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カール・シューリヒトとタワーレコード [音楽]

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Carl Schuricht (1910年頃)

シューリヒトはエーリッヒ・クライバーと並んで、私にとって重要な指揮者である。
カール・シューリヒト (Carl Adolph Schuricht, 1880-1967) を最初に聴いたのは仏Adès盤で出ていたブラームスの第3番と第4番で、3番はバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団 (Orchestre du Südwestfunk, Baden-Baden, 1962)、そして4番はバイエルン放送交響楽団 (Orchestre symponique de la radio Bavaroise, 1961) と表記されている (Adès盤はマイナーなレーベルのためかライナーノーツを含めフランス語でしか表記されていない。このAdès盤のシューリヒトのことはすでに書いた→2012年04月14日ブログ)。

この音源は、通販レコードのレーベルであったコンサートホール・ソサエティ盤であるが、2012年に英Scribendum盤で復刻された《The Concert Hall Recordings Carl Schuricht》という10枚組セットには、第4番きり収録されていない。でも他の収録曲も聴きたいし、それにこの時、リマスタリングされていたので買い時だったのだが、価格が当初比較的高めだったので逡巡しているうちに完売してしまった。

ところがタワーレコード限定という素晴らしい悪魔のような企画があって、その中にこのブラームス3番&4番があるのを見つけた。しかもSACDハイブリッドで、さらにウェーバーの序曲が2曲追加収録されている。
国内盤でリマスター、そしてSACDだからAdès盤より音は当然良いのだろうが (Adès盤のリリースは1988~1989年)、価格は国内盤の適正価格になってしまっている。

シューリヒトはマインツ市立歌劇場のコレペティトールから指揮者の道をスタートさせたとのことだが、コレペティトールとはオペラ歌手が練習する際の劇場付きピアニストのことで、スポーツ競技におけるコーチみたいなものだが、オーケストラ譜から適切な音をピアノで弾き出しながら、かつ歌手のトレーニングをするという非常に難度の高い仕事である。
かつての大指揮者はコレペティトール上がりが多いと聞くが、オペラを指揮することは、たぶんステージ上でシンフォニーを指揮することよりも難度が高い。なぜなら気を遣う部分が多いし、イレギュラーなことが起こる可能性も高いはずだからだ。カーレースの比喩でいうのならばF1とラリーの違いのようなもので、歌劇場の指揮者はラリー・ドライヴァーであり、次になにがあるか、常に未知の世界との戦いである。そのスリリングさが、指揮にしたたかさを付け加える。

エーリヒ・クライバー (Erich Kleiber, 1890-1956) はシューリヒトより10年遅い生まれであるが、亡くなったのはシューリヒトより早い。シューリヒトと同様に歌劇場指揮者からスタートしたが、ナチスからの不穏な圧力から逃れるため、一時、アルゼンチンに移住する。ブエノスアイレスのテアトル・コロンの首席指揮者になったが、テアトル・コロンはアストル・ピアソラなど、タンゴのライヴなどで耳にする名前である。
カルロス・クライバー (Carlos Kleiber, 1930-2004) はエーリヒの息子であるが、エーリヒは最初、カルロスが音楽を志すことに反対したという。結果としてエーリヒは親子2代続けて著名な指揮者となったが、そしてカルロスは父親の助言によりそのキャリアの足掛かりを得たともいえるが、親子の確執は当然あったはずであり、音楽に対するアプローチもエーリヒとカルロスでは随分違う。だが歌劇場の叩き上げということに関しては、カルロスも同様であり、カルロスの最もすぐれた演奏はオペラ指揮に多く存在すると思われる。

シューリヒトに戻ると、最近聴いている《The Complete Decca Recordings》はシューリヒトがデッカに録音した演奏の集成であり、1947年から1956年にかけての録音であるが、ほとんどがモノラルにもかかわらずその音の美しさに驚く。収録されているベートーヴェンの交響曲は1番、2番が2つ、5番、ブラームスは2番しかないが、ベートーヴェンの初期交響曲の清新さ、その快活さは比類がない。マーラーなどで混濁してしまった耳が洗われるような、などと書くとマーラーがまるで汚れているようだが、ベートーヴェンはやはりずっとモーツァルト寄りで、苦悩があったとしてもその音は透明で構造も明快である。心に最も響くのは明快な和声とメロディであり、その真摯さが胸をうつ。
シューリヒトの指揮には、粘っこいものがない。いつもさらっとしていて、時に突き放すようでもあり、しかしその音楽の本質を常に理解している。現代の指揮者の指揮法からすれば単純過ぎるのかもしれない。そのシンプルさがシューリヒトの真髄である。

シューリヒトにはパリ音楽院管弦楽団とのEMI盤の有名なベートーヴェン全集があるが、現在Warnerで出ている廉価盤とほぼ同内容でありながら、タワーレコード限定が存在する。これもコンサートホール・ソサエティ盤と同様にタワーレコード・ヴァージョンはSACDであって、しかも新たなマスタリングがされていて、でも価格も7倍くらいする。とりあえず音が聴ければいいか、というのが私のスタンスだが、でもシューリヒトとなると、心が揺れてしまって悩ましい。
古い録音は、ただ音源を集めただけという体裁で、同一のポーズのジャケット写真ばかりという味気ないデザインがよくあるが、タワレコのはオリジナル・ジャケット・デザインで、そういう部分でも魅力があるのだが、タワーレコードのサイトは魅力があり過ぎるので、だからあまり見ないようにしている。

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Carl Schuricht (1957年頃)


Carl Schuricht/The Complete Decca Recordings (Decca)
The Complete Decca Recordings




Carl Schuricht/The Complete EMI Recordings (Warner Classics)
Icon: Complete EMI Recordings




ブラームス:交響曲第3番、第4番 (タワーレコード限定)
http://tower.jp/item/4100966/
ベートーヴェン:交響曲全集 (タワーレコード限定)
http://tower.jp/item/4210878/

Carl Schuricht/Mozart: Symphony No.35 D-dur K.385 - IV. Presto
Radio Sinfonieorchester Stuttgart, Ludwigsburg 1956
https://www.youtube.com/watch?v=qd8VIon8LFM
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コメント 4

末尾ルコ(アルベール)

指揮者はごく僅かしか知りませんが(とほほ)、カール・シューリヒトの動画視聴させていただきました。1910年頃のお写真は端正な美形の芸術家という感じですが、動画の中ではだいぶお年を召されていて、しかし厳格そうではあるけれど、十二分に包容力も感じさせられる姿にお見受けしました。
>でもシューリヒトとなると、心が揺れてしまって悩ましい。

なるほどです。人生の中にそうした存在がいるのは幸せなことですね。あまり多いと、時間とお金がいくらあっても足りませんが(笑)。
拝見した動画のシューリヒトは、もちろんわたしは指揮者の技量を云々できはしませんが(とほほ)、観た印象は、手首からの動きがまるで魔術師のようで、体全体は大きく動かさないのですが、それでも目を奪われ、見入ってしまいます。陶酔した表情も大袈裟な表情もなく、そこがまた美しさを際立たせています。
マーラー、ベートーベン、モーツァルトらの比較もとても分かりやすく、今後の鑑賞に役立てさせていただきます。

>オペラを指揮することは、たぶんステージ上でシンフォニーを指揮することよりも難度が高い。

なるほどです。確かにオペラ、音楽と芝居が一体になっていて、歌唱や芝居の良し悪しで観客の反応も違ってきますものね。

あ、それと前のお記事のコメントも感じさせられるところ多く(いつもですが 笑)、特に「時間の質」・・・この概念を理解している人がもっと増えればと痛感しますが、そもそも今の日本、「質」という概念さえ理解してない方が多いので困ってしまいます。

>アヴァンギャルドな指向のほとんどは有名になるための手段

う~ん、なるほど。大納得です。

>大衆を統率して愚弄し痴呆化させるための方便に過ぎません。

>それが冗談でないところに現代の邪悪な真相があらわれています。

大大大大大同感です!邪悪さがあたかも「純粋な希望」のような仮面を被っているところが、よりおぞましさを増幅させています。  RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-07-29 09:45) 

うっかりくま

シューリヒトについてお詳しいのですね。
上岡敏之氏を「シューリヒトの再来」という評論家の方
がいて興味はあったのですが、シューリヒトって誰?
という有様でした。コレペティトールをされていた事、
あっさりめの演奏等が共通項なのでしょうか。。
今回と過去記事で、演奏の特徴の一端を窺い知ることが
できました。ありがとうございました。


by うっかりくま (2017-07-29 23:24) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

シューリヒトの動画は以前、もっと良いのがあったのですが、
見当たらなかったのでとりあえずのモーツァルトです。
この動画では動きが少ないので
シューリヒトの特徴はあまり捉えられないような気がします。
動画自体、少ないのでしかたがありませんけれど。
たとえばカルロス・クライバーの晩年の動画など、
同様に動きが少なく緩慢に見えたりするのですが、
それでカルロス・クライバーを評価されたらちょっと、
というのと似てます。

シューリヒトもエーリヒ・クライバーも
比較的カチッとしていてあまり柔らかそうでない、
という点は似ているかもしれません。
情緒に流され過ぎるのは私はあまり好きではないのです。

すごくシビアないいかたかもしれませんが、
オペラは歌手と指揮者のものです。
オーケストラは単なる指揮者の道具です。
舞台の上に乗ってシンフォニーを演奏するときのオケと
オケピットでオペラの伴奏をするオケとでは
ちょっとニュアンスが違うように思います。
これはあくまで私の感覚ですが。

時間の質というのは、
ごくプライヴェートなことでそう思うことがあったのです。
学生時代の友人たちと久しぶりに会ったことがあって、
過去を共有した人たちと会ってみるのも
また楽しきものなり、となればよかったのですが、
まぁ……ひとことで言うと
退行しちゃっている人がいるんですね。
つまりある時を越えるとそれから先には未来は無く、
過去を懐かしむだけの会話になってしまう……
まるで養老院です。
そういう場では、幾ら言葉が多く乱れ飛んだとしても
中身は空疎で、何の収穫も悦楽も満足も無いので、
そうした会合に時間を費やすことはムダですし
そこまで寛容になる必要はないとあらためて思ったのです。

アヴァンギャルドの件ですが、
だから武満徹は偽アヴァンギャルドであった、
などと言っているわけではありません。
ずっと 「怒れる若者たち」 で居続けることはむずかしい
というのと同じような意味です。

クラウド的なシステムへの嫌悪も、
実はクラウド信仰の知人がいたからに他なりません。
レンタルサーバー上に何でも預けてしまう、
なぜならそのほうが自分のところは軽いままでいられるから、
ということです。
こうした妙な、幼稚なまでの信頼性と並立して、
うるさいまでの 「個人情報だから秘匿する」 云々の
こだわりが存在するのが現代社会の矛盾なのだと思います。

クラウド信仰は自ら 「所有せざる人々」 になることであり、
それは新興宗教に深入りして
自分の財産をすべて預けてしまう人に似ています。
私が図書館で本を借りることを第一義とするのに懐疑的なのは
ひとえにこのクラウド信仰と近似だからです。
クラウドを信頼することは、
ときの為政者を信頼しているのと等価です。
クラウドやアーカイヴは所詮、借り物暮らしであり、
古い喩えですが 「他人のふんどしで相撲をとるな」
ということです。
by lequiche (2017-07-30 04:08) 

lequiche

>> うっかりくま様

いえいえ、全然詳しくないです。
詳しかったらお徳用セットもので聴いたりはしません。(^^;)
単一のアルバムで買い揃えるのが本当のマニアです。

あ〜、シューリヒトの再来ですか。
それは少し褒めすぎのような。(^^)
共通項と認められるのは、
ヴィースバーデンに関係が深いらしいところくらいです。
シューリヒトについてwikiでは 「1912年から1944年まで
長くヴィースバーデン市の音楽総監督の地位にあった」
とありますが、この1912年というのは誤植のような感じがします。
enやdeでは違うからです。

ベートーヴェンの初期の作品は、
シンフォニーでもピアノでもSQでもあまり注目されませんが、
まだ先輩作曲家たちからの影響が感じられそうな、
シンプルで、暗さがあっても深刻でない頃のベートーヴェンは、
そのシンプルさゆえにダイレクトな美しさを湛えていて、
それは若いときにしかできない表現でもあるのだと思います。
by lequiche (2017-07-30 04:08) 

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