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森茉莉の文章について [本]

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森茉莉 (1903-1987)

昨年から今年 (2016年から17年) にかけて、森茉莉の文庫本が3冊、筑摩書房から出された。『紅茶と薔薇の日々』『贅沢貧乏のお洒落帖』『幸福はただ私の部屋の中だけに』というタイトルで、早川茉莉による編集である。
短いエッセイ (つまり小説以外の文章) を集めた内容なのだが、雑誌掲載のものは膨大にあり、全集に収録されていなかった作品が幾つか発見されたが、それだけで出すのには本としてあまりに力不足なので、それらしくジャンルを分け、それぞれ既出の作品で水増しして3冊にした、というのが実情だと思われる。

それらしく、というと語弊があるのかもしれないが、森茉莉の文章は何かのテーマで書き出しても、どんどん脱線していって最後になって辻褄を合わせていたり、もっとすごい場合は全然辻褄を合わせなかったりすることがあって、もうメチャクチャ、それが楽しいのである。未出の作品ははっきり言ってわざわざ読むほどの内容ではなかったし、やたらに重複した記述の内容が並んでいたりして、それもまたショーモナイのにもかかわらず、それでも読んでしまうのがファンの悲しいところである。

森茉莉 (1903-1987) は森鷗外の2人目の妻・志げとの間に生まれた長女で、鷗外が溺愛したことで有名である。以前のブログにも書いたが (→2014年11月15日ブログ)、私の恩師は森茉莉のことを簡潔に 「あれはバカです」 と言って切り捨てたのだが、そう言われても仕方がないと思うくらいの判断力は私にもあったのだけれど、でも私はその頃すでに森茉莉をひそかに読んでいたので、それを公言するのは憚られた。森鷗外と比較すればほとんどの人間はバカになってしまうのは自明で、それに森茉莉自身、若い頃はぼんやりした性格だったと自称していて、結婚してパリに住んでいた頃、鷗外が亡くなり、離婚してからはその父の遺した印税で暮らしていたが、それが無くなる頃、試みに書いてみた文章が売れて何とか食いつないだ、というような述懐は半分合っているし、残りの半分は韜晦である。

その小説作品は過去の自己の投影でもあったり、そうでもなかったりというところが曖昧な幻想的作風であり、彼女独自の世界を形成しているのだが、エッセイの場合はもっとも下世話な『ドッキリチャンネル』が突出していて、読めば確かに森茉莉なのだが最初に読んだときはびっくりだった。小説家として有名になってからなので、独断と偏見、差別用語満載のミーハーで世間知らずなバーサンの繰り言であり、言いたい放題、こんなの書いていいのか? ということまで書いてあって、でもそのなかに時々、キラリと光るものが混じっている。

最も独特な印象を持つのは、その語法である。まずカタカナの使い方だが、前述した私のブログ記事で私は、森茉莉が 「セーターを近くの川に捨てていた」 話を書いたが、正確な彼女の表記法にすればそれはセーターではなくスウェータアである (でもスウェーターと書くときもある)。
基本的にあまり長音を使うことがない。ヴィーナスでなくヴィナスだし、タバコの名前はゴールデンバットではなくゴオルデンバット、俳優のピーター・オトゥールはピータア・オトゥウルである。パリのオペラ座は定冠詞を含めてロペラと書いてしまう。
それでいてパリは巴里だしベルリンは伯林だし、時々、「嫩い」 (わかい) などという文字を使ったりもするので (若者を嫩者と書く)、そのへんはさすがな世代である。

大雑把というのか天衣無縫というのの特徴的なひとつとして、カギカッコの終わりが無いというのがあって、つまりカギカッコで始まった文章が長くなるうちに何だかわからなくなり、地の文章に溶け込んでしまうため、終わりのカギカッコが無いのだ。全集ではたしかそれがそのままになっている。なぜならどこがカギカッコの終わりか特定できない場合があるためである。
今回読んでいて、普通のカッコ (マルカッコ) の始まりがなくて終わりのカッコだけある個所があったが、これも原稿そのままなのか誤植なのか不明である。つまり森茉莉の場合、こうしたことは 「味」 であって細かいことはどうでもいいのだ。もう訂正することができないのは、中原中也の密柑に似ている。

それからもうひとつ、句読点において特徴的な用法がある。
「~のようであった」 という場合、よく 「~のようで、あった」 と書く。必ずしも毎回ではないが、 「で」 と 「あった」 の間に読点が入る。これが頻出する場合、最初にちょっと違和感がある。
私自身の句読法として、なるべく読点は少なめにというポリシーがあって、けれど読点が少ないと文章が読みにくかったり誤解が生じたりするのだが、それでもあえて読点を少なくしたいという願望があるので (それが美学だからなのだが)、どこに読点を打つかというので呻吟することがよくある (ちなみに美学ということでいえば、ルビはダサいと私は思っているのでなるべく使いたくない。但し、柳瀬尚紀の『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳は仕方がないけど)。
でも森茉莉は読点が多い。「~のようで、あった」 と書くのは彼女のリズムであり、彼女の言葉の 「息」 がそうだからなのに違いない。読んでいるうちにそのリズムに慣れてくるので、たまに 「~のようであった」 と読点抜きで書いてあったりすると、かえって違和感に陥ったりする。人間とは勝手なものだ。

遠く若い頃の着物の色彩などに関する森茉莉の詳細な記憶には驚嘆するが (それに樺色などという色名は私の祖母が使っていた記憶があるので懐かしい)、ファッションのことを細かく子細にあげつらうくせに、彼女の普段着ファッションとしてカーディガンに草履というのがあって、その草履はつまり 「つっかけ」 なので、たぶん靴下を履いたままでつっかけているのだ。足袋とか、指の別れている靴下ではなさそうである。
セーターの上にカーディガンとダブルでニットを着込み、スカートにつっかけ草履、編みかごというのが森茉莉の有名なスタイルのひとつで、これが結構カッコイイ。でも誰にでも許されるスタイルではもちろんなく、森茉莉に限って許されるスタイルであることは間違いない。

森茉莉が山田珠樹と結婚して、最初に生まれた子どもが山田爵 (正確な文字は 「爵」 の字の上に乗っている 「ノとツ」 の部分が 「木」 なのだが、この文字を入れたらブログがバグッてしまった) である。そして山田爵の教え子のひとりが蓮實重彦であり、蓮實の『「ボヴァリー夫人」 論』はもちろん山田爵訳を底本にしているのだが、私はまだそれを読んでいないので『「ボヴァリー夫人」 論』も積ん読のままである。死ぬまでには読まないとというのもお決まりの言い訳に過ぎない。早く読むように! と自分を叱咤激励してみる。むなしいけど。


森茉莉/紅茶と薔薇の日々 (筑摩書房)
紅茶と薔薇の日々: 森茉莉コレクション1食のエッセイ (ちくま文庫)




森茉莉/贅沢貧乏のお洒落帖 (筑摩書房)
贅沢貧乏のお洒落帖 (ちくま文庫)




森茉莉/幸福はただ私の部屋の中だけに (筑摩書房)
幸福はただ私の部屋の中だけに (ちくま文庫)




伊藤文学/今週の文学さん:森茉莉について
https://www.youtube.com/watch?v=HWJQ5ZNICkY
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トロル

前回といい、今回といい、わたしの興味に触れるテーマ。
ワクワクと読ませて頂きました。
大学のまだアナログな西陽あたる図書館で、日焼けした古本の中から
森茉莉の本を読み、亡くなった時告別式に行きました。
矢川澄子さんや宮城まり子さん、勿論黒柳徹子さんの味のある
お別れの言葉を聞きながら、わたしにとって萩原朔太郎と並ぶ
子供部屋の住人がまた去ったのだな…と、噛み締めました。
わたしのゼミの恩師も、茉莉さんの亡くなり方を
「可哀想な」と仰っていましたが、果たしてそうだろうか?と、
思いました。
by トロル (2017-07-12 09:15) 

うめむす

はじめまして。
通りすがりの、うめむすと申します。
興味深く読ませて頂きました。
また来ます。
お邪魔致しました。
by うめむす (2017-07-12 18:55) 

末尾ルコ(アルベール)

今回もまた、エキサイティングなお記事ですね~。とは言え、森鴎外は少々たしなんだ程度、森茉莉に至ってはほとんど読んだことがなく、だからこそわたしにとって「新しいこと」なので嬉しく読ませていただけるのです。森鴎外は、(いつか、本格的に読むぞ)と思いつつ、読み始めてはついついすぐに別の本に移ってしまうということが今まで何度もあったような。読まなきゃいけませんね、森茉莉も。特に『ドッキリチャンネル』はタイトルも魅力的。語法のお話も実に興味深いですね。愉しいです。そしてlequicheの句読点法についてのお話にまたワクワクです。

>けれど読点が少ないと文章が読みにくかったり誤解が生じたりするのだが、それでもあえて読点を少なくしたいという願望があるので (それが美学だからなのだが)

なるほど!ついつい、(この書き方では間違って受け取られるかなあ)なんてセコいことを考えてしまいますが、それはあまりに小市民的かも。と言うことで、時にはリラダンの顰に倣うのも悪くないかなあと今更ながら思ったりしました。

>森茉莉に限って許されるスタイル

そうなんですよね~。その辺ことがお分かりにならない御仁が多いのが困りものです。自分に似合うかどうか、まったく考えない人がいるんですよね~。

わたしも蓮實重彦のフローベル、ちょっと読んだだけでストップしております。『ボヴァリー夫人』の原作をもっと読みこんどかなきゃというのもありまして。

そう言えば、11日のNHK『うたコン』に原田知世が出演していて、「時をかける少女」を歌いました。今の原田知世の歌唱法は意識的にやっているのかなあと思いましたがどうなんでしょうか。かつて日本語化していた「アンニュイ」な雰囲気を出しているような感じに聴こえました。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-07-12 19:34) 

そらへい

森茉莉、読んだと思うのですが忘れていますね。
ただ、イメージとしては、そうだったかなぁと言う感じで
今回拝読して、意外でした。
読点、悩みますね。
あまり短いのは、確かに美学に反しますが
長いと、だらだらして読みづらいし、
自分の文章をまとめにくいですね。
by そらへい (2017-07-12 19:45) 

lequiche

>> トロル様

そう言っていただけるとうれしいです。
大学の図書館で焼けた本を見つけ出して読み、
そして亡くなったとき告別式に行かれたというお話、
何か美しい連鎖を見せられているようで羨ましいです。
森茉莉と萩原朔太郎ですか。
朔太郎に関して私は学校で習った程度以上のことは
あまりよく知りません。
代表的な詩集は読みましたが、
今度、そういう視点で読んでみたいと思います。

メディアとしての書籍という形態は重要です。
森茉莉はそのようにして、
たとえば図書館の蔵書である古い本のなかから立ち現れて
アナログなかたちで読まれるべきであり、
ネットやデジタル本で読むことは
厳密には森茉莉体験ではない、と私は考えます。
つまり逆に言えば、文章は紙に印刷して固定されなければ、
つまり書籍になれなければ、真の言葉にはなりえません。
ですから、このようなブログ上の私の文章のようなものは
所詮ヨタ話に過ぎないのです、と書いたら
すごいアナクロニズムだと思う人がたくさんいるでしょうが、
私の基本的なスタンスはそうです。

この文庫のなかに、新仮名遣いの会議に鷗外が出かけていって
歴史的仮名遣い擁護論を延々とぶったという話がありますが、
そういう鷗外流の頭の固さを私は受け継いでいるのだ、
という自負があります。
とはいえ、書籍として販売されているからといって
それが書籍に値するかどうか疑問な書籍も数々ありますが。

たとえば森茉莉が魔利のことを書くとき、それは自分自身ではなく、
でも擬似的な自己が投影された幻想のなかの人です。
幻想を理解しえない人は現実面の表層しか見ませんから、
森茉莉の死を 「可哀想な」 と結論づけてしまうのでしょうね。
彼女の住んでいたアパートの無秩序を語る人はたくさんいますが、
幻想性を自らの世界の範囲内で構築できる森茉莉のような人は
そんなにいません。

もっとも魔利というキャラを知ったとき、
魔利という字柄から私は木原敏江の『摩利と新吾』を
連想してしまいましたが。(^^;)
by lequiche (2017-07-13 06:30) 

lequiche

>> うめむす様

こちらこそはじめまして。
お読みいただき、ありがとうございます。
こちらからもお邪魔させていただきます。
by lequiche (2017-07-13 06:30) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

森茉莉の小説作品は、一般的には幻想的と評され、
耽美といっていいのか、とりあえず退廃なのでしょうね。
ホモセクシュアルとかインセストな傾向があり、
近年にはヤオイやBLの元祖といわれるようになり、
鷗外などよりもずっと不健康な一面があります。
でも実は鷗外がその作品で顕著にしなかった負の部分を
担って拡大生産したという見方だってできます。
そういうことをいうと文豪鷗外先生を尊敬している人は
とんでもないと思うでしょうが、
どんな人間にも光があり影があります。

ところが『ドッキリチャンネル』というのは
その幻想・耽美という印象とまるきり正反対の
めちゃくちゃ低俗なテレビ大好きおばさんの辛辣批評で、
たとえが悪いですが、
中島みゆきの歌とDJのしゃべりの落差みたいな
2面性を見せてくれます。

文章の書き方については、
上の、トロルさんへのレスにも書きましたが、
私はブログはどこまでいってもネット上の垂れ流し
という時代錯誤かもしれない認識を持っていますので、
こうしてキーボードから生ずる蜃気楼みたいな文字群は
リニアにしか文章を構成できませんし、深みもありませんから、
そうした環境のなかで私は本当に真剣に書いているか
と問われると何とも言えませんし
ネット上に生成する文章は不確定性の消費物だと考えています。
紙の書籍なんかそのうち無くなるという意見には与しません。

森茉莉の耽美と低俗とが併せて許されるのは
それが厳然と確立されているからであって、
本人はちゃらんぽらんのように見せかけていますけれど
もちろんそれこそが韜晦なのです。
三島由紀夫が激賞したことによって森茉莉は認められますが、
それはストラヴィンスキーが激賞したことによって
その名前が知られることになった武満徹に似ています。
誰か有名な人が褒めないと無名な人は認められないというのは
いつの世にも存在する悪弊です。

森鷗外→山田爵→蓮實重彦という流れは
予想外のようでもあり必然のようでもあり、ですが
そもそも『「ボヴァリー夫人」 論』というのはとんでもない量ですし、
オオカミ少年 (少年じゃないけど ^^;) だと思われていた蓮實が
書く書くと言いつつ書かないと噂されていた予想をひっくり返し、
ちゃんと書いてしまったという畢生の評論なので、
そんなにおろそかには読めませんよね〜。(^^)

原田知世の出演したその番組を私は観ておりませんので
何とも言えませんが、彼女もまた2面性を持っていると思います。
ネットなどでは以前から非常にマニアックな性向とか、
最近の雑誌の記事のキャッチでも性的な表現をされたりとか
そういう扱われ方をされる素地があるのは、
それだけ神秘性がありそれが持続的だからだと私は思います。
それが真実かゴシップに過ぎないのかはどうでもいいことです。
by lequiche (2017-07-13 06:30) 

lequiche

>> そらへい様

記憶とは不確かなものですからね。
自分のなかで増殖してどんどん異なったものに変化していく
という場合もあります。変化というより
自分に都合よくデフォルメさせていく面があるのかもしれません。
再度読んでみたら、全然違うじゃん! みたいなこともあります。

句読点というのはその人の息の長さだと思うんです。
どういうふうに言葉をつらねていくか、というよりも、
自分が声に出してしゃべった場合、どのようなリズムをとるか
であって、私の文章はだらだらと長いですが
(と自分で認識しています)、それはそのリズムが
自分にとって一番乗りやすいリズムだからなのだと思います。
by lequiche (2017-07-13 06:31) 

すーさん

そう言えば自分も読点をしゃべる時のリズムで入れちゃいます。
印刷された活字でも書いてる人の話し方まで伝わるんですよねぇ。
活字ってスゴイ(*'▽'*)。
by すーさん (2017-07-13 14:56) 

lequiche

>> すーさん様

「読点」 っていうくらいですから、
自分のしゃべるリズムを反映させたほうがいいはずです。(^^)
昔は声を出して本を読む 「音読」 というやり方を
学校でやっていましたが、今はどうなんでしょうか?
言葉は声にして発音した場合、また別種の力を持つと思います。
by lequiche (2017-07-15 03:35) 

うっかりくま

森茉莉さん、鴎外の愛娘ということで期待して読んだら
ん??だったので何か1冊読んだきりでしたが、面白そう
な方ですね。鴎外は声が良かったとおっしゃっていたのは
最初の奥様の方でしたっけ? 読点の話を読んでいたら
lequiche さんのお声を聞いてみたくなりました。
文章と同じく誠実で落ち着いた感じを想像します。
オフ会に参加された方には笑われそうだけど未だに性別も
わからないもので。。(^^;)。
『摩利と新吾』、懐かしいですね。真剣な話になる前の
旧制高校の寮生活の部分も結構好きでした。
by うっかりくま (2017-07-15 22:56) 

lequiche

>> うっかりくま様

ん〜、たとえば幸田露伴/幸田文のような期待値で読んだら、
全然違うなぁ……ということになると思います。
耽美ではあるけれど退廃とは少し違って
いわゆるカルト作家ですから、正統派の目から見ると
評価対象としてむずかしい作品かもしれません。
私は非・正統派なので絡め取られてしまっているのです。
またマルキ・ド・サドや倉橋由美子のように確信的でない分、
微妙なヴェールが存在しています。

上記ブログ本文では森茉莉の書法の特徴について見ていますが、
肝心の森茉莉作品そのものについて全く触れていません。
たとえばヴァイオリニスト某の弾くソナタのCDがあったとして、
某の楽器の来歴とか録音スタジオのロケーションなど
枝葉末節な話題でレビューを展開するのと似てます。
これは内容がありそうで実はなさそうな卑怯な方法論で、
その至らなさとわざとらしさについてはわかっています。
森茉莉の作品そのものについてはあらためて書く必要がある
とは思うのですが、まだ機が熟していません。

それとドッキリチャンネルというエッセイ集は、
つまりベートーヴェンでいえばエリーゼのためにみたいなもので、
交響曲とか弦楽四重奏曲ではありません。
でもドッキリチャンネルは肩の力の抜けた文章のなかに、
鷗外の声とか喫っている葉巻とか、そうした細密な積み重ねから
突然のように触発させられるなにかがあります。
それは近親者だけが知っている仮面を外した鷗外であり、
大作家という甲冑で見えにくかった鷗外の姿です。

木原敏江とか岸裕子のようなややコミカルな語法のなかに
実は結構シリアスなものが隠されていると私は思います。
そうしたBL的マンガの比喩でいうのなら森茉莉のカルト性は、
まつざきあけみあたりなんじゃないかと思います。たぶん。(^^;)
by lequiche (2017-07-16 02:57) 

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