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消費される音楽 — クルト・ヴァイルおよびその他のことなど [シアター]

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Kurt Weill

日曜の夜だけれど明日も祭日だしということで、日本TV《行列のできる相談所》をなんとなく観ていた。内容はミュージカルに関するスペシャル番組で、井上芳雄のMCで井上をはじめ昆夏美、ソニンなどによる《ミス・サイゴン》《レ・ミゼラブル》といった作品からの歌唱があって楽しめた。

実は5月に大田美佐子『クルト・ヴァイルの世界』という本を買って、とても面白そうなのだがなかなか読み進められない。この本のサブタイトルは 「実験的オペラからミュージカルへ」 で、まさに二重人格的に変容したクルト・ヴァイルの実像を捉えている。
この本の序章に著者がクルト・ヴァイルに興味をもったきっかけのエピソードが書かれていて、それは黒テントで観た《三文オペラ》(Die Dreigroschenoper, or the Threepenny Opera, 1928) の衝撃だというのである。それはオペラと称しながらハイソなオペラ劇場などでなく薄暗いテント小屋で、もちろんオケピットなどなく、舞台設定も過去の日本に翻案されていて、でありながらその新鮮さにうたれたとのこと。その部分にとても共感してしまった。
私も68/71の《三文オペラ》を観た記憶があるが、それはテント公演ではなく、少しラグジュアリーな、たしか俳優座劇場で上演されたときだったと思う。公演場所こそ違うが、クルト・ヴァイルとは何かということについてまさにその鮮鋭さにショックを受けたのにほかならない。その後、何も予習をしなかった不勉強さを補完するために、ロッテ・レーニャのCDなどを購入したのだった。

そしてこの本のはじめのほうには、ブレヒトの『肝っ玉お母とその子供たち』(Mutter Courage und ihre Kinder) 上演時のロッテ・レーニャの写真も掲載されているのだが、「肝っ玉お母」 といえば私にとってそれは筒井康隆の『馬の首風雲録』を連想するトリガーとなっていて、また同時にブレヒトとヴァイルの蜜月とその離反をも思い出させられるワードなのだ。

クルト・ヴァイル (Kurt Weill, 1900−1950) はユダヤ系の作曲家であり、当時のナチスからの迫害を避けて最終的にアメリカに渡ったが、アルノルト・シェーンベルクやベラ・バルトークのように頑なに自分の音楽信条を守り続け、結果としてアメリカにおいて不遇であった人とは対照的に、アメリカにおいて成功したといってよいのだろう。ヴァイルはもともとはクラシカルな書法の作曲家であるが、アメリカではポピュラーな音楽を根幹としたミュージカルを多く書いた。それは原理主義的クラシック音楽愛好家から見れば豹変であり堕落であると映ったのかもしれない。

こうしたいわゆる大衆的な劇場音楽はイギリスのヴィクトリア朝のギルバート・アンド・サリヴァン (William Schwenck Gilbert, 1836−1911; Sir Arthur Seymour Sullivan, 1842−1900) が嚆矢である。ウィンナ・ワルツで有名なヨハン・シュトラウス2世 (Johann Strauss II. 1825−1899) などもポピュラーなクラシックのジャンルに入るといえるが、オペラからミュージカルの萌芽へと連なるギルバート・アンド・サリヴァンは、通俗でときに猥雑でもある点でシュトラウス・ワルツとはかなり異なるものだ。
少し雑駁な言い方ではあるが、こうした19世紀のサヴォイ・オペラの歴史を踏まえてそれがアメリカに伝播されミュージカルとなったと考えられるような気がする。オペラとミュージカルの違いは、前者がクラシック寄り、後者がポピュラー寄りというイメージはあるが厳密な区分けはできないようにも思う。その中間あたりに位置するのがたとえばガーシュインの《ポーギーとベス》あたりだと考えればわかりやすい。

繰り返し例にあげるが、こうしたアメリカでのオペラ/ミュージカルの萌芽時代を描いた小説がトマス・M・ディッシュ (Thomas Michael Disch, 1940−2008) の『歌の翼に』(On Wings of Song, 1979) であり、ギルバート・アンド・サリヴァンの《戦艦ピナフォア》が象徴的タイトルとなるが、アメリカにおけるミンストレル・ショーやカストラートなどの描写がアメリカの音楽ビジネスにおける変容と、その一時期における奇矯ともいえるステージングの特徴となっているようにも思える。つまりガーシュインを正統派とすれば乱立したマイナーなオペラ/ミュージカル作曲者たちはキッチュな徒花であり消費音楽と表現することもできるのだろう。

別のTV番組で山崎銀之丞が 「演劇は残す (残る) ものではない」 と、つかこうへいが語っていたというエピソードにも衝撃を受けた。舞台芸術は映画などと違って毎回全く異なる条件におけるパフォーマンスだといってもよい。昨日の舞台と今日の舞台は違うし、あなたが観た演劇とわたしの観た演劇は違うのかもしれないのだ。
その不安定さ・はかなさが演劇の魅力でもあり限界でもある。だからせめて言葉としてだけでも残しておかなければならない。

68/71の舞台で思い出すのはやはり俳優座劇場で上演されたゲオルク・ビューヒナー (Karl Georg Büchner, 1813−1837) の『ヴォイツェック』(Woyzeck, 1835) である。記憶がほとんど薄れているが、舞台全面を板敷きにして独特の空間を作り上げていて、脚本の不穏な構成と秀逸な照明が印象的だったが、68/71支持者からの評価はあまり高くなかったように覚えている。きっとその舞台づくりがブルジョア的に見えたのだろう。
そしてアルバン・ベルクのオペラ《ヴォツェック》(Wozzeck) はビューヒナーの『ヴォイツェック』が元となっている作品であることは自明である。

大衆的なオペラはソープ・オペラとかオペラ・コミックと呼ばれて一段低いもののように扱われてきた。だが最も大衆に支持され好まれてきたのがそうしたオペラでありミュージカルであるのだ。
《ミス・サイゴン》の作曲家クロード=ミシェル・シェーンベルクは直接の子孫ではないがアルノルト・シェーンベルクの親族にあたる。結局、音楽業界のなかでそのような何らかの継続性が起きてしまうのはよくあることなのだ。

夜、NHKFMでフォーレの《ペレアスとメリザンド》が流れていた。チョン・ミョンフン/東京フィルによるライヴ音源である。「ペレアスとメリザンド」 というタイトルの曲は、フォーレとシベリウスとドビュッシーと、そしてシェーンベルクがある。素材として発想を膨らませやすいし、キャッチが良いからという理由なのだと思う。


大田美佐子/クルト・ヴァイルの世界 (岩波書店)
クルト・ヴァイルの世界: 実験的オペラからミュージカルへ




新国立劇場/三文オペラ 舞台映像
https://www.youtube.com/watch?v=LWXPsGxyNvI&t=18s

Die Dreigroschenoper, Berliner Ensemble 2012
Theater Am Schiffbauerdamm, Berlin
https://www.youtube.com/watch?v=nv2SiBcE9dM

Kurt Weill《三文オペラ》全曲
https://www.youtube.com/watch?v=SeK1b4q0RNk
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失われた藍の時代に ー 東京キッドブラザース [シアター]

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純アリス (日刊スポーツ 19.07.16記事より)

「かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩」 というのは入澤康夫の詩集のタイトルで、その謎めいた言葉と音の響きに惹かれる。入澤の詩集には他にも思わず読んでみたくなるタイトルが多くて、「ランゲルハンス氏の島」 みたいな楽屋落ち的なタイトルもあるけれど、これは何なんだろうと惹きつけられてしまうそのときに、すでに詩人の術中に絡めとられているのだ。だが残念ながらオリジナルの詩集そのものはほとんど持っていなくて、偶然手に入れた『声なき木鼠の唄』という小さな本があるばかりだ。それゆえに彼の詩業を辿るには、とりあえず〈詩〉集成という2冊の作品集を読み進めていくしかない。そしてもちろん、宮澤賢治の全集における精緻な校訂と研究はあまりにも深い。

遠藤琢郎の訃報を聞いた。横浜ボートシアターという劇団を主宰し、横浜の川に浮かぶ船の上で演劇をしていた人である。ずっと以前にボートシアターには1回か2回か、よく覚えていないのだが行ったことがある。観客はごく少なかったが、何か落ち着ける独特の空気感があった。それは水の上に浮かんでいる船が劇場という、繋ぎとめられているのだから動かないのだけれど、しかし完全に固定されているわけではない場所の、ゆらゆらした感覚から来る微かな酩酊のようなものかもしれなくて、それは小栗康平の描いた《泥の河》の船の印象に通底する。
ただ横浜という土地は私の中ではいくつもの重層した記憶となっていて、ずっと昔の幼い頃の記憶と比較的最近の記憶が錯綜したりしていて、秩序だった回想の邪魔をする。むしろそうした錯誤を喜んでいる魔物がいるのかもしれない。

演劇における仮面が表象するものは、ひとつのキャラクターの固定化である。誰が被ったとしても仮面は、そのキャラクターを周知の (あえていえばステロタイプな) 納得せざるを得ない人物像として実感させ、様式性の中に封じ込める。だが演劇とは、たとえ素面であっても、それは演じるという状態において仮面をつけているのと同等の効果をあらわすし (あらわすべきだし)、役柄の性格に応じてその表情を変化させ際立たせなければならない。そうだとすると仮面とは、その変化を見させないものとして、つまりある一瞬の表情の凝固としてしか表現することができないはずである。その凝固してしまった単一の表情が幾つものヴァリエーションとして感じられてしまうのはなぜなのだろうか。
そうした仮面の二重性は、能楽に用いられるような高尚な仮面でなく、もっと下卑た、ドンキで売っているような俗悪でチープな仮面にこそ逆説的に存在する。能面でなく、田楽や神楽で用いられるようなもっとプリミティヴなもの、呪術的で野生的なもののほうが仮面に秘められた二重性はアクティヴである。ボートシアターの写真の中に見出した幾つもの仮面の連なりを見ながら、そんなことを考えていた。能楽の仮面よりコンメディア・デラルテの仮面のほうが、遊戯性や諧謔性が豊富な分、それが示すフィールドは広いように思うのである、もちろんこれは能楽の面を貶めているわけではない。通俗性のあるほうが裾野が広いということに過ぎない。それに通俗的事物から発散されるものはダイレクトであり、芸術性の質や量とはむしろ反比例する。そしてプリミティヴなものとは好意的に見るのならばシンプル、辛辣に見るのならば単純であり、そもそも楽観的なものなのである。

演劇をはじめとする舞台芸術とは儚いものである。もっとシビアにいうのなら脆弱といってもよい。なぜならそれらは映画のように、あるいは音楽を録音したCDやレコードのように固着化できないからである。素晴らしい演劇が存在するとしても、それを保存することはできない。それは一瞬の閃光であり、脆いイヴェントであり、時が過ぎれば消失する。たとえ映像に残したとしても、それは限られたフレーム内の2次元でしか再生できない。後に残るのは単なる伝説である。つまりたとえば 「かつて天井桟敷という演劇グループが存在していた」 というような過去形の伝聞表現でしかそれを語ることはできない。この 「かつて」 という詠嘆を含む言葉から想起されるものを記録するために、冒頭の 「かつて座亜謙什と……」 が私にとっての触媒としてリフレインしていたのだから。

なぜならこれはひとつの疑問から端を発している。それは東京キッドブラザースという劇団のことを検索していたときのことである。東京キッドブラザースは、寺山修司の 「演劇実験室天井桟敷」 にいた東由多加がそこから脱退して新たに結成した劇団である。ところが検索する手がかりのひとつとして存在しているはずのwikipediaには、それについて本当におざなりな記述しかない。wikiの内容のアンバランスさは、よく知られているとはいえ、これはひどいのではないかと思ったのである。
調べようとしたきっかけは、かつてある知人がいて、仮にAさんとしておこう、そのAさんはある時期、演劇を観ることにとても入れ込んでいたのである。Aさんは熱しやすく醒めやすい性格といってよく、何かひとつのことに熱中するとそればかりになり、ところが突然それが終息して他のことに興味が移って行くという特徴を持っていた。それまでとまったく正反対に意見が変わったりすることさえあり、それに振り回されてしまうということがよくあった。だがそのパッショネイトな言葉に、そのときはつい乗せられてしまうのである。
そのAさんがシンパシィを感じていたのが東京キッドブラザースという劇団であった。その話をよく聞かされて、全くそういうことを知らなかった私は、まずそれについて調べてみた。
天井桟敷から別れ、寺山修司とは全く正反対のような芝居を始めたこと。その違いは68/71とオンシアター自由劇場などよりもっと離れている。そしてミュージカルへの傾倒、そこには《ヘアー》という伝説のミュージカルとの関係もあるらしい。そして《黄金バット》という作品でニューヨークで公演したことなど。ああなるほど、という部分と、本能的に感じた胡散臭さと、でもそうした負の部分の印象は決してAさんに言うことはなくて、それなりに話を合わせていた。それに愛と平和とか、反戦とか、一時期のアメリカを象徴するそうした現象からの影響がその当時の演劇シーンにも反映されていたのかもしれない。だがやがてひとつの公演で失敗してキッドブラザースはほとんど壊滅状態になる。もちろんこうした歴史はキッドブラザース系のサイトなどを参考に記述しているだけで、実際の演劇について私は全く知らない。

やがて東由多加は演劇をやることを再開し、新宿にシアター365というスペースを作る。その芝居のタイトルに俄然興味を持った。〈彼が殺した驢馬〉〈冬のシンガポール〉〈失われた藍の色〉。連続する1978年のこれらのタイトルは聞くだけでカッコイイ。Aさんがシアター365でそれらの芝居を観ていたのかどうか、それは知らないし聞いたこともなかった。いつ頃からAさんがキッドブラザースに入れ込みはじめたのかはわからないが、たぶんそのシアター365のあたりからなのではないか、と推測するばかりである。
やがてキッドブラザースは再び人気の劇団となり、Aさんが言うのには、評論家の誰々さんも褒めている、何々にも取り上げられた等々、絶賛の嵐である。柴田恭兵とか純アリスとか、すごい人気なのだという。う〜んそうなのかぁ、とは思ったのだが、私はなかなか決断しなかった。
でも1回くらいならいいかなと思って、Aさんと一緒に行ってみることにした。だがまだ私は若くて、いやむしろキッドブラザースの演劇は若い人たちのための芝居だったとは思うのだが、そうした内容にノルことができなかった。それはひとことで言うのなら気恥ずかしくて、気恥ずかしいものに臆面もなく賛同する人と、気恥ずかしいものを避ける人とがいると私は思うのである。私は後者であった。キッドブラザースと尾崎豊は気恥ずかしい。だが同時にAさんの顔を立てなければならない、というような妙に大人びた意識も同時に持っていたのだと最近あらためて思う。
むしろ年齢を重ねた今になると、もっと柔軟に対応できる術もあったはずなのではないかと感じるし、キッドブラザースそんなに悪くなかったよなぁ、とさえ思うのである。だが当時の私はずっと硬直化していて余裕がなかった。それにそうしたマジョリティなものを拒否する気持ちがずっと強かったのだと思う。結果としてそれは決してマジョリティではなくて、マジョリティに踊らされたマイノリティの一表現に過ぎなかったのだとしても。20世紀の終わりに東由多加は亡くなる。寺山修司と同様、東由多加が存在しなくなったことで彼の演劇も実質的に終わりとなる。継ぐ者は誰もいない。

だが、今、演劇のクロニクルな情報を見ると、天井桟敷の1978年は〈奴婢訓〉、そして79年は〈レミング〉であり、夢の遊眠社は〈怪盗乱魔〉の初演とリストにある。つまりそうした混沌とした状況、全く異なった位相のものが並立するような状況がその時代だったのだとあらためて感じるのである。
しかし同時に、その当時、あれだけキッドブラザースを絶賛していた評論家やマスメディアは今どうしているのだろうと思うこともある。その時々の流行にさえ乗っていれば後は野となれ、なのだろうか。wikiの惨状が如実にそれを表している。彼らは責任感を持たない。すべては金で換算される。金にならないものは無価値なのである。
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この書を持ちて その町を捨てよ ―『文藝別冊 寺山修司』を読む [シアター]

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推理小説の記述法の分類のひとつに 「信用できない語り手」 というのがある。クリスティにその具体例があるが、愉しみの読書の中でそうした文章上のテクニックに翻弄されるのならともかく、それが現実世界における 「信用できない語り手」 だったり、「信用できない語り手による信用できない情報」 だったりすると、精神的な疲労は甚だしい。そのような悪意の語り手は何も失わず、聞き手のみが深刻なダメージを受けてしまう。そうした環境からは (信じられないかもしれないが、知性の存在しない世界というものがこの世界には存在していて、そこには魑魅魍魎が跋扈しているものなので) 逃げ去るべきだと考えている今日この頃なのだ。

これもまた推理小説の比喩で言えば、いや、推理小説よりもTVの刑事ドラマを連想したほうがわかりやすいが、刑事は何人もの目撃者や関係者にあたり、証拠を積み上げてゆくもので、それは多角的な視点を構築することとも言える。
このブログ記事は文藝別冊というムックの寺山修司特集のつづきだが、こうした本の編集方針も、何人もの語り手から複数の証言を聞き出し、それによってひとりの作家のプロフィールを描き出そうとする意図であるはずだ。つまり刑事の証拠集めに似ている。だがそれが必ずしも多角的で普遍的な視線を持ちうるかどうかはわからない。かえって曖昧な海に沈んでしまうことがあるかもしれない。これはひとつの仮定であって、このムックがそうだと言っているわけではない。しかし最終的に信じられるのは自分の直感だけである。

ざっと読んだ中で最も示唆に富んでいるように思えたのは、高取英と安藤礼二の対談であった。二人の会話によれば、寺山は名も無い市井の人、無名の人に注目したのだという。たとえば有名人の記念写真があると、有名人Aさん、有名人Bさん、一人おいて……のこの 「一人おかれてしまう人」 に興味があるのだという (p.109)。だからシロウトの詩集を作ったし、シロウトで芝居をしようとした。その無名性へのこだわりが胸を打つ。だが新劇のセオリーはシロウトを舞台に上げるなという時代だったので、寺山の手法は顰蹙をかった。
寺山は『家出のすすめ』を書き、そうして家出をした少年少女たちが集まって演劇をやってしまうというプロセスを夢想し、そしてある意味ではそれを現実のものともしていった。シロウトの詩で本を作ってしまうという行為、シロウトに芝居をさせてしまう行為、そうしたすべての流れは、ともすると 「弱い者の味方」 的な見方をされてしまう可能性もある。
寺山が演劇的な 「わざとらしさ」 を嫌ったのは、方法論的にはロベール・ブレッソンを連想させるが、単なる 「わざとらしさ」 の排除だけでなく、それによって生成するステロタイプな演劇の美学に対するアンチテーゼでもあったのではないかと感じる。

高取英は言う。

 寺山さんはよく私探しの元祖とか誤解されるんですよ。私探しの人とい
 うよりは、「私」 なんかないんだと 「私」 は解体した方がいいと言った人
 です。(p.108)

そして、

 『星の王子さま』でもラストで屋台が崩れて、点子ちゃんというヒロイ
 ンが現実であるかのようにモノローグをする。この手法が寺山さんは大
 好きで、『青ひげ』でももう一度やっていて、舞台が崩壊した中でヒロ
 インがモノローグを現実に語りつづける。(p.109)

「私探し」 とか、昔流行した自分の 「ルーツ」 とは何かとか、そうした卑俗なものへのシンパシィやセンチメンタリズムは、寺山修司には一見存在するように見えて、実は無いのだと私も思う。センチメンタリズムを標榜しているからといってセンチメンタリストとは限らない。寺山の演劇における『星の王子さま』でも『青ひげ』でも舞台が崩壊して、演劇が現実と同一線上になっても継続するというその手法は、演劇というシステム自体の崩壊を意味していて、それは 「私」 を敷衍させた無名の人々であり、芝居を演じていたはずの人々はいつの間にか現実の人々になってしまう。
寺山の夢想する 「私」 は、たとえば 「がんばった私をほめてあげたい」 というような 「私」 とは最も遠い地点にいる 「私」 である。

 だから寺山さんは芝居が終わった後にカーテンコールをするのを嫌がっ
 た。(p.109)

というのも当然であり、寺山はそうしたメソッドの演劇を目指していたのではなかったということがわかる。「子どもだまし」 「機械仕掛けマニア」 といった批評は的外れであり、なぜならそれらはメタファーであり、それ自体の真贋、優劣を意図していないからだ。能舞台に出てくる作り物を、リアリティが無いと言って貶す人がどこにいるだろうか。

安藤礼二の寺山と唐十郎の比較も面白い。

 ただ寺山さんは非常に頭脳的な人で、唐さんは肉体的な人だと捉えられ
 ている向きがあります。しかしその理解はまったく逆なのかもしれない。
 唐さんの方が論理的、知的であり、寺山さんのほうがより偶然に開かれ
 ている。(p.111)

唐十郎や野田秀樹の戯曲が、戯曲という形態として確立されているのだとするのならば、寺山の戯曲は単なるレシピに過ぎない。レシピだからどんな料理人にも提供され得るのだが、肝心な部分を寺山は書いていない。だから永遠に不完全なのである。
one and onlyな点で、寺山とアストル・ピアソラは似ている。誰でもトレースできるが、トレースしたものはすべてイミテーションでしかない。何かが欠けているのである。お役所の書類のように、コピーすると 「これはコピーです」 という文字が浮き出てしまう。

その他にも私が今まで知らなかったことが語られていて興味深い。
高取によれば、寺山は沼正三の『家畜人ヤプー』をそれが連載されている頃から高く評価していたという。また、団鬼六を評価していて、彼の紹介で新高恵子が天井桟敷に来たことなど。(p.112)
安藤は、中井英夫の働きについて述べる。折口信夫の最後の短歌があり、そして寺山の最初の短歌があり、これらを取り上げたのが短歌雑誌の編集者であった中井だったこと。そして折口の小説『身毒丸』と寺山の戯曲『身毒丸』は重なる (身毒丸は俊徳丸伝説がその元であり、謡曲の『弱法師』、説教節の『しんとく丸』はそこから派生したものである)。ただ、寺山の『身毒丸』は主人公が柳田國夫になっていて、これは折口と柳田がごっちゃになっていたのかもしれない、ということだが、わざとしたのだと思えなくもない (似た人をわざと間違えるのも諧謔の一手法である)。そして、折口、柳田と最も親交のあった泉鏡花の『草迷宮』へと寺山の作品がつながる (p.115)。
1953年晩夏に折口信夫が亡くなり、1954年末に寺山修司がデビュー。そして中井の『虚無への供物』の連載が開始されたのが1955年だとのこと。連載されたのはゲイの同人誌『アドニス』なのだそうである。登場人物の氷沼藍司に、安藤は寺山との相似性を見る (尚、安藤礼二は折口信夫のオーソリティである)。

足立正生が映画『椀』を撮った頃のこと。山野浩一は『デルタ』を撮り、二人の作品がTVで学生映画として紹介されたとき、批評家として出演していたのが松本俊夫と寺山修司だったこと。山野浩一の原点というのを今まで知らないでいたので納得した。

そしてこのムックの中で最も私の心に突き刺さったのは橋本治である。河出文庫の『書を捨てよ、町へ出よう』の解説として1993年に書かれたものである。
言葉は何度もリフレインして、そして鋭い。解説であるようでいて、解説でない。あまりにすご過ぎるので全文を引用したいところだがそれはアンフェアであり、思考の放棄でしかないので思いとどまることにする。

 寺山修司は、日本の近代文学の外にいた。(p.132)

 寺山修司は、紛れもなく詩人である。

 だから理性とは、普通、「肉体に由来する混乱を排除する力」 だと解され
 ている。理性する哲学者にとって肉体は邪魔で、人間の論理は肉体の論
 理を排除することによって完成され、そのように完成させられた論理は、
 常にそこからの逸脱を渇仰する方向にしか動かない。(p.133)

この、精神と肉体との比較は、先にあげた安藤礼二の寺山と唐の本質の比較に通底する思考である。特に演劇において、というか舞台芸術において、肉体と精神をどのようにコントロールするのかは最も重要な課題である。

 寺山修司とは肉体を持った青年で、詩とは、肉体からしか生まれて来な
 い言葉の論理である。(p.133)

橋本は、寺山が詩人として発した言葉にはそれを発する肉体が伴っているから詩なのであり、それは書斎から発せられる、文学が文学であるというだけの 「正統日本近代文学」 の言葉とは異なっているのだ、だから理解ができないのだとする。正統というのはもちろん皮肉であり揶揄である。そして既存の詩人についての疑問を提出する。

 寺山修司の文章は、すべて詩人の文章である。だがしかし、「詩人」 と
 いう肩書を持った者の文章の中から詩が聞こえてくるということは、稀
 でもある。寺山修司の文章は、しかしそれとは違って、明らかに詩であ
 る。何故そうなるのかというと、それは寺山修司が、言葉と言葉のつな
 ぎ目を接続詞でつながなかったからだ。(p.134)

何という比喩であろうか。このめちゃくちゃさが、めちゃくちゃカッコイイ。でも橋本はきっと、どこがめちゃくちゃなんだ? と言うだろうが。
橋本は、寺山の美学をひとりの少女の美についてを例にとって語る。少女は美しいけれど、同時に美しくない。「ドラマとは、美しい少女が所詮ただの一人の少女に過ぎないという発見をする」 ことなのだという。このシュレディンガーの猫的な形容の果てに橋本は決めゼリフを放つ。

 寺山修司は、肉体を排斥する理性の産物である書を 「捨てよ」 と言った。
 そして、肉体が肉体のままで存在しうる場である筈の町へ 「出よう」 と
 言った。そう言った瞬間、そこには 「それを言う書」 があった。そして
 町は 「それを言わない書」 に侵された人間達で一杯になっていた。だか
 ら今ここで言う ―― 「この書を持ちて その町を捨てよ」 と。(p.135)

「書を捨てよ」 というためには、そもそも書がなければならない。でも最初から捨てるべき書がそもそもないのではないか。それが橋本の提示する問いである。かつて町は、書を捨ててまで出かけて行くことに魅力のある場所であったのかもしれない。しかし今、そうした町は幻想なのかもしれない。いや、幻想なのだと橋本は断言しているのだ。これは橋本らしいアイロニーである。書と町は並列して比べられるものではない。しかし今、このたった1冊の書のほうが、町よりも有益であるのかもしれない。それは町の退廃であり、そして腐敗である。寺山の描く町はもはや書の中にしか存在しない。それほどにこの町は爛れてしまったのだ。それが橋本の遺言のように私にまとわりつく。


文藝別冊 総特集 寺山修司 増補新版 (河出書房新社)
総特集 寺山修司 増補新版 (文藝別冊)




寺山修司/書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)
書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

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寺山修司と野田秀樹 [シアター]

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文藝別冊の『寺山修司』増補新版を読む。増補なのだからその前の版があるはずなのだが、それは2003年3月初版とあり、もちろん私は読んだことがないのでこれが初めてだ。
野田秀樹の短いエッセイに、若き野田と寺山修司との出会いが書かれている。

野田が初めて寺山の演劇を観たのは渋谷公会堂における《邪宗門》だったという。だがそれはあまりにもアングラ過ぎて、野田は 「俺はこれダメかもしれない」 と思ったのだという。ファースト・インプレッションがそうしたマイナスなイメージだったのにもかかわらず、その後、寺山の書く文章に、特にその短歌に魅せられ、そしてもしそれだけだったら寺山修司を神格化するままになっていったのかもしれないのだともいう。

ところがある日、野田がまだ東大生であった頃、東大駒場で彼の劇団の稽古をしていたとき、その出入口を行ったり来たりして、中でやっている稽古を見ているような見ていないような人が、もしかして寺山修司なんじゃない? と気がついた劇団員がいて、野田に伝えた。野田は 「そんなわけねえよ」 と否定したのだが、しかしそれは寺山修司本人だったのだという。寺山は野田の演劇を噂を聞いてこっそり覗きに来たのだ。

 どうやら後で知人から聞いたところでは、寺山さんは、その頃、東大の
 劇団で 「全共闘」 みたいな芝居をやっているところがある、と聞き及ん
 で、こっそり稽古場を覗きに来たらしいのだ。ほんとうに 「覗き」 に来
 るところが 「寺山修司」 の 「寺山修司」 たる所以である。

と野田は書く。
全共闘みたいな芝居というのがよくわからないが、つまりよくわからなくて過激に見えるものは皆、全共闘だと形容してしまったのかもしれない。ともあれ、それがきっかけで野田の《少年狩り》という演劇を寺山は観て、その劇評を東大新聞に書いてくれた。それが野田にとって初めての劇評だったのだという。
そして野田は、最初の劇評を寺山修司に書いてもらったということの至福より、寺山が稽古を覗きに来てくれたということを誇りに思うともいう。

その後、野田は寺山のパルコ劇場や晴海の倉庫街での演劇を観て、それらは渋谷公会堂の《邪宗門》とは異なり、唯美的、審美的、耽美的だったと言葉を重ねる。それは互いの作品をそれぞれ評価する戯作者・演出者として対等の姿勢のように思える (但し、その時代だと、パルコ劇場の名称はまだ西武劇場のはず)。

だが二人が言葉を交わしたことはほとんどなく、寺山の演劇《レミング》を観た後、暗幕をめくり上げたところで顔を見合わせたときがあって、「あ」 「おー」 とだけ声を交わしたのだとのことである。このエッセイの野田のそもそもの長い前フリの思わせぶりからすると、この話も眉唾だとも思えるのだが、それはそのまま承っておくことにする。そしてその後、寺山は亡くなってしまう。

それから時を経て2015年の事を野田は書く。

 二〇一五年、私のその芝居 「エッグ」 が、パリのシャイヨー国立劇場に
 招かれる形で上演された。その時、その劇場の芸術監督から思わぬ話を
 聞いた。「この『エッグ』の前に、日本の現代劇が、このシャイヨー劇
 場に来たのは、遡ること三十三年前、寺山修司の『奴婢訓』だったんだ
 よ」 それは思いもかけない奇縁であった。

「エッグ」 とは、

 「冒頭、寺山修司の未発表の戯曲が見つかり、それを上演していくとい
 う形で話が進んでいく。もちろん、そんな寺山修司の作品など存在しな
 い。

という作品なのである。それは偶然であり奇跡なのだろうか。そうかもしれないが、何かの必然性もきっとあるのだろう。それは異なった時代を繋ぐ宿命の糸である。
寺山の戯曲と野田の戯曲は根本的な違いがあると私は思う。野田の戯曲は唐十郎に似て、戯曲そのもので完成されているが、寺山の戯曲はあくまでそのイヴェントとしての演劇の設計図に過ぎない。それを読んでも寺山の演劇そのものは立ち上がらない。だが果たしてそのように割り切って区分けしてもよいのだろうか、と最近私は考えるようになった。
野田の初期の戯曲は、ともするとまるでルイス・キャロルのように語呂合わせと地口と駄洒落と、そうしたものが混然一体となっていてそれを翻訳することは困難かもしれなかった。だが寺山の戯曲は最初からヴォキャブラリーの厳密性や緻密さとは無縁である。トータルなイメージが先行していて、それは当初から存在するポリシーである。だがそうしたポリシーは、実は言葉ひとつひとつを繊細に動かして捏造する歌人としての寺山から湧出していたもののはずなのである。寺山の演劇はアクションでありフィクションであり、というよりむしろエフェクトである。その表面的イヴェントを指して陳腐だと否定した人もいた。が、それは深層を見ようとしないダイヴァーのようである。真相は戯曲の言葉の上にはなく、演じられた演劇そのものの時間の中にだけ存在していた。


文藝別冊 総特集 寺山修司 増補新版 (河出書房新社)
総特集 寺山修司 増補新版 (文藝別冊)




寺山修司・黒柳徹子
https://www.youtube.com/watch?v=AzuTY0Fl728&t=6s
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桜の森はいつでも夜 ― NODA・MAP《贋作 桜の森の満開の下》 [シアター]

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NODA・MAPで《贋作 桜の森の満開の下》を上演するとのニュースを読んだ。ニュースといってももうそんな新しいニュースではなくて、つまりもうすぐチケットを売り出しますよというプロモーションということだ。
贅沢なキャスティングで、でもきっと高いんだろうなぁと、すぐに思ってしまうのが悲しい性格である。性格というより悲しいのは財布なのだが。

演劇というのは最も風化しやすい芸術である。そのときに観なければ、もう観ることができない。それは人々の記憶に残るだけで記録として残すことはできない。ビデオなどの映像として残されたものは2次元の、しかも限られた枠組の中だけでの記録だからそれは正確な記録ではない。備忘録としての贋の記録に過ぎない。演劇とは、それが演じられる空間の中での、役者と、ごく限られた人数の観客とによって共有された秘儀である。それゆえに風化しやすいと私は定義するのである。

演劇関係の資料をぱらぱらと見ていたら、昔の新聞の切り抜きがあった。1987年9月12日の朝日新聞で、当時の野田の主宰する劇団夢の遊眠社の《野獣降臨 (のけものきたりて)》のイギリス・エジンバラ公演の報告である。エジンバラ国際芸術祭に招待されたときの初の海外公演であり、リポートを書いているのは萩尾望都である。

演劇自体は日本語で上演されたのだが、野田戯曲は日本語で上演されてもわかりにくい演劇であるので、ところどころで小林克也の英語による解説が演劇の一部のようにして上演されたとある。
上演回数はマチネーを入れて3日で4回、萩尾のリポートによれば、ロンドン・タイムズには 「日本の演劇はたいくつだと思っていたが、遊眠社を見てそれがまちがいだとわかった」 と伝えられていたとのこと。日本の演劇としてイギリス人が連想していたのはたぶん日本の伝統演劇のことだと類推できるが、萩尾自身も 「私も、数年前初めて遊眠社を見たときは、写実絵画を見慣れた目にいきなりキュビズム絵画がとびこんできたぐらいのショックがあった」 と書いている。
萩尾のマンガ『半神』を戯曲化して遊眠社により上演されたのが1986年、つまりこのエジンバラ公演の前年であるが、wikiを見ても初演時の配役さえ記載されていない。演劇が風化しやすいという私の主張はこのへんからもうかがい知ることができる (ちなみに初演は当時のチラシによれば竹下明子、円城寺あやなど。劇場は本多劇場であるが、残念ながら私はこの初演は見ていない)。

《贋作 桜の森の満開の下》の初演は1989年2月。野田秀樹、毬谷友子、上杉祥三、段田安則など (若松武が出たのは再演時である)。場所は日本青年館であったが、毬谷友子の夜長姫が美しかったことを記憶している。遊眠社の最高傑作は《ゼンダ城の虜》または《小指の思い出》であると私は思っているが、この《贋作 桜の森の満開の下》も記憶に残る優れた作品である。
その日、日本青年館のロビーで私は萩尾望都とすれ違ったが、誰も彼女が誰か分かっている人はいなさそうだった。そんな時代だったのかもしれない。


贋作 桜の森の満開の下 (1992年2月/再演)
https://www.youtube.com/watch?v=OuCtJMnRjHk
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下水のにおいとジャズの死 —《上海バンスキング》のメモ [シアター]

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串田和美、吉田日出子、笹野高史 (L to R/bookandbeer.comより)

井上陽水が1979年にリリースしたシングルに〈なぜか上海〉という曲があるが、同時期にオンシアター自由劇場の大ヒット作《上海バンスキング》という作品がある。この頃、なぜ上海だったのか、というのが私の素朴な疑問である。単純にそのノスタルジックでややあやしげな都市名とそれから連想されるなにかが流行だったのだろうか。

《上海バンスキング》は斎藤憐によって書かれた戯曲で、1836年、日本の軍国化を嫌ったジャズメンが上海に逃れて楽しくジャズをやろうとする物語なのであるが、やがて日中戦争が始まり、上海の自由な租界は潰えて、悲劇的な結末となる。

記録によると《上海バンスキング》の初演は1979年とあり、翌1980年の『新劇』3月号に戯曲が掲載されたことになっている。
だが上海といえば、それに先行する戯曲として佐藤信の《ブランキ殺し上海の春》がある。この作品は喜劇昭和の世界3『ブランキ殺し上海の春』として1979年に刊行されているが、戯曲にはブランキ版と上海版があり、同書によれば最初のかたちであるブランキ版が上演されたのは1976年11月、そして上海版が1979年5月となっている。

佐藤信と斎藤憐とはもともと自由劇場という同じ劇団に所属していた。それが演劇センター68/71となり、そして斎藤はそこから別れて串田和美、吉田日出子などとオンシアター自由劇場を結成した (正確にいえば最初は 「自由劇場」 で 「オンシアター」 という言葉が後から追加された)。
68/71が比較的硬派で政治的側面を持っていたのに対し、オンシアター自由劇場はエンターテインメントな演劇を目指していたともいえる。しかし、この同時期に上海というキーワードが並立したのは、佐藤信に対する斎藤憐のレスポンスと思えなくもない。
ブランキ殺しは一種のアナザー・ワールド的な構成をとっており、そこにルイ・オーギュスト・ブランキという悲劇の革命家をシンボルとして嵌め込んだユニークな作品であるが、《上海バンスキング》のほうが大衆に受け入れられやすかったことは確かである。
尚、同時期に、上海という名詞を含んだ作品として、寺山修司の映画《上海異人娼館 チャイナ・ドール》(1981) がある。

68/71も初期の自由劇場も、その音楽は林光と密接な関係があったが、《上海バンスキング》では越部信義が音楽を担当している。越部の最も有名な作品は野坂昭如作詞による〈おもちゃのチャチャチャ〉であろう。

《上海バンスキング》上演における特徴のひとつは、劇団員がバンドマンとなって実際に楽器を演奏したことである。別にプロのプレーヤーだったわけではなく、シロートだった人たちがなんとかジャズバンドのかたちにまで演奏の腕を上げた。もちろん最初は散々な出来だったのかもしれないが、そのナマ演奏の迫力というのはなにものにもかえがたくて、しかも次第にその演奏はこなれていったのだと思える。特に笹野高史のトランペットはとても味があった。
また、吉田日出子の歌唱は1930年代に活躍した歌手・川畑文子を模倣したものであることは久生十蘭の記事ですでに触れた (→2012年05月03日ブログ)。
そして《上海バンスキング》は2010年まで、劇場をかえて繰り返し上演されていた。

《上海バンスキング》の悲劇的な最後は、音楽がなにも救ってくれないことの暗示でもある。ひとりは阿片におぼれて廃人となり、もうひとりは召集されて戦争では死ななかったのに帰還する途中で死んでしまう。上海の街の下水のにおいは自由なあこがれの匂いから死臭を思い起こさせるにおいに変わる。
そして戦争の暗い影のなかで、彼らのやりたかったオールドファッションなジャズも時代遅れとなっていた。ビ・バップが擡頭してきた時期でもある。主人公たちはチャーリー・パーカーの演奏を聴いて 「これがジャズなのか?」 と嘆くのである。それは上海の死と同時に懐かしきジャズの死であり、そして彼らの死でもあったのだ。


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オンシアター自由劇場+博品館劇場/上海バンスキング
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正岡まどか (吉田日出子) &the上海バンスキング楽団/リンゴの木の下で
1994 (終演後、劇場のロビーで行われたライヴの様子である)
https://www.youtube.com/watch?v=xfoInIHogzA

ウェルカム上海 (5:30~頃から)
2010.03.07.
https://www.youtube.com/watch?v=H6CKSTqftC8&index=1&list=RD_Ra4iO9yIEI

川畑文子/上海リル (1935)
https://www.youtube.com/watch?v=zBw_VKosIus
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