映画《ミステリと言う勿れ》 [映画]
人気ドラマ《ミステリと言う勿れ》の2023年映画版が先日、地上波で放映されたが、その録画を観た。
まず、映画のオフィシャルページにあるキャッチは下記の通り。
天然パーマでおしゃべりな大学生・久能整 [くのう・ととのう] (菅田将暉) は、美術展のために広島を訪れていた。そこで、犬堂我路 [いぬどう・がろ] (永山瑛太) の知り合いだという一人の女子高生・狩集汐路 [かりあつまり・しおじ] (原菜乃華) と出会う。「バイトしませんか。お金と命がかかっている。マジです」。そう言って汐路は、とあるバイトを整に持ちかける。それは、狩集家の莫大な遺産相続を巡るものだった。当主の孫にあたる、汐路、狩集理紀之助 [かりあつまり・りきのすけ] (町田啓太)、波々壁新音 [ははかべ・ねお] (萩原利久)、赤峰ゆら [あかみね・ゆら] (柴咲コウ) の4人の相続候補者たちと狩集家の顧問弁護士の孫・車坂朝晴 [くるまざか・あさはる] (松下洸平) は、遺言書に書かれた 「それぞれの蔵においてあるべきものをあるべき所へ過不足なくせよ」 というお題に従い、遺産を手にすべく、謎を解いていく。ただし先祖代々続く、この遺産相続はいわくつきで、その度に死人が出ている。汐路の父親も8年前に、他の候補者たちと自動車事故で死亡していたのだった…
次第に紐解かれていく遺産相続に隠された〈真実〉。
そしてそこには世代を超えて受け継がれる一族の〈闇と秘密〉があった———。
宏大な狩集家に集められた関係者の中で遺産相続の奇妙な指示の遺言書が公開されるとか、家の苗字が狩集 [かりあつまり] とか、そのおどろおどろしさが横溝正史で楽しめる。相続候補者のなかの一人しか相続できない、そして過去にも相続候補者同士の殺し合いがあったという来歴が語られるのも横溝テイスト。反目し合う候補者4人の登場のさせかたがなかなかスリリング。だが、最初は反目しあっていた4人が次第に協力するようになって話が推移して行き、古いアルバムをヒントとして久能整の推理が変わってしまう。
古い、まさに伝説としか思えない理不尽な話がずっと守られ続けられてきたということになるのだが、もうこのへんは、ちょっと話としては無理があり過ぎだろうと思うのだけれど、ミステリなんてそんなものさということですべて許されてしまうわけで、古話の猟奇さとUSBメモリーという新旧の対比が面白いのかもしれない。でも紫でアメジストというのはちょっと安易かも。
話はずれるのだが、前回記事のB’zが 「他のバンドが既成曲から借用するとリスペクトと言われるのに、自分たちがやるとパクリだと批難されるのは何で? 俺たちそんなバカじゃない」 みたいなことを言っているのをどこかで読んだが、まさにそれと同じで、このドラマのTV版でも、あ、ここはエラリー・クイーンだとか、過去のミステリからの借用はよくあるパターンなので、ともかく全てをオリジナリティだけで固めるというのは音楽でも小説でも脚本でももはや無理なのだ。だから横溝テイスト、おおいに結構です。
ともかくこのドラマは菅田将暉の語り口の魅力で持っているようなものなので、今回はストーリーとは外れたフェミニズム的な発言に関しては面白かったが、推理そのものには、おおっというほどの明晰な推理展開がやや乏しかったように思う。でも下着を洗わせないとか、そのへんのキャラ設定は楽しいのだけれど。
狩集汐路役の原菜乃華は、冒頭、険のある少女を熱演。父親役の滝藤賢一が (ドラマの現時点では死んでいるのだけれど) 数少ないまともな人に見える好演。
角野卓造と段田安則とか、焼物の窯元に木場勝己など、脇まで万遍なくもったいないようなキャスティングだが、もう少し知名度が低い人を混ぜたほうがおどろおどろしさは増すような気もします。
King Gnuの主題歌はこのドラマに使われるのには少し違和感があるように感じられるのだけれど、でも曲が素晴らしいので、結果としてこのドラマの識別記号になっているようにも思える。
King Gnu/硝子窓
https://www.youtube.com/watch?v=DAzN019hKhc
馬場康夫《波の数だけ抱きしめて》 [映画]
バブル期に製作されたホイチョイ・プロダクションズの三部作で最も心に残っているのは原田知世の2作品《私をスキーに連れてって》《彼女が水着にきがえたら》ではなく、3作目の《波の数だけ抱きしめて》であるのは、バブルが崩壊し始めた影が感じられるからなのかもしれないと最近思うようになった。
原田知世と違って中山美穂には影があり、映画のなかで松下由樹にシンパシィを感じていた私には中山美穂ってヤなやつに見えてしまったのかもしれない。そしてその暗さこそが、強い思い出となり印象となる資格を備えているのだともいえる。
ミニFM局という設定は、子どもの頃の秘密基地願望と同じで、そのすべてがガジェットであるのに他ならない。TASCAMのオープンリール、KENWOODのカーオーディオ、そしてDP-1200やM44-7などのすべてがもはや喪われたガジェットであるのだ (V-15は高過ぎるからM44-7という選択肢までが蘇る)。大写しになるVUメーターのショットにそのポリシーが感じられる。
ミッツのYouTubeですごくマニアックな中山美穂の解説に感化されて、せめてベスト盤を買わなければと思っていたのにそのままになってしまったのだけれど。
この映画は長い間、DVD化されなかった。それはAORの挿入曲が多かったので許諾を得るのがむずかしかったということを後で知ったが、何か他に原因があるのではないかとずっと疑っていたことを思い出す。
YouTubeで今、観ることのできる〈世界中の誰よりきっと〉のベストは田代まさしが司会をしている下記のリンク映像である。
中山美穂&WANDS/世界中の誰よりきっと (TV番組)
https://www.youtube.com/watch?v=Y_d3-0kxlPg
波の数だけ抱きしめて/Each Time You Pray
https://www.youtube.com/watch?v=mcTDONoWfw0
中山美穂/世界中の誰よりきっと (original)
https://www.youtube.com/watch?v=hV3fVD4Ue_w
松任谷由実/心ほどいて〜真冬のサーファー
https://www.youtube.com/watch?v=jZWpFSDsT6Y
星屑スキャットCHANNEL/
突然ですが中山美穂の全シングル曲を語ります
https://www.youtube.com/watch?v=sZ1hP3QCKbs
織田哲郎・解説/世界中の誰よりきっと
https://www.youtube.com/watch?v=Rr_mEg5swj4
《アーヤと魔女》 [映画]
NHKTVでスタジオ・ジブリの《アーヤと魔女》を観ました。
いぁ、これはすごい。内容としては軽いんですけど、魔女宅も千と千尋もアリエッティも、いままでの宮崎ワールド的ないろいろな要素が皆入ってる。3D、すごいなぁ。でも宮崎駿って3D嫌いって言ってなかったっけ?
ま、それよりも宮崎って赤毛のアンが嫌いで会社辞めたっていうことになってますけど、宮崎の作品に最も重要なファクターとして常に存在するのが赤毛のアンであるという矛盾。誰かツッコめよ。って、もうそこら中でツッコまれてるかもしれないですが。
暗さがすごいです。魔女の家の中、なんでこんなに画面を暗くするんだ? っていうことで。私は転形劇場のライティングを思い出してしまう。ウチのTVは従来型のTVだけど、良い画面で観ればもっと深みがあるんだろうな、と想像できます。色が美しい。暗いほうが色は美しいのだということがわかる。
アーヤとベラ・ヤーガはつまり千とゆばーばなんだけど、マンドレークがロックな人でカッコイイです。ニック・ドレイクじゃなくてマンドレーク。全然関係ないと言われるでしょうが、マンドレークって私が連想したのはヴィトゲンシュタインです。トーマスは結局、ジジですね。
あとさ、ラジカセが笑う。ラジカセ、いいですよね。実はこの前、ソニーのラジカセを買ったばかりです。ラジカセってくらいだから、カセットが付いてなくちゃ意味がないです。それでカセット付きのを買いました。実際にカセットテープ聴くかどうかはわからないけど、たぶん聴かないとは思うんだけど、でもカセットがないとラジカセじゃない、と思うのです。もっぱら最近はアナログ志向なんです。
尚、音楽は武部聡志が担当していますが、劇中歌シェリナ・ムナフの伴奏はギターが亀本寛貴 (GLIM SPANKY)、ドラムスがシシド・カフカです。
*
YOASOBIは追加で紅白出場が決まりましたけど、わざと 「後出し」 にしたような感じもしますね。そのほうがインパクトあるし。LiSA、YOASOBI、東京事変、あいみょんという流れもすごい。
NHK 注目!情報
https://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=10005
綻びと喪われた色 ― アッバス・キアロスタミ《ライク・サムワン・イン・ラブ》 [映画]
高梨臨
《24 Frames》の短い予告編がYouTubeにあって、その映像はあまりにも美しく唯美主義に偏向しているようで、この作家の到達点を見た思いがした。だがそれは大監督だけに許された余興であり、唯美主義だけでは映画は成立しないはずだ。
キアロスタミの《ライク・サムワン・イン・ラブ》は、すべて日本人俳優により日本で撮影された彼の2012年の作品である。
最初のシーンは 「デートクラブ」 の室内。男女の声が交錯する酒席の喧噪の情景だが、カメラは固定されていて全く動かない。画面に電話で話している女の声が重なる。相手の声は聞こえず、話していることは不毛な堂々巡りで、しかもその声の主はなかなかあらわれない。
1’24”から始まった映画が2’16”になって、やっと声と映像が一致する。電話で相手と話しているのは明子 (高梨臨)、電話の向こう側の相手はのりあき (加瀬亮)。のりあきは猜疑心が強く、明子を問い詰めるが、それは明子がウソをついているからで、のりあきは明子が何をして働いているのかをはっきりと知らない。
明子の前に座っているひろし (でんでん) は、しきりに明子を誘っている。どこかに明子を行かせたがっているのだが、明子はおばあちゃんと会わなければならないと言って、それを承諾しない。この明子のしゃべっているシーンだけで、明子の現在の状況だけでなく、その性格までもがくっきりと浮かび上がる。カメラが動かないのにテンションが持続し、クリアで、これからのストーリー展開に引き込まれる。
明子はしぶしぶ、ひろしの紹介する客の家にタクシーで行くことになる。デートクラブというが、つまりデリヘルだ。暗いタクシー。暗い表情の運転手。窓外に映る夜の街の光彩が、滲みぼやけて美しい背景となり流れ過ぎる。
留守電にはおばあちゃんからのメッセージが幾つも入っている。おばあちゃんは田舎から急に出てきて、明子に会いたがっている。しかし明子が今、何をしているのか、少し疑念を持っている。明子はタクシーを待ち合わせ場所の駅前に寄り道させておばあちゃんがいることを確認する。だが降りない。タクシーに乗ったまま、ロータリーを二度回ってから、涙を拭いて客の家へと向かう。
客は元・大学教授で84歳になるたかし (奥野匡) だった。インティメイトな空間。本がたくさんある隠れ家のような部屋。たかしは明子に亡妻の面影を見出し、ワインを飲み食事をしようとやさしく誘う。だが明子は疲れていて眠ってしまう。
翌日、たかしは明子を通学する大学まで送って行く。待ち伏せしているのりあき。明子が授業に行った後、のりあきはたかしの車に乗り込んで来る。たかしは明子の祖父のふりをする。たかしは、真面目に明子との結婚を考えているのだが彼女が真剣に応じてくれないと訴える。そして祖父の歓心を引こうとしたのか、車の不調を見つけ、自分が経営する自動車整備工場で修理する。
しかしそれから少し時が経ち、ある日、そのウソがバレて明子からたかしに電話がある。たかしは車で彼女をピックアップしに行く。殴られたらしくケガをしている明子を自分の家に連れて行き、キズ薬を買ってきてつけようとする。
だが偏執的なのりあきが逆上して、たかしの家にやってくる。
ともかく美しい映像の映画だ。そして喋る言葉がとても自然で、日本語のわからない監督が、いかにしてそのようにセリフを言うように指示できたのかが謎である。
最初のシーンにおける、ずっと声だけがあってなかなか顔を見せないという手法が、クリシェのように繰り返し出現する。おばあちゃんの留守電に入れられた声が延々と続き、やっとのことでおばあちゃんの姿をカメラが捉えるシーンとか、たかしの部屋でベッドに行ってしまった明子がずっとしゃべっているのだが、そのベッドをカメラはなかなか映さないのとか、最後の隣人の女のシーンなど、同様である。
キアロスタミはトータルな台本を渡してしまうことをせず、毎日、このようなセリフでこういう演技をしてくれと指示するのだという。つまり俳優は自分が最後にどうなるのか、誰も結末がわからないのだ。
タクシーに乗っている明子のシーンがとても美しい。暗い車内と外に流れる街の光。それは歓楽街の輝きであるが、実は空虚な街である。飲食店と風俗店の建ち並ぶ通りは、客を引き付けようとする派手な看板や装飾の色彩に溢れていて、その色があまりに派手な色ばかりであるゆえに、かえって無彩色であるかのような錯覚に陥る。色の飽和が色彩を喪う。
明子のようなふしだらさ、優柔不断さを持った女と、それに対する暴力的な男というのはよくある構図で、そうした男女はくっついたり離れたり、微妙な立ち位置で棲息しているが、そのバランスが崩れると事件となってしまう。でもそれは最近よく報じられる各種の暴力的な事件の一端に過ぎない。ともすると暴力ばかりが目立ってしまうが、性的な節操のなさも暴力の変形に過ぎない。ウソは綻ぶ。それを繕おうとすると別の部分が綻ぶ。
元・大学教授の居心地のよさそうな部屋から私が連想するのは、大学教授という肩書きでいうのならばヴィスコンティの《家族の肖像》(1974) である。静かな生活をしている教授の家にやってくる闖入者。へどもどしながらその闖入者に対応しようとするイメージも同じだ。ヘルムート・バーガーが演じたコンラッドの性格のなかに明子とのりあきの両方の性格が共存している。
闖入してくる者の不条理に関しては安部公房の《友達》(1967) があるが、《家族の肖像》と同じように、価値観の違いとか、家族という言葉が持つ意味とはなにかという根本的な疑問が浮かび上がる。
だがヴィスコンティや安部公房の場合は、闖入されてしまった悲劇なのに対し、キアロスタミの教授は自らが招いた災厄なのである。とはいっても結果は同じなのであるが。
映画の最後に近いシーンで、今まで声だけで、車を駐める位置を変えてくれとか言っていたたかしの隣家の女が初めてその姿を見せる。窓から顔を見せて延々としゃべるだけなのだが、このシーンに違和感があってとても気持ちが悪い。なぜこのシーンがあるのだろうか。しかもその長台詞は突然断ち切られる。
私が連想したのはベケットの《勝負の終わり》(1957) で、それと共通した気持ち悪さが、もうストーリーが終わることを予感させる。つまりベケットにおける世界の終わりは、たかしにとってのゲームの終わりなのだ。しかもそのチェスは差し手の応酬ではなく、盤をひっくり返すという暴力的な方法によって終焉する。
〈Like someone in love〉という曲の邦題は〈恋の気持ちで〉だが、これはあまりよい邦題とは思えない。そして最初の歌が終わってから入るギターのメロディがちょっと奇矯だ。これも気持ち悪さの流れのなかにある。それより23’51”頃に出てくるタクシーの中で流れる〈硝子坂〉が印象的だ。明子はその曲が流れているとき、これからたかしの家に行くために、口紅を塗り直す。
いじわるなあなたは
いつでも坂の上から
手招きだけをくりかえす
私の前には硝子坂
きらきら光る硝子坂
この歌詞、考えようによってはかなり気持ちが悪い。
アッバス・キアロスタミ/ライク・サムワン・イン・ラブ
(トランスフォーマー)
アッバス・キアロスタミ/ライク・サムワン・イン・ラブ 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=tGqnDo1IpuM
アッバス・キアロスタミ/24 Frames 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=FNSlQ9mmJ4M
いつか船は行く — 小栗康平《泥の河》 [映画]
本屋らしい本屋が無くなってしまってから久しい。書店でなく本屋である。
今の書店はきらびやかで明るくて、どこにも影が無くて、それは本を探すのには見やすいけれど、でも何かが失われている。
少し暗くて、もちろんBGMなど全く流れていなくて、外の雑踏の音がかすかに聞こえるのだけれどそれは遠い世界のことで、一番上の棚は絶対に手が届かないほど高くて、見上げると気が遠くなるような魔の気配があって、在庫の本がそこらじゅうに山積みされていたりして、その陰に入ると誰からも見られないような、世界から途絶している本屋があるといいと思うのだ。私の子どもの頃にはそうした本屋が存在していた。
でも、幻想のなかで無理矢理にそうした本屋を作り上げることは可能である。そうだと思い込めば、客の少ない書店なら、一瞬そうした過去の本屋の郷愁の影が通り過ぎることがある。
そうした雰囲気をまだ残しているのでときどき行く静かな書店の平積みに、ダンボールのごく簡素に見える装丁の《泥の河》を見つけた。しんとした書店にふさわしい静かな装丁。《泥の河》は小栗康平の1981年監督作品である。以前TVで観たことがあったが、昭和31年の大阪がモノクロームで撮られていて、こうした映画を観ると、映画はモノクロ、レコードはモノラルだと思うのである。
ただ、《泥の河》をTVで観た後、DVDを探したが手に入りにくくてそのまま忘れてしまっていた。
今回のDVDは小栗康平コレクションとして出されたうちのひとつであるが、それぞれ単品で発売されることになっているので買いやすい。中には茶色の小冊子が2冊入っていて、片方が布装の実際の冊子、もうひとつは紙装のDVDケースになっている。書店に置かれているので書籍扱いである。
最近の印象として、名画といわれるものはほぼ手に入りにくいと思って間違いない。ベルィマンもヴィスコンティも手に入りにくいし、ギオルギ・シェンゲラヤの《ピロスマニ》(1969) だって、かつて発売されていたDVDを私は持っているが、今回上映されたデジタル・リマスター盤が発売されることを祈っている。祈ったりすると出なかったりするんだけれど。
《泥の河》に描かれているこんな風景はもちろん今は無いし、もうこんな子どももいないのだろうけれど、きっと昭和30年代の頃の生活はこうだったのだろうと思わせるし、それはノスタルジアともちょっと違っていて、つまり映画という虚構のなかでいかにもホンモノらしく屹立している現実に過ぎなくて、だからそれは都合よくノスタルジアに浸るための幻想なのかもしれない。
その当時も、わざと古い映画っぽいテイストで作ったのだろうけれど、今はすでに時代が経って均質に古くなってしまっているのであまり関係がない。
《泥の河》は、なかなか出てこない加賀まりこがすごくて、でも《麻雀放浪記》のママだって加賀まりこで、そしてそのどちらもが加賀まりこなのだ。
でもその書店を出た後、もっと普通の大きな書店でスター・ウォーズ特集の雑誌やグレッグ・イーガンなど買ってしまい、檸檬的本屋の幻想は霧散してしまったのだけれど。
小栗康平コレクション1 泥の河 (駒草出版)
泥の河・オープニング
https://www.youtube.com/watch?v=LHOaWzkaMdE
ピロスマニ・予告
https://www.youtube.com/watch?v=tiWFob_yrbg
シェルブールの雨傘 [映画]
Catherine Deneuve, Jacques Demy
フランシス・レイ (Francis Lai) とミシェル・ルグラン (Michel Legrand) は同じ1932年生まれだということに突然気がついた。何をいまさら、といわれたら困るけど。2人とも映画音楽を多く書いている。
ときとして映画音楽は耳当たりの良いイージー・リスニングなBGMとして使われるが、それは映画の印象的なシーンを思い出すための触媒でもある。かつて日本で制作されたアート・ファーマーのインティメイトなアルバムが、ミシェル・ルグランの映画音楽から始まるのもそうした効果を狙っていたのだろう (アート・ファーマーのEast Wind盤→2015年03月21日ブログ)。
ジャック・ドゥミの1964年度作品《シェルブールの雨傘》は、ミシェル・ルグランが音楽を担当した、全編が歌だけで進行する映画で、ある意味きわめてアヴァンギャルドな手法であるし、台詞が無いということに最初は躊躇するが、その映像と音楽の流れの美しさにすぐに同化してしまう。ミュージカル映画と形容されるけれど、そのへんの凡百のミュージカルと一緒にされたくないという気持ちになる。
タイトルの後、暗いイメージの港湾都市シェルブールの遠景が映り、すぐに下にパンして冒頭の有名な俯瞰での傘のタイトルロールにかぶさるメインテーマ。ストーリーが始まると、ガレージで働く主人公ギィ (ニーノ・カステルヌオーヴォ) に合わせて流れるジャズのリズムへの転換が快い。店を出てジュヌヴィエーヴ (カトリーヌ・ドヌーヴ) と出会うギィ。シェルブールの道は雨で濡れている。そしてジュヌヴィエーヴの傘店へ。ダンスホールのシーンはタンゴが流れる。壁の赤。
デジタル・リマスターにより甦った過剰なまでの色彩が鮮烈で、日本では考えられないインテリアの色だったりするが、それがポップさに傾くわけでもなく、ごく自然に映画の背景として成立している。
ギィが兵役で旅立つシーン。
駅の傍らのカフェで悲嘆に暮れるジュヌヴィエーヴ。窓の外にたなびく汽車の煙。2人がそこを出ると、すぐ外はホームになっている。雨が降ったのかホームは少し濡れている。ギィがトランクとコートをもって列車のステップに乗るとすぐに列車は走り出す。画面左を手前に走り去る列車と、画面中央で列車の進行に合わせ少し歩きかけるがやがてホームにとり残されるジュヌヴィエーヴ。列車が去った後には線路が見え、ホームの手前右側から駅員が奥に向けて歩いて行く。中央で小さくなったジュヌヴィエーヴの姿。コートの裾がひらりひらりと翻る。右手前に大きくシェルブールと描かれた駅名の看板。
あっけないけれど悲しみの充満した別れ。
この別れで2人の仲は破局してしまうのだが、それにしては映像はあまりに軽くて短い。普通だったらもっと長く引っ張ってお涙頂戴にするべきシーンだ。思うに、昔の映画ほどそれぞれのシーンの描き方はさらっとしていて淡泊だ。しかしそれは見かけ上のものであって、そのなかに幾つもの意味合いが籠められている。たとえばフェリーニの《道》も、ひとつひとつのシーンは決してしつこくない。それと同じだ。
ラストシーンはdécembre 1963のクリスマス。雪の中のEssoのガソリンスタンド。ギィの経営しているそのスタンドに、ギィの妻子がちょっと出かけるとの入れ違いに、偶然のようにジュヌヴィエーヴがガソリンを入れにやってくる。見つめ合う2人。イルフェフロア (寒いわね)。ジュヌヴィエーヴは車から降りてスタンドのショップの中に入る。ガラス窓を通して雪の降っているのが見える。シトロエンが出て行く。ジュヌヴィエーヴが車に乗っている娘 (フランソワーズ) を見るかと聞くが、ギィはいやいい、と答える。帰り際、ジュヌヴィエーヴの 「あなた、幸せ?」 に対して 「うん、とても」 と答えるギィ。出て行くジュヌヴィエーヴの車。再び会うことはもうないだろう。
あまりにも悲しくていながら淡々としていて、2人にはそれぞれ個別の幸福があるのに過ぎなくて、2人の幸福が交わることはもはや無くて、それは諦念であると同時に人生とはそういうものでしかないのだ、というふうにもとれる。
現在DVD等で観られるのは2009年のデジタル・リマスターだが、《ローマの休日》のリマスターと同様にとても美しい。でもリマスターされるのはごく限られた有名映画だけなのが残念である。まだまだリマスターして欲しい映画はたくさんある。
Jacques Demy, MIchel Legrand
ジャック・ドゥミ/シェルブールの雨傘 (Happinet)
Les parapluies de Cherbourg
https://www.youtube.com/watch?v=kLXNBu6_JNA
全編
http://www.dailymotion.com/video/x14f1km_les-parapluies-de-cherbourg-1964-1-2_lifestyle
http://www.dailymotion.com/video/x14f23j_les-parapluies-de-cherbourg-1964-2-2_lifestyle
スヌーピーのクリスマス [映画]
スヌーピーの古いアニメに《スヌーピーのメリークリスマス》という作品があります。
チャーリー・ブラウンたちはクリスマスに劇をすることになって、そしてチャーリーはクリスマスツリーを買いに行きます。ルーシーはピンクの派手な金属製のを買って来いというのですが (今、記憶だけで書いているので違っているかもしれませんが、大体そんなオーダーです。でも、そもそもそんなツリーってあるんでしょうか?)、チャーリーはごく素朴な、見ようによっては貧弱な普通のツリーを買ってきて、ルーシーを含めたみんなにバカにされます。
でもライナスは、そんなに悪いツリーじゃないよとチャーリーを慰めます。そして舞台に立って、ライトをくれ、と言い、スポットの中でクリスマスの物語を静かに語ります。みんなはライナスの言葉によって目覚め、そのツリーを飾り付けるとそれは立派なクリスマスツリーに変身します。
クリスマスが商業的に毒されていることに対して、クリスマスとは本当は何なのかということをライナスの言葉は示しています。単純にキリスト教的な conscience の発露という評価だけでは片付けられない何かがあります。
それはクリスマスだけでなく、たとえばハロウィーンの大騒ぎにも共通する、ただ騒ぎたいことに対する柔らかな警句でもあります。
スヌーピーはまだ昔のスタイルのスヌーピーで、この作品の中ではほとんど添え物的なキャラクターでしかありません。でもピーナッツの仲間たちが大勢出演していて、クリスマスのほのぼのとした雰囲気に満ちています。
ライナスの言葉に触発されて思い出したのはアルノルト・シェーンベルクの曲でした。前ブログに書きましたが、ブーレーズが次第に否定してしまった作曲家である新ヴィーン楽派の総帥シェーンベルクの《Friede auf Erden》のことを (シェーンベルクもアンドレ・ブルトンも、総帥と呼ばれる人たちは常に否定される立場にあります)。
地には平和を。それは宗教というくくりを離れた、もっと普遍的で素朴な願いなのだと思います。
ビル・メレンデス/スヌーピーのメリークリスマス (ワーナー・ホーム・ビデオ)
スヌーピーのメリークリスマス
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1975002
スター・ウォーズ — ジョージ・ルーカスとリドリー・スコット [映画]
数日前のニュースでフィリップ・K・ディックの『高い城の男』がアメリカでドラマ化されたのだそうだが、その広告として地下鉄のシートをナチスの鷹の紋章や日本の旭日旗のデザインにして、物議を醸しているとのこと。
『高い城の男』(The Man in the High Castle, 1962) はディックの、alternate history物とジャンル分けされるSF小説で、ドイツと日本が第2次世界大戦で勝った後の世界を描いている。
パラレル・ワールドの一種でもあり、スチーム・パンクも同様の変種と考えてよいが、そうしたなかで最も有名なのが『高い城の男』だと言えるだろう。
YouTubeにあるトレーラーを見ても、見ようによってはかなり危険な画像であるが、つまりナチスに対する賛美でなく単なるマテリアルとしてそのシンボルが出てくるだけでも拒否反応はあるわけで、これをドラマ化するというのはある意味、かなり冒険なのだと思う。
エグゼクティヴ・プロデューサーとして、そのトップにリドリー・スコットの名前があったので、ああやっぱり、と納得してしまった。リドリー・スコットは《ブレードランナー》の監督であるが、それは同じディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』がベースとなった作品だからである。
だが、今、SF映画の話題といえば、もちろん《スター・ウォーズ》である。エピソード7が12月に公開ということで、トレーラーは見られるが、まだそんなに詳しいことはわかっていない。少しずつ、小出しにしてくるプロモーションはいつものことであるが。
スター・ウォーズの中にアーシュラ・K・ル=グィンの『ゲド戦記』の影響が多く見られることはすでに以前のブログに書いたが (→2014年12月10日ブログ)、《フォースの覚醒》トレーラー冒頭にある “Who are you?” “I’m no one.” という応答は、ゲド戦記・2の『壊れた腕輪』(The Tombs of Atuan, 1971) を連想させる。
ゲド戦記・1の『影との戦い』(A Wizard of Earthsea, 1968) で、名前の重要性を説き、相手の真の名前を知るものはその者を操ることができるほどに名前が重要だったのに対し、『壊れた腕輪』ではその名前が無い (奪われた) という状況にあるアチュアンの巫女を描くところからストーリーが始まる。
エピソード7もアチュアンも、どちらも主人公が女性であるところも共通している。
ゲド戦記というとどうしても過去のアニメを連想してしまうが、残念ながらあのアニメよりもスター・ウォーズのほうがル=グィン的なテイストはいかされている。
ルーカスの《スター・ウォーズ》が典型的なSFの明るいセンス・オブ・ワンダーを具現化しているのに対し、リドリー・スコットは負の、暗いイメージとしてのSFのにおいがどうしてもつきまとう。
その時代の2人の作品を時代順に並べてみると入れ子細工のようになっていることに気がつく。
Lucas: Star Wars [episode 4] (1977)
Scott: Alien (1979)
Lucas: The Empire Strikes Back [episode 5] (1980)
Scott: Blade Runner (1982)
Lucas: Return of the Jedi [episode 6] (1983)
《エイリアン》は少し際物的なイメージが強かったが、ルーカスのスター・ウォーズ・シリーズへの応答とも思えるのが《ブレードランナー》だと思ってよいだろう。リドリー・スコットは常に、退廃、偽善的未来、絶望、悲哀を語る。
作品としてあまり成功しているとは思えないが、《ブラック・レイン》(1989) でも彼の主題は一貫している。久しぶりの《スター・ウォーズ》の再開時に、規模は違うけれどリドリー・スコットがディック作品でその名前を現して来たのは偶然なのだろうか。
でも《スター・ウォーズ》も作品を重ねる毎に、少しずつ憂愁の色がほの見える部分があるようになってきた。それは単なるスペース・オペラではありませんよ、というエクスキューズなのか、それともアメリカそのものがそういうテーマを欲しているのか、私にはよくわからない。
それと、新宿プラザが無くなった今、《スター・ウォーズ》はどこで観るべきなのかが、もっとよくわからない。誰か教えてください。
Star Wars: The Force Awakens (trailer)
https://www.youtube.com/watch?v=BDvZ9UECfj8#t=122
The Man in the High Castle (trailer)
https://www.youtube.com/watch?v=zzayf9GpXCI
窓の見える風景 — ウディ・アレン《インテリア》 [映画]
この前、ふとウディ・アレンの《インテリア》をちょっとだけ見たら、このまま全部見てしまいそうなので、時間が無かったから無理矢理ストップして、あらためて見ることにした。今日、少し時間ができたので、そのあらためてを実行してみた。
その前に他のブログなどを参考に読んでみたら、ウディ・アレンがイングマール・ベルィマン風に撮ってみた映画というような感想があったが、たしかにその映像の、一見禁欲的なパースペクティヴはベルィマンを思わせる。特に母親のジェラルディン・ペイジのたたずまいとか動きは、ベルィマン風というよりベルィマンのパロディのようで、むしろこれはアレンがベルィマン作品に対してのリスペクトと見せかけて、実はそれとは違う作品を構築しているのを観客がわかるかどうかテストをしているように思える。
なぜなら、たとえば《ファニーとアレクサンデル》などでは、どんどん息詰まるように偏執度が高まっていき、視野狭窄っぽい印象を感じることがあり、そのダイナミズムがベルィマン的といわれるテイストでもあるのだが、アレンはそういう方向性には行かない。
登場人物 (父、母、その子どもである三姉妹、父の愛人) それぞれの視点がそのときどきで平等に存在し、冷静で、むしろ偏執とは逆の方向性でストーリーが進行してゆく。
物語のひとつの核となっているのは三姉妹 (レナータ/ダイアン・キートン、ジョーイ/メアリー・ベス・ハート、フリン/クリスティン・グリフィス) で、それぞれ自分の芸術的才能に頼ろうとしているが、皆それぞれに二流か三流にしかなれず (レナータのみ1.5流くらいなのか?)、各々に悩みを持ち、そしてジョーイはレナータに対して嫉妬を感じている。
三人姉妹という設定はブロンテ三姉妹とか、チェーホフ作品を連想したりする一種の詩的魔力を備えていて、もめごとや感情の機微を描くには格好の関係性だ。これが三人兄弟だとそうしたイメージにはならないで、毛利元就の教訓のような実利的なものになるのがせいぜいである。
ただ、この映画の主役は母親 (イヴ) のジェラルディン・ペイジであって、三姉妹はインテリアの美学に通暁したイヴの作品のひとつひとつにしか過ぎないともいえるのだ。だがイヴの子どもに対する統制力は弱まり、イヴの夫 (アーサー/E・G・マーシャル) は、冷たい知性だけとも思えるイヴを嫌い、離婚して、イヴと全く性格の異なる愛人 (パール/モーリン・ステイプルトン) と結婚してしまう。
パールは、イヴの趣味と嗜好に支配されていた家族たちのモノクロームっぽい生活の中に突然侵入してきた強い色彩の異分子である。それは具体的に、たとえばパールの着る真っ赤な服などで表現され、それまでの抑えた色彩の中で強烈に作用する。
夫がパールを採り、子どもたちに対する影響力も衰えてきたことを感じたイヴは、夜の海の中に消えていくことを選択する。
淀川長治も、この映画についてはジェラルディン・ペイジとモーリン・ステイプルトンの映画であるということを断言していて、この2人の共演はまるで《八月の鯨》のようだと解説していた。
映画の最初のほうで三姉妹とその周囲の人々の典型的なインテリの会話と葛藤が描かれるが、この2人が並ぶと、子どもたちの対立は所詮子ども同士の矮小な関係性でしかないと思わされてしまうような、そんな強大なインパクトと存在感がある。
音楽がまったくなくて、アーサーとパールの結婚パーティのときに、トミー・ドーシーがいきなりかかるのもパールのアクティヴさを象徴する効果となっている。
映像に関して私が感じたのは、暗い室内から眺める曇り日の外光の窓の格子の無機質さだ。ごく普通の、当時のごくありふれた、けれどなぜかアメリカを連想させるような無愛想な縦横の格子で構成されている窓。それは室内から見た風景と、室外の風景そのものとは微妙に異なることの暗喩でもある。イヴは生涯、自分の嗜好で満たされたインテリアに囲まれた室内からの風景しか見ることはなく、外に出ていったとき、彼女は死を迎えるのである。
いつも暗い海に隣接している家は虚無的で美しい。ラストシーンのあたりで、私はなぜか、場違いな印象なのだけれど、以前DVDで見た馬場康夫の《波の数だけ抱きしめて》のラストを連想してしまったのだが、それはひとつの物語が終結してしまった区切りを、波がすべて消し去っていくという意味あいにおいては同一だからなのに他ならない。
ウディ・アレン/インテリア
(20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン)
Monica Z — ストックホルムでワルツを [映画]
ディスクユニオンで出している雑誌《Jazz Perspective》は、毎回表紙写真に異常に命をかけてるような気がするのだが、しかも女性歌手限定という縛りがあるらしく、最新号はモニカ・ゼタールンドでグリーン系の服を着た彼女が美しい。
モニカ・ゼタールンド Monica Zetterlund のカタカナ表記は、まだ固定していないようにも思えるけれど、とりあえずゼタールンドにしておく。
先日、OJCのCDを整理していたらルーシー・リードがあって、あぁこれもビル・エヴァンスだったけ、と思ったのだけれどエヴァンスの歌伴というとやはりゼタールンドがその一番目に来るのではないだろうか。
それでなぜ今、ゼタールンドかと思ったら、彼女の生涯を描いたスウェーデン映画が公開されるとのこと。全然知りませんでした。
スウェーデンというと思い浮かぶのはイングリッド・バーグマンで、またはイングマール・ベルィマンという方向でもよいのだが、バーグマンとベルィマンは読み方の違いであるだけで、元はどちらもBergmanである。
《秋のソナタ Höstsonaten》は、両Bergmanが揃った映画だったが、バーグマンがさすがに衰えていて、もう少し早く撮ればよかったのにと思わせた。
モニカ映画の主演女優エッダ・マグナソンも、いかにもスウェーデンっぽい容貌をしていて、正統派女優みたいな雰囲気に満ちている。
映画の原タイトルは《Monica Z》で、邦題は《ストックホルムでワルツを》。Monica Zのほうがタイトルとしてカッコイイと思うのだが、それだと日本ではなんだかわからないし、でも《ストックホルムでワルツを》って、ティファニーで朝食を、のパロディみたいなのがちょっと笑える。
トレーラーを観るとかなり魅力的な気がする。まぁトレーラーは一番よいカットのつなぎ合わせでもあるので何とも言えないが。比較的本格派の演奏シーンが見られるみたいで、この撮り方は期待が持てるかもしれない。
ゼタールンドはその悲劇的な最期のこともあって、映画はそこまでを描かないのかもしれないが、スェーデンでは永遠の歌姫 (というのか?) なのではないかと思う。
Jazz Perspective vol.8 (DU Books)
Monica Zetterlund, Bill Evans/Waltz for Debby
(ユニバーサル・ミュージック・クラシック)
ストックホルムでワルツを
http://stockholm-waltz.com/
Monica Z officiell trailer
https://www.youtube.com/watch?v=H7qb41FaTXw
Edda Magnason - Sakta vi gå genom stan (Official Video)
https://www.youtube.com/watch?v=Ni5a6Q8D16I