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鹿島茂『子供より古書が大事と思いたい』 [本]

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気持ちはわかるのだが、このタイトルって何の工夫もなくそのままズバリなので、つまり 「身も蓋もない」 ということなのであって、思わずこれって大丈夫? と思ってしまう (わざとそうして効果を狙っているのでしょうが)。
さてそのタイトル通り、鹿島茂の現在の趣味というのが古書蒐集ということなのだが (収集じゃなくて蒐集という文字を使っているのがすでにマニアック)、その古書というのが普通の古書の概念とはちょっと違う。

フランス書には、フランス綴じとかフランス装という装丁に関する表現があって、「綴じ」 と 「装」 はもちろん異なるのだけれど、裁断もされないままの本をペーパーナイフで切り開きながら読むというのがその昔の本の読み方であって、これはなぜかというと、本というものは仮の装丁に過ぎず、その本を製本屋に出して自分好みの装丁にするというのが当時のブルジョアの習慣だったからである。基本的な装丁の素材は皮革で、モロッコ革が最もすぐれた素材だとのことである。
だから本の中身は同じでも、外見に関して、同じ見た目の本というのは存在しなくて、1冊1冊違うのである。厳密にいうと中身さえ同じではなくて、口絵があったりなかったり、こういうのも近年の一種の限定版というのがその手法の踏襲なのだけれど、CDの初回限定盤みたいなチャチなものとは全く次元が異なるのがわかるのだが、その洋書の古書蒐集という何ともマニアックなことについて書かれているのがこの本である。

冒頭のあたりで、SKという自分と同じイニシャルの、昔グループサウンズのメンバーだった某タレントへのシンパシィが語られていて、それはそのSKさんが日本の古書の収集家であるからなのだが、その人はマニアックさが嵩じて自己破産してしまったとのことで、でも洋書の古書というのは価格的にいって和書の古書の比ではない。つまりマニアックさということにおいて、簡単にそのタレントさんを凌駕している。

そして本というものは個人所有であるべきだということが語られているのが興味深い。稀覯本だからといって図書館とか博物館に入れられてしまうと本は死んでしまうというのである。

 図書館に入れられた本は同じ本でも生きた本ではない。本は個人に所有
 されることによってのみ生命を保ち続ける。稀覯本を図書館に入れてし
 まうことは、せっかく生きながらえてきた古代生物を剥製にして博物館
 に入れるに等しいことなのだ。(p.15)

この感覚は何となくわかる。公共のものとなった途端、それは何らかのかたちを失う。品位なのかもしれない。だが同時にその感覚がスノッブであることも確かだ。そしてそうした古書をカタログで眺めていても、実際に入手してみると何かが違っていたりして、究極はフランスの古書店に行ってしまうことだというのだが、そのフランスの古書店なるものが、もうとんでもない状況と環境なので、読んでいるうちにこれってホントなのかな、とまで思ってしまう。でもたぶん本当のことなのだろう。

本に使われる用紙にしても、よい用紙と悪い用紙があって、麻や亜麻から作られる上質紙は、一般にオランダ紙と呼ばれるのだそうで、長い年月で劣化するかしないかということに関しても用紙の果たす役割は大きいのである。

とはいえ、この本は全く参考にならない内容で、なぜならそんな高価な本を買う趣味も財力も私には存在しないからなのだが、そしてこの本の内容が参考になる人などほとんどいないだろうということにもかかわらず、そのマニアックさがとても面白い。これは持っている本の自慢話ではなくて一種の文化論でもあるのだが、フランスと日本の本というものに対する認識の違いというのもよくわかる。
鹿島茂はそういう稀覯本を買いたいがために自分の本を書いてその印税をその費用に充てるのだとのことだが、そんなに印税って入るものなのかという疑問はさておいて、最近の鹿島茂の本には『「失われた時を求めて」 の完読を求めて』というのがあり、なんとPHPから出版されているのだが、これも印税狙いの本なのだろうけれど、今読んでいる最中です。ともかく最近の鹿島先生は面白過ぎます。


鹿島茂/子供より古書が大事と思いたい (青土社)
子供より古書が大事と思いたい

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深緑野分『オーブランの少女』 [本]

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『ベルリンは晴れているか』の作家、深緑野分のデビュー作『オーブランの少女』の文庫の再版が平積みになっていたので購入。異なるデザインのカヴァーが二重に付いているのがなぜだかわからないのだが、ともかく読んでみる。短編が5つ、最後のは少し長め。ミステリとして創元推理文庫から出されていることに意味がある。

タイトルの 「オーブランの少女」 は、おそろしく美しい庭園の風景と状況設定の中で、おそろしく凄惨なことが起こるというその落差が鮮やかである。とざされた環境の中で暮らす少女たちは、皆、マルグリット、オランジュ、ヴィオレットといった花の名前で呼ばれ、そして皆、腕にリボンをつけている。登場人物がすべて日本人ではないこと、次第に明らかになるナチとレジスタンスとの関係など、題材としては『ベルリンは晴れているか』の原型ともいえるし、ミステリというより幻想小説的テイストもあるのだが、でも実はリアルで、シビアで、骨太で、一種の反戦小説的様相を帯びている。
これが深緑野分の最初に書いた作品だということだが、その完成度はあり得ないほど高い。解説によればダフニ・デュ・モリエの『レベッカ』(1938) のイメージに触発された部分があるとのことである。
オーブランは 「白」 のフランス語 blanc を地名に使いたいという意図が最初にあり、aublancとしたとのこと。タイトルの Les Filles dans le jardin aublanc から私はモーリス・ルブランの La Demoiselle aux yeux verts を想起する (関連性はないけれど)。

「仮面」 は20世紀初めのロンドンが舞台。イギリスはコナン・ドイルに象徴されるミステリ格好の舞台であるが、その暗い陰湿さから私が連想したのは、もっと前の時代設定であるけれど、ディクスン・カーの『ビロードの悪魔』の雰囲気であった。
フレンチ・カンカンの狂躁に揺れるキャバレーという、ロンドンに持ち込まれた異質のもの、そしてそうしたものは粛清されたかのように死を迎えるという結末も懐かしきイギリス風味だが、端役だと思っていた人物が実は主人公 (というか話の中心人物) であったという 「外し方」 のテクニックもニクい。

「大雨とトマト」 は大雨の日に安食堂にやって来た2人の客と店主との心理的な変化、というよりむしろ店主の妄想を描いた掌編。孤島とか人里離れた建物などの閉鎖空間に閉じこめられる設定はミステリの王道の舞台のひとつだが、最後にちょっとした種明かしがあるのが洒落ている。

「片想い」 は昭和初期の東京の女学校の寄宿舎を舞台とした作品で、ストーリーの基本となるのは 「エス」、つまり女性の同性愛である。記号論的に大島弓子を連想させる構造であるように思う。
文通という行為が手紙のトリックに使われ、ミステリ風味としての重要な意味を持つが、こうした方法を使ってまで擬装工作するのだろうか、という現実論を超えていかにもミステリらしい論理で愉しませてくれる。このトリックは何かで読んだような記憶があるが、はっきりとした確証がない。解説によれば皆川博子の『倒立する塔の殺人』へのオマージュがあるとのことである。
【以下の部分、これから読もうとする場合、ネタバレがありますので飛ばしてください】
尚、本文にも解説にも書かれていないが、「たまき」 (TaMaKi) という名前と 「ともこ」 (ToMoKo) という名前は、子音が同一であるところに伏線がある。

「氷の皇国」 は文庫本総ページ数の3分の1を占めている作品。未知の極寒の地を舞台にしたミステリ+ファンタシィである。吟遊詩人が語った話という設定で、紗のかかった奥行きを感じさせる導入も良い。寒冷な貧しい土地、恐怖政治、そして残酷描写はこの著者の特質かもしれなくて、そこから醸し出される風景は、だが映像的で美しい。そして貧しい国の権力者ほど驕奢に溺れるものである。「オーブランの少女」 のミオゾティス、そして本作のケーキリアのような冷たい印象の大人びた少女が深緑野分のヒロインのパターンのひとつのようにも思える。
唐突に出現する名探偵という展開は 「仮面」 に似ていて、でもそれよりは説得力で優っている。著者がこうした構想を元として、もっと長大な作品を書くかもしれないと解説にある。「オーブランの少女」 から発展した『ベルリンは晴れているか』のように、構築性に満ちた長編を期待したい。


深緑野分/オーブランの少女 (東京創元社)
オーブランの少女 (創元推理文庫)




深緑野分/ベルリンは晴れているか (筑摩書房)
ベルリンは晴れているか (単行本)

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虚ろなリアルあるいはカルメン・ミランダという時代 ― 今福龍太『ブラジル映画史講義』を読む [本]

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この本でとりあげられている映画は、ある時代――つまりブラジルにおける映画産業の創生期から隆盛に至るまでの歴史であり、映画というものに存在する思想性と、それがその時代にどのように反映されてきたかという視点から書かれている考察である。
実は昨年、途中まで読んでいたのだが、かなりヘヴィで、というか内容が濃くて中断したままになっていた。だが気になっていた固有名詞があって、それはカルメン・ミランダである。もちろんその映像を今まで観たことはなかったし、映画史という観点の下で 「ああ、そういう人がいたのか」 という程度の、文字情報から受けるいわば抽象的な印象でしかなかった。ところがYouTubeでふと実際の映像を観てみたら 「これって何?」 というような、文字だけではわからない強烈な外見とパフォーマンスに驚いた。言葉が不適切かもしれないけれど、それは現代の目から見ると露悪趣味というか、むしろグロテスクで、こうした映像がその当時流行して大ヒットしていたということに対して半信半疑になってしまったのである。

カルメン・ミランダ (Carmen Miranda, 1909-1955) は、1929年、20歳のときサンバ歌手としてデビューしたが、24歳で映画デビューを果たし、シャンシャーダ・スターとなった。シャンシャーダ (chanchada) とは 「ハリウッドのミュージカル映画を模倣したブラジル独特のミュージカル・コメディ」 とのことである (p.106)。
しかしそれだけにとどまらず、彼女は1939年アメリカの舞台にデビューし、翌1940年、ハリウッド映画に出演するようになった。アメリカに進出したというよりはアメリカに引き抜かれたというほうがニュアンスとして正しいのだろうか。アメリカ人にとっては、彼女の醸し出すエキゾチシズムとそのラテン的セックス・シンボル性が魅力だったのだろう。それにその当時のブラジルには、シャンシャーダかメロドラマ (いわゆるソープオペラ) しかなく (p.180)、映画あるいは映像という媒体の後進性とアメリカへの憧れがその根底にあったのだろうと思われる。

カルメン・ミランダはハリウッドで大成功し、彼女の邸宅はまるでブラジル大使館のようであったという。しかしブラジルの、初期の頃からのファンは、そうした彼女の変節をよく思わなかった。それはアメリカナイズされたミランダへの批判となる (p.166)。そして戦後、アメリカにおけるラテン的幻想は崩壊し、彼女の人気も凋落する。だが彼女は大人気の頃のイメージを執拗に劣化コピーし続け、それは次第にギャグと思えるような様相を呈したが、そうした中で1955年急死する。
死んだ途端にブラジル人は彼女の死を悼み、その遺体は熱狂的歓迎でブラジルに帰還したのだという (p.166)。しかしアメリカ人は、ハリウッド映画の中のミランダが本当のカルメン・ミランダだと主張し、ポルトガル人は、彼女はもともと生粋のポルトガル人であったことを主張したのだという (p.137)。

そのカルメン・ミランダをそれと認識できる最もわかりやすい記号がバナナの帽子である。トゥッティ・フルッティ・ハット (Tutti Frutti Hat) と呼ばれるその帽子はバナナの房がたわたにみのっているかたちをした巨大な被り物であり、ラテン的幻想を発散させるためなのだとしても、なぜそんな不格好で不安定なものを頭に載せなければならないのか、印象としてはむしろ不吉であり、グロテスクである。バナナだけでなくいろいろなフルーツのヴァリエーションが存在する。
だが映像全体から受けるのは、そのグロテスクを中心とした一種のパラダイス的な幻想を作り出そうとしている意志で、ミランダの子分のような多数のバナナを連想させる娘たち、その裏に感じられる男性にとっての楽園幻想のようなシチュエーションによる性的な暗喩、こういうのが求められたのはその時代、つまり1940年代という状況的不安に対する現実からの逃避という一面があったのかもしれないとは思う。

しかしバナナには単なるトロピカルなエキゾチシズムを示す意味でのアイコンというだけでなく、バナナの持つ政治的な記号性があるのだと今福龍太は指摘する (p.153)。
1898年、米西戦争にアメリカは勝利し、プエルトリコ、キューバ、フィリピンといった土地を手に入れ、ハワイを併合した。そうした中で翌1899年にユナイトッド・フルーツ社を設立する。バナナとはもともと赤い色だったのだが、それを黄色くして、しかも甘くしてデザートとしてのバナナに品種改良し、そうしたバナナを南米の小さな国につくらせることによって利益を搾取するという目的で設立されたのがユナイテッド・フルーツ社なのだという (p.155)。ユナイテッド・フルーツは現在のチキータ・ブランドであり、そのシールにはミランダのような帽子を載せた女性の絵が描かれている。
たかがバナナではなく、バナナだけで政治が動いていた。バナナを運搬するためのインフラ (鉄道、道路、港湾、電話など) を支配すれば、バナナで事実上その小国を乗っ取ることができたのである。

 バナナというものは、アメリカとラテンアメリカの不平等な搾取の関係
 を象徴する果物です。(p.163)

と今福は書く。それはカルメン・ミランダに対してアメリカがどのような処遇をしたかの説明である次の部分、

 アメリカ映画産業によってカルメン・ミランダというイメージがいかに
 搾取され、濫用され、消費され、最後にはそれがいかに捨てられていっ
 たか。(p.132)

ということに重なる。つまりバナナというアイコンは被-支配の記号に他ならない。そのことを知らずか、あるいは知っていたけれど知らないフリをして、自分の記号として使用したのがカルメン・ミランダなのである。

今福がこの本でとりあげているのは《バナナこそわが職務》(Banana is My Business, 1995) というヘレナ・ソルバーグ監督によるドキュメンタリー映画であるが、ソルバーグには 「カルメン・ミランダをもう一度ブラジル人の手に取り戻したい」 とする意志が働いていると指摘している (p.136)。
私から見れば、カルメン・ミランダが最も素晴らしいのは、バナナの被り物より以前に、素朴なサンバ歌手でいた頃の彼女である。だがバナナ帽子の時代が長く、かつ印象的であるために、レコードやCDジャケットなどではそのバナナ帽子の姿が彼女の総体を表しているようになっているのが彼女の不幸である。

ミランダの章の最後にカエターノ・ヴェローゾの歌への言及がある。彼のデビュー・アルバム《カエターノ・ヴェローゾ》(邦題:アレグリア・アレグリア、1968) の冒頭曲〈トロピカリア〉の歌詞の中にミランダという言葉があらわれる。
そのリフレインはヴィヴァ何々、という具合に言葉を換えて繰り返され、

 Viva a bossa-sa-sa
 Viva a palhoça-ça-ça-ça-ça

そして最後にヴィヴァ・ア・バンダ・ダ・ダ、カルメン・ミランダ・ダ・ダ・ダ・ダとなって終わる。最後にカルメン・ミランダがあらわれることは重要である。

他にもネルソン・ロックフェラーのOCIAAの意図とか、ディズニーの人種差別的イデオロギーに関しての解説など、そしてそれに対比するようなオーソン・ウェルズのことなど、示唆される内容は多岐にわたっているがそれを書くときりがないので割愛する。
また最初の章のマルセル・カミュの《黒いオルフェ》(1959) に関する解説でも、その作品の功績について述べながらも、グラウベル・ローシャが 「楽天的でロマンティック過ぎる」 と批判していることを書いている。ファヴェーラ (都市の周辺に広がる貧しい居住区) はそんなに楽天的に描かれるべきものではないというのだ。
だがそうした難点はあるのかもしれないのにかかわらず、今福は次のようにいっている。

 文化というものが表現されるとき、素朴に信じられている 「実体」 とし
 てストレートに提示されることはありえず、必ず誰かの手や何らかのシ
 ステムが介在するなかで 「再提示」 されるものとしてしか存在しない。
 それは必ずしも否定的なことではなく、私たちが文化的表現についてよ
 り深く考えてゆくときの、基本的な立場です。(p.11)

異なる角度からの複数の視点によって、そのものを次第に客観的に見ることができるようになる。それは異なる角度だけでなく、異なる時代とか異なる地域であってもよいはずだ。カルメン・ミランダのバナナ帽子は現代から見ると陳腐でグロテスクでしかないが、それが美学として認知されていた時代があったということが、人間の思考にどれだけのヴァリエーションが存在するのかということをあらためて認識させてくれる。つまり価値判断というものは不変ではなく、相対的なものでしかないということに他ならない。


今福龍太/ブラジル映画史講義 (現代企画室)
ブラジル映画史講義: 混血する大地の美学




The Lady In The Tutti Frutti Hat
https://www.youtube.com/watch?v=TLsTUN1wVrc

Carmen Miranda/Coração
https://www.youtube.com/watch?v=4SBRYQYTQtk

Caetano Veloso/Tropicalia (live)
https://www.youtube.com/watch?v=WwfwRULbSA8
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里中高志『栗本薫と中島梓』を読む [本]

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豹頭の戦士グインかぁ……そういうの、あったなあ。なつかしい香りがする。本の帯には 「没後10年/グイン・サーガ誕生40年/記念出版」 とある。
栗本薫/中島梓 (1953-2009) は早川書房の文庫における長篇ヒロイック・ファンタジィ『グイン・サーガ』で知られるが、2つのペンネームを使い分け、栗本薫では主に小説を、それ以外の評論等では中島梓名義で膨大な著作を残した。
これは彼女の評伝であり、里中高志は関係者に綿密に取材し、その一生をシンパシィをもって描いている (以下、栗本/中島の名称は中島梓で統一することとする)。

この本の中で最も衝撃 (でもないが) を受けたのは中島梓の発言だという次の個所である。

 「最初、文壇は自分たちのフィールドの人間として、私に好意的だった
 と思います。しかし、栗本薫の名で作家として仕事を始めると、はっき
 りしているのは確実に無視されること。取り上げられるのは匿名批評に
 よるからかい、嘲笑だけ。著書が約百冊という栗本薫のキャリアも、文
 壇から見れば無いようなもの。新人賞以来鳴かず飛ばずの新人評論家と
 しか扱われない」 (p.304)

そういうことってあるのかもしれない、と思う。そもそもSFとかヒロイック・ファンタジィというジャンルは、アメリカのパルプマガジンの生み出したもので、それらは大量に生産され、消費され、忘れ去られてゆくという経緯を辿るのだ。すぐれた作品もあったのかもしれないが、俗悪で性的でステロタイプな作品がその何層倍もあった。日本の大衆小説は通俗小説とも呼ばれ、パルプマガジンと同様に消費されてしまうものであり、文壇という権威があるのだとすれば、そこからは一段低いものとして認識されているのかもしれない。海外における 「ペーパーバック・ライター」 という形容は一種の差別用語であり、それは当初から文庫本として出版された『グイン・サーガ』に通じる。日本における文庫本は、すなわちペーパーバックだからである。
中島梓の慨嘆は、内容こそ少し違うけれど、かつて筒井康隆が言っていたことに通じる。

でもそれは仕方のないことではないかと思う。すべてをひとつのヒエラルキーの中に統合しようとするから無理が起こる。エンターテインメントとはそういうもので、それは文学だけに限らない。ヒエラルキーに厳密に階層分けされ、順位をつけられるものではない。そうしたジャンル分けは次第に崩れつつあるが、でも依然として存在している部分もあるのかもしれない。たとえば団鬼六とか、山田風太郎とか、そうした人たちは 「自分のことを文壇は正当に評価しない」 などとは、たぶん言わなかったのではないかと思う。そのように 「ふっ切れる」 かどうかが問題なのだ。
文芸作品に高級/低級とか、上品/下品などという区分けは存在しないと私は思う。それは幻想に過ぎない。かつて海外小説に 「教養小説」 という分類があったが (今でもあるのだろうか)、その 「教養」 という言葉はもはやギャグでしかない。

いきなり一般論のようになってしまったが、話を中島梓に戻すと、幼い頃からの文才とそれにまつわる逸話、そして評論家・作家としてのデビューから旺盛な執筆活動のことは今までにも聞いた話である。幾らでも淀みなく書けること、そのフィールドの広さなど、才能があふれるばかりという形容はもはや神話の領域なのだ。
だが演劇や音楽にまで手を広げたことを私はあまり知らなかったが、そこでそれまでの破竹の進撃 (?) から少し翳りが生じたようにも感じる。
またプライヴェートにおける不倫を越えての結婚、そして今まで全く知らなかったことだが、障がいを持った弟がいたこと、そこから生じたコンプレックスがあったことなどについては、いままで謎だった部分がつながったような気もする。

中島梓のかかわった演劇を観たことはないし、音楽活動についても、複数のバンドによるフェスティヴァルのような場に出演していたのを一度だけ聴いたような記憶があるが、内容は全く覚えていないので、もしかすると単にステージに出て来て挨拶をしただけだったのかもしれない。
つまり演劇や音楽活動についてはこの本に書かれていることから伝聞推定するしかないのだが、特に演劇についてはかなり混沌とした印象を受ける。時代がそうした混沌を受け入れていた頃だったから成立していたものだったようにも思える。

だがそのような、空間に消えてしまったものについては追認のしようがない。とすれば検証できるのは、文字となって残されているものである。
彼女が速書きだったことは有名であり、言葉があとからあとからあふれて来るのでそれをただ書き記しているだけとか、指定された文章量に合わせて、訂正することもなく書き、原稿用紙の最後のマス目にぴたりとおさまるとか (まだ手書きの時代なのだ)、まさにそれは神話である。
だが、名前を失念してしまったが、アメリカのSF作家で、朝、オフィスに出勤し、タイプライターに向かって仕事開始、規則的なタイピングの音が途切れなく続き、止まることなく書き続け、9時/5時で小説を書いていた人とか、神話とは意外にあまねく存在するものでもある。

といって別に私は中島梓について否定的に語っているわけではない。そのストーリーテリングの巧さや、わくわくするような、まさにセンスオブワンダーなシチュエーションにハマッて読み続けていた頃があった。
彼女が子どもの頃から大量の読書をしていたということには共感できるし、その読む本を幾らでも買い与えられていた裕福な家庭であったということに対しては羨望があるばかりである。

中島梓が群像新人賞 (評論部門) をとった『文学の輪郭』は1977年だが、その前年、1976年の群像新人賞 (小説部門) は村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、そして1979年の群像新人賞 (小説部門) は村上春樹の『風の歌を聴け』であり、この一連の流れは、時代を象徴しているのではないか、ということである。(p.175)
そして『文学の輪郭』の翌年である1978年に中島梓は『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞をとるのであるが、『ぼくらの時代』は、主人公の名前も含め、庄司薫を連想させると私は思うのである。つまりそのテイストは 「この時代の一連の流れ」 ではなく、やや古風である。表面的にライトな擬装がなされているだけである。
だが今となっては、どの時代も同様のセピア色に変わってしまっているので、その時代性の微妙な色分けを峻別する手がかりは無い。

もうひとつ、中島梓の作品の特徴として、ホモセクシュアルな世界への執着・耽溺があげられる。俗に 「やおい」 などと呼ばれ、最近ではBLとか、種々の称呼があるが、厳密に考えればホモセクシュアル (≒ゲイ) と 「やおい」 は異なるものであり、男性の同性愛を描くことによって、女性の性的葛藤あるいは欲望から逃れているような、免罪符的働きをしているのが 「やおい」 のようにも思う。
萩尾望都、竹宮惠子といった24年組を中心とした少女マンガ家によって一気にそれがメジャー化した時期があったが、萩尾と竹宮でもそのアプローチには違いがあるし、単なるトレンドとしてのエピゴーネン的なフォロワーもいたのではないかと思える。

また、その表象としてコミック誌『JUNE』(1978年創刊。創刊当時はJUNだったが、たぶん大手アパレルからのクレームがあってJUNEになったのではないか) があげられる。雑誌全体がいわゆるBL的であり、出版社はサン出版である。創刊号に掲載された 「薔薇十字館」 という短編小説はジュスティーヌ・セリエ・作、あかぎはるな・訳、竹宮惠子・イラストとあるが、ジュスティーヌ・セリエというのはボリス・ヴィアン的フェイクであって、中島梓のペンネームであるとのこと (p.205)。つまり中島梓と竹宮惠子のタッグによって、この雑誌は先導されてゆく。

少年愛・同性愛的な要素への興味を中島梓が持ったのは森茉莉の『枯葉の寝床』であったという。だがその当時、それは文庫には入っておらず、彼女にとって幻の本であって、入手するまでに3年かかったのだということである (p.97)。その出会いのことは『森茉莉全集』第2巻の月報に収録されている、とある。

そしてBL物の小説として、まずあげられるのが『真夜中の天使』である。これは何度も書き直されたりして、幾つものヴァリエーションがあるということを初めて知ったのだが、基本的に今西良という美少年が主人公になっている小説で、そのストーリーは暗い。
それと、これはあくまで私の感覚なのであるが、今西良というネーミングが’すでに古い。でも逆にいうと、その、ややくすんだ色彩こそが中島梓の世界なのかもしれないとも思うのだ。

1975年にTBSTVで《悪魔のようなあいつ》というTVドラマがあり、その主演は沢田研二、役名が 「可門良」 だったので、そこからの発想ではないか、といわれると納得できる (p.145)。私はそのドラマを知らないが、当時の、たぶん絶頂期だった沢田研二からインスパイアされたイメージをそのまま使ってしまうミーハー度においては、中島梓と森茉莉は似ている (森茉莉は『ドッキリチャンネル』という著作にも見られるように、非常に偏向したミーハーでもあった)。そして暗いというよりも退嬰的な設定において両者は似ているが、つまり森茉莉からの影響を自分なりに変奏して作品に呼応させたということなのだろう。

私はこの本の著者である里中高志のように熱心な中島梓の読者ではないし、熱心に読んでいた時期もあったがそれは過去のことで、だからニュアンスはつい過去形になってしまう。
過去形になってしまった原因には2つあって、ひとつは《キャバレー》という映画であった。これは1983年に上梓された原作を角川春樹が監督した作品であり、中島梓の責任は薄いのだが、繰り返し出てくる〈Left Alone〉のメロディがあまりにも多過ぎて陳腐で、これはきっとジャズを聴き始めたばかりの人のセンスだ、と思ってしまったことにある。音楽とはほどほどに使うのが良いのであって、鼻についたらおしまいである。
リュック・ベッソンの映画《レオン》(1994) はそのエンディングにスティングの歌〈Shape of My Heart〉が流れるが、あらかじめエンディグ・ソングとして想定されたものであるとはいえ、その印象は鮮烈である。ずっと押さえていて最後に出すからこそ効果的なのだ。映画音楽にはここぞというポジションがあるべきだ。

もうひとつは彼女の代表作である『グイン・サーガ』で、読み始めたとき、その面白さは群を抜くものであった。次がすぐに読みたくなる渇望度は池田理代子の『ベルサイユのばら』に似る。
だが『グイン・サーガ』が何十巻か経ったところで、それがどこだったか、どんなシーンだったのかも忘れてしまったのだが、「ちょっとこれはどうなの?」 という個所があって、そこで私の読書は止まってしまった。中島梓は出版時、ストーリーの中での矛盾に対する、いわゆるファクトチェックには応じていたが、「文体とかには一切触れさせてもらえませんでした」 (p.265) というスタッフの発言があるが、私が引っかかったのはおそらくその文体についてであったと思う。

でもだからといって中島梓の独創性がそがれるわけではない。その時の夢、その時の幻想にだけ輝き、やがて褪せてゆく小説があってもよいと思うのである。それはかえってその時代、その状況を伴って思い出される性質の記憶であるからだ。
たとえば (以前の記事にも書いたが) 寺山修司の演劇がそうである。その戯曲を読んでも、劇評にあたっても、残された映像を観たとしても、それでは補いきれないものが多過ぎる。そして寺山修司が存在しないと寺山の演劇は存在しない。まるで主人を欠いた宏壮な邸のように。
その時代にシンクロしていないと輝かないものがある。それが 「流行」 というものである。たとえば小室哲哉の一連の音楽がある。アーカイヴから解凍しても元の新鮮さは戻らない。たとえば東京キッドブラザースもそうなのかもしれない (私はほとんど知らないが)。

永遠に残るものがよいとは限らない。なぜなら人間自体が永遠に残るものではないからだ。残るものは美化されるが、やがて風化し、そして朽ち果てる。それよりももっと軽いスパンのものが 「流行」 であり、だから流行は刹那的であり、流行作家も刹那的だ。主人となるものは時代であり、人間はそれに引っ張られているだけの従属物であり端役に過ぎない。


里中高志/栗本薫と中島梓 (早川書房)
栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人

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鴻巣友季子『翻訳ってなんだろう?』を読む [本]

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Margaret Mitchell (1900-1949)

NHKの《100分de名著》の放送の中にマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』があって、その講師が鴻巣友季子だった。『風と共に去りぬ』というのは大ベストセラー小説であるだけでなく、映画としても有名で、原作も以前読んだことはあったけれど、もうほとんど忘れているし、正直にいうとストーリーは波瀾万丈だけれど通俗なのではという先入観もあったはずである。

だがNHKサイトの鴻巣友季子の解説コラムを読んで、そうした先入観は打ち破られてしまう。先入観というよりも今まで気がつかなかった視点だ。それは次の個所である。

 『風と共に去りぬ』という作品に言葉の当事者として関わっていくなか
 で、初めて気づいたことがいくつかあります。一つは、この作品が持つ
 高度な文体戦略です。これについても、このテキストで解説していきま
 す。本作について、その歴史的背景や社会的意義を掘り下げた研究書は
 数多くあるのですが、ミッチェルのテクストそのもの――彼女が織り上
 げた巧緻 (こうち) な文章――を分析する評論は圧倒的に少ない。つま
 り、「何が書かれているか」 は存分に説かれてきたものの、「どのように
 描かれているか」 はあまり論じられてこなかったのではないでしょうか。

そして先日、買っておきながら読んでいなかった『翻訳ってなんだろう?』という新書版のその明快な翻訳に関する解説に、ある個所は何度も繰り返し読んでしまうほどの感銘を受けた。私には翻訳における細かいニュアンスの違いがわかるような理解力・語学力は無いが、このように説明されると、あぁそうなのかと納得してしまう。
もうひとつ、目からウロコだったのは前述解説コラムの次の個所である。

 わたしは2015年に『風と共に去りぬ』の新訳を刊行しました。一般的
 に翻訳とは、外国語を日本語に移して 「書く」 作業のことだと思われて
 いるようです。しかし実は、翻訳では原文を的確に 「読む」 という部分
 が作業の九割くらいを占めると私は考えています。読んだ上で、自分の
 言葉で再創造する。ここが一般の読者と異なる点で、翻訳者は原作者の
 「言葉の当事者」 にならなくてはなりません。そのため、わたしは常々、
 翻訳を 「体を張った読書」であると表現しています。

これは例えば澁澤龍彦が言っていたとされる 「翻訳はその言語に堪能なのではなくて、日本語がうまいからだよ」 というのとは全く逆である。もっとも澁澤はある種の衒いでそう言っていたのだろうけれど、鴻巣は『翻訳ってなんだろう?』では、もっとはっきりと書いている。

 翻訳でいちばん重要なのはいかに読むかで、わたしは翻訳講座などでも、
 「日本語力」 「文章センス」 はそんなに求めません。翻訳でそういうもの
 が役に立つとしたら、十割のうち最後の一割くらいのものでしょう。
 (p.16)

本書の内容は名作の一部をどのように訳すか、その翻訳講座における過程を説明した後でその解説、あるいは解答があり、さらに最後に鴻巣訳例が載っているという構成で、柴田元幸の翻訳講座にも同様のものがあったが、面白いけれどむずかしいという点では共通している。
ただ、鴻巣がここでとりあげているのは比較的有名な作品ばかりなので、翻訳のテクニックに関してわからなくても、ある程度納得して読み進むことができる。
とりあげられているのは『赤毛のアン』から始まって、『不思議の国のアリス』『嵐が丘』『アッシャー家の崩壊』『ライ麦畑でつかまえて』と著者名など書かなくてもわかるような作品が続くが、印象としてだんだんと難しくなってゆく。

『赤毛のアン』の、

 it would by best to have a beautiful bosom friend.

のbosomという言い回しの古風さ、bosomは胸という意味を持つが、breast, chest, bustなどより古風で、西ゲルマン語からの言葉であるという。つまり普通には使われないけれど、アンが少し背伸びをして使っている言葉で、これを村岡花子が 「腹心の友」 と訳したのは、よくニュアンスを伝えていると鴻巣はいう。心の友、胸襟を開ける友というように訳してもよいとのことだ。(p.28)

トマスおじさんが食器棚として使っている本棚を壊してしまったというくだりの、

 Mr. Thomas smashed it one night when he was slightly
 intoxicated.

も同様で、intoxicated (この言葉はtower recordsの宣伝誌名で知っていた) も 「酔った状態」 をあらわしているのだけれど、drunkとかtipsyでなくintoxicatedという観念的・抽象的な言葉を使っているのは上等な響きがあり、それは以前の養家であったトマス家の人々をアンがかばっている、あるいは自分がおかれてきた悲惨な環境を恥じている、憐れまれたくない、というような自尊心から出てきた表現なのだとのこと。(p.32)
つまり簡単な言葉でもいいのに、そこにわざわざ小難しい言葉を使うことによって、アンがどのように屈折しているかがわかるというのである。(p.24)

ケイティ・モーリスに関する次の個所、

 I called her Katie Maurice, and we were very intimate. I used
 to talk to her by the hour, especially on Sunday, and tell her
 everything. Katie was the confort and consulation of my life.

でのthe comfort and consulationもまた同様であって、格調高い表現というよりも11歳のアンにとっては気張った表現であるだけでなく、the confort and consulationはcon-の頭韻 (アリタレーション) になっていて、さらにそれは

 This is my confort and consolation im my affiction: that Your
 word has revived me and given me life.

という聖書の詩篇からの言葉でもあり、つまりアンはそれを聞きかじって自分の言葉として使ったのだろうということなのだ。(p.36)

と、ここまで書いてきて、これでは簡単な感想を書こうと思っていたのにどんどん長くなっていくのに気がついた。最初の『赤毛のアン』にしてこうである。私が最も興味深く読んだのはヴァージニア・ウルフの『灯台へ』と、そしてもちろん、最後の章の『風と共に去りぬ』であるが、もうすでに息切れしてしまって、これだとそこまで辿り着けそうもない。
キャロルのas mad as a hatterとか、ブロンテの章におけるfancyとimaginationは違うという解説。サリンジャーのkind of, sort ofというホールデンの口癖、そしてand allという 「言い切りを避ける」 というのもよくわかる解説であった。「~みたいな」 「~だったり」 という言葉をあてているのにも納得する。私は野崎孝訳で読んだが、さすがに今の時代からすると言葉が古いのは仕方がない。でもその時代にはそれがリアルだったのだろう。
『高慢と偏見』の貴族階級のランク付けの表は、読んでもよくわからなかったけれど複雑過ぎて面白い。さすが階級社会の老舗である。

と尻切れとんぼに終わってしまうのであるが、とても濃密な内容の本であった。
『風と共に去りぬ』の新訳は鴻巣訳以外にも、荒このみ訳が出ていて、つまりこういうのが再評価の動きというのかなとも思う。


鴻巣友季子/翻訳ってなんだろう? (筑摩書房)
翻訳ってなんだろう? (ちくまプリマー新書)

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カニグズバーグ『クローディアの秘密』を読む [本]

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E. L. Konigsburg

E・L・カニグズバーグ (E. L. Konigsburg, 1930-2013) の『クローディアの秘密』は岩波少年文庫に収録されている有名な児童書だが、家出をしてメトロポリタン美術館に泊まるという面白い発想なのに引き込まれてしまう。
だが ”From the MIxed-up Files of Mrs.Basil E. Frankweiler” が原書のタイトルで、このままのタイトルだったら翻訳書としてはちょっと無理。『クローディアの秘密』と変えたのは鋭い。大貫妙子の〈メトロポリタン美術館〉(1984) という曲は、この小説を元ネタにしていて、NHKの〈みんなのうた〉で繰り返し流されている。〈ピーターラビットとわたし〉と並ぶ大貫妙子のかわいい曲の双璧である。

物語の冒頭、フランクワイラーという人の手紙文で始まるので、これは何? と思うのだが、それは結末で全てが明らかになる。家出という、本来なら暗い題材のはずなのに全然暗くない。その家出の理由というのがつぎのように書かれている。

 当のクローディアよりこのわたしにはっきりわかる原因もあったかもし
 れません。毎週毎週が同じだということからおこる原因です。クローデ
 ィアは、ただオール5のクローディア・キンケイドでいることがいやに
 なったのです。(p.11/漢字にふられているルビは省略。以下同)

でも家出をしてみじめな状態になるのは避けたい。だから街の中に隠れてしまおう。クローディアはそう考える。「家出をする」 のではなく 「家出にいく」 というのだ。

 クローディアは、町が大すきでした。町は優美で、重要で、その上にい
 そがしいところだからです。かくれるには世界でいちばんいいところで
 す。(p.13)

クローディアは入念に下調べして、3人いる弟の中で一番信頼できそうなジェイミーを仲間に引き入れて、ヴァイオリンのケースとトランペットのケースに下着を詰め込んで、2人で家出し、メトロポリタン美術館に寝泊まりする。ジェイミーを選んだのは、実はお小遣いを貯め込んでいて一番お金持ちそうだったからでもある。クローディアはもうすぐ12歳、ジェイミーは9歳。ふたりの会話はちょっと生意気だ。
メトロポリタン美術館はたいへんな入場者数で、その小説が書かれた頃は無料。いかにして警備員の目をかわして夜の間、美術館の中にい続けるかというクローディアの知恵が冴える。もっとも今だったら警備用の機器もあるし、こんなことはできるはずがない。そうした可能性が存在していた、のどかな時代だったのである。

家出のプランを主導したのはクローディアだが、お金を管理しているのはジェイミーで、クローディアがタクシーやバスに乗りたがっても、頑として拒否して歩くことを強要される。悪ガキなんだけれど、とても細かくて笑ってしまう。高いレストランには入らず、安そうな店に入って食事をし、昼は美術館に見学に来る小学生の団体にまぎれて、一緒に食事してしまう。
クローディアは家出をしても汚い格好になってしまうのが嫌で、2人は毎日着替え、でもヴァイオリンのケースやトランペットのケースがトランクがわりでは、服は幾らも持って来られなかったので洗濯する。貸洗たく機屋 (コインランドリーのこと) に行ってまとめて洗うと、白い下着がグレーになってしまう。あ~あ。でも、めげない。
噴水をお風呂がわりにして身体を洗っていると、ジェイミーが噴水に投げ入れられたコインを見つけて、しっかり頂戴してしまう。まぁつまり2人は、今だったら細かな犯罪になってしまう 「悪さ」 を重ねているわけだ。

 あらゆる種類の上品さのつぎに、クローディアが愛しているのは、よい
 清潔なにおいなのです。(p.65)

だが、最近美術館が安く買い入れて特別展示されているミケランジェロの作かもしれないという彫像にクローディアは興味を示し、それを調べるために図書館に行ったりして推理を巡らす。そしてその証拠を発見し匿名の手紙を美術館に出す。そこから話は急展開してフランクワイラーの話につながるのだが、フランクワイラー家を訪ねた2人は、家出をしていることを見破られ、そして2人の家出には終わりがくる。
フランクワイラーが2人を諭す言葉は、単に家に帰りなさいという意味だけでない重層的な意味を伴って聞こえる。82歳のフランクワイラーはクローディアにこう言う。

 「冒険はおわったのよ。なんにでもおわりがあるし、なんでもこれでじゅ
 うぶんってものはないのよ。あんたがもって歩けるもののほかはね。休
 暇で旅行にいくのと同じことよ。休暇で出かけても、その間じゅう写真
 ばかりとっていて、うちに帰ったら、友だちに楽しかった証拠を見せよ
 うとする、そんな人たちもいるでしょう。立ちどまって、休暇をしみじ
 みと心の中に感じて、それをおみやげにしようとしないのよ。」 (p.203)

フランクワイラーが言うのは彫像の真贋がどうなのかとか、それが金銭的にどのくらいの価値があるかなどということは 「もの」 の本質ではないということ。彼女の中でそれが真のものであるのならばそれでいいのだという、一種の諦念でもあるのだ。
さらに彼女はクローディアが、日々新しく勉強しなければならないという意欲に答えて言う。

 「いいえ。」 わたしはこたえました。「それには同意できませんよ。あん
 た方は勉強すべきよ、もちろん。日によってはうんと勉強しなくちゃい
 けないわ。でも、日によってはもう内側にはいっているものをたっぷり
 ふくらませて、何にでも触れさせるという日もなくちゃいけないわ。そ
 してからだの中で感じるのよ。ときにはゆっくり時間をかけて、そうな
 るのを待ってやらないと、いろんな知識がむやみに積み重なって、から
 だの中でガタガタさわぎだすでしょうよ、そんな知識では、雑音をだす
 ことはできても、それでほんとうにものを感ずることはできやしないの
 よ。中身はからっぽなのよ。」 (p.225)

クローディアやジェイミーには、フランクワイラーのそうした忠告はきっとまだわからない。貪欲な知識欲は若いときほど旺盛であるし、好奇心も強く働く。だがそれを自分の中で消化し整理して理解しなければ何にもならないということは年齢を重ねる毎にわかってくるはずだ。それをしみじみと感じる。
いつまでも吸収するだけでなく吐き出さなければならないということ、でもそうして繭を吐き出さないうちに人は死んでしまうのかもしれない。無駄に蓄積して使われないままの知識は、堆積した無数の書物やもう開こうともしない何冊もの写真アルバムと同じように、甲斐の無い忘却の海に沈む。

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The Met and Thomas P. F. Hoving
(メトロポリタン美術館の前に立つトーマス・ホビング。
彼はこの小説が書かれた当時のMetのディレクター)

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著者自身によって描かれた『クローディアの秘密』の挿絵


E・L・カニグズバーグ/クローディアの秘密 (岩波書店)
クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))




大貫妙子/メトロポリタン美術館
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21967891

大貫妙子/ピーターラビットとわたし (live)
https://www.youtube.com/watch?v=eltLkyzwUkQ
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ゴロウ・デラックス最終回 ― 沢木耕太郎 [本]

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毎週楽しみにしていたTBS深夜の《ゴロウ・デラックス》が3月28日で終わってしまった。毎回取り上げられる 「課題図書」 はヴァラエティに富んでいて、稲垣吾郎はきちんとその本を読んでいて、地味だけれどとても良質な番組だったのに残念である。本に対する興味だけでなく、たとえば吉本ばななの回を見て 「ポメラ、いい!」 と思ってしまったりするミーハーな私なのである (まだ買ってないけど)。

最終回は沢木耕太郎。課題図書の『銀河を渡る』は『深夜特急』後の25年分のエッセイを集めた内容とのこと。最終回らしい人選だが、こうした番組には今まで出たことがなかったという。
登場早々、出演した動機を聞かれて 「気まぐれ」 でというのに加えて 「分の悪い戦いをしてる人のところには加勢をしたくなる」 という。もちろん稲垣の立場に対する気持ちだが、続けて稲垣の主演映画《半世界》のことを褒めて相手の心を摑んでしまう。インタヴュアーとしてのテクニックは、さすがだ。稲垣と沢木、どちらがゲストなの? という感じに立場が逆転してみえてしまう。

外山惠理アナが朗読する。

 ノンフィクションを書くに際して、まずなにより大事なのは 「私」 とい
 う存在である。
 その 「私」 が 「現場」 に向かうことによってノンフィクションは成立す
 る。

そして、

 「好奇心」 が私を現場に赴かせる。

のだが、その好奇心には角度が必要なのだという。それはどういうことかというと、何か興味のあることがあってもそれは線が1本あることに過ぎなくて、何か別の興味が起こったときに2本目の線ができて、2本の線の交点ができる。そのように交点ができないと取材するとか書こうとする気にはならないのだという。
そのような動機を得て取材するとき、インタヴューのコツとして、相手を理解したい気持ちが大切なのだという。あなたのことを本当に理解したいのだというと、相手は一瞬ひるむが、ひるんだ後に心を開いてもらえれば、それは圧倒的に深い内容になるというのである。
SMAPにいたとき、どうだったの? と聞かれて、稲垣は 「独特な緊張感があった」 とも 「そのグループにいさせてもらっているという感覚」 「大企業に勤めているような感覚」 とも答えるのだが、すっかり稲垣が取材されてしまっている。

代表作である『深夜特急』に関する発言も興味深い。デリーからロンドンまで、バスで行くことができるか。しかも乗り合いバスで、と宣言したとき、それを支持してくれた人はほとんどいなかったという。そしてその旅が終わったら、そのことを書けるかと思っていたらなかなか書けなかった。メモではなく、手紙と金銭出納帳を資料として旅のことを書いたとき、その旅が身体のなかから消えていったという。それまではずっと身体のなかに重く残っていたのだそうである。
旅で一番重要なことは何か? それは 「人に聞くこと」 である。分かっていても聞く。尋ねて耳を澄ませて聞く。それによって人と人との出会いが生まれ、コミュニケーションが生まれるのだ。そう述べる沢木の主張は、インタヴューのコツのときに言った相手の心を開かせることと同じだ。

番組終盤、稲垣が最後の朗読として『銀河を渡る』に収録されている年長の作家との話を読む。

 「もし家に本があふれて困ってしまい処分せざるを得ないことになった
 としたら、すでに読んでしまった本と、いつか読もうと思って買ったま
 まになっている本と、どちらを残す?」
 「当然、まだ読んだことのない本だと思いますけど」
 すると、その作家は言った。
 「それはまだ君が若いからだと思う。僕くらいになってくると、読んだ
 ことのない本は必要なくなってくるんだ」
 齢をとるに従って、あの年長の作家の言っていたことがよくわかるよう
 になってきた。そうなのだ。大事なのは読んだことのない本ではなく、
 読んだ本なのだ、と。

そして話題はカポーティへと移って行く。

 先日も、書棚の前に立って、本の背表紙を眺めているうちに、なんとな
 く抜き出して手に取っていたのは、トルーマン・カポーティの 「犬は吠
 える」 だった。この 「犬は吠える」 において、私が一番気に入っている
 のは、中身より、そのタイトルかもしれない。
 犬は吠える、がキャラヴァンは進む――アラブの諺
 誰でも犬の吠え声は気になる。しかしキャラヴァンは進むのだ。いや、
 進まなくてはならないのだ。恐ろしいのは、犬の吠え声ばかり気にして
 いると、前に進めなくなってしまうことだ。
 犬は吠える、がキャラヴァンは進む……。

読んでいる内容だけでなく、稲垣吾郎の声はとても心地よい。この番組は終わってしまったが、また次の機会があることを期待しようと思う。

* カポーティはそのアラブの諺をアンドレ・ジッドから教えられた、とwikipediaにある。


沢木耕太郎/銀河を渡る (新潮社)
銀河を渡る 全エッセイ




ゴロウ・デラックス最終回 ― 沢木耕太郎
https://www.youtube.com/watch?v=BFEb8GupqoU&t=5s
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ほしおさなえ『三ノ池植物園標本室』を読む [本]

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小説でも映画でもそうなのだが、最初から最後まで読み通して (見終わって)、もう一度最初に戻ると、あ、そうなのか、と気づくことがある。ここに伏線が書いてあるじゃん、とか、ここはそういう意味だったのか、とか、要するに初見の導入部のときは緊張していて理解力がまだ目覚めて無いのだ。ニブいんだよ、と言われればその通りなんですけど。

この小説の主人公は大島風里 [ふうり]、ビルの20階にある会社に勤めているが、間違えて18階でエレヴェーターを降りたらそこはもぬけのカラの広々としたフロアで、ああ疲れた、と思わずフロアに横になったら夕方まで眠ってしまう。あわてて会社に戻って、しどろもどろに言い訳したが、もう退社時間。会社は昇給もなく、賞与もなく、有給もとれなくて毎日残業、昼休みもないほど忙しく、何より雰囲気が悪くて、どんどん人が辞めてゆく。何かこれダメだ、と思ってしまって、今後のことも考えず、風里は退職届を出して、会社を辞めてしまう。これからどうしよう。
そうそう、そんな会社辞めちゃっていいんだ、と納得しながら思い入れてしまう私がいる。

文庫本のカヴァーにはとても簡単で明快な要約がある。

 職場で身をすり減らし、会社を辞めた風里。散策の途中、偶然古い一軒
 家を見つけ、導かれるようにそこに住むことになる。近くの三ノ池植物
 園標本室でバイトをはじめ、植物の標本を作りながら苫教授と院生たち、
 イラストレーターの日下さんや編集者の並木さんなど、風変わりだが温
 かな人々と触れ合う中で、刺繍という自分の道を歩み出していく――。

風里の行動は、世間で言うところのドロップアウトなのだが、そんなに強い意志もなく悲愴感もない。古い家を見つけ、今住んでいるマンションより家賃が安いので、そこに引っ越すことにする。大学附属の植物園のバイトを見つけ、植物の標本づくりをするようになる。新聞紙の間に採集した植物をはさんで乾かすという、「押し花」 の要領だ。そして趣味の刺繍を再開する。
そのようにして新しい世界が広がってゆく。ほのぼのとした筆致で、これは理想郷の話なのかもしれないと思う。

でも、ほのぼのムードのままでは続かない。
それまで風里の一人称で書かれていた記述が 「4 星」 で突然変わる。語っている 「わたし」 は村上葉 [よう] という名の中学一年生。しかも時代も少し過去のことらしい。
下巻になるとひとつのセクション毎に話者が変わり、時も現在と過去とが交互に語られる。風里が思いつきで借りた古い家にまつわる歴史。そして三ノ池があって、二ノ池があるのに、なぜ一ノ池が無いのか。

下巻のカヴァーの要約は次のようになっている。

 風里が暮らす古い一軒家には悲しい記憶が眠っていた。高名な書家・村
 上紀重とその娘・葉、葉と恋仲になる若き天才建築家・古澤響、過去の
 出来事が浮かびあがるうち、風里にも新たな試練が。風里は人々の想い
 をほどき、試練を乗り越えることができるのか――。

ストーリーはミステリのようでもあり、幻想文学風にも読めたりする。だからあまり書いてしまうとファースト・インプレッションを減殺することになるかもしれないので感想だけを述べることにする。

書家と建築家とその周囲に集まる人々の葛藤。しかし書家は文字の原初形態のような、文字であって文字でないような込み入った線のつらなりを残して死んでしまう。建築家はこの世に存在できないような出入口の無い家の設計図を書いて死んでしまう。そしてその葛藤と糸のもつれは子孫に引き継がれる。
そうした才能に較べれば、風里は何も持っていないようにみえる。だがもしこれをRPGと仮定するのならば、風里は刺繍という類いまれな武具を持っていたのだ。

高名な親を持った子どもは、親の才能を乗り越えられないために絶望するが、風里はごく平凡な家庭の娘である。だが子どもの頃、何気なくはじめた風里の刺繍は地味ながら緻密で、すぐに母親の技倆を超え、母は風里に道具を揃えてくれた。そして趣味だった刺繍は見出されて次第に仕事となってゆく。

刺繍の糸は、しかしもつれた人間関係のメタファーでもあり、そして解説でも指摘されているようにDNAの構造をも示している。
人間は必ず死ぬが、DNAはずっと継続して生き延びてゆく。生物学者は 「人間とはDNAの乗り物」 であり、DNAが次々と新しい乗り物に乗り換えてゆくために人間は死ぬのだ、とまで言い切るが、そこまでシニカルに考えなくても、遺伝というシステムの中に過去の記憶が残るのだとするのならば、人間は永久に死なないのだ。

風里は 「夢見」 かもしれないと言われる。風里の親戚には、もう亡くなっているのだが珠子おばさんという 「夢見」 がいて、風里はそのことを母から聞く。そして風里の夢に珠子おばさんが現れる。とじこめられた人を救出するにはその夢を開封して、もつれた糸をほどかなくてはならない。それができるのは、糸をほどくことのできる器用な人だけなのだという。つまり風里はジェダイのような能力者なのだ。

「葉」 という名前も 「睡蓮」 という名の奇妙なかたちの椅子も、風里が最初に刺繍した 「テッセン」 のハンカチも、すべては植物であり、植物は弱いように見えて、実は強い。それはほんの数行で語られる奏の性的描写の中に克明にあらわれる。
そして、書も建築も刺繍も陶芸も、この話に描かれているすべてはアナログな手仕事で、コンピューターは介在していない (たぶん描かれている時代には、まだコンピューターによる建築設計は存在しない)。そのアナログさと潔癖さが心地よい。

古い家の佇まいや、いつもは無いはずの離れに行く道が存在するのはトトロのようだし、幻想の草原のイメージはナウシカのようであるが、そもそもジブリの設定そのものが過去の児童文学や幻想文学等に見られるステロタイプのヴァリエーションでもあるのだ。
風里の家の近くにあった井戸は一種のタイムトンネルのようでもあり、一通の空封筒が時の流れを行き来する。井戸はまた、不思議の国のアリスであり、底の水面に映る顔は井筒である。しかしそこで描かれるのは 「おいにけらしな」 「おいにけるぞや」 と呼び交わす老いの悲哀の影ではなく、少女の頃の葉によって体現される未来への若いいのちである。
そうしたメタファーとラストシーンから類推すれば、この小説の読後感は明るい。


ほしおさなえ/三ノ池植物園標本室 上 (筑摩書房)
三ノ池植物園標本室 上 眠る草原 (ちくま文庫)




ほしおさなえ/三ノ池植物園標本室 下 (筑摩書房)
三ノ池植物園標本室 下 睡蓮の椅子 (ちくま文庫)




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100分de名著『赤毛のアン』を読む [本]

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Lucy Maud Montgomery, 1935 (wikipediaより)

NHK《100分de名著》という番組のテキストについて、以前、ハンナ・アーレントの回について書いたことがあるが、今回はモンゴメリの 「赤毛のアン」 である。2018年10月に放送された番組用のテキストで講師は茂木健一郎、その意外さに引かれて読んでみた。このテキストは入門用として便利なのだが、実は放送自体はまだ観たことがない。録画しておけばよいのだが、いつも忘れてしまう。

とりあげられているのはアン・シリーズの第1作『赤毛のアン』(Anne of Green Gables, 1909) である。原タイトル 「グリーンゲイブルズのアン」 がなぜ 「赤毛のアン」 になったのかはNHKの朝ドラでも説明されていたので繰り返さないが、タイトルが 「グリーンゲイブルズのアン」 だったらこんなに有名な作品にはならなかっただろう。もしも映画《アナと雪の女王》が《Frozen》のままだったら、という仮定と同じである。

茂木健一郎の『赤毛のアン』の読書遍歴が述べられているが、それを読むと彼がとても熱心にアンを読んでいたことがわかり、「意外な」 という先入観がどんどん消えて行くのが実感できる。彼が最初にアンを読んだのは小学校5年生のときだそうだが、

 ある日、図書館の書棚を眺めていて、『赤毛のアン』の背表紙だけがぱ
 っと輝いているように見えて、導かれるように手を伸ばしたのです。お
 もしろいかおもしろくないかまだ判断できないはずなのに、読む前から
 惹きつけられる本というのがたまにありますね。脳科学者としては、そ
 こで神秘的な解釈はしませんが、僕にとってはそういう数少ない貴重な
 本です。(p.6)

だが読んだあと、すぐに傑作だと思ったわけではない、とも書く。惹きこまれたのだけれどその理由がわからない、なぜなのかというのである。
私は茂木健一郎とは違って脳科学者ではないから、安易に神秘的な解釈をしてしまうほうなのだが、本がこちらを呼ぶことはよくある。書店で本を見ていても、視覚の隅になにか異常な微動のようなものがあって、その方向に視線を転じるとタイトルの羅列のなかにひとつだけ光っている本があるのである。しかもそいつは、かならず 「買ってくれ!」 と言うのだ。仕方がないので買うことにする。ぼんやりしているときのほうが、この呼び込みに引っかかりやすい。でも 「買ってくれ!」 という本は自分に自信のある本だろうから、そんなにハズレは無い。

茂木の解説のなかで一番面白かったのはクオリアという概念である。
それはピクニックに行ってアイスクリームを食べられるかどうか、という場面の説明なのだが、マリラの持っていた紫水晶のブローチが行方不明になり、マリラはアンを疑うのだが、アンは正直に白状すればピクニックに行けるかもしれないと思って、外に持ち出して湖に落としてしまったというウソをつく。ところがかえってマリラの怒りを買ってピクニックに行くことを禁止されてしまうのだが、実はマリラの勘違いでブローチは出てくる。そこであわててアンをピクニックに行かせるというエピソードである。
この湖で遊んでいたというアンのウソの話のなかで、また例によって 「コーデリア姫ごっこ」 という言葉が出てきて、アンはコーデリアにご執心なのだと読んでいてかなり笑ってしまうのだが (アンはマリラと初対面のとき、名前を聞かれて、コーデリアと呼んで欲しいというのだ)、そんなにしてウソをついてまでピクニックに行きたいと願うのは、そこで未知の食べ物であるアイスクリームが食べられるということにあるのだ。
ピクニックにどうしても行きたい、なぜならアイスクリームが食べられるから。そのことをアンはダイアナから聞くのだが、でもアイスクリームというものがどうしてもイメージできない (当時、アイスクリームは稀少な食べ物であった)。

 アンは、「どんなものかダイアナは説明しようとするんだけれど、アイ
 スクリームって、どうも想像以上のものらしいわ」 とも言います。(p.54)

この、「アイスクリームを食べるということは実際に体験しなければ理解することができない」 というようなことをクオリアというのだと茂木は解説する。「人が感覚的・主観的に感じたり経験したりすることで得られる独特な〈質感〉を表す概念」 と注釈で説明されている。そして、そうしたことをアンが、さりげなく語ってしまうことが 「生きることの真実」 なのだともいうのだ。

もうひとつ、アンの思考の特質として茂木が挙げるのが、マイナスをプラスに変えてしまう転換作業の解説である。

 人間の脳の働きから考えると、次のようなことが言えます。「エマージェ
 ンシー (emergency)」 (=危機) から 「エマージェンス (emergence)」
 (=創発) が生まれる。アンが孤児院へ逆戻りする運命だと知った時に
 「コーデリアと呼んでください」 と言い出したり、リンド夫人への謝罪に
 行く途中で突然うきうきし始める様子を見ると、まさにこれだと思いま
 す。脳において情動反応の処理を司っているのは扁桃体ですが、好悪・
 快不快といった感情は表裏一体のものなので、ちょっと見方を変えるこ
 とで、マイナスの感情をプラスに変えることができるのです。(p.44)

現実に嫌なことは数多くあるけれど、それを乗り越えるための力が 「想像力」 であるというのだ。scope for imagination という言葉がアンのパワーの元であり、想像力を働かせる余地があるのならば、それを自分にとってプラスの方向へと変えられる可能性があるからだという。だがそれは幼くして全てを失ってしまったアンだったからこそできたので、とも説く。
アンの方法論と志向性は極端だが、決してあきらめないこと、常にその時点で最善の方法を模索して自分を変化させていくことは、とても単純かもしれないが、シリアスな人生の指針である。

emergencyとemergenceという対比する概念と同様な例として、passionという言葉の二重性も挙げられている。

 「情熱」 と 「受難」 は、英語では同じ言葉、パッション (passion) です。
 アンのギルバートに対する情熱は、最初の出会いが不幸だったという受
 難によってこそ育まれたのかもしれません。(p.77)

そして茂木は、アンがマシュウとマリラに育てられることによって変わっていっただけでなく、アンが2人に対して影響を与えて、アンと同じように2人も変化していった、もっといえば成長していった、それがヒューマニズムのもとなのだという。アンはインフルエンサーであり、そしてこの小説自体は一種の教養小説 (Bildungsroman) であるとするが、この相互的影響力の指摘が最もこの小説の本質をつく部分である。

 マシュウとマリラは、自分たちの役に立つように、男の子を引き取ろう
 とした。ところが、マシュウの発想が転換して、自分たちがアンの役に
 立つことができるのではないか、と思うようになる。これは非常に深い
 ヒューマニズムだと思います。マシュウは、アンと出会うことによって、
 確かに人間として成長しているのです。(p.35)

こうした茂木の解説から私が受けた印象は、その物語自体が幾らでも深く読み込めるということだけでなく、言葉 (言語) というものが持つ本来の強さについて語っているということにまで敷衍して考えることができる。アンの言葉は単純なイマジネーションの増幅作業ではないということ、そこに何らかの芯がなければそれは単なる夢物語だが、強い芯があるからこそ、どんな想像力の翼があってもそれは強風に負けないだけのパワーがあるということの示唆である。

表紙の 「夢は終わり、人生がはじまる。」 というキャッチは重い。アンが大学に行くことをあきらめてマリラと暮らすことを選ぶことを示しているのだが、つまり夢と人生は対比する概念なのだということがここに現れている。

尚、茂木の解説のなかに、古い時代のエピソードとはいえ、児童文学を juvenile と表現している説明があった。juvenileは近年、使わない言葉のように聞いていたが、そんなことはないというふうに捉えてもよいのに違いないと、少し溜飲が下がった次第である。語彙の貧困と狭窄はどの言語にも共通する問題のように思える。


100分de名著・赤毛のアン (NHK出版)
モンゴメリ『赤毛のアン』 2018年10月 (100分 de 名著)

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錦見映理子『リトルガールズ』を読む [本]

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『リトルガールズ』に出てくる大崎先生のインパクトは絶大である。大崎先生は中学校の家庭科の非常勤講師で55歳。ある日、それは授業参観日なのだが、突然、ピンクのひらひらしたディオールのワンピースを着て教壇に立つ。
小太りで、地味な服しか着ていなかった彼女の変身に皆、騒然とする。あだ名をつけられ陰口を言われる。でも彼女は屈しない。いままで着たいと思っていた服を着ていなかっただけに過ぎないのだから。何を着たって勝手、何を言われても構わない、と思うのだ。
本の紹介記事で篠原かをりはこう書く。

 服とブスを巡る問題は、根深い。ブスでないと許されない着こなしなん
 て聞かないが、美人でないと着てはならないとされるものは多い。ピン
 クだったりフリルやレースが使われていたりする可愛いものや、派手だ
 ったり、露出が多いものも。逆にブスに許されているのは、黒や茶の目
 立たない服である。極力自然物に擬態していろとでもいうのだろうか。
 本当は法律の範囲内で 「着ている」 という事実があれば、それで十分な
 はずなのに、勝手にルールを定めてそこから外れた人間は糾弾しても良
 いとされている。

そう書くのは篠原自身が選んで着た服を非難されたという経験からなのである。そして篠原はこうしたメソッドを 「現代の冠位十二階」 だと指摘するが、ほどほどにとか、失礼のないようにとか、意味もなくTPOがどうとか、他人の着るものに対して似合うとか似合わないとか主観的判断でインネンをつけ、ヒエラルキーを作り上げ、それに合致しない者を排除しようとする行為、これは昔からずっと続いている陰険な差別意識に他ならない。

ところがその大崎先生に美を見出す人が出現する。それは産休になった教師のかわりにやって来た猿渡という美術の教師で、一瞬にして大崎先生に美を感じ、自分の描く絵のモデルになって欲しいと繰り返し迫るのだ。
その依頼を最初はふざけているのだろう、からかっているのだろうと斥けていた大崎先生だったが、猿渡の真剣さにだんだんと頑なさが崩れてゆく。

だがこの小説の主人公は中学一年生の沢口桃香である。桃香は杏梨と仲がよいが、やや近寄りがたい雰囲気のある浅羽小夜が気になっている。瀬波勇輝は桃香のマンションのむかいの警察官舎に住んでいて、桃香と幼なじみである。
勇輝は桃香の誕生日プレゼントを何にしようかと思って、小夜に相談する。そして手芸の得意な小夜に教えてもらいながらポーチを作るうちに手芸にハマッてしまう。
一方、絵を描くことが好きな桃香は小夜に頼んでモデルになってもらうが、小夜が桃香に対して好意以上の恋愛感情を抱いていることを知る。

桃香の母親である夕実はアパレルのセレクトショップを経営していて、不動産業をしている夫 (つまり桃香の父親) の行人とは理想的な夫婦のように見える。だが夕実には恋人がいて、桃香の父親は行人ではなく、その恋人である早瀬らしい。そして夕実の店の上客のひとりが大崎先生なのである。

やがて大崎先生は猿渡の依頼に根負けして彼の絵のモデルになるが、猿渡は学校の美術準備室にも自作のヌードの絵をたくさん陳列していて、そのうちに私はヌードにされるのではないかと危惧する。ところが猿渡にはルイ子という恋人がいて、彼女は彫刻をやっているのだが、猿渡が妙な絵を描くようになったことから彼の動向を詮索し、そのモデルが大崎先生であることをつきとめる。ルイ子は猿渡と大崎先生の関係に嫉妬するが、彼女も大崎先生の美に目覚めてモデルの取り合いとなる。

というようなストーリーなのだが、簡単にいうと3つの三角関係のようなものが成り立つ。大崎先生・猿渡・ルイ子と桃香・勇輝・小夜、そして優美・行人・早瀬の3組である。これらの関係性はちょっと見ると複雑そうなのだが、それを簡単に読者に理解できるように読ませてしまう作者の筆力が冴えている。
大崎先生は冒頭にすごいインパクトで登場して、その後、ストーリーのなかに溶け込んでしまうように見えながら最後にやはり強い印象を残してくる。生徒から 「ピンクばばあ」 とか 「エロばばあ」 と言われながら決してそうではないのだ。
小夜が桃香のことを同性愛のように思っているのとか、その2人の間に立つ勇輝が、結局サッカー部を辞めて手芸部員になってしまうあたりは、ちょっとした少女マンガ的テイストな感じがする。
芸能関係を目指している杏梨は演劇部に属していて、文化祭でチェーホフを演じるのだが、その後、それぞれの未来への道はどんどん分化して変質してゆく。つまり桃香、小夜、杏梨は三人姉妹なのだ。

だがそれぞれに皆、力強いしたくましい。大崎先生も猿渡も、暗い印象を持たれてしまう小夜も、そしてそうした人々に翻弄される主人公の桃香も、悩んだり迷ったりしながらも芯がある。小説全体はライトな感じで簡単に読めるのだけれど、芸術とはなにかという隠された問いの意味は意外に深い。


錦見映理子/リトルガールズ (筑摩書房)
リトルガールズ (単行本)

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