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Rei《VOICE》など [音楽]

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Reiの最新アルバムは7曲収録のミニアルバム《VOICE》だが、それよりもフェンダーのプロモーションの映像をよく目にする。ストラトキャスターが70周年アニヴァーサリーなのだそうで、その映像でも演奏シーンを見ることができる。

そもそも初めてReiの映像を見たのはエピフォンの楽器紹介の動画によってであった。大きめのボディのアコースティクを軽々と弾きこなすまだ少女のようなReiのカッコよさに、すぐにCDを買ってしまったのを思い出す。
最初のミニアルバムは長岡亮介との共同プロデュースによるもの (長岡亮介とは東京事変のギタリスト・浮雲である)。

フェンダーのYouTubeチャンネルにはAmerican Acoustasonicというやや特殊な形状のエレアコを演奏する動画もあるが、この楽器の印象も強烈である。
フェンダーが原宿に旗艦店を設けたのは、日本はアマチュアの女性ギタリストの比率が高いので、楽器店としてよりファッションショップ的な意味合いで進出したとのこと。そうした意図があるのならReiのプロモーションはぴったりなのだろう。

もっともプロモーションとしての、つまりお仕事としての映像より、純粋なライヴのときのエレキギターでの演奏のほうが楽しく聴けるのは確かだ。SANABAGUNとのコラボによる動画をリンクしておくことにする。

中学生くらいの若者にギターを知ってもらおうとするフェンダー・チャリティー・スクールというイヴェントがあり、Reiとハマ・オカモトが講師になっている動画もある。ロバート・ジョンソンの〈クロスロード〉と、選曲はベタだがブルージーな音楽の啓蒙としては順当。
ハマ・オカモトはReiのバックで演奏することが多いが、Tokyofmの《THE TRAD》やテレビ朝日の《ハマスカ放送部》など、その音楽的な知識が深くて面白い。でも最近のハマスカ放送部の企画はタモリ倶楽部っぽいような気がする (それで良いんですけど)。

〈追記〉Reiが Lonely Dance Club で使用しているテレキャスター・シンラインはフェンダーがRei用に製作した楽器のようです (ブリッジが6wayのようだし、スタンダードとは細かく違う。シンラインなのに重いとのこと)。したがって市販されている普通のシンラインとは別ものです。

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Rei/VOICE (Universal Music)
VOICE (Limited Edition)(限定盤)(SHM-CD)(DVD付)




Rei/Epiphone Masterbilt Century Collection
https://www.youtube.com/watch?v=n7_u6WGYr1Q

Rei × SANABAGUN/Lonely Dance Club
https://www.youtube.com/watch?v=Z-gSCqTvuko

Rei/UNLIMITED EXPRESSION Vol.14
https://www.youtube.com/watch?v=pmAFa0PDcE4

Fender Stratocaster 70th Anniversary: Backstage Vlog
(メイキング映像)
https://www.youtube.com/watch?v=FVCDUfzSBVk

Rei&ハマ・オカモト/フェンダー・チャリティ・スクール
https://www.youtube.com/watch?v=z5uW_78KrYk&t=203s
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ジャズ・バルティカ2008のオーネット・コールマン [音楽]

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Ornette Coleman (Jazz Baltica 2008)

宇多田ヒカルのベスト・アルバム《SCIENCE FICTION》は単なる寄せ集めのベスト盤ではなくて、新しく入れ直した曲が3曲、リミックスが10曲とのことだ。Re-Recordingは〈Addicted To You〉〈光〉そして〈traveling〉だが、track 1にシングル盤でいえば4thの〈Addicted To You〉を持ってきているのがさすがである。〈Automatic〉や〈First Love〉でなく〈Movin’ on without you〉や〈Addicted To You〉のほうが初期の宇多田を象徴している楽曲のように思えるからだ。

4月13日夜の日本TVの新番組《with MUSIC》で宇多田は、なぜアルバム・タイトルがサイエンス・フィクションなのかを語っていたが、よくわからなかった。もっともアルバム・タイトルなんてある種の識別記号だと考えればそのとき思いついたフィットする語彙でよいわけで、そのサイエンス・フィクションという言葉で連想するのがオーネット・コールマンなのである (と強引に結びつけてしまった)。

最近、オーネット・コールマンをよく聴く。《Free Jazz》とか《Tomorrow Is The Question!》などのLPも続々と再発されているし、単なる私のマイブームというわけでもなく、比較的よく聴かれるようになってきているのではないだろうか。

YouTubeを探していたら2ギター、2ドラムスというセクステットの1978年7月のドイツでのライヴを見つけた。ギターはジェームス・ブラッド・ウルマーとバーン・ニックスで、ブラッド・ウルマーなつかしい! と思ってしまったのだが、でもそれよりもずっと後の2008年の3sat (ドイツのTVチャンネル) が収録したライヴが素晴らしい。
ジャズ・バルティカという1990年から毎年行われているジャズ・フェスティヴァルにおける2008年7月6日の演奏で、2ベースのクインテットであるが、ベースはアコースティクとエレクトリック各1本で、それにジョー・ロヴァーノのテナー、そしてデナードのドラムスというパーソネルである (オーネットはピアノレスでグループを組むことがほとんどだ)。

どの曲も比較的短めな演奏で、しかも変化に富んでいるし、トニー・ファランガのアルコが美しい。そしてあらためて思ったのだが、オーネットの音色は常に流麗で衰えも無く、むしろ逆に練れていて、そして常にスウィングしていること、これが重要である。有名なブルーノートのゴールデン・サークルにおけるライヴは、シンプルでメインストリームなジャズにしか聞こえない、というようなことを以前に書いたことがあるが、メインストリームというのは大袈裟にしても、オーネットは常にリズムをキープさせていて、それはフリージャズに特有な痙攣するようなパルスではなく、純粋にスウィンギーなテイストであり、そして根本的に明るい音楽であることだ。それはあの〈Lonely Woman〉でも翳ることはない。もちろん曲想自体は悲哀に満ちているのだが、オリジナルの《The Shape of Jazz to Come》の頃とは違って、この日のライヴにおけるメロディーラインは慈愛に満ちている。

下記にリンクした当ライヴは1時間17分もあるので、00:54:35の〈Dancing In Your Head〉あたりから最後まで聴いてみるのでも十分に堪能できるように思う (YouTube画面左下の 「…もっと見る」 をクリックして時間表示をクリックすると各曲毎のリンクに飛ぶことができる)。


宇多田ヒカル/SCIENCE FICTION
(ソニー・ミュージックレーベルズ)
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Ornette Coleman/Science Fiction
(ソニー・ミュージックレーベルズ)
サイエンス・フィクション (特典なし)




Ornette Coleman/JazzBaltica 2008
https://www.youtube.com/watch?v=yDVBrOnVdR8
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マウリツィオ・ポリーニ《バルトーク:ピアノ協奏曲第1番》 [音楽]

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Maurizio Pollini (2001)

マウリツィオ・ポリーニ (Maurizio Pollini, 1942−2024) は私にとってアイドルだった。衝撃を受けた最初の演奏はショパンの《エチュード op.10&25》だったが、圧倒的なその演奏に対して、すごいという声とともに 「メカニック過ぎる」 とか 「これはショパンではない」 などという誹謗も聞かれたことを覚えている。
私の知人にもその手の意見の人がいて、ポリーニに対しても、キース・ジャレットに対しても (というよりもECMの音楽全般に関して) ことごとく否定的で、はじめは音楽に対して深い造詣があるのかと思って聞いていたのだが、次第にそれは単なる好みの差なのだとわかるようになってきた。同時に選択肢は常に自分自身にあり、自らの選択こそが絶対だと悟った (他人の意見に影響され過ぎるのは無駄だという意味である)。

エチュードに衝撃を受けてそれ以前の録音を探した。ストラヴィンスキーのペトルーシュカとプロコフィエフのソナタだったが、今だったらともかくその当時はまだ冒険的な選曲だったように思う。それをリリースしてしまうというポリーニのセンスにしびれた。以降のシューベルトのさすらい人、シューマン、そしてノーノ (はさすがにあまり繰り返しては聴かなかったが)、シェーンベルク、ショパンのプレリュード、そしてポロネーズと、すべてを西独DG盤で揃えた。

しかし、1980年を過ぎるとあまり熱心さというか執着がなくなったのは、ポリーニに飽きてきたからではなく、世界のピアニストの指向が次第にポリーニ的なアプローチのピアニズムに収斂されていったので、つまり雑な表現でいえば、かつての感情過多でロマンティックな演奏スタイルは淘汰されつつあって、結果としてそれまでのポリーニの特異性が減少してきたからなのではないかと思う。

ポリーニのベストをあげるのなら、やはり最初期のエチュードと、そしてやはり初期に録音されたベートーヴェンの30〜32番ソナタだと私は思う。特にベートーヴェンの後期ソナタは、いままでのピアニズムと違っていたし、いきなり後期ソナタから出してくるピアニストもいなかったのではないだろうか (もっとも、DG盤は最初のボックスセットのデザインに較べると、再発LPのジャケットデザインがひど過ぎる)。その後、若きイーヴォ・ポゴレリッチが32番から出してきたのからもわかるとおり、以後のピアニストにポリーニが与えた影響は大きかったような気がする (あえて言うならば後期ソナタをこんなにポピュラーにしたのがポリーニだったとも)。
ポゴレリッチの初期のコンサートに対して坂本龍一が、そのエキセントリックさに驚いた感想を語っていたのも懐かしい思い出だが、そういう点から見るとショパン・コンクールというのがピアニストのトレンドの指標のひとつとなっていることは間違いない。

今、YouTubeで聴くことのできるなかでイチオシなのはブーレーズの振るバルトークのピアノ・コンチェルト第1番である。
DG盤のバルトークはクラウディオ・アバド/シカゴの1977年録音だが、YouTubeにあるのは2001年6月のブーレーズ/パリ管と、翌2002年の東京文化会館でのブーレーズ/ロンドン響のライヴである。
2001年のパリはシャトレ座でのライヴであり、シャトレ座といえばバルバラの《シャトレ87》を思い出すが、バルトークのパーカッシヴなニュアンスが良く現れていて、ブーレーズとの相性もあり刺激的なバルトークのように思う。以前にも書いたことだが、まだ調性感の残っていたバルトークのコンセプトをダルムシュタットによって葬り去ったのが若きブーレーズでありながら、そのブーレーズの振るバルトークが私にとって、もっともフィットするバルトークであるという矛盾が面白い (たとえば青髯公とか)。
文化会館のライヴはパリの翌年のため、オケは違うけれど練れている演奏のように感じるが、パリのほうがスリリングさは勝っているように思える。

ポリーニは晩年になってベートーヴェンを弾き直しているし、私も彼の録音の全てを聴いてはいないので、遺されたものを辿って行くことが偉大なピアニストを理解するための道なのだろう。残念ながら、もう新しい録音には出会えないとはいえ。


Maurizio Pollini, Claudio Abbado,
Chicago Symphony Orchestra
Bartók: Piano Concerto No.1&2 (Universal Music)

バルトーク:ピアノ協奏曲第1番・第2番(生産限定盤)(UHQCD)




Maurizio Pollini, Pierre Boulez, Orchestre de Paris/
Bartók: Piano Concerto No.1 (Mov 3)
Théâtre du Châtelet, Juin 2001
https://www.youtube.com/watch?v=Ijc90fbi9kY
(Mov 1)
https://www.youtube.com/watch?v=XMwH3011tTk
(Mov 2)
https://www.youtube.com/watch?v=0eGH826Y3CI

Maurizio Pollini, Pierre Boulez, London Symphony Orchestra/
Bartók: Piano Concerto No.1
Tokyo Bunka Kaikan, 21/Oct/2002
https://www.youtube.com/watch?v=9ynqvsnWZZc

Maurizio Pollini/Pierre Boulez: Piano Sonata No.2 (1947−48)
https://www.youtube.com/watch?v=-ZpNlxoXpQg
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武蔵村山混声合唱団演奏会 [音楽]

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今回はごく身近な話題。
友人から混声合唱のコンサートがあるので一緒に行かない? という誘いを受けた。友人の知人が出演する地元のアマチュアの合唱団なのだという。3月の最終日は急に暖かさを通り越して、やや暑いくらいの日だった。

会場は武蔵村山市民会館という場所で、東京のやや外れにあるホールである。開場前のロビーはすでにかなりの人で賑わっていて、年齢層も高い。
最初に正直に書いてしまうと、混声合唱というイメージから私が想像していたのは、日本の童謡とか、最近のポップスの編曲版などを歌う和気藹々とした雰囲気のコンサートで、つまりヤマハのポップスコーラスのCM映像みたいなのに毒されていたのである。まさに不明を恥じるばかりだ。

演奏曲目は演奏順に工藤直子作詞/木下牧子作曲〈光と風をつれて〉、ヨーゼフ・ラインベルガー〈レクイエム ニ短調 op.194〉、鶴見正夫作詞/荻久保和明作曲〈IN TERRA PAX (地に平和を)〉という3曲である。いずれも複数の曲で構成されている組曲である (レクイエムを組曲とは言わないけれどご容赦ください)。
私は合唱曲というジャンルに関してほとんど何の知識もないので、見知らぬ曲ばかりだと思ったが、それぞれかなり有名曲であることを後で知った。
何よりも衝撃だったのはそれぞれの作品自体のクォリティの高さと、おそらくそれを歌うことの難しさである。〈光と風をつれて〉だけはやや少ない人数で歌われたが、ところどころでインティメイトな、それでいてやや不安を感じさせるような美しい和声があり、昔の合唱曲の明るいけれどありきたりな音しか知らない者にとって、こういう曲があるのだということをあらためて思い知らされた。
〈IN TERRA PAX (地に平和を)〉はいわゆる反戦歌であるが、それをナマのまま提示するのでなく、メタファーによって訴える内容である。かなり技巧的なピアノ伴奏と、それに見合った幅のあるダイナミックな合唱の対比が美しい。

ラインベルガーの〈レクイエム〉は合唱団指揮者千葉裕一氏の研究対象でもあった作曲家のようだが、当時は有名だったけれど死後、忘れ去られてしまった人だとのことである。Rheinbergerianaというラインベルガーについて非常に詳しいサイトによれば、単に忘れ去られてしまったのではなく、「打ち捨てられた dismissed」 「無視された neglect」 作曲家なのだという。作風はやや保守的であり、次第に飽きられてしまったのだ、と。わかりやすい形容をすれば、ニュアンスが少し違うかもしれないがサリエリのような扱いなのだ。
ラインベルガーにはレクイエムとして書かれた作品が3曲あるが (b-moll op.60, Es-dur op.84, d-moll op.194)、今回選択されたのは、ずっと宿痾に悩まされていた作曲家最晩年の作品194である (作品番号の最後の曲はop.197と付けられている未完のミサ曲である)。

しかし実際に聴いてみると曲自体は非常に優れた構成力に満ちていて、決して飽きられてしまうような作品ではない。この曲には4名のソリストを加えていることからも今回の演奏における千葉裕一氏の力の入れ方がわかる。それはアンコールにもラインベルガーを持ってきたことからも自明である。
アンコール曲は〈Drei geistliche Gesänge〉(三つの宗教的歌) op.69の第3曲〈Abendlied〉(夕べの歌) という作曲家が25歳のときの作品であり、晩年の作品とは対照的な明るさが感じられる。

聴いていて連想したのは、最近続けて音楽系のTVドラマとして放映された《リバーサルオーケストラ》と《さよならマエストロ》のことだった。2つともごくマイナーな地方オーケストラの存続をかけた闘いのストーリーという点で似ていたし、幾つもの葛藤や不安や猜疑も存在していたが、そこで描かれていたテーマとは、音楽は必ずしも超一流の演奏家の専有物なのではなく、広く全ての人々が楽しむことのできるものであるということだ。
オーケストラに限らず、アマチュアの合唱団でもロックバンドでも、一流のプロの演奏者と較べれば瑕疵があるかもしれない。でもそれが何だというのだ、と私は思う。音楽の喜びとは演奏する喜びもあり、それを聴く喜びもあり、音楽に浸るというその喜びには巧拙は存在しない。そうした音楽に対する原初的な喜びをあらためて知らしめてくれた演奏会であった。
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関ジャムの Kroi [音楽]

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関ジャムの Kroi (Kroiサイトより)

日曜日の夜は憂鬱な月曜日が間近なとき。
Rainy days and Mondays always get me down
と歌うよりも、いつものように《関ジャム》を観て明日のことを考えないようにしている。つまり《関ジャム》とは現実逃避のツールなのだ。
でも関ジャニはSUPER EIGHTになったのに、番組タイトルは 「関ジャム」 のまま。ジャニじゃなくてジャムだからOKなのか……う〜ん。

それはさておき、2024年03月10日の放送の特集はimase、原口沙輔、そしてKroi [クロイ] というゲストで、それぞれの音楽を語るという内容。いつもながら面白い。で、この番組に限らずこうしたバラエティでよく見かけるのがサッカーオタクな影山優佳。もはや元アイドルということらしいのだが、私はFMで聴いて声を知っていたのが先なので、声と顔のイメージが違うなぁと思ってしまう。

Kroiが自分たちの音楽についてこのように話すのを聴いたのは初めてなので、いろいろ発見があったり納得できたりという感じだったのだが、特に内田怜央の、歌詞ははっきりと聴き取れなくても良いという意味の発言が心に残る。つまり彼にとっての歌は一種のエフェクトであり、インストゥルメンタルであって、言葉本来の意味はその存在意義が弱い。もちろん歌詞こそが音楽の要である人もいるだろうし、それはそれで重要なことだが、内田にはラップの根源的意味とは何かという意識が常にあるのだと思う。そして彼の基本は韻を踏むことよりもリズムとしての言語であり、エフェクトとしての言葉なのだ。

現在のドメスティックなバンドの中で圧倒的にすぐれているのは King Gnu だと私は思うが、Kroi はもっとアナーキーで、といっても甲本ヒロトとは違っていて、全然見当違いなのだが髪型とサングラスから私が連想したのは早川義夫で、とりあえずアナーキーさということでは合っているのかもしれない。
そして私がいつもシンパシィを感じるロックは、ととのった美しさよりもソヴァージュでいびつな音なのだ。


Kroi/Hyper
Live from “Dig the Deep” at Zepp Haneda, 2023
https://www.youtube.com/watch?v=WyH7cexPQ98

Kroi/Fire Brain
Live from "Magnetic” at NHK HALL, 2023
https://www.youtube.com/watch?v=_ugCkii8QrY

Kroi/Balmy Life
Live from "Magnetic” at NHK HALL, 2023
https://www.youtube.com/watch?v=nKLL6mCjwtA

参考
King Gnu/硝子窓
https://www.youtube.com/watch?v=DAzN019hKhc
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オリヴィエ・メシアン〈Chronochromie〉 [音楽]

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Olivier Messiaen, 1983 (npr.orgより)

メシアンのことを書こうと思って、最初は〈Quatuor pour la fin du temps〉を聴いていた。それは2016年のソルスバーグ・フェスティヴァルの映像であり、ザビーネ・マイヤーがクラリネットを吹いている演奏で Hochrhein Musikfestival Productions というチャンネルにupされている。演奏されるクァルテットは音楽も、そして演奏会場の建物も美しい。
だが、この曲はすでに有名過ぎるし、それに以前、リチャード・パワーズが『オルフェオ』のなかで作品成立時の経緯を小説に描いていたことを含めて記事に書いたことがあるし、そのとき 「la fin du temps」 は 「世の終わり」 でなく 「時の終わり」 だという訳語の問題まで含めて、もういいかと思ってしまったのである (→2015年10月09日ブログ)。

というわけで今回の話題は〈Chronochromie〉(クロノクロミー/1960) である。
この作品は (une œuvre) pour grand orchestre と表記されている通り、かなり大編成用に書かれたオーケストラ曲である。Donaueschinger Musiktage (ドナウエッシンゲン音楽祭) のために書かれたというが、例によって初期の頃は賛否両論という作品であった (アーチー・シェップに《Life at the Donaueschingen Music Festival》(1967/邦題はワン・フォー・ザ・トレーン) という有名なライヴ・アルバムがあるが、あのドナウエッシンゲンである)。

wocomoMUSICというサイトに 「Opus 20 Modern Masterworks」 という動画があり、これでピエール・ブーレーズによるメシアンの〈Oiseaux exotiques〉(異国の鳥たち) と〈Chronochromie〉を聴くことができる。

楽器編成についてfr.wikiでは 「4 flûtes, 3 hautbois, 4 clarinettes, 3 bassons」 と書かれているが、この部分はja.wikiのほうが詳しくて 「ピッコロ、フルート3、オーボエ2、コーラングレ、小クラリネット、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット3」 とあり納得である。
曲は Introduction, Strophe I, Antistrophe I, Strophe II, Antistrophe II, Épode, Coda の7つの部分に分かれているが、メシアンといえば chants d’oiseaux つまり鳥の歌であり、Épode でそれが発揮される。16の弦楽器がそれぞれ独立して演奏されるが、小節の並びによる整合性はなく、勝手に演奏されるだけだ。しかしもちろんアドリブではなく、全て譜面に書かれている。wikiに拠れば 「組織された無秩序」 とのことである。

下記にリンクしたブーレーズ/アンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏は L’Alte Oper (ラルテ・オーパー) というフランクフルトの旧オペラ座で録られたものであるが、15’55” からが〈Oiseaux exotiques〉そして 30’45” からが〈Chronochromie〉と表示されている。実際には2曲目冒頭にブーレーズのインタヴューアーへのコメントがあるため、曲の始まりは 33’08” 頃からであり、Épodeは 48’40” あたりからである。
ブーレーズの指揮は非常に精緻で、かつダイナミクスさを備えていて、晩年の好々爺なブーレーズではなく、最も精力的だった頃の 「怖いブーレーズ」 である。もっとも Épode の部分は指示の出しようがないので、単純に一定のリズムを振るだけである。
グロッケンシュピールはキーボード・グロッケンを使用しているようだ (ブーレーズに関してはその追悼文を参照されたい→2016年01月09日ブログ)。


Messiaen Edition (Warner Classics)
Messiaen: Messiaen Edition




Olivier Messiaen/Oiseaux Exotiques & Chronochromie
異国の鳥たち、クロノクロミー
Pierre Boulez, Ensemble intercontemporain
Opus 20 Modern Masterworks
https://www.youtube.com/watch?v=jbiZGoctGpw

Weithaas, Gabetta, Meyer, Chamayo/
Messiaen: Quatuor pour la fin du temps
時の終わりのための四重奏曲
Antje Weithaas, Violine
Sol Gabetta, Cello
Sabine Meyer, Clarinet
Bertrand, Chamayou, Piano
Filmed at Solsberg Festival 2016
https://www.youtube.com/watch?v=QAQmZvxVffY
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あいみょん AIMYON TOUR 2019 [音楽]

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歌詞にあらわれるセクシュアリティ、あるいはジェンダーに関する言葉の質が私にとっては重要なのではないかと気づいた。あくまで私にとってであって普遍化できるものではない。
女性歌手の歌う歌詞のなかの 「僕」 という一人称に惹かれたきっかけは浜崎あゆみの〈Fly high〉だったが、それは性の未完成さ、あるいは不安定さのひとつのあらわれという解釈もできるのだけれど、でもそれだけでは納得できない不純さが歌詞という形態には存在する。それがきれいな言葉で形容するのなら歌詞というものの不思議さなのだと思う。

浜崎あゆみのもうひとつのキーとなる曲に〈Moments〉があるのだが、過去の私にはまだ〈Fly high〉と〈Moments〉というふたつの曲の差異がわかっていなかった。それを的確な言葉にすることができないのだが、簡単にいえば〈Moments〉はずっと爛熟で頽廃である。あるいは〈Fly high〉にはMVのヴィジュアルを別にしても少女マンガ的少年性が垣間見えるが〈Moments〉にはそれがない (Fly high とそれに付随することについてはすでに過去に書いた→2018年03月18日ブログ)。
しかし私は 「僕」 という一人称にこだわり過ぎていたのかもしれない。あるいは過反応していたのかもしれなかった。あのちゃんが自分を指すときの 「僕」 はジェンダーを意識させない 「僕」 だし、ヒコロヒーの使う 「わし」 は最初、違和感があったがすぐに慣れた (それに「わし」 は男性の一人称とは限らないことを後から知った)。

そして、あいみょんも作詞のなかに 「僕」 を使う。別にあいみょんだけでなく、他の歌手だって使うのだが、そして性の越境は日本の演歌歌詞ではごく日常的でさえあるのだけれど、あいみょんの場合、特に有名曲にこの 「僕」 頻度が高いような気がする。たとえば〈君はロックを聴かない〉がそうだし〈空の青さを知る人よ〉も〈ハルノヒ〉もそうだ。〈マリーゴールド〉には 「僕」 は使われていないが、あきらかに男性の心情を綴った歌詞である。
だからといって、あいみょんは性倒錯ではないし同性愛とも思えない。つまり作詞というストーリーの中での 「男性」 性でしかない。それに何よりも 「僕」 という人称を使っている違和感がなくて、初めて聴いてしばらく経ってから私はそれに気づいたのである。それは近年のジェンダーに対する一般的意識の変化などが原因ではなくて、歌詞というものに対するあいみょんのストーリーテリングの巧みさなのだと思う。
それとこれは極私的嗜好なのだが、歌詞のなかに具体的な地名が出てくることに惹かれる。〈ハルノヒ〉の 「北千住駅のプラットホーム」 がそうだ。RCサクセションの 「多摩蘭坂を登り切る 手前の坂の」 もそうだし、山崎まさよしの〈One more time one more chance〉の歌詞の 「明け方の街 桜木町で」 も同様である。

あいみょんのライヴ映像のなかで私が好きなのは、少し古いのだが《AIMYON TOUR 2019 −SIXTH SENSE STORY− IN YOKOHAMA ARENA》だ。
それの1年前の 「TOKYO GUITAR JAMBOREE 2018」 におけるライヴ映像もYouTubeにあるが、ギターもJ-45でなくトリプル・オーで、まだ初々しく真摯な歌唱でこれはこれで好きなのだが、1年経った後の確信に満ちた歌唱を観ると、こんなに進歩してしまうのかと驚く。
どの曲もキャッチーなメロディライン、それはリスナーが歌おうとしても決してむずかしくなく、それでいて安直なつくりでもない。このライヴの満足感と充実感にはすでに一種の風格が感じられるのだ。


AIMYON TOUR 2019 −SIXTH SENSE STORY− IN YOKOHAMA ARENA
あいみょん/今夜このまま
https://www.youtube.com/watch?v=V6RTQmohrMA

あいみょん/ハルノヒ
https://www.youtube.com/watch?v=MgY-OY3RjUM

あいみょん/空の青さを知る人よ
https://www.youtube.com/watch?v=nGY19DwskCg

あいみょん/君はロックを聴かない
https://www.youtube.com/watch?v=cJnO-Y_YnFg

TOKYO GUITAR JAMBOREE 2018
あいみょん/満月の夜なら
https://www.youtube.com/watch?v=eJhy3HjspEo

[参考]
浜崎あゆみ/Fly high (MV)
https://www.youtube.com/watch?v=2zTG-uhGKbo
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パレ・デ・コングレ・ドゥ・リエージュのエリック・ドルフィー [音楽]

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Eric Dolphy

1964年のチャールズ・ミンガスとの過酷なツアーにおけるエリック・ドルフィーの動画を観ていた。ベルギーのパレ・デ・コングレ・ドゥ・リエージュにおけるミンガス・クインテットの演奏で Recorded for belgian TV show “Jazz pour tous” と注記されている。カメラのポジションが固定されていて、メンバー全員の映るショットがないのが残念だが、演奏はステージにおける狂躁的なミンガスとはやや異なっていて、しかしまだ若いミンガスの精悍なリーダーシップがうかがわれる記録である。

1964年はドルフィーの最後の年であるが、まず煩雑だがセッショングラフィを見てみよう (フランス語のアクサンなど付いていないがそのままコピペする)。

John Lewis 6 NYC, Jan. 10, 1964
New York Philharmonic Young People's Concert Philharmonic Hall, Lincoln Center, NYC, Feb. 8, 1964
Eric Dolphy 5 VGS, Englewood Cliffs, NJ, Feb. 25, 1964
Eric Dolphy 4 University Of Michigan, Ann Arbor, MI, Mar. 1 or 2, 1964
Eric Dolphy 4 WUOM Studios, Ann Arbor, MI, Mar. 2, 1964
Charles Mingus 6 Cornell University, Ithaca, NY, Mar. 18, 1964*
Andrew Hill 6 VGS, Englewood Cliffs, NJ, Mar. 21, 1964
Charles Mingus 6 Town Hall, NYC, Apr. 4, 1964**
Gil Evans Orch. Webster Hall, NYC, Apr. 6, 1964
Charles Mingus 6 Concertgebouw, Amsterdam, Holland, Apr. 10, 1964
Charles Mingus 6 University Aula, Oslo, Norway, Apr. 12, 1964
Charles Mingus 6 Konserthuset, Stockholm, Sweden, Apr. 13, 1964
Charles Mingus 6 Stockholm, Sweden, Apr. 13, 1964
Charles Mingus 6 Odd Fellow Palaeet, Stor Sal, Copenhagen, Denmark, Apr. 14, 1964
Charles Mingus 6 Bremen, W. Germany, Apr. 16, 1964
Charles Mingus 6 Salle Wagram, Paris, France, Apr. 17, 1964***
Charles Mingus 5 Theatre Des Champs-Elysees, Paris, France, Apr. 18, 1964****
Charles Mingus 5 Palais Des Congres, Liege, Belgium, Apr. 19, 1964
Charles Mingus 5 Bologna, Italy, Apr. 24, 1964
Charles Mingus 5 Wuppertal Townhall, Wuppertal, W. Germany, Apr. 26, 1964*****
Charles Mingus 5 Mozart-Saal/Liederhalle, Stuttgart, W. Germany, Apr. 28, 1964
Daniel Humair 4 Paris, France, May 28, 1964
Eric Dolphy 4 Cafe De Kroon, Eindhoven, Holland, June 1, 1964
Eric Dolphy 4 Hilversum, Holland, June 2, 1964
Eric Dolphy 7 Paris, France, June 11, 1964

このリストに拠ればヨーロッパでのミンガス・グループのツアーは4月10日の Concertgebouw から4月28日の Mozart-Saal までである。しかしその前に4月4日のニューヨークのタウン・ホールにおけるライヴもある。ベルギーの Palais Des Congres, Liege は4月19日となっているが、アルバムとして残されているライヴ録音に Théâtre des Champs-Élysées, Paris における《The Great Concert of Charles Mingus》があり、en.wikiには Recorded April 19, 1964 と表記されている。しかしセッショングラフィには18日とある。
これはなぜなのか、と思ったのだがde.wikiにその理由が書かれていた。

Am nächsten Tag folgte ein weiterer Auftritt in Paris, wo die Gruppe als Quintett auftrat. Das zweite Konzert fand am 18. April (genauer sehr früh am 19. April, nämlich von 0.10 bis 2.45), diesmal im “Theatre des Champs Elysées”, statt. Es wurde live vom ORTF- übertragen.

つまりシャンゼリゼでのライヴは18日の深夜、0時10分から始まっているので、カレンダー的には19日なのだ。深夜のライヴが終わって、その日のうちにベルギーに行き、パレ・デ・コングレで録音されたのが今回のターゲットとしている演奏である。このスケジュールは過酷過ぎて、音楽がやや沈潜しているような印象を受けた原因はそこにあるのかもしれない。セッショングラフィを見ると、この日からセプテットがクインテットに変わっているが、それはジョニー・コールズがダウンして抜けてしまったからである。
曲目は〈So long, Eric〉〈Peggy’s Blue Skylight〉〈Meditations〉の3曲だが、特に3曲目の〈Meditations〉は後半が現代音楽的になっていて、疲れているのかなとも思ってしまう。ドルフィーはフルートとバスクラを持ち替えていて、どちらもすごいが、クリフォード・ジョーダンのテナーもよく拮抗しているように聞こえる。

ドルフィーのリーダー・アルバムでいうのならニュージャージーのヴァン・ゲルダー・スタジオにおける《Out to Lunch!》のレコーディングが2月25日、そしてその後はオランダのヒルヴェルサムで録られた《Last Date》の6月2日なのである。この2枚のアルバムの間のミンガスとのツアーは音楽的には高度に充実していたのかもしれないが、同時にストレスも大きかったのだろうと思われる。

《Last Date》に残されているドルフィーの最後の言葉:

 When you hear music after it’s over, it’s gone in the air, you can
 never capture it again.
 音楽は終わってしまえば消えてしまい、二度ととらえることはできない

は諦念なのか、それとも単に物理的な現象を語ったことに過ぎないのか、私はたぶん後者だと思っているのだが、でも消えてしまわずに残っている〈You Don’t Know What Love Is〉は彼岸からの声のように聞こえて、今、あらためて再生することはあまりない。

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Charles Mingus & Eric Dolphy,
Palais des Congrès de Liège, Belgium, April 19th, 1964
Recorded for belgian TV show “Jazz pour tous”.
https://www.youtube.com/watch?v=03NX_EjGijM

[参考]
1964年のミンガス・グループのツアーのライヴ演奏がアルバム化されているのは下記の通りである。*印は上記のセッショングラフィに対応している。
* March 18, 1964: Cornell 1964 (Blue Note)
** April 4, 1964: Town Hall Concert (Jazz Workshop JWS 005)
*** April 17, 1964: Charles Mingus/Revenge! (Revenge 32002)
**** April 18 (19), 1964: The Great Concert of Charles Mingus (America)
***** April 26, 1964: Mingus in Europe Volume I (Enja 3049)
***** April 26, 1964: Mingus in Europe Volume II (Enja 3077)
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ユジャ・ワンの弾く〈You Come Here Often?〉 [音楽]

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Yuja Wang

前ブログに書いたユジャ・ワンのアルバム《The American Project》のことだが、このアルバムはテディ・エイブラムスが彼女のために書いたピアノ・コンチェルトでそのほとんどのトラックが占められているし、グラミーの受賞式にあらわれたのもエイブラムスであったから、ユジャ・ワンとエイブラムスによるアルバムといってもよいのだが、トラック1にコンチェルトの前哨のようにして入れられたマイケル・ティルソン・トーマスの〈You Come Here Often?〉が重要な意味を持っているように思える。

マイケル・ティルソン・トーマス (Michael Tilson Thomas, 1944−) はユジャ・ワン (Yuja Wang, 1987−) にとってもテディ・エイブラムス (Teddy Abrams, 1987−) にとってもレジェンドであり、現代的でありながらどこかに古き良きアメリカを引きずっているような風合いがある。
この曲〈You Come Here Often?〉はユジャ・ワンがアンコールなどでよく弾くプロコフィエフの技巧的な小曲のようでありながら、斬新な構築性に見えるプロコフィエフのある弱点を凌駕している点で、さすがに彼女宛に書かれた作品であることを見事に証明している。後半の左手の動きが秀逸である。
どちらかといえばプロコフィエフ的な系列の作品なのだが、緩急の配置のバランスが飽きさせない魅力となっている。短い曲なのに内容は濃密だ。
動画はマイケル・ティルソン・トーマスが7日前に自身のチャンネルに上げたものである。

古き良きアメリカというのは、全然見当外れな比喩なのかもしれないが、たとえばドヴォルザークの《アメリカ》に聴かれるような、少し感傷的でやや通俗な、尾鰭のついたキャディラックの走る夜の高速道路に流れる光のような翳りなく輝く全盛期の印象のアメリカであって、私はそれを巖本真理SQの演奏で初めて知った。そうした懐かしさのような、リリカルで、ある意味センチメンタルな遠い記憶はいつまでも褪せることがない。

ユジャ・ワンは特にアンコールを弾くとき、ともすると曲芸的でスピード一番なテクニック至上主義の曲を選ぶことが多かったが、それが次第にそうではなくなってきたのは、たぶんクライスレリアーナの頃からだったのではないかと私は感じている。以前の記事に書いたヴェルビエ・フェスティヴァルのことである (→2023年05月21日ブログ)。

今回、YouTubeで見つけたのはスウェーデンのイェーテボリ交響楽団の本拠地における2021年9月9日のライヴ映像である。
この日のメインとなったコンチェルトはリストの第1番であったが (指揮は首席コンダクターであるサントゥ=マティアス・ロウヴァリ)、そのアンコールで弾かれたのがグルックの〈Melodie from “Orfeo ed Euridice”〉とメンデルスゾーンの〈無言歌集 Allegro leggiero, fis-moll, op.67-2〉である。
どちらもごく穏やかで、そして悲しみをたたえた曲であるが、この儚さが音となるとき、世の中の諍いのもととなっているあまたの悪辣なものや人のことなどがどうでもよくなってしまうようなむなしさを覚えるのはどうしてなのだろうか、と私は思う。


Yuja Wang/The American Project
(Deutsche Grammophon)
輸入盤 YUJA WANG/TEDDY ABRAMS/LOUISVILLE ORCHESTRA / AMERICAN PROJECT [CD]





Yuja Wang/Michael Tilson Thomas: You Come Here Often?
https://www.youtube.com/watch?v=MK3sbDCMTcQ

Yuja Wang/Gluck: Melodie from “Orfeo ed Euridice”
(グルック/オルフェオとエウリディーチェ)
Santtu-Matias Rouvali, Gothenburg Symphony Orchestra
Göteborgs Konserthus, Sep 9, 2021
https://www.youtube.com/watch?v=kGkz0Oj4YCo

Yuja Wang/Mendelssohn: Songs without Words
Allegro leggiero, fis-moll, op.67-2
(アレグロ・レジェーロ [失われた幻影])
同上
https://www.youtube.com/watch?v=PF-oEvh6qD4
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〈弦楽のためのレクイエム〉 [音楽]

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Seiji Ozawa and Herbert von Karajan

ユジャ・ワンが2024年のグラミー賞をとったことは喜ばしくもあるが、その対象がアルバム《The American Project》だと聞くと、アメリカの限界というものも薄々感じる。圧倒的にすぐれているのはラフマニノフかプロコフィエフだと思うからだ。
だが、それよりもずっと悲しいニュースに遭遇して永遠に続くかもしれない暗い雪の日々というのはあるものなのか、とふと思う。ここ数年ずっと、私の心のなかは毎日が暗い雪の日々だ。

昔、まだ高校生の頃、割引で買えるレコードショップを知っている友人がいて、数えるほどしかレコードを持っていなかった私がそのツテで手に入れたレコードの1枚にフォーレのレクイエムがあった。もちろんクリュイタンスである。
なぜレクイエムなのかが今となってはわからないのだが、きっとオーソドクスなパターンで交響曲などに入れ込むのを避けたのかもしれない。レクイエムならフォーレかモーツァルトだという思い込みがあるのだけれど、でもフォーレは音が澄み過ぎていて、モーツァルトは彼自身の姿が感じられ過ぎていて、今の悲しみには合わないような気がする。

〈弦楽のためのレクイエム〉(1957) は武満徹の初期の代表的作品と今は言われるが、彼は早世した早坂文雄のために、またその頃、健康的に不安のあった自分自身にも向けて、その曲を書いたのだという。
初演は不評だったと聞くし、武満自身も情緒的過ぎて構造性に欠けるというようなコメントをこの作品に対して残しているようだが、情緒が計算ずくでなく自然に流れ出たところが、いつまでも変わらない清新な印象を持ち続けているように思える。むしろ音楽は構造でなく情動なのだ。

小澤征爾がこの曲を振った動画を観ることができるが、それは1990年11月6日の東京文化会館におけるライヴで、今や〈弦楽のためのレクイエム〉は人気曲だからあまたの演奏があるが、このときの小澤の指揮にまさるものはおそらく無い。
極弱音から入る冒頭のニュアンスが絶妙だ。小澤は両手を合わせ祈るようにしてから指揮棒を持たない両腕で音を紡ぎ出すが、この音の感触はこのライヴの演奏でしか聞くことができない。そしてこの冒頭の和音の鳴り方は一瞬、マーラーのアダージェットを連想させるのだが、指揮者によってはそのような音は聞こえない。つまり各楽器間のバランスの違いにもよるのだろう。

作曲家本人が不満足であろうとも、この曲はある種の特別な意味合いを持って成立しているような気がする。それは死者に対する思いであり、自らの不安感であり、そして人は必ず死ぬという無常観である。
そうした特別な曲を完璧に仕上げたマエストロが、今、そうした曲をおくられてしまう立場になってしまったのだ。小澤が師と仰いだのはカラヤンとバーンスタインとミュンシュ、こんな人は他にいない。

ブリュノ・シッシュの映画《ふたりのマエストロ》は指揮者の親子のストーリーだが、そのなかにスカラ座でジュリオ・カッチーニ (正確にはウラディーミル・ヴァヴィロフ) の〈アヴェ・マリア〉を振る小澤がモニターのなかに映るシーンがある。ほんの数秒なのにリアリティを高めるその効果は絶大だ。
小澤征爾は2002年、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートに招かれた。恒例の〈美しく青きドナウ〉が始まる前に、楽員たちが新年の挨拶を幾つもの言語で述べたシーンは、とても心があたたまる美しいときだった。このときの演奏曲リストを見ると、ヨーゼフ・シュトラウスの選曲が多いことに気付く。私の偏愛するウィンナ・ワルツはヨーゼフなので、小澤、わかってるなぁと思うのだ。


小澤征爾&新日本フィルハーモニー/
武満徹:弦楽のためのレクイエム
1990年11月6日・東京文化会館
https://www.youtube.com/watch?v=uHfa1uCAmAA

小澤征爾&ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/
ヨハン・シュトラウスII:美しく青きドナウ
2002年ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート
https://www.youtube.com/watch?v=VJZaElpTC7M

ブリュノ・シッシュ/ふたりのマエストロ・本編映像
スカラ座で指揮する小澤征爾の映像
https://www.youtube.com/watch?v=C16Kg6Q2hak
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