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地図にない場所 — 吉田秋生『海街diary』 [コミック]

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この記事は吉田秋生『海街diary』を読んだ人を対象としています。読んでいないとわからないエピソードやネタバレがありますのでご了承ください。

   *

この『海街diary』のコミックス奥付を見ると第1巻の初刷が2007年、第9巻が2018年。完結までかなり時間がかかっていると感じたのだが、ともかくなんとなく読み始めて読み終わりました。随分と季節外れのヴァレンタイン、じゃなくて感想文です。

ストーリーは、端折って書いてしまえば、離婚した両親がそれぞれ出奔し、残された娘3人 (香田幸、佳乃、千佳) で生活していたところへ父の訃報が来る。葬儀に出かけた山形で3人は異母妹 (浅野すず) に出会う。すずの現在の境遇を案じた幸は、帰り際、突然すずに 「あたしたちといっしょに暮らさない?」 と誘い、すずはすぐに 「行きます!」 と返事する。やがて4人での生活が始まり、それからいろいろなエピソードが綴られるというような話。

複雑な人間関係を明快に描き出す手腕はさすが。でもこうしたややこしさって意外にどこの家庭にもあることなのだとも思えてしまう。
ただ、いきなり脇道にそれてしまうのだが、この作品の中でピークとなっている挿話というか、つまりサイドストーリーが2つあって、それは第6巻の 「地図にない場所」 と第4巻の 「ヒマラヤの鶴」 である。「ヒマラヤの鶴」 はこれだけでは軽いエピソードのように見えて、最終巻の 「夜半の梅」 につながる伏線なので重要なメインストーリーともいえるのだけれど、そういう意味では 「地図にない場所」 は真性のサイドストーリーであり、それゆえにきらりと輝いているように感じる。

すずの従兄である北川直人 (直ちゃん) がやってきて、鎌倉のすずたちの家に泊まっている。直人は美大生で、卒業制作にあたって行ってみたい雑貨屋があるということなのだ。
だが直人は超絶方向音痴で、すずが同行する。店を見つけるが、めざしていた刺繍作品はその雑貨屋では売り切れていて、店の人から作家のアトリエを紹介される。
2人はすずのクラスメイトで地図に強い尾崎風太と合流し、3人でアトリエを探すがそこは地図には載っていない場所だった。しかし、直人の直感でアトリエを発見する。刺繍作家 (桐谷糸/きりや・いと) と直人は話が合って盛り上がるが、直人が子どもの頃、学校でイジメにあって転校した話をすると、糸が突然、詩の一節を言葉にする。

 立ちあがってたたみなさい
 君の悲嘆の地図を

それはオーデンの詩で、糸も学校に行かなかった3年間があり、そのとき、この詩に何度も救われたと語るのだ。
この部分の唐突さと、唐突でありながらその言葉から受けるピンと張りつめた印象がこのマンガ全体のトーンを見事にあらわしている。そしてこの場面にもあらわれる何も描かれない真っ白な背景が、かえって凝縮された美学となって読者に訴えかけてくる。こうした意識的な白バックの使い方は内田善美の、たとえば『空に色ににている』ににている。

この部分をネットで検索してみたら、さすがに幾つもの言及があった。W・H・オーデン (Wystan Hugh Auden, 1907−1973) は20世紀の著名詩人のひとりであるが、大江健三郎がその詩句をそのままタイトルとして借用したことでも知られる。「見るまえに跳べ」、「狩猟で暮らしたわれらの先祖」、「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」 など。

糸が言葉にした詩句の原文は次の通りである。

 Stand up and fold
 Your map of desolation.

このコミックス各巻のカヴァー絵は連載時の扉絵から採られているが、そのパースペクティヴと空の色の表情が素晴らしい。ネット上の画像ではその色が再現できていない。印刷物のほうがラチチュードが狭いはずなのに不思議である。


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https://www.amazon.co.jp/dp/4091670253/
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コミックスについて [コミック]

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萩尾望都『トーマの心臓』

蜷川実花の撮った《xxxHOLiC》の写真集を買ってきた。監督作品である映画のスチル版と思ってよいのだろう。

先日のTBSTV《A-STUDIO》のゲストは吉岡里帆だったが、この映画についてのあからさまなプロモーションが無かったのにちょっと驚く。キャスティングは壱原侑子が柴咲コウ、そして女郎蜘蛛が吉岡里帆である。
《A-STUDIO》で吉岡は、悪役を演じることについてTBSドラマ《カルテット》の来杉有朱が転機となったと語っていたが、やはりあのドラマでの彼女の演技はすごかったなぁと思う。

このところマンガをほとんど読んでないので、最後まで読んでいない『xxxHOLiC』の続きを読んでみようかと思ったのだが、体裁がPREMIUM COLLECTIONというのに変わっていて、相変わらず商売上手なCLAMPだなと思ってしまう。だがオリジナルのコミックスのほうが表紙が好きだから古書を探すことにする。
というわけで、いまさらだけどまだ読んでいない『海街diary』を2冊だけ買ってきた。いきなり大人買いはしないのがセオリーなのだ。

吉田秋生の『カリフォルニア物語』というネーミングは、内容とは全く関係ないのだけれどイーグルスの〈ホテル・カリフォルニア〉やママス&パパスの〈夢のカリフォルニア〉を連想してしまう。それはカリフォルニアという固有名詞から醸し出される音楽的な記憶とでも言えるのではないだろうか。
それはそのものずばりの曲名タイトル、萩尾望都の『アメリカン・パイ』にも同様なあの時代のにおいを感じる。

でも一緒に買ってきた萩尾望都の『一度きりの大泉の話』—— 昨年出た本なのだがあっという間に読んでしまった。内容的には超ヘヴィーな本である。そのヘヴィーな部分についてはあえて触れない。調べれば簡単に分かるはずなので、興味のある人だけ読んで欲しい。
佐藤史生、岸裕子といった名前が出てくるのが懐かしい。また『トーマの心臓』は最初人気がなくてアンケート最下位で連載が危ぶまれたこと。ところが『ポーの一族』のフラワーコミックスが初版3万部刷ったのに3日で売り切れてしまって雲行きが変わり、トーマは継続、原稿料も倍になったこと。そしてトーマの暗い話の後には明るい話をということで『この娘うります!』を描いたとのことだが、そのタイトルを提案したのは木原敏江だったこと。閉鎖空間としてのギムナジウムものの変形が『11人いる!』だったのでは、ということなど。


映画 ホリック xxxHOLiC写真集 (講談社)
映画 ホリック xxxHOLiC 写真集




吉田秋生/海街diary 1 蝉時雨のやむ頃 (小学館)
海街diary 1 蝉時雨のやむ頃




萩尾望都/一度きりの大泉の話 (河出書房新社)
一度きりの大泉の話

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100分de名著『果てしなき 石ノ森章太郎』を読む [コミック]

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手塚治虫、萩尾望都に続く別冊100分de名著のマンガ家第3弾は『果てしなき 石ノ森章太郎』である。
だが石ノ森章太郎 (1938−1998) をどのようにとらえるのべきなのかは意外にむずかしい。手塚治虫や萩尾望都のような 「これが代表作」 と言い切れるような作品がない。「ない」 といったら語弊があるのかもしれないが、たとえば『サイボーグ009』のような、まずマンガ作品がその基礎にあるものをあげるべきなのか、それとも《仮面ライダー》のようにテレビドラマのコンセプトを提示した人として考えるべきなのか、年代によって違いがあり、それぞれの視点が存在する。

評者のひとり、名越康文は『サイボーグ009』をとり上げているが、その最期の 「天使編」 「神々との闘い編」 (共に1969年) はいずれも未完であり、そしてそこまでが『サイボーグ009』である、と結論づけている (p.77)。その後の009は 「評価が難しい」 というのだ。
夏目房之介は『左武と市捕物控』について述べているが、「私たちの世代にとっての石ノ森はここが最高峰」 であり、以降の作品は 「終わったな」 とまで言い切っている (p.123)。そしてテレビアニメや特撮ヒーローもののプロデューサーであったことを評価すべきなのだが、石ノ森の生前、それを伝えることができなかった、なぜなら石ノ森がその価値を認めたがらなかったからだという。
宇野常寛は1978年生まれなので、最初に 「仮面ライダー」 があり、石ノ森章太郎は特撮番組のクレジットにやたらに出てくる名前の人という認識があって、石ノ森のマンガ作品を読んだのはその後からであったと語る。ゆえに石ノ森章太郎は有能なコンセプターであったと意味づけるのだ。

つまりわかりやすく位置づけるのなら、1955年のデビュー作 「二級天使」 から1968年の『左武と市捕物控』を経て1970年頃までがマンガ家の時代、1971年の《仮面ライダー》放送の頃から1998年までが、もちろんマンガも描いているのだが、プロデュース業の時代というのが、ほぼ共通の認識である。

そんな中で、1964年の『週刊マーガレット』に連載された『さるとびエッちゃん』(雑誌掲載時のタイトルは 「おかしなおかしなおかしな女の子」) へのヤマザキマリの分析が目を惹く。『さるとびエッちゃん』はギャグマンガであるが、エッちゃんは性格的にクールであり、ストーリー全体がシュールであるとヤマザキはいう。
そして、

 彼女は自分の周りで起こっている事象に対して、いろいろ思うことはあ
 っても、押し付けがましい正義感も、ああするべき、こうするべきとい
 った主張もない。石ノ森が意図したものなのか、エッちゃんというキャ
 ラクターを作った時点でエッちゃんが勝手に動き出したのかは分からな
 いのですが、その点でも唯一無二な漫画だと言えます。(p.25)

と書く。つまり、

 何が正しいのか悪いことなのかは彼女が判断をしているわけではない。
 自己主張や自我意識がない。そもそも漫画のセリフに 「わたしは」 とい
 う表現がほとんど出てこないのです。(p.27)

それが石ノ森の、世界に対するスタンスなのではないか、とヤマザキは言っているようである。
いくらギャグマンガとはいえ、そのヒロインであるエッちゃんに感情移入しにくい、むしろ感情移入されることを拒んでいて、何も求めずただ生きているだけというその態度は、承認欲求であふれかえっている現代の情勢と対極にありそこから学ぶことはたくさんある、とヤマザキはいうのだ。それでいてそのクールな立ち位置であるはずのエッちゃんから滲み出る悲哀があり、それが物語の深さだともいう。

また、話がちょっとズレるが、このヤマザキの指摘の中で 「エッちゃんというキャラクターを作った時点でエッちゃんが勝手に動き出した」 のかもしれないという表現をしているのが同業者としての共感でもあるようで、やはりそういうことがあるのだなと納得する。

そして石ノ森章太郎の特徴的な作品として取り上げられているのが『章太郎のファンタジーワールド ジュン』である。『ジュン』(1967) は手塚治虫の立ち上げた雑誌『COM』に連載された実験的な作品で、コマ割りの斬新さ、ほとんど言葉のない作画など、詩的なその方法論に手塚治虫が嫉妬したといういわくつきの作品である。夏目房之介はセンチメンタル過ぎると言っているが、逆にいえばそれは石ノ森のピュアな精神構造がそのまま露出してしまった結果であり、特にテクニック的なコマ割りの革新性 (コマ割りは田の字でなくてもよいし、ワク線は常に必要ないということ) がその後の萩尾望都などの作品に影響を与えたことは確かである。

竹宮惠子はその当時、編集者から 「少女マンガは日常的な題材でないとダメだ」 と言われていたがそれを打破したのが石ノ森で、それにならって少女マンガにSFを導入してみようという試みとして描いたのが 「ジルベスターの星から」 (1975) であったとインタビューで述べている (p.45)。

名越康文は『サイボーグ009』について、サイボーグにされてしまった違和感という形容をしているが、つまり身体を無理矢理に改造されてしまったことは喜びでも何でもなく、マイナスの作用として働きながら、でもそれでも生きていかなければならないということであり、それはさるとびエッちゃんよりも、よりシビアな悲哀であって、一種の諦念ないし虚無感の実相である。
そうしたサイボーグの違和感は《ブレードランナー》のレプリカントの悲哀と通底していて、つまり石ノ森はリドリー・スコットなどよりずっと以前にヒーローないしはアンチヒーローのセンシティヴィティを描いていたのだといえる。
かつてヒーローは明るい太陽であるだけの存在だった。たとえばスーパーマンがそうである。だがクリストファー・ノーランの描いた《ダークナイト》のバットマンは、もともと翳のあるヒーローであったにせよ圧倒的にダークである。それは世界が次第に複雑系に変化していったというよりは、むしろ劣化していったと考えるほうが自然である。

また少し話題がズレるが、ヤマザキマリによればイタリアでは『ドラえもん』と『クレヨンしんちゃん』が全くウケないのだとのこと。東南アジアでもスペインでもウケているのにイタリアではウケない。なぜならドラえもんがすべて解決してくれて、のび太がそれに依存しきっているのが不評なのだ、と。その点、『さるとびエッちゃん』は自立していてヴィットリオ・デ・シーカなどにみられるネオリアリズモ的なテイストがあるともいう。このあたりは、さすがイタリア、芯があるなぁという気持ちで読んでいた。

『ジュン』に出てくる少女は年齢を超えた存在であり、つまり幼いようでもあり、老成した女の仮の姿のようでもある。だが私は竹宮惠子の『私を月まで連れてって!』(1977−1986) のニナ・フレキシブルがそのヴァリエーションではないかと連想してしまう。性的でないロリータはその分、かえって蠱惑的だ。

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石ノ森章太郎/ジュン


100分de名著 果てしなき 石ノ森章太郎 (NHK出版)
別冊NHK100分de名著 果てしなき 石ノ森章太郎

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『萩尾望都 紡ぎつづけるマンガの世界』とその周辺のことなど [コミック]

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女子美術大学では2011年より萩尾望都を客員教授として招聘し、特別講義を年2回開いていた。この本はその記録とのことである。
2016年7月17日講義の中で萩尾は『ポーの一族』の続編について、次のように語っている。

 夢枕獏さんが、会うたびに 「いつか『ポーの一族』の続編を描いてよ。
 続きが読みたいな。待ってるから」 って。(p.151)

これは先日の《100分de名著》の特番《100分de萩尾望都》でも夢枕獏自身が話題にしていた。繰り返して言葉にしていれば実現することってあるのだな、と思う。番組自体も通常の《100分de名著》のような一般教養的内容でなく、より深い会話で構成されていて、きっと視聴率は高かったのではないだろうか。
マニアックな話題ということなら私が繰り返し取り上げている《関ジャム》があるが、そうした解説の元は坂本龍一の《Schola》であることにこの前、YouTubeを観ていて気づいた。〈Merry Christmas, Mr. Lawrence〉の解説では11th、13thの使い方と、さらにこれはサブドミナントから始まっているということ、そしてドビュッシーなどの影響があることを明晰に語っていて、100分特番もScholaも、NHKおそるべし、である。《タモリ倶楽部》をハイブロウにした《ブラタモリ》はちょっとズルいけれど。

というような前フリはともかくとして、女子美講義から幾つかをランダムに読んでみる。
第2章 (2016年11月26日) は 「トランスジェンダーのキャラクターはどこから生まれてくるのか」 というタイトルで、まず 「11月のギムナジウム」 (1971) についてであるが、萩尾によれば『トーマの心臓』(1974) の構想はすでにあって、その番外編のような話として出てきたのが 「11月のギムナジウム」 なのだとのことだ (p.057)。
なぜ男子校を舞台にした男の子ばかりの物語にしたかということについて、萩尾は、

 『11月のギムナジウム』は描いていてすごく楽でした。それはなぜかと
 考えていくと、私は女子だからといって不自由を感じたことはないと思
 っていたけれど、それなりに、女はこうしなさいという抑圧を受けてい
 るんじゃないか。そんなふうに考えて、だんだん過去のことを思い出し
 ていきました。(p.059)

という。そしてマンガ家としてデビューして出版社に行っても編集者から 「1年か2年描いたら結婚するんでしょ?」 というような会話になる。まだ 「女性は結婚して家庭に入るのが当たり前という感覚」 の時代だったのだという。しかし、やがて男子が先で女子が後の学級名簿はおかしいんじゃない? という疑問の出てくる時代となって来る。

 時代とともにものの見方が変わってきているんですね。そうすると、や
 はり私は自分でも気づかない抑圧を受けていたんだ。だから、男子生徒
 を描いたときに、すごく描きやすかったんだなと思いました。(p.060)

少女マンガというテリトリーの中で、少年ばかりが出てくるストーリーであるのは、当時は極端な冒険だったように思えるし、それを描いた萩尾だけでなく、それを通してしまった編集者や出版社はちょっとスゴい、と思う。
しかし 「11月のギムナジウム」 や『トーマの心臓』は、いわゆるBL系であり、トランスジェンダー的なコンセプトで描かれたのは、その後に描かれた『11人いる!』(1975) で顕在化したと言えよう。もっとも『11人いる!』におけるタダとフロルはトーマのユーリとエーリクであり、トーマにおけるユーリがあまりにかわいそうなので、その補完として『11人いる!』でリカバリーしたのだというスターシステム的な見方もあるように思う (スターシステムという用語は中島梓が手塚治虫の作品を解説したときに知ったのであるが)。
フロルの両性具有という概念は、アーシュラ・K・ル=グィンの『闇の左手』(1969) からヒントを得ていると思われる発言がある (p.066)。『闇の左手』は性差の不分明であり、『ゲド戦記』のアチュアン (1971) が名前の不分明にあるとすれば、ル=グィンのこうした境界線上における状況設定のアプローチが鋭敏であることがよくわかる (もっともアチュアンの無名性はアーキペラゴにおける 「真の名前」 という呪縛に対する反意でもある。アーキペラゴは体制であり、アチュアンはアンチテーゼなのだ)。

ここで面白かったのは『11人いる!』のヒントになったのは、宮澤賢治の 「ざしき童子のはなし」 なのだとのことである (新校本宮澤賢治全集第12巻)。広いお屋敷で子どもが10人で遊んでいたら、いつのまにか11人になっているという典型的な 「座敷わらし」 の話なのだが、それで『11人いる!』というタイトルになったのだという。そして『11人いる!』の後、SF系の作品が次々に生まれる。 「A-A’」 (1981)、「X+Y」 (1981)、 「マージナル」 (1985) など。もちろん『百億の昼と千億の夜』(1977)、『スター・レッド』(1978) もSF系だが、この3作は多分にメンタル系な特徴を併せ持つという傾向が共通していることであげられているように感じる。「マージナル」 はジョン・ウィンダムの、男がいなくなった未来の世界を描いた 「蟻に習って」 にヒントを得ているそうである。

もうひとつ、 「11月のギムナジウム/トーマの心臓」 には 「うりふたつ」 ないしは 「双子」 という設定がある。双子は 「セーラ・ヒルの聖夜」 (1971) で特徴的な意味をもち始めるが、それは 「アロイス」 (1975) そして 「半神」 (1984) と、次第に重いテーマとなって続いて行く。同じような外貌でありながら内面が異質であることの究極が 「半神」 であり、つまり双子のテーマが 「半神」 に収斂していったとみることもできる。双子は人間の表と裏、陽と陰のメタファーであり、それを2人の人格に分けることによって抽象性は増す。

     *

ちくま文庫で『現代マンガ選集』という8巻のアンソロジーが出された。責任監修者は100分de萩尾望都にも出演していた中条省平である。この中に 「少女たちの覚醒」 という少女マンガの巻があり、編者は恩田陸である。
恩田は作品を選ぶ際の苦労を綴っているが、その中に次のような言葉がある。「そして、何よりも心残りなのは、内田善美の作品を載せられなかったことだった。/実は、私はこのアンソロジーに内田善美の 「ひぐらしの森」 を入れるのが一番の目標だった。悲願といってもいい」。
だが版権の関係で収録することはかなわなかった。しかしまだあきらめていない、と恩田は書く。 「「ひぐらしの森」 や 「空の色ににている」 を新たな世代の読者が読めないのは、大きな損失であるとしか思えない」 とも。SFの源泉ともいえるパルプ・フィクションも、コミック・ストリップも、そして独自の発達をした日本のマンガも、かつては消費財であった。だがその中にこそ最もその時代を反映する真実が存在している。


萩尾望都 紡ぎつづけるマンガの世界 (ビジネス社)
萩尾望都 紡ぎつづけるマンガの世界 ~女子美での講義より~




萩尾望都/ポーの一族 プレミアムエディション上巻 (小学館)
『ポーの一族 プレミアムエディション』 (上巻) (コミックス単行本)




現代マンガ選集 少女たちの覚醒 (筑摩書房)
現代マンガ選集 少女たちの覚醒 (ちくま文庫)




100分de萩尾望都 NHK告知
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2021special/

100分de名著 萩尾望都 #4
(視聴は消されないうちに)
https://www.youtube.com/watch?v=OwqHs0x29Og

〈参考〉
Schola 坂本龍一/戦場のメリークリスマス 解説
https://www.youtube.com/watch?v=mBctM3EwPno
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たゆたうヘアライン ― ポーの一族展に行く [コミック]

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松屋銀座で開催されている 「萩尾望都 ポーの一族展」 に行く。
『ポーの一族』は 「すきとおった銀の髪」 から 「小鳥の巣」 までが当初のかたちであって、フラワーコミックス3冊に収録されていた。その後、少しずつ描き足されて長くなるが、最初の3巻分、つまり1972年から1973年にかけてのポーは特別な意味を持っているように私には思える。
リアルタイムで読んだわけではないので、その衝撃度はリアルタイムの読者に較べれば低くなってしまうのかもしれないが、「これは何?」 という強い印象の下、何度も読み返してしまった記憶がある。それをどのように言葉にするべきかがわからなくて、でも、つまり言葉ではないのだ。言葉にできない部分の領域に何かがあってそれが重要なのだ。

会場は薄暗くて、しかも大変混んでいて、順路の始めのあたりは全然動かないので、少し飛ばして空いているところを見る。しばらくして戻って来たら空いてきたので、ゆっくりとあらためて見る。ポーのそれぞれの原画は、こんなのあったっけ? というようなものはひとつもなく、すべてが記憶のなかにある既知の原画であり、しかし印刷物上では見えなかったような細かい線がおそろしくリアルで、しかも黒々としたスミとは限らず、ちょっと薄かったりするので、これは印刷では出ないよなぁと思う。でも印刷で飛んでしまうか否かということは関係ないのだ。それはたとえば成田美名子の原画でもそうだったが、印刷で飛ぶか飛ばないかということとは関係なく描き込んでしまうという一種の狂気なのかもしれなくて、その時代にはそうした志向だったのだということを改めて確認する。
その狂気ともいえる繊細な線でかたちづくられているのが1972年から73年にかけてのポーであって、「エヴァンズの遺書」 以降はやや画風も変わり、そんなにがんばって描かなくても、という手馴れた手法を使い始める。もちろんそれが悪いと言っているのではないのだが、「小鳥の巣」 以降に『トーマの心臓』があって、つまりエヴァンズに至る架け橋としてのトーマ、そしてトーマを通り過ぎた後のエヴァンズという経緯があるのではないかと思う。

今回、ポーの原画を見ていて感じたのはどこにでも生じている細いヘアラインである。それは画面のあちこちに生きもののように描かれ、それは空気や風や霧の流れのようでもあり、何らかの魂を持ったたゆたいのようでもあり、もの憂く、ごく自然に、でもとても周到な位置に存在している。人やものの上にも、コマを通り抜けて曲がりくねり、そしてポーの世界は、そのふわっとしたヘアラインのかたちづくる紗のとばりの向こう側にあるのだ。

チラシにも掲載されている最も有名なカットのひとつ、エドガーが窓から入って来る場面は、ふたりともブラウジングされた服、そして風にあおられるカーテンのやわらかな、むしろ妖気をたたえた曲線と合わさって、それが異世界の表情の具現化であることを知らされる。エドガーの姿は、つまり暗いピーターパンなのだ。
ここでのエドガーとアランの会話は秀逸である。

 「メリーベルはどこ?」
 「知ってる? きみは人が生まれるまえにどこからくるか」
 「知らない…」
 「ぼくも知らない
 だからメリーベルがどこへいったかわからない」

画集はいろいろなカットを集めて編集されているが、別冊になっているスケッチブックの復刻がすごい。目の位置さえ描ければ後は自然に全身が定まってくるという描き方の見本のようなスケッチが見られる。

オマケとして銀座三越では恒例のスヌーピーin銀座2019が開催中。和物のスヌーピーって日本特有のものなのだろうが、もはやスヌーピーというよりパタリロ的な変装が楽しい。ジャパン・ラグビーはシュンのキャラですね。レアなのは売り切れてしまいますのでお早めに。

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萩尾望都 ポーの一族展
http://www.matsuya.com/m_ginza/exhib_gal/details/2019725_poe_8es.html

ポーの一族 復刻版 コミック 全5巻完結セット (小学館)
ポーの一族 復刻版 コミック 全5巻完結セット (フラワーコミックス)

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ユリイカの魔夜峰央を読む [コミック]

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春の夜。『ユリイカ』臨時増刊号の魔夜峰央特集を読む。というか、まだ読みかけである。最近の『ユリイカ』にしては珍しく、内容濃すぎるので。あ、それと目次が読みにくい。

口絵のラシャーヌのキャプションに、「魔夜のベタは印刷より美しいと評判であり、ビアズリーとの親和性が述べられる」 とあるが、黒味に偏ったモノクロの美しさはマンガというよりイラストレーションである。
他の個所にも書かれているが、そのベタが漆黒であるのは二度塗りしているからとのことで、そんなにしっかり塗らなくても印刷にすればムラは消えてしまうのだが、そこにこだわるのがマンガ家の常である。
作者自身も言っているが、魔夜峰央のマンガには動きがない。常に静止画である。

冒頭のインタヴューには今まで知らなかったことがいろいろ書かれていて (ファンなら既知のことなのかもしれないが、私はそれほどには知らないので) 大変に面白い。インタヴューを受けているのは魔夜本人と奥様である山田芳実。魔夜が超・愛妻家であることが読み取れる内容である。

話は生い立ちから始まるが、故郷の新潟の風景など、砂山のような場所に家があってそこに住んでいたのだそうである。別の記事によれば、新潟市が主催する 「にいがたマンガ大賞」 というのがあり、最終審査員としてやはり新潟出身である水島新司が担当していたが、途中からそれに加わり、現在は魔夜が最終審査員として継続中とのことである。

魔夜の作品における黒みのバランスは恐怖マンガに通じるものがあって、わかりやすい例だと楳図かずおだが、でも怪奇マンガについては、

 美内 (すずえ) さんや山岸 (凉子) さんの恐怖マンガはすごく怖いですよ。
 ジワッとくる嫌な怖さ、日本のホラー映画のような陰湿な感じですね。
 私もああいう怖いマンガを描きたかったんですが、どうやってもできな
 い。私のは 「怖くない怪奇マンガ」 です。(p.24)

という。ギャグマンガへと路線が変わったきっかけは『ラシャーヌ!』で、ラシャーヌは復讐神ビシュヌをビシューヌ→ラシャーヌとしたもので、反響はなかったが次の年のマンガ家のパーティで褒められたとのこと。特に木原敏江から褒めてもらったことを覚えているそうである。

奥様の発言によれば、背景にはパターンがあって、アシスタントは 「魔夜峰央バック」 を覚えなければならないのだとのこと。バラの花は池田 (理代子) 先生のバラが一番美しいので、それをアシスタントに学ばせる、と魔夜は言う。そしてバラが必要な場合は、エンピツで 「バラ」 と書いておくと、アシがそこにバラを描き入れるというシステム。アシスタント、結構大変そうです。

クック=ロビン音頭は、アシスタントが観てきた素人劇団の《ポーの一族》の中で、例のエドガーのセリフを元にして踊っていたというのを聞いて、それがヒントになったのだという。クック=ロビン音頭に関しては後のページに細馬宏道の詳細な考察があるが、クック・ロビンといわれても、当時の読者だったら原典のマザー・グースを連想するのではなく〈小鳥の巣〉のはず、というところから検証が始まっているのだけれど、細馬によればその翻訳における音律は北原白秋の訳詞に遡る、とある。そしてギムナジウムで行われようとしているシェイクスピアの『お気に召すまま』へと至る言及は面白い。(p.107)
ただ、マザー・グースのコック・ロビンはS・S・ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929) に使われたことで有名であり、魔夜峰央は当然知っているだろうが、萩尾望都もおそらく知っていただろうと思われる。
魔夜の奥様の山田芳実はバレエ・ダンサーであり、宝塚が好きでよく一緒に観に行くのだそうだが、《ポーの一族》を魔夜は観に行けなかったとのことで、でもエドガー役の明日海りおの写真をパンフレットで見て、この人ならエドガー役をやっても納得できると思ったとのことである (p.41)。宝塚といえば『翔んで埼玉』(1982-83) の麻美麗は当時の宝塚のトップスター、麻実れいからつけたとのこと。でも了解はとっていないのだそうである。
これは関係ないと思うのだが、パタリロのアニメが放映されたのが1982年、大瀧詠一の〈イエロー・サブマリン音頭〉も1982年なのだ。音頭の年だったのかもしれない (なわけないか)。というか、そもそもクック=ロビン音頭の元ネタは三波春夫であるはず。

魔夜峰央は、本は大体、SFとミステリしか読まない、さらに日本のものは全く読まない、と言っている。そうだろうなぁと納得する。(p.36, p.80)

日高利泰の24年組に対する厳密な考証は大変参考になった。小長井信昌の24年組がニューウェーブであるとする論考を否定し、

 「二四年組」 と 「ニューウェーブ」 を等価なものとする用法はあまり一般
 的ではない。一九七〇年代後半のマンガ界における新しい動向を指すと
 いう広い意味では重なる部分はあるものの、一般にマンガ用語としての
 「ニューウェーブ」 は大友克洋を中核的な指示対象として用いられる。
 (p.62)

というのだが、ニューウェーブなる名称そのものを知らなかったので勉強になる。
さらに日高は24年組作家たちの少年愛、いわゆるBLな作品について『JUNE』が耽美というコンセプトを打ち出したのだというが、耽美のもつ本来の意味としての作品、つまりビアズリー的な黒の美学でありながらBL的テーマを持たないものとして山田章博の『人魚變生』をあげている。(p.63)

少しとばしてしまうが、芳賀直子の日本におけるバレエの受容に関する考察も大変面白い。日本におけるバレエ受容の特徴として、西欧においてはバレエはヒエラルキーのトップにあり、それに対してアンチ・バレエとしてのモダン・ダンスという対比があるのだとする。しかし、バレエが日本に入ってきた初期の頃は、バレエもモダン・ダンスも等しく西欧文化だったとするのである。(p.101)
そして、なぜ日本ではマンガがくだらないものであるとされてきたか、について、まず貸本屋時代のマンガという存在があって、そうしたマンガの中でのバレエの描かれ方は 「バレエはお金持ちの少女の趣味」 であるか、あるいは 「才能はあるけれどお金はない少女にとっての、成功するための手段」 としてのものだったというのである。
しかし、当時の貸本マンガに対する評価は 「良家の子女が読むものではない」 とされていた存在で、これがマンガという媒体に対する蔑視としてあったのだという。そうした結果として、

 バレエはマンガによって西欧での受容層と違った文化圏の人達、そして
 方法で広がったということです。(p.102)

のだというのである。そもそも私は貸本というシステム自体を知らないので何ともいえない。だが、貸本とか紙芝居とか、まだメディアが発達していなかったころの文化の伝播の状態というのは現在とは異なり、かなり異質なものであったのだろうということは想像できる。

魔夜峰央は40歳を過ぎてから奥様に習ってバレエを始め、それもかなり本格的なのだという。インタヴューから感じられるのは、なによりもパタリロなどで描かれる世界とは全く異質な明るい家庭の雰囲気であり、その落差に驚いたのだけれど、でもアヴァンギャルドでアートな人って、作品はアヴァンギャルドだけれど実はとてもアヴァンギャルドじゃない人というのはよくあることです。

とこのへんまで読んだ、ということでとりあえずおしまい。


ユリイカ 2019年3月臨時増刊号 総特集◎魔夜峰央
(青土社)
ユリイカ 2019年3月臨時増刊号 総特集◎魔夜峰央 ―『ラシャーヌ! 』『パタリロ! 』『翔んで埼玉』…怪奇・耽美・ギャグ―

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レリーズとセキュア — カードキャプターさくら・クリアカード編 [コミック]

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この週末は桜がちょうど満開で、まさに桜吹雪となって散りつつある。あたたかい場所の桜はもう葉桜だ。
スマダンの記事のなかにCCさくらのことが書いてあって興味深く読んだのだが、TVアニメのクリアカード編の第1回も、桜吹雪のなかを登校して行く中学生になったさくらから話が始まる。

スマダンの記事は的確で、まさにクリアである。さくらは 「変身しない魔法少女」 であること。小狼 [シャオラン] が同性に恋をするのが描かれていること。そして 「知世のさくらへの愛着と献身は、どこか友達の域を超えている」 ことなどが指摘されていて、そして何よりもCCさくらがこれだけ人気になったのは 「しっかりと子供向けに作られ」 ていたことだとするのである。

カードキャプターさくら (略してCCさくら) はCLAMPのマンガで、それを原作としたTVアニメ、劇場用アニメなどが作られた。TVでは現在、クリアカード編を放送中である。
CLAMPの作品のなかでCCさくらはカリスマ的人気があるが、それは子ども向けなのにもかかわらず、すべてが丁寧に作られていて、しかも考えようによっては深い意味を持っていることだ。そのとらえかたはいろいろあり、そのどのようにもとることのできることがCLAMPのマジックである。

スマダンの記事では、CCさくらの最も斬新な特徴として、さくらが 「変身しない魔法少女」 であることをあげている。基本的には、セーラームーンを代表とする 「変身する少女」 だけでなく、各種のヒーローものは変身することによって成立していることが多いが、さくらは変身しないのである。さくらの変身は変身でなく、さくらの最も親しい友人である大道寺知世が作ってくれる衣裳にいつも着替えることによって成り立っているのだ。
この 「「着替える魔法少女」 という、お約束を逆手に取った設定」 は、つまりヒーローものの原点であるスーパーマンに近い。だが着替えをするスーパーマンも、変身するウルトラマンや 「変身する魔法少女」 たちも、原則的にいつも同じ衣裳であるのに対し、さくらはそのときそのときで違う衣裳なのだ。それは知世が、さくらを着せ替え人形的に利用して自己満足しているというふうに考えられなくもない。だがそれよりも知世はさくらの絶対的なファンなので、いかにかわいい衣裳をさくらに着せてそれを映像に撮るということを含めての作品を作りたいという目標があり、一種の絶対的なファッションを含めた総合デザイナーなのである。

それは単純な愛とか献身だけではできないし、もちろん知世の自己満足であるという結論だけでは解決できないのだ。知世は単純に 「さくらちゃんに私の服を着せることが幸せ」 という能天気さを装っているが、そのなかに、例えば『ちょびっツ』におけるちぃと柚姫の関係性のアナロジーを感じるのである。
もちろん知世は小学生の読者/視聴者にとってはさくらの理想的な友人としてとらえられているのに違いないし、知世がコンプレックスのような表情を見せることはないが、もう少し深読みすれば、さくらが見落としているかもしれない世界への視点に対して最も深い洞察力を持つバイプレーヤーであることは確かだ。そして柚姫ほどダークではないし、常に能動的である分、より複雑な人格として設定されていることが読み取れる。

さくらのいわゆる守護天使であるケロちゃんは、さくらに対しては大阪弁のユルいペットのような外見をしていて、でも一般人に対しては単なるぬいぐるみを装っている。ケロちゃんの本質はケルベロスであり、クロウカードの守護者でもあるが、ギリシャ神話のケルベロスは冥府の番犬であり、ケロちゃんが、ごくたまに本来の姿を見せるのでもわかるとおり、その本性は果てしなく暗いはずである。それをケロちゃんとしてカムフラージュしてしまうところがCLAMP仕様なのである。
これが 「しっかりと子供向けに作られ」 ているひとつの例であり、ケルベロスが何かを識っていればその意図するところもわかるはずだ。

クリアカード編第1回の桜吹雪の中を出かけて行くさくらと、桜の花吹雪による自然の美しさ (それは少し怖いほどの美しさという面をも内包しているのだが) のシーンから、私はなぜかグリーンゲイブルズに赴くアン・シャーリーを連想してしまった。CCさくらは単なる登校のシーンに過ぎないのであり、アンの自然観察を含めた心の動きの描写ほどの複雑さはもちろん無いが、新しい環境に入って行く期待や不安、好奇心という面では一緒である。そしてまた、さくらが中学生になって、今までより少し大人びてきたこととも無縁ではない。

ところで『赤毛のアン』についてサーチしていたら、その冒頭にハンノキの出てくる描写があるというブログ記事を見つけた。この部分である。

 アヴォンリー街道をだらだらと下って行くと小さな窪地に出る。レイチ
 ェル-リンド夫人はここに住んでいた。まわりには、ハンノキが茂り、
 ずっと奥のほうのクスバート家の森から流れてくる小川がよこぎってい
 た。

 Mrs. Rachel Lynde lived just where the Avonlea main road dipped
 down into a little hollow, fringed with alders and ladies’ eardrops
 and traversed by a brook that had its source away back in the
 woods of the old Cuthbert place;

ハンノキは alders であるが、アルダーは家具材であり、エレクトリック・ギターのボディにも使われる木材である。だが私がハンノキという言葉に反応するのはル=グィンの『ゲド戦記』の冒頭にもハンノキが出てくることを思い出すからである。

 ハイタカはゴント山の中腹、“北谷” の奥の “十本ハンノキ” というさび
 しい村で生まれた。

 He was born in a lonely village called Ten Alders, high on the
 mountain at the head of the Northward Vale.

どちらも小説の冒頭の自然描写であるが、偶然であるにせよどちらもハンノキというのが興味深い。正確には『赤毛のアン』は alders and ladies’ eardrops (ハンノキとフクシア) であるが。

CCさくらにおけるさくらのキメ・フレーズは 「レリーズ」 (release) である。さくらが封印を解くときに発せられる言葉だが、クリアカードでは逆に封印をするための夢の杖が存在する。その杖による封印の言葉は 「セキュア」 (secure) である。
『遊戯王』のアルティメット (ultimate) などもそうだが、子どもが意外な英語を知っていたりするのは、アニメとかゲームによるものが多かったりする。


CLAMP/カードキャプターさくら クリアカード編 (1) (講談社)
カードキャプターさくら クリアカード編(1) (KCデラックス なかよし)




カードキャプターさくら クリアカード編 第1話
http://www.nicovideo.jp/watch/151513773
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浦沢直樹の《漫勉》— 清水玲子 [コミック]

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NHK-2の浦沢直樹《漫勉》のシーズン4の1回目〈清水玲子〉を観る。
まず浦沢直樹が道を歩いているシーンがあって、清水玲子の仕事場兼自宅に入っていくのだが、その仕事場がすごい。「これだけきれいな仕事場は、今までで初めてじゃないかしら」 というのに笑ってしまう。私はすでにこの整理整頓されたモデルルームみたいな清水の部屋の写真を見たことがあるので、あ、これこれ、としか思わなかったが、初めて見たら衝撃に違いない。一般的にいって出版にかかわる業種は作家も編集も、どこもぐちゃぐちゃというのがお決まりの情景なのだから。
清水玲子の透明感とか繊細さとか緊張感といったものがすべてこの仕事場の姿に反映しているのだというのが実感できる。決してあわてて片付けましたとか、このときだけきれいにしました、みたいなのと全然違う純度の高さが感じ取れる。

作業の邪魔にならないように仕事部屋に定点カメラを設置して撮影した映像をもとにして、清水と浦沢が語るというパターン。8人いるというアシスタントの部屋が一瞬だけ映るが、ほとんどは清水の作画映像だけである。
メガネをかけてマスクをして、ペン入れのときには白手袋をして、髪の毛が視界に落ちてこないようにガードして、机の上は作業するのに必要なものだけ。この風景と清水の表情から私が最初に想像してしまったのは外科手術をするドクターSであって、最も良い環境で最大限に優れたものを仕上げようとする姿勢が感じ取れる。

ライトテーブルでネームからエンピツでトレースし、でもそれが気に入らないと、ウラ側に描き直して、またオモテにひっくりかえして、そのウラ側のラインをオモテ側から再びトレースして最終的なラインを決める。ここまではエンピツ。太い線はエンピツで、細い線は0.3mmのシャーペンを使うのだそう。そしてそれにペンを入れるのだ。
清水のネームは、その段階ですでに細かいところまでかなり描き込まれているのにもかかわらず、そこからの下描きを経て、ペン入れまでの工程が繰り返し緻密に続く。つまり同じ絵を何度も描くのだ。だがその時間は、ナレーションの通りだとすれば、その内容の細かさに比して短時間である。それだけ手慣れた作業だということだろう (作業の実際はNHKのサイトに、放映されたのと同じ動画があるので、下記リンクから参照することができる)。

ペン入れは芸術的で、しかも確信的だ。美しい曲線が次々に迷いなく描かれてゆく。描きやすい角度を求めて、原稿用紙をくるくると回して描く。でも描き込み過ぎないようにしているという。浦沢も、上手い人は、つい描き込み過ぎてしまうものだが、清水の絵はその前で踏みとどまっていて軽いと評する。清水は、内容が重いのに絵も重いと、重くなり過ぎるからと応える。最小限の線で踏みとどまれるかどうかが重要なのだ。これはマンガに限らず、普通の絵画にもいえて、どんどん描き込み過ぎてしまうとかえってよくないことは往々にしてある。どこで踏みとどまるか、どこで終わりにするか、なのだ。
それはつまり必要最小限の線なのであり、清水は 「風通しのよさ」 という表現をしていた。

そして細かい修正。どうしても気に入らない線を描き直す。だが、はっきりいってシロート目にはそんなに違わない。でも作家にとってはとんでもなく違う線なのだ。それは作家本人にしかわからないこだわりなのである。仕事だと割り切るのならばそれはどちらでもいいことなのだが、芸術とするのならばそれは最も重要なこだわりである。マンガは大衆的で打算的なマスプロダクトなジャンルでありながら、アートとしてのこだわりがなければならない。それは矛盾しているタスクなのだ。もっともそこまでのこだわりはごく一握りの人たちによって維持されているようにも思える。

清水が影響されたとして口にしたのはもちろん萩尾望都であるが、大友克洋の絵にも影響されたと語る。特に『秘密』などのヴァイオレンス描写には、大友の描き方は恰好のお手本である。
ただ、初期の、まだ売れていない頃の苦労話みたいなのはほとんど無い。歌舞伎を撮ったビデオを静止画像にして、その静止時間が解けないうちにデッサンするというプラクティスをしていたというエピソードも、絵が上手くなりたいという積極的な願望であることのほうが強い。貧しくて食べ物がなかったみたいな泣き言はないのだ。でも清水に、きっとそこまでの状態はなかったのだろうと思ってしまう。

絵が上手くなりたい、という気持ちは清水も浦沢も同じで、共感し合っていた。ネットの書き込みを見ると、こんなに上手い人がより上手くなりたいと思ってるんじゃ、私にはとても無理、みたいな感想が書いてあって、でもだからそれを乗り越えるくらい努力しないと一流にはなれないんだろうなぁとあらためて納得する。

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清水玲子/秘密 season 04 (白泉社)
秘密 season 0 4 (花とゆめCOMICSスペシャル)




NHK・番組関連グッズ
http://www2.nhk.or.jp/goods/pc/cgi/list_p.cgi?p=3310

NHK・浦沢直樹の漫勉 シーズン4〈清水玲子〉
http://www.nhk.or.jp/manben/shimizu/
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山岸凉子展に行く [コミック]

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山岸凉子/アラベスク

ときどき降る雨の中、根津の弥生美術館で開催されている山岸凉子展に行く。雨なのだけれど12月にしては異常に暑い日。今年の天候はどこかおかしい。

山岸凉子といえば、もっとも有名な作品は『日出処の天子』であって、ざっくりと書いてしまえば聖徳太子 (厩戸王子) が美少年の超能力者であって、しかもLGBTであるという24年組の基本形であるBL系のマンガである。と書いたら、ざっくり過ぎるゎ! と、きっとお叱りを受けるだろうけれど。
それともうひとつ、怖い系の短編があって、ハーピーとかメデュウサといったいわゆる魔物の話もあるのだが、そうしたなかで、やはり精神的な部分での怖さを描いた 「天人唐草」 が最も有名だろう (「天人唐草」 についてはすでに橋本治の記事で簡単に書いた→2016年09月10日ブログ)。

ポスターなどのパブリッシングにおいても厩戸イチオシであって、この黒バックの扉絵は完璧である (『LaLa』1980年5月号扉)。
だが、展示作品を見ていての私の感想としてあえて言ってしまえば、山岸にとって最も重要な作品は『アラベスク』だと思う。というより今まで『アラベスク』を過小評価していたというのが本音のところだ。

『アラベスク』はバレエ・マンガで、しかしそれを描いた当時、バレエ・マンガの流行があってそれがもう過ぎてしまっていた頃で、編集者からは 「何をいまさらバレエ?」 と言われたりしたのだという。しかし山岸は 「トゥシューズに画鋲を入れて意地悪をする」 ようなレヴェルのバレエ・マンガではないバレエ・マンガを描きたいという意欲を見せて連載を始めたのだとのことである。当初、短期連載だったはずが、読者からの人気によって長期の作品となった。
たとえば二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』はある程度のクォリティを持った初めての音楽マンガと言ってよいと思う。しかし、のだめは21世紀になってからの作品であって、つまりそこに達するまでには長い時間がかかっているのである。
しかし『アラベスク』が連載を始めたのは1971年であって、1971年というときにこうした作品を描き始めたというのは今から振り返れば驚くべき先進性である。ちなみに24年組では、萩尾望都の1971年作品というと 「小夜の縫うゆかた」 であり、大島弓子はやっと1972年に 「雨の音がきこえる」 である。竹宮惠子の1971年は 「空がすき!」 であって、商業的には最も早く成功しているが、多分に既存のマンガの傾向を残しているように思える (でも個人的には、タグ・パリジャンが竹宮作品の中で一番好きなのだけれど)。

『アラベスク』を一種のスポコン・マンガと捉えることも可能ではあるけれど、でも『巨人の星』(1966-1971) とは全然違うし『おれは鉄兵』(1973-1980) とも違う。「芸事」 ということから分類すれば『ガラスの仮面』(1976-) があるが、『ガラスの仮面』のストーリー設定はやはり伝統的なスポコンであるし、時間が相対論的に延々と伸びていくところは水島新司の『ドカベン』(1972-1981) と同じである。
つまり『巨人の星』や『ガラスの仮面』は基本が根性論であるが、『アラベスク』はそうではない。また、ちばてつやにはたとえば『テレビ天使』(1968) があるが、『テレビ天使』も『おれは鉄兵』もその根底にあるのは根性論とは無縁なバガボンド的思想である。その最も典型的な作品が 「螢三七子」 (1972) である。

そうした比較のなかにおける視点においての『アラベスク』はほとんど孤高の作品であり、最近は判型の大きめなコミックスで出し直されていることでもあるし、山岸のバレエに対する造詣から来る冷たい集中力と熱気のようなものを改めて読んでみたいと思った。もちろん『舞姫 テレプシコーラ』もそれに付随するが、このところ読んでいなかった最近作にも俄然興味が湧いてきたところだ。
「アラベスク」『花とゆめ』1975年12号扉絵は私の最も気に入ったモノクロの作品で、山岸本人も言っているようにビアズリーの影響を感じる。それでいて髪の毛の描写はビアズリーを超える。ミュシャでなくビアズリーだった、とのことだがミュシャふうな輪郭線の作品もあった。
私が最初にまじめに読んだ山岸作品はたしか『妖精王』だったが、そのクイーン・マブの雑誌表紙絵 (『プチフラワー』78年7月号表紙) も展示されていた。大人っぽくて、完全に少女マンガという枠組からは逸脱している。

展覧会の解説によれば、山岸もごく初期の頃は丸っこい顔の少女を描いていて、それはその時代に仕方なく迎合していたのだが、この絵では私は描けないと思い、ごつごつととがった鼻や顎の絵に移行したがそれはものすごい不評の嵐だったとのことである。でも山岸は自分が良いとすることは曲げなかった、という点でアヴァンギャルドでありそれが現在までの彼女をかたちづくっているのだといえる。

色彩的にもごく渋い色合いの絵が多いが、それは映画でいうところのアグファカラーに通じる部分がある。また和風な色彩に対する感覚も巧みであり、原画は4色分解で割り切られてしまうきらきらした色よりももっと微妙な肌合いを持っている。
展示会の途中で、展示替えがあったそうだが、これらの作品は色褪せてしまうので、できるだけ展示しないのが望ましい。でもそれでは見たい者にとっては困るのだけれど。

弥生美術館は大きく立派な公営の美術館と較べればごく小さくて質素であるが、その美に対する姿勢にうたれる。そうした情熱こそが芸術の理解には常に必要とされるように思う。


弥生美術館/竹久夢二美術館
山岸凉子展 「光 -てらす-」
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yayoi/exhibition/now.html

山岸凉子画集 光 (河出書房新社)
山岸凉子画集:光

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夏の終わりの嬰ハ短調 ― 橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を読む・2 [コミック]

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大島弓子/綿の国星

2016年09月10日ブログのつづきである。

これは仮定の話だが、大島弓子が『綿の国星』を描いた後、それだけで終わりにしてしまったのなら、かなりカッコよかったと思うのだが、続きを描き、さらに猫シリーズを延々と続けてしまったのは、やはりそれだけの需要があったからなのだろう。現実とはそんなものである。

それでともかく、本篇の『綿の国星』(1978) の話。
須和野時夫は、「今なら何をやっても少年Aで済む」 と思っている大学受験に失敗した少年である (もはや少年でもないか……)。時夫は子猫をひろうが、その猫 (チビ猫) は自分がいつか人間になることを信じているので、少女の姿として描かれる。つまりマンガの視点はネコの目から見たネコを主体とする世界なのだ。
しかし、チビ猫が明日を信じているということと、だからといって人間として描かれるということは、よく考えれば直接的な関連性はない。それを成立させているのが大島の魔法である。

まず、須和野時夫というネーミングは 「須臾 (しゅゆ) の時を」 の意味ではないかと私は思う。人間より寿命の短い猫と過ごす限られた時のことをそれは表している。それでこの須和野という姓に似た本須和という姓が使われているマンガにCLAMPの『ちょびっツ』(2000-2002) がある。『ちょびっツ』は人間と機械との恋というSFの永遠のテーマのひとつをなぞっている作品だが、その主人公に本須和秀樹という名前をつけたのは、CLAMPが大島弓子のこの作品を意識していたのではないかと思う。
こうした恋の形態はいわゆる〈人でなしの恋〉であって、〈人でなしの恋〉というのは人間と人間以外の恋を指す。語源は江戸川乱歩の同名の小説 「人でなしの恋」 (1926) であるが、この乱歩作品はつまりピグマリオン・コンプレックス (人形愛) である。たとえば《ブレードランナー》(1982) も人間とアンドロイド (レプリカント) の恋ということにおいて同様である。

少年Aと子猫 (つまりどちらもまだ子ども) という主人公の設定に対して、大人と子どもの関係性を明確にするためだろうか、橋本は次のように書く。

 大人は、子供を人間とは思っていません。子供は子供だと思っているの
 です。でも、子供は自分を人間だと思っています。そして自分を “子供”
 だとも思っているのです。(後p.223)

最後のフレーズ 「そして自分を “子供” だとも思っているのです」 という部分を除いて、この 「子供」 という個所を 「猫」 と置きかえれば、チビ猫の心情が浮かび上がる。つまり猫という言葉はメタファーであり、弱い者、子ども、女をあらわしている。
チビ猫として描かれている少女は (ではなくて、少女として描かれているチビ猫は) 少女期の大島であり、しかしそれは個としての少女でなく普遍的な少女となる。チビ猫に対して近づけない猫アレルギーの時夫の母は、同時にチビ猫の仮想母であり、それは普遍的な母として還元される。
そしてここで一般論的少女の性への目覚めと不安・恐怖について橋本は次のように分析する。

 子供の内部には一つのものがありました。得体の知れない、恐ろしく思
 える何かがありました。
 子供は知ります ―― そのことは、口にしてはならないものだと。それ
 はひきずり込むような何かです。身を滅ぼさせる予感のする何かです。
 そしてそれが “性” なのです。(後p.223)

自分の内部にあるものを知った少女は、少女でありながら 「おとな子ども」 になってしまったのであって、そうなってしまったら、知らなかった頃の子どもに戻ることはできない。そして 「性」 とはsexという言葉に包含される全ての意味あいとしての 「性」 である。

さてここで、いつか自分は人間になると思っているチビ猫に対して 「否」 を言う猫・ラフィエルが出現する。ラフィエルは 「猫は人間にはなれない」 と言い、「猫は猫たるすばらしさを おしえてやるよ」 とチビ猫を諭す。(後p.230)
ピノキオが人形から人間に変わったように、いつか猫から人間に変わると思っていたチビ猫にとって、ラフィエルの言葉は願望が不可能であることを認めざるをえない冷徹な最後通牒である。

 あまりにも
 ハンディがありすぎるじゃない
 なんでそんなこと おしえるのよ!!
 なんでそんなこと おしえるのよ!!

しかしそれに対してチビ猫は 「それでも生きてみよう」 と思ったのだ、と橋本は書く。それは 「生きてみよう」 とする意志であって、今まで自分の中にあったのは 「生きている」 ことを認識する意識だけだった。しかし 「生きてみよう」 と言ったことは、明日を見ようとする意志 (が芽生えたの) だ、というのである。それは自分自身を信じることにもつながり、そしてそれが『綿の国星』のテーマなのだという。(後p.231)

この 「人間に変わることを信じている猫」 という現象がメタファーなだけでなく、人間←→猫という対比そのものがメタファーであるという構造にもなっているのだと私は思う。
自分ががんばって獲得しようと思ってもかなわぬこと ―― だからといってそれを軽々しくあきらめてしまっていいのか、と言っているのがチビ猫の意志なのだ。それは見た目の弱々しさとは全く異なる強固な意志である。

     *

『バナナブレッドのプディング』は謎のような作品である。それは『綿の国星』に先行して描かれた。
橋本が指摘するように、主人公・三浦衣良 (みうら・いら) は読者の感情移入を拒否している状態で登場する。衣良は自分が食べられてしまうかもしれないという恐怖を持っていて、それを友人の御茶屋さえ子に言い、共感を得ようとする。

 衣良がこわがるのは、“10時すぎまでおきていると 美しいお面をかむっ
 た 男か女かわからないひとが 大きなカマスを用意して待っていて 
 子どもをつめて ひき肉機にそのままいれてたべてしまうという話” を、
 いまだに彼女が信じているからなのです。(後p.243)

そんな状態の衣良を彼女の両親は 「精神鑑定させよう」 とひそかに話し合い、しかしそれを衣良は聞いてしまう。そうした両親に対する不信をも、衣良はさえ子に言う。

衣良の怖がっている得体の知れないものは、衣良の内部にいるものなのだ。それは衣良に襲いかかり凌辱する男であり、そして衣良は男に襲いかかられるのを待っている女でもある。男が私を脅かすのではんく、男の心をそそり、煽り立てて狂わせるものが私という女なのかもしれない、と衣良は思う。だからそれは恐怖でありながら、同時に拒みきれない、甘美な何かなのかもしれない、とも衣良は思うのだ、と橋本は書く。(後p.243)

これはまさに少女期の、性的なものへの恐怖と願望のあらわれである。そうしたナイーヴなことを、大島はこうしたエキセントリックな衣良というキャラクターに仮託して叙述する。それは極端であるかもしれないがわかりやすい。
そして衣良が結婚相手として求めているのは、「世界にうしろめたさを感じている男色家の男性」 である。それはつまり性的なものへの恐怖と忌避である (男色家なら自分に手を出してくることはないという安心感)。そしてその理想の相手を、さえ子の兄、御茶屋峠 (おちゃや・とうげ) であると思い定める。だが峠は、衣良に合わせてそのフリをしていただけで実は男色家ではない。

世間にうしろめたさを感じているのは、実は男色家でなく衣良なのだが、衣良は自分の意識が虚ろであることを認めようとはしない (後p.246)。自分の存在が世間にとって必要だと思い込みたいために、衣良は 「うしろめたい男色家」 を助けてやろうとすることを自分の存在意義だとするのだ。それは性的行為から自分を遠ざけようとする正当な理由にもなると考えたのだろう。というよりもっと一般的な、恋愛感情によって自分が傷つけられることから逃げようとする意識といってもよい。
しかし、衣良の助けを必要とするような、そんな男色家は存在しないし、もっといえば衣良を必要としている人間はいない。そういう衣良は孤独であり、被害妄想であり自閉症的であると橋本は見る (後p.251)。

その他の登場人物の関係性は、よくあるTVドラマのようだ。御茶屋さえ子はサッカー部の少年、奥上大地 (おおかみ・だいち) に恋するが、奥上は 「世間にうしろめたさを感じていない男色家の少年」 である。そして御茶屋峠に恋している。さえ子は兄の峠に変装して、奥上の愛をかなえてやろうとするが、やがて奥上を追うことをあきらめる。
奥上は男色家の新潟教授の愛人であったが、教授は奥上が峠に恋していることを知り、奥上に対してサディスティックな行為に及ぶ。
衣良は御茶屋峠が男色家を装っていただけなのを知り、峠と別れて新潟教授に嫁ぐが、教授を誤って刺し、再び峠のもとに戻る。

衣良は王道的なTVドラマならばエキセントリックな端役のはずだ。その衣良がこの作品においてなぜ最も重要な主人公であるのか、というのがこの『バナナブレッドのプディング』の特殊で斬新な色合いに他ならない。
それは橋本が指摘するように、世界 (世間) が王道TVドラマの設定も含めて、男性主導の原理によって動かされていることへのアンチテーゼとして作用しているのだ。

 社会とは、男の都合に合わせてできているもので、女や女の子は、その
 都合に合わせれば都合よくやっていける仕組になっているものなのです。
 (後p.262)

と橋本は書く。つまり端的に言えば 「女は男と結婚すれば幸せになれる」 という原理であり、それが男の都合であり、世間的な正しさであり (もっと言えば正義であり)、それを体言化しているのがやさしい男としての御茶屋峠である。しかし衣良はその社会的都合に合致していない。

 衣良の不幸は、男の都合の枠の外にある問題です。御茶屋峠に理解はで
 きません。(後p.263)

夢の中の人喰い鬼に食べられてしまった衣良は自らが人喰い鬼となってしまい (吸血鬼に血を吸われた者が自ら吸血鬼になってしまうのと同じパターン)、そして理想の 「うしろめたい男色家」 とはほど遠い存在だった新潟教授を見限り、御茶屋峠のもとに戻るのだ。伊良は 「その社会の都合によって深く傷ついている」 (後p.265) のであり、それを癒やすのには峠を必要としたのだった。そんな衣良に峠は暖かいミルクを差し出して飲むようにいう。そして 「ぼくは きみが だい好きだ」 という。

 衣良は初めて自分に許します、「生きてみよう」 という意志を持つこと
 を。
 その意志を持った衣良は、人喰い鬼に食べられてしまった衣良です。衣
 良は言います ―― “でも わたしは鬼だから いつこの人をやいばにか
 けるか わからない それがこわいのです でも峠さんが それでもか
 まわぬというので ここにおります”。(後p.267)

そうした衣良のことを 「人喰い鬼に食べられてしまうことによって、初めて衣良は “普通の少女” になれました」 (後p.267) と橋本はいう。(「「生きてみよう」 という意志」 という言い方はチビ猫に対してのものと同じだ。)
「人喰い鬼に食べられてしまう」 という形容が、単に性的なものに対する克服であるということであるのと同時に、そもそも人喰い鬼とは何かというメタファー自体が何かということを考えさせる構造になっている。

さて、この『バナナブレッドのプディング』は、どのようにして『綿の国星』と関連しているのか。

 『綿の国星』のチビ猫は、生まれ変わった衣良なのです。だからチビ猫
 は、生まれながらにしてすべてを知っている無垢の少女なのです。(後
 p.268)

しかし、それでありながら同時にチビ猫はすべてを知らない。なぜなら、

 “知る” 迄に至ったすべての時間、“知る” 迄に感じたすべての苦しみすべ
 ての喜びを、すべて捨て去ってしまったのです。(後p.268)

と橋本はいう。
すべてを知っていながら、すべてを知らない存在であることがチビ猫としてリセットされた衣良なのかもしれない。そしてその無垢の心が『綿の国星』の冒頭に続くのだ。

 春は長雨
 どうして こんなにふるのか さっぱりわからない
 どうして急に だれも いなくなったのか さっぱり分からない
 (後p.218)

チビ猫は捨て猫で、須和野時夫に拾われ物語が始まる。
それを彷彿とさせるのが CLAMP『ちょびっツ』の冒頭である。その時代、パソコンは人間のかたち (多くが美少女) をしていて、ゴミ捨て場に捨てられていたパソコン 「ちぃ」 を本須和秀樹が拾ってくるのだ。
ちぃはすべての記憶を失っている。しかし秀樹は、ちぃに恋するようになる。次第にちぃの謎が明らかになってくるが、ちぃは起動する毎に初期化されてしまうのだ。だからそれまでの、秀樹のこととの記憶はすべてリセットされてしまう。しかし、ちぃが自分のことを忘れてしまっているのだとしても秀樹はちぃのことを愛する、というのが『ちょびっツ』のラストなのだが、すべてを知っていながら、すべてを知らない存在であるということにおいて、テーマは共通である。
ちぃの耳 (ヘッドフォン) はネコ耳の変形のようにも見える。

私は少し脱力感のある大島弓子が好きだ。たとえばそれは 「パスカルの群」 (1978) とか 「毎日が夏休み」 (1989) から感じ取れる。それはちょっとエキセントリックな恋愛観であったり家族観であったりするし、そのしなやかさややわらかさに騙されるけれど、芯にある強靱さを忘れてはならない。

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大島弓子/バナナブレッドのプディング


橋本治/花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 前篇 (河出書房)
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 前篇 (河出文庫)




橋本治/花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 後篇 (河出書房)
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 後篇 (河出文庫)




大島弓子/綿の国星 (白泉社)
綿の国星 漫画文庫 全4巻 完結セット (白泉社文庫)




大島弓子/バナナブレッドのプディング (白泉社)
バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)

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