読んだ)。それまで私は、ブラームスの音楽は何かこみ入っているようなウワーンとしたところがあって (私はそれを勝手に 「喧噪点」 と呼んでいる)、それが今ひとつわからないという印象だったのだが、野本の指摘にしたがってそれを聴くといちいち納得できるし、胸のつかえがとれたのである。
そういう視点でこのヴァイオリン・ソナタを聴くと、あちこちにあるちょっと変なところが、それについて解析するのは私には無理だけれど納得できるのである。そう考えると、変だと思っていた音が変で無くなるのだ。ただ、それを変なところと認識するか、それともそのように感じないで通り過ぎてしまうのかは人それぞれであり、全然変だと思わない人だっているだろうから、これはあくまで私の個人的な認識である。

さて、ヴァイオリン・ソナタは第1番 (op.78) が1879年、第2番 (op.100) が1886年、第3番 (op.108) が1886~1888年に作曲されたことになっていて、作品番号からもわかるように第1番のみがやや離れている。第2番と第3番は晩年というほどでもないが、かなり後期の作品である。第1番以前にa-mollのソナタを書いたといわれているが破棄されて現存していない。
ブラームス3曲を続けて弾くのがチャレンジャーだといったのは、常識的にブラームスの曲と認識して聴くと、そんなに面白い曲ではないのではないかという印象があるからだ。派手な技巧的な部分があるわけでもなく、官能的でもないし俗悪でもない。でもそれをあえて番号順に並べたのはチョンの意志があったからに他ならない。それはこれらの曲の並びが、一種のミクロコスモス的な人生のアナロジーのように感じられるからだと私は思うのである。

第1番は《雨の歌》というタイトルが付いているが、これはブラームス自身の歌曲からの引用があるからであり、全体が柔らかな雰囲気に包まれているが、そんなに名曲というほどではなく佳曲という印象である。だが第3楽章に〈雨の歌〉の引用があり、調性も短調になって、この楽章のみ少し毛色が違うように思う。
ただ、これは単に私の感じたことであって勘違いに過ぎないのかもしれないが、弾き出しの頃、チョンの楽器が鳴っていないような気がした。演奏そのものでなく、あくまで楽器に対する印象である。こういうと大げさだが、「これってヴィオラ?」 と思ってしまったくらいである。ところが第3楽章あたりから鋭い音と、客席にまで伝わってくる明瞭さに音質が変わってきたような、あるいは楽器が目覚めたような気がした。
第2番は曲想も明るく、チョンの弾く音もいかにも彼女の音のように聞こえてきて、といっても往年のチョン・キョンファ節というほどではないのだが、でもその音が独特だということが実感できる。あえていえば彼女が、やはり若い頃より丸くなってしまっている印象は否めない。それは悪いことではなくて、若い頃には若いなりの、年齢を重ねてからは重ねたなりの表現が存在するのである。

休憩20分をはさんで後半は第3番。結論から言ってしまえば、私が注目したいのはこの第3番であって、それはチョンの思いも同じなのだというふうに考える。第3番は4楽章あり、やや長い曲であるが、第2楽章を弾き終わったところで、ちょっとしたギミックがあった。チョンが客席に向かって、手を下から上に何度も上げたので、客席からは笑い声が起きた。つまり 「ちょっと辛気くさい曲だからといって寝ないでね」 というような意味だったのだろうか。私にはそのように感じられた。そしてピアニストの椅子 (やや横に長くなっている椅子) の端っこに、ちょこんと腰掛けたのである。これで客席の緊張感と 「ちょっと眠いよね」 感がとれたのではないかと思う。
その後の第3楽章と、連続して弾かれた第4楽章はこの日の頂点であった。つまりなぜブラームスか、ということについてである。彼女は身体を自在に動かし、時にピアニストのほうに身体を向けてその演奏を鼓舞し、すべてを支配していた。
私にとってこの第3番はスリリングであった。この曲には野本由紀夫が指摘していたようなブラームスの 「仕掛け」 が多く存在していて、「えっ? そこでそう行く?」 というような意外性があるのである。そしてそれは決して恣意的な書法ではなく、周到に考え抜かれたブラームスの得意技なのである。ブラームスに関してあえて難点をあげれば、それはこの隠された周到さに対する 「いやらしさ」 と言ってしまってもいいかもしれない。それほどにブラームスの書法は天才的なのだ。そしてそのブラームスの特質をわかったうえで弾いているチョンがすぐれているのは当然なのである (下にリンクした1980年のチョンは、かつてのチョン・キョンファ節全開で、でもブラームスに対する理解はすごいと感じさせる)。

アンコールはシューベルトのソナチネ D384の第2楽章と第3楽章。あえて易しい曲を選んで、お口直しをとしたのがチョンの老練なところなのかもしれない。あ、老練などといってはいけない。まだ十分にお若いです。
クラシックコンサート恒例のサイン会は、「CDを購入した人だけ」 などと言っているので帰って来た。やたらにサインを欲しがるのは演奏者にとって負担なのでは、ということもあるし、そもそもそこで販売されていたCDは全部持っているので買うものが無かったのです、HMVさん!

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Brahms/Violin Sonata No.3 第4楽章冒頭


チョン・キョンファ/Bach: Sonatas & Partitas
(ワーナーミュージック・ジャパン)
バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(全6曲)




Kyung-Wha Chung/Brahms: Violin Sonata No.3
live 1980 with Pascal Roge.
https://www.youtube.com/watch?v=_ZjMCUHkXuQ
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若き上原ひろみのシューマン [音楽]

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Concord RecordsからYouTubeにupされている上原ひろみ《Spectrum》のトレイラーがカッコイイ。左手の強いヒットから始まるタイトル曲は、そのリズムとメロディの連なりで、一瞬にして上原の音であることを明らかにする。Concordからは〈Spectrum〉の通しの演奏も同様にupされている。6分弱だが非常に濃密にいろいろな要素の詰まっている構造をしている。延々と畳みかける搏動のようなリズム、強い同音の連打やユニゾンによる超速のテーマ。演奏はジョージ・ルーカスのスカイウォーカー・スタジオで録られたとのこと。

YouTubeにはその上原の15歳の時のシューマンもあって、これがなかなか面白い。ピアノが2台並んでいて上原は生徒であり、飛翔 (Aufschwung) を弾いている。1994年の演奏であることが解説文からわかる。隣に怖そうなおばさんがいて、この人が講師なのだが、上原が一通り弾いて、このくらい弾ければ問題ないのではと思ってしまうのだが、講師があれこれとダメを出しながら、同じ個所を演奏するとすごく上手い (あたりまえだけれど)。
講師はヴェラ・ヴァシリエヴナ・ゴルノスタエヴァ (Vera Vasilevna Gornostayeva, 1929-2015) というロシア人のピアノ講師だが、ゲンリヒ・ネイガウス (Heinrich Gustavovich Neuhaus(z), 1888-1964) の弟子だとのこと。ネイガウスはギレリスやリヒテルの先生だった人である。
つまりロシアという国はこのくらいのレヴェルのピアニストが山ほどいる (いた) わけで、でもこれだけレヴェルの高いピアノ・レッスンの様子はかつてのルイサダのピアノ・レッスンを彷彿とさせる内容で、こうした経験も上原の今を形成する元になっているのだろうと思う。

ゴルノスタエヴァの指摘の中で印象的なのが左手の用法で、彼女が弾くと左手のヒットがとても効果的に響く。そしてゴルノスタエヴァはロマン派の音楽とはどういうことなのかというところから、上原に説いてゆく。もっと大胆に弾いてよい。はりさけそうに爆発するように弾くのだという。
そして左手。もっと思い切ってバスを出して。バスが浅いと、音の深さが足りなくなる、という。といいながら上声部の音が貧困ともいう。リズムに関しては 「あなたは [リズムに関して] もっと遅らせる権利を持っている」 と通訳がいう。この言い方は直訳だが、かえって意味がよくわかってすぐれている。

ゴルノスタエヴァはシューマンの2つの性格、フロレスタンとオイゼビウスについて言及する。そして2つのイメージがあるのだから、曲想が変わったら新しいイメージを作らなければならない。これは神秘的で謎めいたもの [個所] であるという。そうした場合、左手があまりに明瞭過ぎるという。つまり必ずしもいつも明瞭に弾くのではないということなのだが、これはかなりむずかしい解釈だ。今の上原ひろみ、つまり〈Spectrum〉のYouTubeを観ていても、このゴルノスタエヴァのレッスンを観た後では、どうしても上原の左手が気になってしまう。上原の左手はいつの場合も明瞭であり、強い打鍵が特徴だ。

YouTubeをそのままにしていたら、ユジャ・ワンのルツェルン2018年ライヴのアンコール、プロコフィエフの〈トッカータ〉が映し出された。このプロコフィエフも同音の連打から始まる。なんとなくさっき聴いた上原の〈Spectrum〉に連想がいってしまう。上原ひろみとユジャ・ワンの共演を望むみたいなことがどこかのレビューに書いてあったが、刺激的なイヴェント性を望むだけなのならばそういうのもありかもしれない。
私はamazonのカスタマーレビューの類いはほとんど読まないのだが、今回、少し読んでみたら 「これはジャズではない」 と書いている人がいて、なるほどと思った。テイストとしてのジャズは極小である。だがキース・ジャレットのソロピアノも最初は同様に言われたのである。保守とは常に否定から始まるものなのだ。


上原ひろみ/Spectrum (Universal Music)
Spectrum (初回限定盤)(2SHM-CD)




Hiromi/Spectrum (Album Trailer)
https://www.youtube.com/watch?v=-MLFP2UBlaA

Hiromi/Spectrum (Live)
https://www.youtube.com/watch?v=A8RCz_RoefM

Hiromi Uehara piano lesson for “Aufschwung” by Schumann
Vera Gornostayeva, 1994
https://www.youtube.com/watch?v=VasIAt__fIc
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BBCのピーター・ポール&マリー [音楽]

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今日は雨が降るのだろうか。昨日は降らなかったけれど今にも降りそうな空だったりした時があって、この不安定な気候には辟易するのである。
さて、今日はピーター・ポール&マリーを聴いていたらハマッてしまった。でも私は原則としてフォークソング系の音楽が好きではない。嫌いと断定しないところがミソだが、けれどピーター・ポール&マリーはいわゆるシティ・フォークといった色合いで、あまり土俗的なテイストがない。さらっと聴けてしまうのでとっつきやすいのである。
コーラスの美しさと2人のギターのテクニックは完璧である。私がピーター・ポール&マリー (以下、PPMと略) を聴いていて惹かれた曲は、たとえば〈Sometime Lovin’〉という比較的しっとりとした地味な曲であった。ゲイリー・シアストン (Gary Shearston, 1939-2013) の曲である。〈Tiny Sparrow〉でもよい。要するにあまり動きのない、静止した風景のようなものに惹かれていた。でもそれはPPM本来の音楽性からいえばズレていたのかもしれない。
試しに何枚かアルバムを買ったが、〈Sometime Lovin’〉は《The Peter, Paul and Mary Album》というアルバムに収録されていて、でもこれは持っていない。つまりその程度の、ごく初歩的な曲きり知らないファンでしかないのである。

YouTubeにあるBBCライヴは1965年で、まだモノクロの映像だが、若々しい3人の歌声と演奏の様子がよくわかる。2本の動画があって、リンクしたのは少しでもきれいに見えるほうにしたが、もう1本の説明文の中にセットリストが掲載されている。
https://www.youtube.com/watch?v=ylyaVOxa6aU

映像は2回に別れていて1~9曲目までと10~17曲目だが、幾つか間違いがあるので指摘しておく。
5曲目の〈Jesus Met the Woman〉の正確なタイトルは〈Jesus Met the Woman at the Well〉、10曲目の〈The Times are a Changing〉はThereが抜けていて〈The Times There are a Changing〉、15曲目の〈Great Day〉はタイトル自体が間違いで〈Come and Go with Me to That Land〉である。これらを訂正すると下記のようになる。

 01) When the Ship Comes In
 02) The First Time
 03) San Francisco Bay Blues
 04) For Loving Me
 05) Jesus Met the Woman at the Well
 06) Early Morning Rain
 07) Children Go Where I send Thee
 08) The Whole Wide World Around
 09) Early in the Morning
---------------------------------------------
 10) The Times There are a Changing
 11) Hangman
 12) In My Dreams
 13) Puff, the Magic Dragon
 14) Rising of the Moon
 15) Come and Go with Me to That Land
 16) Blowing in the Wind
 17) If I Had My Way

PPMの実力がよくわかって、かつ明るい演奏でよく知られている曲は
 03) San Francisco Bay Blues [7’50”~]
 05) Jesus Met the Woman at the Well [13’30”~]
 15) Come and Go with Me to That Land [47’42”~]
 16) Blowing in the Wind [51’00”~]
あたりだろう。サンフランシスコ・ベイ・ブルースはカズーも入っていて楽しい。

だが私が個人的に好きなのは、朝の飛行場と心象風景を歌ったゴードン・ライトフット作曲の
 06) Early Morning Rain [17’49”~]
で、歌詞の中に数字の出てくる個所、
 Out on runway number nine,
 big seven-o-seven set to go
が印象に残る。seven-o-sevenがさすがに時代を感じさせる。
精緻なギターと歌のからみが美しいトラディショナル・ソングの
 07) Children Go Where I send Thee [21’07”~]
そして暗い情熱のような諦念のような感情がうかがえるようなアイリッシュな歌の
 14) Rising of the Moon [43’55”~]
あたりだろうか。とはいえ、捨て曲は無くて、非常にすぐれたライヴであることは確かだ。今聴いても全く古びていないことに驚かされる。

以下はその当時のフォークソングと呼ばれるジャンルと日本におけるフォークソングとがどのような関係性にあったかということについて、私が感じたことである。あくまで個人的な感想であるので独断と偏見があるかもしれないことをお断りしておく。
アメリカにおけるフォークソングの流行のピークはジョーン・バエズ、そしてボブ・ディランのようないわゆる反戦フォークを含めたプロテストソングの隆盛の時期にあると思われる。しかしフォークソングとは、もともとがトラディショナル・ソングであり、あるいはゴスペルがそのルーツであることからもわかるように、多分にレリージョナルなジャンルであった。政治的なもの云々より先に宗教的な志向を持つものなのであった。PPMの曲を聴いてもわかるように〈Jesus Met the Woman at the Well〉や、このライヴでは歌われていないが〈Tell It on the Mountain〉といった曲はその歌詞からも明らかであるようにキリスト教をそのベースとしている。
ボブ・ディランのようなメッセージ性を第一としたフォークソングに較べると、PPMやブラザース・フォアといった伝統的フォークソングのルーツに乗っていたシンガーたちはディランなどに較べると穏健であり、PPMはディランの〈Blowing in the Wind〉などを歌っているのにもかかわらず、それはフォークソングというジャンルの中にそういう曲があるからという理由による選曲であって、思想的・政治的に選択されたものではなかったのではないかと思われる。フォークソングの根源的な音楽であるはずのカントリー・ミュージックは元来保守的なものであり、プロテストソングとは対極にあるジャンルである。

〈San Francisco Bay Blues〉という曲は、ジェシー・フラー (Jesse Fuller, 1896-1976) によって1954年に作られた曲であるが、そのアルバムタイトルが《Folk Blues ― Working on the Railroad》であることからもわかるように、その曲の作り方としてはプリミティヴであり、デルタ・ブルースに遡るそうしたブルースのルーツとゴスペル・ソングとはある意味似ている。〈Rising of the Moon〉のようなアイリッシュ・フォークの曲もそのプリミティヴな共通性から選ばれているのに違いない。

日本ではそうしたアメリカの流行に影響されてディラン的な歌を作るソングライターもいたが、単にフォークソングという比較的素朴な音構造だけを借りてそれらしき音楽を作るという方法論も存在していたように思われる。それはあくまで商業主義を基本としているため、結果として単なる歌謡曲の亜流であったり、日本という国情に合わせた独特な技法を編み出すことで変質して行き、やがて歌謡曲というジャンルの中に吸収されていった。
フォークソングに限らず欧米の音楽を考える場合に重要なのは、曲に対するレリージョナルな動機であって、その善悪はともかくとしてそれを考えずに通り過ぎることはできない。私が繰り返しとりあげるR.E.M.の〈Losing My Religion〉にしても同様である。「神を信じていないのだが、神を信じる」 的な矛盾を抱えているのが今の作詞・作曲家たち、もっと言ってしまえばオーディナリー・ピープルという気がする。だが日本の歌曲の場合、基本的に宗教に対する思考というものが存在しないので担保も存在しない。では何を矜恃としているのかが私には不明なのである。


The Peter, Paul and Mary Album (Warner Records)
ピーター・ポール&マリー・アルバム(紙ジャケット)




LIVE Pater, Paul and Mary Tonight in Person BBC Four 1965
https://www.youtube.com/watch?v=qdcapT2Tdag
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ボローニャの山中千尋 [音楽]

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山中千尋のアルバム《Prima Del Tramonto》がこの6月にリリースされたが、ミシェル・ペトルチアーニにフォーカスした作品も収録との惹句がプロモーションの中にありながらも、メインはブルーノート80周年ということらしい。それに関連した動画がまだ見当たらないので、少し前のボローニャにおけるライヴをリンクしてみる。
2011年10月のボローニャにおけるライヴ、〈She Did It Again〉はもちろんペトルチアーニの曲である。ボローニャという地名から私が連想するのはセシル・テイラーの《Live in Bologna》(1987) であるが、単に地名が共通しているのに過ぎない。

ペトルチアーニのこの曲は左手の執拗な繰り返しの上に乗る強靱なリズムを伴った右手という印象が強いが、山中千尋の場合、その執拗さは多分に薄められ、もっとソフィスティケイトされた彼女の音に変えられている。たとえばブルーベックの〈Take Five〉の場合のテーマのくずしかたを聴いていると、このひそやかなトリッキーさが持ち味であって、テーマを離れてインプロヴィゼーションに持って行けば、もう原曲は関係ないのである。だからボローニャにおけるライヴでも〈La Samba Des Prophetes〉などのほうが 「山中千尋の速度」 なので、こういうときにこそ、彼女の本領が発揮される。

ただ〈La Samba Des Prophetes〉のような好きな速度というのは快適で快感を伴うのだが、〈She Did It Again〉のような、ある程度、曲そのものに縛られるほうがその味わいが出てくることがある。それはダークという色合いであって、彼女のもっとも重要なテイストはそのダークさにある。ペトルチアーニの弾く〈She Did It Again〉はone and onlyなテクニックの下にあるが、そのコンセプトは左右の手のコントラストでありダークさとは無縁である。
ペトルチアーニの抒情は〈In a Sentimental Mood〉などを聴いてみてもわかるように、あくまで正統派であり、その構成力には翳りがない。オスカー・ピーターソンを聴いても同様に感じるように、超絶なテクニックを持つ人はその抒情も明快なのである。

〈Living without Friday〉でも 「好きな速度」 というのは変わらなくて、この曲も典型的な 「好きな速度」 であるが、特に若い頃のこうした演奏はハマッてしまうとまさに爽快で、エンターテインメントとしてのジャズのテイスト躍如といってよい。特にこのトリオは3人のバランスがとれていてスリルがある。
だが〈She Did It Again〉の場合は、単純にその 「好きな速度」 に持って行くまでのプロセスを考えても、もう少し屈折していて、つまりペトルチアーニの曲はマテリアルであり、だから左手の循環コピーはあまり必要ではなく、むしろそこからいかに離れるかが重要視されることになるのである。


Chihiro Yamanaka/Prima Del Tramonto (Universal Music)
プリマ・デル・トラモント(通常盤)




Chihiro Yamanaka/LIVE IN TOKYO
(ユニバーサルミュージッククラシック)
LIVE IN TOKYO [DVD]




Chihiro Yamanaka/She Did It Again
live at Bravo Caffè, Bologna, October 2011
https://www.youtube.com/watch?v=a-RpRcPMUD8

Chihiro Yamanaka/La Samba Des Prophetes
https://www.youtube.com/watch?v=M48iOryMdV4

Chihiro Yamanaka/Take Five
https://www.youtube.com/watch?v=f7f46zoYT6Q

Chihiro Yamanaka/Living without Friday
https://www.youtube.com/watch?v=qh9TjtD3SrQ

      *

Michel Petrucciani/She Did It Again
https://www.youtube.com/watch?v=24X-vAVQCCM

Michel Petrucciani/In a Sentimental Mood
https://www.youtube.com/watch?v=6PyYcnXQZJY
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モントルー・ジャズ・フェスティヴァルのプリンス [音楽]

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CDやレコードといった再生音楽の場合、対象として評価する音はなるべく正規音源について語るべきであって、ブートに深入りしていくときりがないと思う。というより単純に、入手しにくいものや著作権に触れるものに執着するのはマニアックに堕ちた方向性でしかないことは確かだ (マニアックさが最も魅惑に満ちたものであることには触れないでおく)。

だがプリンスの場合、あまりにも音源そのものが多過ぎることと、あまりにも肝心なオフィシャルのメディアが出ていないことに愕然とする。こうした場合、都合の良い言い訳になってしまうのかもしれないが、非正規音源を採ることは、それを何とかしてオフィシャルなメディアとして発売して欲しいという願望に他ならないのだということにしてしまいたくなる。
前の記事にも書いたが、プリンスの作品で《Musicology》というアルバムは私の中でのいわば分節点であり、このアルバムによってそれまでの彼の航路が初めて客観的に眺められたような気がしている。それまでの時期、それぞれの過去のアルバムが見えにくかったのは、個々のアルバムに籠められた自己主張があまりにも強過ぎてハレーションを起こしていたからかもしれない。YouTubeにはLive at Webster Hallという動画があるが、表記に拠れば2004年4月20日は《Musicology》の発売日であり、つまり発売日ライヴなのだ。
この時期のプリンスはスタイリッシュであり、リンクした〈Dear Mr. Man〉も、バックの管はモダン・ジャズ的テイストのアレンジがなされている。そしてギターの弾き語りによる〈Sometimes It Snows In April〉はシンプルでありながら鋭角的であり、そして何と余裕のあるステージングなのだろうと感じてしまう。

だが、それとは全く異なるライヴが存在する。それはスイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルにおけるライヴである。ジャズ・フェスティヴァルといいながらモントルーはジャズに限らずかなり広いジャンルの演奏者を受け入れている伝統的なフェスティヴァルである。モントルーにおける最も印象的で有名なライヴはもちろんビル・エヴァンスの《Bill Evans at the Montreux Jazz Festival》(1968) である。
プリンスはモントルーに2007年、2009年、2013年の3回出演しているがその最後にあたる2013年のパフォーマンスについて見てみたい。コンサートは3夜連続で行われたがいずれの日もその音楽の密度は高い。

オーディトリアム・ストラヴィンスキーにおけるその第2夜の冒頭、休むことなく約20分続く演奏はこのモントルーのパフォーマンスの中でも白眉である。プリンスのヘアスタイルはいかにもR&B風で、音全体もタイトにまとまっていて、いわばコテコテなR&Bテイストのステージングを狙っているのだが、それでいて本来のR&Bとは全く違う。つまり決してジェームス・ブラウンにはならないのだが、プリンスの目指すスタイルはそのファンクの源流への真摯なオードに他ならない。
リズムセクションも管もシンセも、フリをつけているだけでなく、その音はトゥッティでピタッと合い、全く綻びを感じさせない。たぶん何度も練習しなければこれだけ合わないはずなのに、その大変さを感じさせない楽しげな演奏。プリンスに言われてイヤイヤやっているのではなく、誰もが自発的によりよい完成形を目指そうとしているのがわかるのだ。特にリズムセクションのタイトさがすごい。どうしてこれだけ持続できるのだろう、と思ってしまうくらいすごい。

この映像にしてもオフィシャルとしか思えないクォリティなのだから、Rでなく是非プレス盤で正式にリリースしてもらいたいと願うのである。
尚、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルのオフィシャル・ページには各年度毎の紹介アーカイヴがあるが、プリンスのステージングは全く収録されていない。

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Prince/Montreux Jazz Festival
Show 2: 2013.07.14. Auditorium Stravinski
https://www.youtube.com/watch?v=DGFVDwjUwwY

Prince/Dear Mr. Man
Live at Webster Hall, 2004.04.20.
https://www.youtube.com/watch?v=C3yzaTNel_A

Prince/Sometimes It Snows In April
Live at Webster Hall, 2004.04.20.
https://www.youtube.com/watch?v=iBThX4o2_KI

     *

参考・Montreux Jazz Festival 2013
https://www.youtube.com/watch?v=ehFmUAUNajI
https://www.youtube.com/watch?v=UB1XcwZg8u4

Prince/Musicology (SMJ)
ミュージコロジー

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Prince ― Emancipation Live [音楽]

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プリンスは1994年から2000年まで何と読むのかわからないシンボルマークの名前の時代があって、つまりThe Artist Formerly Known As Princeと言われていた頃であるが、その時代のアルバムが3種類、もうすぐリリースされる。
《The Versace Experience Prelude 2 Gold》は《Gold Experience》(1995) を元にした内容で、ヴェルサーチのショーにて配布されたカセットの音源とのこと。そして1996年リリースの《Chaos and Disorder》と《Emancipation》である。

このあたりのアルバムを私は知らない。印象としてプリンスは地下に潜ってしまったように感じてしまって、CDが入手しにくかったりしたこともあり、何となく遠ざかっていたような気がする。いつの間にか21世紀となり、あ、プリンスだ、と再認識したのは《Musicology》(2004) あたりからであって、だからシンボルマーク時代の作品がこのように再発されて聴けるようになってきたのは喜ばしい。

YouTubeの中にLive Music Marathonというロゴの入っているTVでのライヴ映像があった。“Emancipation Celebration” とタイトルされている1997年のペイズリー・パーク・スタジオでのライヴである。
画面サイズがまだこの頃は狭いが、内容的にはシャープで、古色蒼然とした感じではなく、想像していたよりもずっと洗練されている。シンボルマークの時代は、もしかするともっとマニアックだったりアヴァンギャルドだったりな傾向があるのかと思っていたがそんなことはなく、むしろこの1997年のライヴは一番好きな傾向のパフォーマンスである。プリンスの歌も動きもむしろ少しサラッとしているくらいの軽さがある。

映像は《Emancipation》の冒頭曲〈Jam of the Year〉から始まるが、大ホールやスタジアムでなく、このどちらかといえば狭いスペースで歌うプリンスは、いきいきとしていて、プリンスという名前を捨てた必然性が理解できる気がする。バンドの音もいたずらにゴージャスでなく、それでいてタイトで、ムダがない。
途中でおきまりのように歌われる〈Purple Rain〉も、昔のねばりっ気のある方向性とはかなり違う。白いシンボルギターでステージから狭い花道に出て行くが、あまりにも観客席との距離が近くて会場の一体感を感じる。これがプリンスが一番やりたかったことなのかもしれないと思う。
最後に〈One of Us〉が歌われるが、全体の曲構成、バンドの歌、歌唱すべてがとてもオーソドクスでシンプルで、それでいておそろしく高度な音楽性を保っている。それはプリンスがデビューしたとき、下品とか猥雑とか顰蹙の中にありながら、その創作の積み重ねで勝ち取った高貴さに他ならない。その基本に存在するのはブルースであり、そしてポップ・ミュージックであるが、その一音一音の中に存在する悲しみは何なのだろうか。それはすでにプリンスがいないということへの喪失感とは別の、音楽そのものがもつ寂寥である。

たとえばプリンスに戻ってからの〈Musicology〉のofficial videoなどを見ると、さらに全体は洗練されているが、このシンボルマーク時代はプリンスの歴史の中で重要な時期であったように思う。


Prince/Emancipation (SMJ)
【メーカー特典あり】 イマンシペイション (オリジナルポストカード付)




Prince/Emancipation Celebration, 1997 [Live on TV]
Live Music Marathon
https://www.youtube.com/watch?v=l1JB5_KxLSo

Prince/"Musicology (Official Music Video)
https://www.youtube.com/watch?v=zILabWVdIMs
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ハレのバッハ [音楽]

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バッハには20人の子どもがいたというのはよく知られた話だが、どうしてもそれは 「あんなにたくさんの曲を書いていながら、すごいなぁ」 という下世話な話題になってしまいがちだし、その子どもの人数の多さから21人目の子どもだというふれこみのP・D・Q・バッハというギャグまで生み出している。
実際にはバッハの20人の子どものうち、半分は子どものうちに亡くなっているのだが、残りの10人のうち、作曲家として名を成したのが4人いる。ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ、ヨハン・クリスティアン・バッハである。

この4人のうち最もすぐれていて、かつ有名なのはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ――いわゆるC・P・E・バッハであると思うのだが、それは父親の影響を受けながらもその書法を引き継ぐようなことはなく、彼独自の作品を生み出し、その後の世代であるベートーヴェンなどへの橋渡しをしたという業績にある。

でありながら、父バッハの存在があまりにも巨大過ぎるため、どうしてもバッハといえばJ・S・バッハだし、まだ知らない曲がたくさんあるのに息子の曲を聴くのもどうだろう、みたいなことで、意外にC・P・E・バッハへ興味を拡げることにためらいがある。
それをクリアするひとつのきっかけとなったのは武久源造の演奏であった。音はJ・S・バッハからの継続した流儀であり、つまりバロックの音構造であるように見せかけながらやがて微妙にバロックから離れ出す。そう感じたとき、それがC・P・E・バッハに対する興味なのか、武久源造という演奏家に対する興味なのかが私自身の中でも判然としなかったのだが、C・P・E・バッハはチェンバロを好まずクラヴィコードやフォルテピアノを想定して曲を書いたというのも、時代の流れによる楽器の変遷に対応したということだけでなく、脱バロックの意志を示しているように思う。
それゆえに現代ピアノで弾かれたC・P・E・バッハはすでに完全にバロックではなく、何かもっと次の違う次世代のものであるという確信に至るのである。

だが、そうしてお手軽にYouTubeを渉猟しているうちに、どんどん本来のテーマから逸れていくのが移り気というか愉しみでもあるのだが、バッハの4人の息子の中で、たぶん一番聴かれていないマイナーな人がヴィルヘルム・フリーデマン・バッハであるといっていいだろう。
wikipediaでもフリーデマン・バッハに対する記述はそんなに重きを置かれていないし、ja.wikiには曲のリストさえない。過保護で夢想家で虚栄心があり猜疑心があり人望がなくて、と、もうさんざんな書かれようである。晩年は職を捨て放浪の日々だったという記述まである。

そのフリーデマン・バッハのフルートのためのデュオを聴く。この編成の曲はFk54からFk59まで6曲が存在するが、下にリンクしたYouTubeの動画はf-mollのFk58であり、フルートとオーボエによるデュオで演奏されている。
ありふれた通俗な表現でいってしまえば、エマヌエル・バッハが太陽とするとフリーデマン・バッハは月である。エマヌエル・バッハのかっちりとした構成力と明快さがその特徴だとすれば、フリーデマン・バッハはもっとルーズで恣意的で気ままである。だがその中にかすかなひらめきと翳りとそして寂寥が存在している。悲しさといってもよい。だがその悲しさは何となくふわふわとしていて、その存在感そのものが稀薄である。
光があれば必ず影がある。兄弟とか姉妹というものは、不思議に必ず対照的な性格があらわれたりするが、それはバッハの息子たちの間でも当然のごとく、顕著である。それがキリスト教的にいえば神の摂理というものなのだろうか。
フリーデマン・バッハはそんな気持ちで、そんな意味あいでこの曲を書いたのではないかもしれない。だが意識下にあるイメージが何百年も経った曲の中に残ってしまうというのが、いわゆる音楽の魔のしるしなのである。


Sebastian Wittiber, José Luis Garcia Vegara/
Wilhelm Friedemann Bach: Duo Nr.6 in f-moll Fk58
https://www.youtube.com/watch?v=kw8EumF3zqo

武久源造/
C.P.E. Bach: 12 Variations auf die Folie d’Espagne Wq.118/9
https://www.youtube.com/watch?v=aBzkMRd6Em4

中川京子/C.P.E. Bach: Solfeggietto c-moll Wq.117
https://www.youtube.com/watch?v=Xm79mUVD_2I


Patrick Gallois, Kazunori Seo/
Wilhelm Friedemann Bach: Duets for Two Flutes (NAXOS)
W.F.バッハ:2本のフルートのための 二重奏曲集




Wilhelm Friedemann Bach Edition (Brilliant Classics)
BACH/ EDITION -BOX SET
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Laughter in the Dark ― 宇多田ヒカル [音楽]

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宇多田ヒカルの《Laughter in the Dark Tour 2018》は最初の予約段階であっという間に売り切れてしまった。さすがに発売日前にすでに売り切れというのはマズいと思ったのか、追加生産になったが、届くまで約1カ月。それより前にYouTubeを探していたら、ある程度upされていたのでそれを観ていた。

下にリンクしたのはそのライヴ映像の中の〈First Love〉(1999)、〈COLORS〉(2003)、〈SAKURAドロップス〉(2002) だが、どの曲もおそろしいほどの密度のライヴ映像であり、それぞれの楽曲の発表時とは異なった印象を受ける。歌唱が完璧であるだけでなく、歌詞の中に今まで気がつかなかった意味が読み取れてしまって、それは私が齢を重ねたことによって理解できるようになってきたからなのだと思うのだが、逆にいうと、宇多田が過去のその時点でこれだけの楽曲を作っていたということに驚くばかりだ。初期に作られた曲の内容が早熟過ぎて、やっと今、年齢が追いついてきたような気がする。

〈First Love〉を聴いていて思ったのは、これは尾崎豊の〈I LOVE YOU〉への一種のアンサーソングだということだ。尾崎の曲冒頭の

 I love you
 今だけは悲しい歌 聞きたくないよ

に対する

 今はまだ悲しいlove song
 新しい歌うたえるまで

そのように思ったのは宇多田が〈I LOVE YOU〉のカヴァーを歌った映像を見たことが私の意識の底にあったのかもしれないが、でもこの2曲には何らかの共通性があるのを感じる。メロディが似ているとかではなく、全体のテイストから醸し出されるイメージ。これは今まで漫然と見過ごしていたことだ。ただ〈First Love〉が〈I LOVE YOU〉と決定的に違うのは、

 明日の今頃には
 あなたはどこにいるんだろう
 誰を想っているんだろう

と未来形で歌う個所である。実はそれは未来でなく過去のことで、そのことは (つまり恋は) すでに終わっているのに、なぜ未来の不確定なできごとのように歌うのか。繰り返される同じ個所を見るとそれはもっとよくわかる。

 明日の今頃には
 わたしはきっと泣いてる
 あなたを想ってるんだろう

きっと泣いているのだろうではなくて、もうすでに泣いてしまった後なのだ。それなのに明日泣くかもしれない、それはあなたを想っているからなのかもしれないというふうに未来形にしてボカす。その歌詞の書き方の深さに気付く。
というより実は、直接関係はないのだが、この前読んでいた鴻巣友季子の『翻訳ってなんだろう?』の中に、「過去の中の未来は訳しにくい」 という説明があって、そこからの連想が私に新しい視点を与えたのかもしれない。

〈COLORS〉の歌詞も明快なイメージでありながら抽象的でもあり、すべての色に陰翳を感じる。青、白、オレンジ、黒、赤と色を繰り出していながら、最後の色は不明である。それはもはや 「あなたの知らない色」 なのであり、そこに到達するまでにすでにキャンバスは塗り潰されていて、もう何の色でもないのだ。だから知らない色であり、それは 「灰色」 であり 「白黒のチェスボード」 であるような、最終的には虚脱した無彩色へと還ってゆく。
shelaに《COLORLESS》(2001) という私の愛聴アルバムがあって、白、赤、紫、オレンジ、セピアと色について歌った曲をまとめたときのアルバム名がcolorless、それは矛盾だけれど色が多く集まることによってその総体はかえって色彩を失うということをあらわしている。イメージとしては同じだ。

〈SAKURAドロップス〉もオリジナルのPVはどぎつい程の色彩に満ちていた。オリジナルPVの最初に出てくる格子柄でわかるようにそのイメージは伊藤若冲からの連想である。だがこのライヴ (Laughter in the Dark Tour) で歌われるこの曲は、もっとずっと色彩感がない。

 降り出した 夏の雨が涙の横を通った すーっと

は〈真夏の通り雨〉(2016) の

 愛してます 尚も深く
 降り止まぬ 真夏の通り雨

に通じる。だが〈SAKURAドロップス〉を宇多田が書いたのは2002年なのだ。だとすれば 「夏の雨が涙の横を通った」 という歌詞はまるで予言のように響いてくる (〈真夏の通り雨〉の収録されているアルバム《Fantôme》は母・藤圭子へのレクイエムだといわれる)。夏の雨はtearsでなくdropsなのだ。
「恋をして」 から始まるリフレインは3回あって、その後半部分を並べると、

 桜さえ 風の中で 揺れて やがて花を咲かすよ
 桜さえ 時の中で 揺れて やがて花を咲かすよ
 桜まで 風の中で 揺れて そっと君に手を伸ばすよ

3回目が 「桜さえ」 でなく 「桜まで」 になっていること。そして3回目の桜は単に花を咲かすのでなく、擬人化されていて 「手を伸ばす」 こと。その微妙な変化の違いは、「恋をして 終わりを告げ」 ることが、同じ言葉でありながら1回目と3回目では異なることをあらわしている。
その3回目のリフレインの直前の

 一回り しては戻り
 青い空をずっと手探り

では 「一回り」 「戻り」 「手探り」 と 「り」 の脚韻があるが、この曲の中での 「り」 は 「終わり」 の 「り」 でもあるのだ。桜色の中でたった一度だけ出てくる青い空の虚無感が胸に突き刺さる。
Laughter in the Dark Tourライヴの〈SAKURAドロップス〉の後半には、Prophet-6によるシークェンス・パターンを使った宇多田のキーボードのソロがある。

ネットを検索しているうちに小田和正と宇多田ヒカルによる動画を見つけた。ギター1本によるデュエット。透明なシンプルさのなかに歌が屹立する。


Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018 (SonyMusic)
https://www.yodobashi.com/product/100000009003133662/
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Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018
2018.12.09 幕張メッセ
First Love
https://www.youtube.com/watch?v=NuKluSrbHik

COLORS
https://www.youtube.com/watch?v=OutA_EstePs

SAKURAドロップス
https://www.youtube.com/watch?v=cTT6ExQUvts

     *

小田和正/宇多田ヒカル クリスマスの約束2016
2016.12.19 赤坂BLITZ

Automatic
https://muxiv.net/ja/mv/5427010

花束を君に
https://muxiv.net/ja/mv/5426011
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Candy ― ナット・キング・コール [音楽]

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Nat King Cole (wikipediaより)

〈ハーバー・ライツ〉という曲がなぜか気になって検索していた。この前読んだ小西康陽の本の中に、ラジオ関東で〈ポート・ジョッキー〉というケン田島の担当していた音楽番組があって、そのオープニングがビリー・ヴォーンの〈ハーバー・ライツ〉だったとのことだが (p.213)、もちろんその番組を聞いたことはない。だが〈ハーバー・ライツ〉という言葉から醸し出されるその時代の感じはなんとなくわかってしまう。
私にとっての検索の動機は、単純にハーバー・ライツという言葉が存在していて、それは私の幻想の中にあるひとつのきっかけでありトリガーであったのだが、それは説明すると長くなるし、ごく私的な回想なので、そんなことはどうでもいい。というより調べているうちに当初の目的が失われてしまって自分が何を目的として探しているのかがわからなくなる。
Herbour Lights はヴィルヘルム・グロシュ (Wilhelm Grosz, 1894-1939) の作曲したスタンダード・ナンバーであるが、この曲はヴィルヘルム・グロシュという名前ではなく、ヒュー・ウィリアムズ (Hugh Williams) として書かれた曲である。ヒューという名前から連想するのは『星の時計のLiddell』であるが、ビックス・バイダーベックは夭折したコルネット奏者である。そしてウラジーミルは元KGBの大統領ではなくウラジーミル・ナボコフのことである (バイダーベックについてはすでに書いた→2012年08月16日ブログ)。

ヒュー・ウィリアムズの曲には他に〈夕陽に赤い帆〉があって、この曲もかなり知られているスタンダードである。彼はウィーンの音楽家でもともとはクラシックの人であったが、ナチスを避けてアメリカに渡り、ポピュラーソング、映画音楽などに携わった。だが詳しいことは知らない。
〈ハーバー・ライツ〉は1937年にフランセス・ラングフォードのために書かれた曲である。この気怠い雰囲気がたまらない。戦前のアメリカのポピュラーソングの典型であり、音楽が最も輝いていた時期の頃だったのだろうと思う。
ラングフォードのオリジナル録音は、伴奏楽器のためもあるのかハワイアンなテイストもあるし、気怠さが顕著である。それは私が望んでいたハーバー・ライツという語感から来る肌寒さと孤独なイメージとは異なるものだが、何も考えなくてよい愉悦のFM番組の音のようでもあり、過去に浸るのにはこうした曲に限るのかもしれない。

だが〈夕陽に赤い帆〉(Red Sails In The Sunset) を聴こうとしているうちにナット・キング・コールに行き当たった。私はあまり歌ものを聴かないので、彼のアルバムは《After Midnight》しか持っていなかったように思うが (他にもあったかもしれないが忘れてしまっている)、歌だけでなくピアノの明快なスウィング感が伝わってくるアルバムである。
YouTubeにある彼の歌唱による〈アンフォゲタブル〉〈ルート66〉のような、よく知られている曲のどれを聴いても全く破綻がなくて安心して聴くことのできる歌手である。
オリジナルのLP《After Midnight》には入っていなかった曲がCDになってから追加され、トータルの曲数が多くなってしまうというのがこのアルバムにも見られるが、〈キャンディ〉(Candy) があるのに気がついた。

〈キャンディ〉はアレックス・クラマーの書いた曲で1944年に出されたとwikiにある。早速、ナット・キング・コールの〈キャンディ〉を聴いてみたのだが、ジョニー・マーサー、ジョー・スタッフォード、ポール・ウェストン&ザ・パイドパイパーズによる〈キャンディ〉もあって、この違いが面白い。
山中千尋が初めてヴァーヴからリリースした《Outside by the Swing》という2005年のアルバムは、澤野工房のときよりもやや肩に力が入っているなというのが最初の印象だったが、このアルバムの最後に、オマケのように、お遊びのように入れたピアニカによる〈キャンディ〉があって、これがとても心がなごむ。以前、この最後のトラックばかり聴いていたことがあるが、おそらく山中千尋にとっては本望ではない。


Nat King Cole/
The Complete After Midnight Sessions (Poll Winners)
The Complete After Midnight Se




Frances Langford/Harbor Lights
https://www.youtube.com/watch?v=SLeXA0FapcM

Nat King Cole/Red Sails In The Sunset
https://www.youtube.com/watch?v=HLQZZoAkdig

Nat King Cole/Unforgettable
https://www.youtube.com/watch?v=JFyuOEovTOE

Nat King Cole/Route 66
https://www.youtube.com/watch?v=dCYApJtsyd0

Nat King Cole Show Feat JATP/I Want To Be Happy
https://www.youtube.com/watch?v=CUD0QiD00hY


Nat King Cole/Candy
https://www.youtube.com/watch?v=MiUzwUGh--U

Johnny Mercer, Jo Stafford, Paul Weston
& The Pied Pipers/Candy
https://www.youtube.com/watch?v=6j6t2zcdkw0

山中千尋/Candy
https://www.youtube.com/watch?v=6sEf139WeU8
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aikoのまとめ [音楽]

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近くに古本などを扱うリサイクルショップがあって、以前は何軒かあったんですが、皆つぶれちゃって最近利用しているのは1軒のみ。でもその店は歩いて行ける距離にあります。それでこの前、小西康陽の本を読んだことを書いたんですけど、DJに使うためにはシングル盤がいいんだというお話で、う~んそうかシングル盤か、シングル盤ならいいんですね、とCDシングルを買ってみたけれど嵩張るばかりで、音楽はすぐ終わってしまいますよね。もちろん小西先生が言っているのはアナログのドーナツ盤のことで、こういうCDシングルのことじゃないんです。わかってないなぁ。

いや、これはつまりわかってるんだけどわかってないフリしてるだけで、単なるシャレです。CDシングルっていうのは一種のプロモーション用というか宣材のような気もする。しかも昔のシングルCDっていうのは、すごく小さい直径 (8cm) で、長方形のパッケージに入っていたけど、さすがに最近見かけません。あ、でも先日タワレコで安斉かれんというポスト・ギャル系みたいなデビュー盤を無料で配っていましたがこれは小さなCDで懐かしさを感じました。懐かしいとは言っても新品の8cmCDを新品で買ったことはないんですけど。それなのにノスタルジアを気取りたいのか、いまさらって感じもするけど、こうしたムリムリはプロモの仕掛けとしては楽しいのかもしれない。タイアップしてるM・A・Cとしてはベージュ系のリップが売れてた頃のブーム再来を狙ってるのかもしれないけれど、う~ん。

ところでシングルCDの話ですけれど、これも初回限定盤とかあるみたいで、それだとDVDが付いていたりその他のオマケが付いたりしてなかなか面白い。そのリサイクルショップで、たぶんコレクターの人が手放したのだろうと思われるPerfumeのシングルがあったので10枚くらい買いました。写真集とかシールとかもそのまま入っていて、ほとんど新品というか、うち2枚は未開封でした。うわ、オトナ買いだとは思うんですが、でも1枚180円。ちょっと高いかな。昔は50円か100円だったのにぃ。

で、その中古CDの中に、これはシングルCDではないんだけれど、aikoの《まとめ》というのが棚に並んでいて、さすがに180円ではなかったのですが、これはどうもベスト盤らしい、ふたつあってひとつは赤い箱、もうひとつは青い箱で、これも面白いかもしれないと思って買ってみたのですがホントに面白かったのです。
その面白かったことというのはベスト盤の曲の入っているほうのCDじゃなくて――あ、もちろん曲もあのぐにゃぐにゃ屈折するaiko特有のメロディラインで楽しめるのですが――オマケに付いてるCDのことで、「aikoのオールナイトニッポン」 というタイトルが付いています。オールナイトニッポンという深夜の番組があって、aikoはそれを担当していた時期があったそうなんですが、それの再録ではなくて新たに、あたかも番組のようにして収録した録音がこのCDということらしい。
ただ私には弱点があって、というのは私は深夜放送というのを知らない。深夜のAMでそういう放送があったということは知識としては知っているんですが、実際に聴いたことはほとんど無いに等しいんです。深夜放送というのは受験勉強を夜にやっていて、それをやりながらラジオ聴いていたらラジオのほうが面白くて、結局勉強できなかったというような話をよく聞きましたが、そもそも私はオバカで勉強しなかったので。で、深夜放送を知らないということもそうだし、駄菓子屋を知らないというのもそうだし、あと何かなぁ、知らないことっていうのはとことん知らないのです。まぁよくあることといえばよくあること。ずっと日常的な家並みの道を歩いてきたのにカドを曲がったらそこはずっと向こうまで無機質な白い塀が続いているだけで風景が欠落してしまったような軽いショック、みたいな意外性というのか、そういうのが人間の経験とか記憶の中にもきっとあるんじゃないかと思うのです。
ですからこういうフェイクな深夜放送みたいなのを聴いてもこれが果たしてその当時の再現なのか、それともちょっと違うんじゃないの、と思うのかが私には判断できなくて、それを実際に知っている人とそうではない人とでは受け取りかたにきっと差があるんだろうと思います。

その内容としては、aikoの曲もちょっとはかかるしジングルみたいなのもあるんだけど、でもほとんどはひとりで喋ってる。そのときBGMがかかってるわけではなくて、ただ喋っているだけのその背後にシンとしたスタジオの空気感が存在しているのが伝わってきて、その音にあらわされない空気感がよくて、これは夜っぽいなとも思いますし、オンエアという言い方をしますけど、あぁ、エアなんだ、つまり言葉が電波に乗って空気中を伝わってラジオで受信されるという魔法のようなシステムが実感できます。っていう素朴な感想がまるでオコチャマ。
(TVっていうのはたとえニュース番組でも常に背後がざわついていて、ほかの番組だともっとそう、常に音楽やざわめきや何かがあって、つまりノイズの上に乗った言葉がある。でもラジオはそうではない。)
でも一日経つと、何が話されていたのか全然記憶に無くて、ただ面白い話だったなぁとか、大阪弁メチャいいなぁとかそういう印象だけが残っていて、だからそれがAMの味なのかもしれないとも思います。FMの音のほうがきれいだけど、FMの音には何かのキモチワルイ成分も少し入っていてAMにはそれがなくて庶民的です。
話されている内容は結局どうでもいいのかもしれない。たとえばお得なランチとか安い居酒屋での集まりとか、そこでの話はきっとほとんどがどうでもいいことで言葉はことごとく空気の中に消えてゆく。でも残るべきことというのはたぶんもとからそんなに無いんだ、と思うと、記憶なんてどうでもいいんだと思えます。来る日も来る日も前の日の繰り返しのようで、そのうちにどんどん時が経っていってこれは魔法というより騙されているだけなのかもしれないと思いながら時は経ってしまうものなのだから。


aikoの詩。(ポニーキャニオン)
aikoの詩。(初回限定仕様盤 4CD+DVD)




aiko/横顔
https://www.youtube.com/watch?v=Cd3xak-bpg8

2002.09.07 POP JAM
https://www.youtube.com/watch?v=_Jj06KKZCis

尚、現在販売されている《まとめ》の通常盤にはaikoのオールナイトニッポンは収録されていません。
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