SSブログ

安部公房生誕100年 [本]

KoboAbe_GeijutsuShincho_240321.jpg

『芸術新潮』3月号は安部公房の特集で 「わたしたちには安部公房が必要だ」 というキャッチが麗々しく目立っていて、なぜ今、安部公房? と驚いたのだが、生誕100年という表示にやや納得する。表紙は画面左下に大きく安部の姿が、そして右上の背後にはスタジオで練習している俳優が2人、ピントから外れた状態で写っているモノクロ写真。撮影者はアンリ・カルティエ=ブレッソンだ。
掲載されている安部のエッセイによれば、カルティエ=ブレッソンの使っていたライカを安部も買いたいと思ったのだが、それは結局潰えてしまったことが述懐されている。その思いはフェティシズムだったのだと安部は言う。

安部公房が急死してからすでに30年を過ぎて、だがその名前は急速に忘却されてしまったような気がする。といっても、薄っぺらな流行作家だったわけではない。むしろ正反対で、その作品は先鋭的でアヴァンギャルドなコンセプトを持っていたゆえに、時代の先を行き過ぎていた感じさえある。アラン・ロブ=グリエやガブリエル・ガルシア=マルケス的な方法論との近似性を感じるが、そもそもその頃、一般的な読者層にはガルシア=マルケスなど膾炙していなかったはずだ。

私が安部公房を認識したのはどちらかというと作家としてではなく、戯曲家としてであったような気がする。その重要な作のひとつとして『友達』があげられるが、といってももちろん初演ではなく、いつどこの劇団で観たのかは忘れてしまったがその不条理さと不安な空気に、こんなことはありえないと思いながらもそれはこの世間のひとつのメタファーなのかもしれないということに気がついていた。
たとえば初期の出世作の『壁』における 「バベルの塔の狸」 にしても、その描かれたものの感触は『友達』と同様に不快だった。この気持ち悪さを冷静な筆致で気持ち悪く書いてしまうところが安部公房の神髄なのだ。

そのエキセントリックさの極地が『箱男』であり、そのイマジネーションも当然ながら気持ち悪さを伴っていて、その同時期に安部公房スタジオを立ち上げたあたりが安部の絶頂期であったように感じる。
そして普段何も感じないような些末なものへの拘泥というか執着心の発露に、寺山修司の性向というか方法論と似たものを感じる。寺山もまた演劇を自らの活動の中心としてとらえていたはずであるが、寺山の演劇は小竹信節のメカニックな装置に幻惑されるのだけれど実はメカニックではなくきわめて詩的であるのに対して、安部の演劇はその構造にごつごつとした骨太の仕掛けがあるように感じる。

堤清二の庇護の下に西武劇場で上演された一連の安部の戯曲は、しかし次第に実験的な色合いを強め、コマーシャルなものから疎遠となってしまい消滅した。それは68/71が演劇的悦楽よりも政治的・思想的な方向性を強くした結果、根源的で原初的なお芝居の楽しみを喪失したのと似ている。そして時代は革新的戯作法で疑似エンターテインメントを標榜する野田秀樹のような傾向に移っていったのだと思う。
ふと思い出すのは、野田の同世代として如月小春や、天井桟敷の戯曲を寺山と共作していた岸田理生がいたこと。だが二人とも亡くなってしまったのが悲しい。

個人的感想でいえば、安部公房の戯曲は安部公房スタジオ立ち上げの前夜に書かれた紀伊國屋ホールにおける『ガイドブック』が、安部のメカニックでありながらそのメランコリーとか抒情性を垣間見せる作品であったと私は思う。「世界の果て」、それは乾いていて誰にもその素顔を見せない仮面のように、抒情を拒否する場所なのだ。

安部は抽象的な表現としてのメカニックさだけではなく、実際にメカが好きで、コンタックスやローライで撮った写真を自分で現像していたのだという。そして初期のワープロであるNECの文豪開発にもかかわっていたし、EMS Synthi AKSなども所有して使用していたという。当時、EMSを使っていた人なんてブライアン・イーノくらいしか私は知らない。
その安部の撮っていた写真を整理した写真集が出版されるのだという。まさに新潮社が仕掛けている安部公房復活宣言のように見える。

西武劇場のマース・カニングハムの公演のとき、舞台下でジョン・ケージがシンセを弾いていたのだが、それがmoogだったのかEMSだったのか知りたいのだけれど、でも無理だろうなとも思う。そもそも私はその頃、まだオコチャマでジョン・ケージがどういう人だったのかさえ知らなかったのだから。
今のガジェット・シンセならTEENAGEだろうけど、OP-1はすでに製造完了していて時の流れを感じる。それにTEENAGEはスマート過ぎて、EMSのような無骨さがない。


芸術新潮 2024年3月号 (新潮社)
芸術新潮 2024年3月号




(但しamazonはプレミア価格。hontoにはまだ在庫があります)

箱男オフィシャルサイト
https://happinet-phantom.com/hakootoko/
nice!(72)  コメント(10) 

関ジャムの Kroi [音楽]

Kroi_Kanjam240310_240313.jpg
関ジャムの Kroi (Kroiサイトより)

日曜日の夜は憂鬱な月曜日が間近なとき。
Rainy days and Mondays always get me down
と歌うよりも、いつものように《関ジャム》を観て明日のことを考えないようにしている。つまり《関ジャム》とは現実逃避のツールなのだ。
でも関ジャニはSUPER EIGHTになったのに、番組タイトルは 「関ジャム」 のまま。ジャニじゃなくてジャムだからOKなのか……う〜ん。

それはさておき、2024年03月10日の放送の特集はimase、原口沙輔、そしてKroi [クロイ] というゲストで、それぞれの音楽を語るという内容。いつもながら面白い。で、この番組に限らずこうしたバラエティでよく見かけるのがサッカーオタクな影山優佳。もはや元アイドルということらしいのだが、私はFMで聴いて声を知っていたのが先なので、声と顔のイメージが違うなぁと思ってしまう。

Kroiが自分たちの音楽についてこのように話すのを聴いたのは初めてなので、いろいろ発見があったり納得できたりという感じだったのだが、特に内田怜央の、歌詞ははっきりと聴き取れなくても良いという意味の発言が心に残る。つまり彼にとっての歌は一種のエフェクトであり、インストゥルメンタルであって、言葉本来の意味はその存在意義が弱い。もちろん歌詞こそが音楽の要である人もいるだろうし、それはそれで重要なことだが、内田にはラップの根源的意味とは何かという意識が常にあるのだと思う。そして彼の基本は韻を踏むことよりもリズムとしての言語であり、エフェクトとしての言葉なのだ。

現在のドメスティックなバンドの中で圧倒的にすぐれているのは King Gnu だと私は思うが、Kroi はもっとアナーキーで、といっても甲本ヒロトとは違っていて、全然見当違いなのだが髪型とサングラスから私が連想したのは早川義夫で、とりあえずアナーキーさということでは合っているのかもしれない。
そして私がいつもシンパシィを感じるロックは、ととのった美しさよりもソヴァージュでいびつな音なのだ。


Kroi/Hyper
Live from “Dig the Deep” at Zepp Haneda, 2023
https://www.youtube.com/watch?v=WyH7cexPQ98

Kroi/Fire Brain
Live from "Magnetic” at NHK HALL, 2023
https://www.youtube.com/watch?v=_ugCkii8QrY

Kroi/Balmy Life
Live from "Magnetic” at NHK HALL, 2023
https://www.youtube.com/watch?v=nKLL6mCjwtA

参考
King Gnu/硝子窓
https://www.youtube.com/watch?v=DAzN019hKhc
nice!(73)  コメント(4) 

オリヴィエ・メシアン〈Chronochromie〉 [音楽]

messiaen1983_240303.jpg
Olivier Messiaen, 1983 (npr.orgより)

メシアンのことを書こうと思って、最初は〈Quatuor pour la fin du temps〉を聴いていた。それは2016年のソルスバーグ・フェスティヴァルの映像であり、ザビーネ・マイヤーがクラリネットを吹いている演奏で Hochrhein Musikfestival Productions というチャンネルにupされている。演奏されるクァルテットは音楽も、そして演奏会場の建物も美しい。
だが、この曲はすでに有名過ぎるし、それに以前、リチャード・パワーズが『オルフェオ』のなかで作品成立時の経緯を小説に描いていたことを含めて記事に書いたことがあるし、そのとき 「la fin du temps」 は 「世の終わり」 でなく 「時の終わり」 だという訳語の問題まで含めて、もういいかと思ってしまったのである (→2015年10月09日ブログ)。

というわけで今回の話題は〈Chronochromie〉(クロノクロミー/1960) である。
この作品は (une œuvre) pour grand orchestre と表記されている通り、かなり大編成用に書かれたオーケストラ曲である。Donaueschinger Musiktage (ドナウエッシンゲン音楽祭) のために書かれたというが、例によって初期の頃は賛否両論という作品であった (アーチー・シェップに《Life at the Donaueschingen Music Festival》(1967/邦題はワン・フォー・ザ・トレーン) という有名なライヴ・アルバムがあるが、あのドナウエッシンゲンである)。

wocomoMUSICというサイトに 「Opus 20 Modern Masterworks」 という動画があり、これでピエール・ブーレーズによるメシアンの〈Oiseaux exotiques〉(異国の鳥たち) と〈Chronochromie〉を聴くことができる。

楽器編成についてfr.wikiでは 「4 flûtes, 3 hautbois, 4 clarinettes, 3 bassons」 と書かれているが、この部分はja.wikiのほうが詳しくて 「ピッコロ、フルート3、オーボエ2、コーラングレ、小クラリネット、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット3」 とあり納得である。
曲は Introduction, Strophe I, Antistrophe I, Strophe II, Antistrophe II, Épode, Coda の7つの部分に分かれているが、メシアンといえば chants d’oiseaux つまり鳥の歌であり、Épode でそれが発揮される。16の弦楽器がそれぞれ独立して演奏されるが、小節の並びによる整合性はなく、勝手に演奏されるだけだ。しかしもちろんアドリブではなく、全て譜面に書かれている。wikiに拠れば 「組織された無秩序」 とのことである。

下記にリンクしたブーレーズ/アンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏は L’Alte Oper (ラルテ・オーパー) というフランクフルトの旧オペラ座で録られたものであるが、15’55” からが〈Oiseaux exotiques〉そして 30’45” からが〈Chronochromie〉と表示されている。実際には2曲目冒頭にブーレーズのインタヴューアーへのコメントがあるため、曲の始まりは 33’08” 頃からであり、Épodeは 48’40” あたりからである。
ブーレーズの指揮は非常に精緻で、かつダイナミクスさを備えていて、晩年の好々爺なブーレーズではなく、最も精力的だった頃の 「怖いブーレーズ」 である。もっとも Épode の部分は指示の出しようがないので、単純に一定のリズムを振るだけである。
グロッケンシュピールはキーボード・グロッケンを使用しているようだ (ブーレーズに関してはその追悼文を参照されたい→2016年01月09日ブログ)。


Messiaen Edition (Warner Classics)
Messiaen: Messiaen Edition




Olivier Messiaen/Oiseaux Exotiques & Chronochromie
異国の鳥たち、クロノクロミー
Pierre Boulez, Ensemble intercontemporain
Opus 20 Modern Masterworks
https://www.youtube.com/watch?v=jbiZGoctGpw

Weithaas, Gabetta, Meyer, Chamayo/
Messiaen: Quatuor pour la fin du temps
時の終わりのための四重奏曲
Antje Weithaas, Violine
Sol Gabetta, Cello
Sabine Meyer, Clarinet
Bertrand, Chamayou, Piano
Filmed at Solsberg Festival 2016
https://www.youtube.com/watch?v=QAQmZvxVffY
nice!(80)  コメント(5)